第3話 二つ穴の荷札
箱の底から見つかった荷札には、穴が二つあった。
見返り橋の事故から四日後。八歳の風切疾風は、峠見宿の自宅で二枚の荷札を並べていた。落とした箱の持ち主を調べるためだが、父の荷札と何度見比べても形が合わない。
風切家の荷札は、穴が一つ。右下の角を少し削ってある。父の源次が荷物を取り違えないように決めた印だ。
ところが箱から出てきた札には、上の方に穴が二つ並んでいた。角も削られていない。
「親父。これ、誰が作った札なんだ?」
「さあな。あの二人が持ち込んだ箱に入ってた物だろ」
源次は土間に置いた木箱の中身を調べていた。割れた蓋は外され、布の上には大小の歯車と見慣れない金具が並んでいる。
その横には、父が紙に描いた部品の形がいくつかあった。
「こんな札、初めて見るぞ」
「俺もだ。だから取っとけ。後で持ち主を探すときに使える」
疾風は二つ穴の荷札を持ち上げた。紙は乾いているが、端にはまだ泥の跡が残っている。
穴の周りを指でなぞると、同じ幅で紙が少しへこんでいた。どちらもきれいな丸い穴だ。
「この穴、何で二つあるんだろ」
「結ぶ綱が二本だったんじゃねえか」
「でも、それなら一つに二本通せばいいだろ」
「だったら、二つの方が都合のいい理由があったんだろうな」
源次は金具を一つ持ち上げ、裏返した。
穴の話はそれで終わりらしい。
疾風はもう一度荷札を床に置き、指先で位置をそろえた。父の荷札より少し横幅が広い。紙の厚さも違う。
行き先も、名前も書いていない。
「なあ、これを持ってきた二人って、どこの人だったんだ?」
「事故のあとから調べてる。宿場の帳面にも名前が残ってねえ」
「じゃあ、荷を返せないじゃん」
「そういうことだ」
源次は布の上に金具を戻した。
「だからって、拾った物を勝手に売るわけにもいかねえ。預かった荷は預かった荷だ」
疾風は口を閉じた。
谷へ落ちた箱は二つ。戻ったのは一つだけだ。それも中身が全部そろっているわけではない。
ここ数日、何度も眺めた歯車の間には空いている場所があった。丸い輪を留めるための部品が、一つ足りない。
「親父。この金具、どっかで見つからねえかな」
「探してみるしかねえな。川に落ちてたなら、拾った奴がいるかもしれん」
「俺も行く」
「手は?」
疾風は包帯を巻いた両手を持ち上げた。
「昨日より動くぞ」
「昨日がひどすぎたんだろ」
父は包帯を見たあと、土間の荷車へ目を向けた。
「重い物は持つな。勝手に走って消えるな。俺の見える所にいろ」
「分かった!」
「返事だけは立派だな」
源次は布ごと金具を包み、腰の袋に入れた。部品の形を描いた紙も折り畳んでしまう。
疾風は荷札を重ねて帯へ差し込んだ。
今度はちゃんと父と一緒に出かける。両手が痛くても、目と足なら使えるはずだった。
*
峠見宿の市場は、昼前から人でいっぱいだった。
野菜を積んだ荷車が行き交い、干物の店では板をたたいて客を呼んでいる。道の向こうには小さな金物屋があり、店先に鍋や釘、荷車の部品が並んでいた。
疾風は父の後ろを歩きながら、地面と店先を交互に見ていた。
川から拾われた物なら、どこかで売られているかもしれない。
探しているのは、輪の片側が細く、反対側に小さな突起が並んだ金具だ。普通の荷車には付いていない形だった。
「親父、あれは?」
「馬具の留め金だな」
「じゃあ、こっちは?」
「荷台の蝶番だ。うちにもあるだろ」
「こんなに大きくねえよ」
「大きい荷車には、大きい金具が要るんだ」
源次は立ち止まらずに答えた。
疾風は少しだけ口を尖らせ、次の店をのぞく。鉄の輪、曲がった釘、古い歯車。似ている物はあるが、探している形とは違った。
市場を半分ほど回ったところで、聞き覚えのある男の声がした。
「川で拾った物だ。まだ使えるぞ。鉄として売るより、部品のままの方が得だろ」
さっき別の店で、拾い物を六文で仕入れたと話していた男だ。
振り向くと、その男が古い木箱を抱えて金物屋の前に立っていた。足元には泥の付いた金具がいくつか並んでいる。
その中に、見覚えのある形があった。
「親父!」
疾風は源次の袖を引いた。
「あれ! 箱に入ってたやつと同じだ!」
金物屋の主人が顔を上げた。男も足元の部品を見る。
源次はしゃがみ、金具を手に取った。
輪の片側が細くなり、端に小さな突起が並んでいる。先ほど見てきた部品とは形が違う。
「これ、どこで手に入れた」
「下流の渡し場で買ったんだよ。川から流れてきた物らしい」
「誰からだ」
「荷拾いの男さ。名前までは知らねえよ」
源次は金具を裏返した。
裏には土が詰まり、鉄の端に新しい傷があった。
源次が腰の袋から部品の形を描いた紙を取り出す。疾風は横からのぞき込み、紙と金具を見比べた。
輪の形が似ている。
端の突起の数も同じだった。
「親父、これだろ」
「ああ。少なくとも同じ組の部品だな」
男は二人の顔を交互に見た。
「何だ。知ってる物なのか?」
「うちの荷から落ちた物かもしれねえ。四日前、見返り橋で事故があっただろ」
「ああ、あの橋か。しばらく渡れないんだってな」
男は金具を指さした。
「だったら、買ってくれよ。俺も銭を出して仕入れた物なんだ」
「いくらだ」
「八文」
源次が財布へ手を伸ばす前に、疾風は口を挟んだ。
「六文で買ったんじゃないの?」
男が目を丸くした。
「何で知ってる?」
「さっき、あっちの店で話してただろ。六文で拾い物を買ったって」
男は一瞬だけ口を閉じた。
それから、呆れたように笑う。
「耳のいい小僧だな。八だ。二文くらい儲けさせろ」
「俺たちの荷だったかもしれねえのに?」
「かもしれねえ、だろ。こっちはちゃんと六文払ってるんだ」
疾風は言い返そうとしたが、源次が横から手を出した。
「八文でいい。ただし、拾った場所をもう少し詳しく聞かせろ」
「渡し場の手前だよ。川が曲がるところに、流木がよく引っ掛かるだろ。あの辺りだって聞いた」
「ほかにもあったか?」
「そこまでは知らねえ。俺が買ったのは、その金具だけだ」
源次は八文を払った。
男は硬貨を数えてから金具を渡し、木箱を抱えて別の店へ歩いていく。
疾風は父の手の中にある金具を見た。
「二文、損したじゃん」
「向こうは六文で仕入れてる。売って二文も残らなきゃ、朝からここに立ってる意味がねえだろ」
「でも、うちのだったかもしれねえのに」
「それはまだ分からん。分からん物をただでよこせとは言えねえよ」
源次は金具を袋に入れた。
「それより、八文で場所まで聞けた。もう一箱を探すときの手がかりにはなる」
疾風は男の背中を見送った。
少し悔しい。
だが、金具が一つ戻ったのも確かだった。
「なあ、親父」
「何だ」
「今度、俺が拾い物を売るときも二文くらい儲けていい?」
「持ち主を探してからにしろ」
「ちぇっ」
源次は笑い、金物屋の主人へ向き直った。
「これと同じ物を見たことはあるか?」
主人は金具を受け取り、奥の明るい場所へ持っていった。
布で泥を落とし、輪の内側を確かめる。次に端の突起を指で押してみたが、動かなかった。
「荷車の部品じゃないな。歯車の留め具かもしれんが、こいつ単体じゃ分からん」
「修理はできるか?」
「曲がりを直すくらいならな。ただ、何にはめる物か分からんと、勝手に削れねえよ」
主人は金具を源次に返した。
疾風はその横からのぞき込んだ。
「同じの、作れる?」
「形を真似するだけならな。けど、どこを動かす部品なのか分からん。はまったと思ったら中で噛むこともある」
主人は壁に並んだ歯車を一つ取って見せた。
二枚の歯がかみ合うように回す。片方を止めると、もう片方も動かなくなった。
「機械ってのは、形だけ合っても駄目なんだ」
疾風は歯車の動きを目で追った。
止めた方から指を離すと、二枚とも再び回り始める。
「じゃあ、これが何の部品かは分かんねえのか」
「本体を持ってきな。見られる所までは見てやるよ」
源次は礼を言い、店を出た。
歩き出したところで、疾風はもう一度金具を見せてもらった。
これで箱の中身が少し戻った。
それでも、あの歯車が何を動かすための物なのかは分からないままだった。
*
宿場の役所に人が集まっていた。
入口には橋の通行止めを知らせる札が掛けられ、荷を運ぶ者たちが代わりの道を尋ねている。見返り橋が使えないため、下流の渡し場へ回らなければならない。
源次は受付の役人に声をかけた。
「橋の事故の件で来た。預かった荷の持ち主について、何か分かったか」
役人は帳面を開き、少し前の頁をめくった。
「風切さんか。まだ見つかっていない。宿の出入りも調べているが、二人連れが泊まった記録はないな」
「橋の向こうへ抜けた可能性は?」
「渡し場を使ったならあり得る。今朝、そちらにも人を出した」
役人は机の上に置いた地図を広げた。
見返り橋の場所には赤い印が付いている。周りの細い道にもいくつか線が引かれ、通れる道と通れない道が書き分けられていた。
疾風は地図をのぞき込んだ。
「あの二人、橋の事故のあとも荷車を動かしてたぞ」
「そうか。どちらへ行った?」
「橋から離れる道だよ。曲がり角の向こうへ行った」
「その先は見たか?」
「見てねえ。すぐいなくなったから」
役人は頷き、帳面へ書きつけた。
「ほかに覚えていることは?」
疾風は一度、源次の顔を見た。
父は何も言わなかった。
「燃料箱が空だった」
役人の筆が止まった。
「何だって?」
「荷車の燃料箱だよ。中に何も入ってなかったのに、車輪が回ってた」
役人は少し考えてから聞き返した。
「燃料を入れる場所は間違いないか」
「間違いねえよ。親父の荷車と同じような箱だった」
「車輪を人が押していたんじゃないのか?」
「違う。車輪止めに当たるまで勝手に進んだんだ」
役人は源次へ目を向けた。
「お父上も見ましたか」
「俺が着いたときには、もう蓋が閉まっていた。中身までは見てねえ」
「なるほど」
役人はもう一度帳面へ筆を走らせた。
「空だったというのは、坊主が見た話だな。だが、荷車は走っていたと」
「そう!」
「見間違いだろう。燃料がどこかに残っていたのかもしれん」
疾風は身を乗り出した。
「だから、空だったんだって!」
役人は筆を置いた。
「坊主を嘘つきと言っているわけじゃない。燃料が少しでも残っていれば、見えないこともある。車輪が回った理由は、荷車を調べないと決められん」
「でも、あの二人はもういねえじゃん」
「だから捜している。見つけたら車体も調べるさ」
疾風は口を閉じた。
役人の言うことにも筋は通っている。
空の燃料箱を見たのは自分だけだ。父も役人も、中をのぞいたわけではない。
それでも、事故の日の光景が目に残っていた。
蓋の向こうに見えた、何も入っていない箱の底。土の上を少しずつ進んだ車輪。車輪止めに当たって、ようやく止まった荷車。
見間違えたとは思えなかった。
「ところで、落ちた荷はどうなった?」
役人の問いに、源次が答えた。
「一箱だけ回収できた。残りはまだだ。中身もいくつか足りねえ」
「分かった。拾得物が届いたら知らせよう」
源次は礼を言った。
役所を出る前、疾風は帳面の上に目を向けた。
自分が話したことは、ちゃんと書かれているらしい。役人は嘘だと決めつけたわけではなかった。
しかし、紙に書かれたからといって車輪の謎が解けるわけでもない。
源次が戸を開けた。
「帰るぞ。箱の中身を合わせてみる」
「……うん」
疾風はもう一度、役人の机を振り返った。
帳面は閉じられていた。
*
家へ戻ると、母のしのが帳場で銭を数えていた。
源次は買い戻した金具を机に置き、今日の出費を伝える。しのは算盤を動かし、帳面へ八文と書き込んだ。
「落とした荷のために、さらに八文かい」
「全部買い直すよりはましだ」
「持ち主が見つからなきゃ、どうするつもりだい」
「見つかるまでは預かりだ。箱も中身も、そのまま置いておく」
しのは筆を止めた。
「置いておくだけなら銭は増えないよ」
「分かってる。だから早いとこ持ち主を見つけたいんだ」
二人のやり取りを聞きながら、疾風は帯に差していた荷札を取り出した。
二つ穴の札だ。
机の上へ置くと、しのが目を向けた。
「それが箱から出てきたのかい?」
「うん。親父の札と違うんだ」
疾風は自分の荷札も横へ並べた。
「ほら。こっちは穴が一つ。角も削ってある。でも、こっちは違う」
「本当だね」
しのは二枚を見比べた。
「向こうの荷主の印じゃないのかい」
「だったら何で名前がねえんだろ」
「さあね。うちだって、荷札に名前を書かないときはあるよ」
しのは帳場の隅から古い札を一枚出した。
濡れて字が消えた荷札だ。穴は一つで、右下の角が削られている。
「ほら。名前が消えても、うちの札だって分かるだろ」
疾風は頷いた。
父が角を削る理由は、そこにある。
字が読めなくなっても、誰の荷かを見分けられるようにするためだ。
「じゃあ、この二つ穴も、誰かの印なのかな」
「そうかもしれないね」
母はそれ以上、何も言わなかった。
机の向こうでは源次が回収した木箱を開けている。市場で買った金具を取り出し、歯車の並んだ場所へ当ててみた。
曲がっていた端が、ちょうど箱の内側に収まる。
「お、形は合ったな」
疾風は立ち上がった。
「戻ったのか!」
「金具はな。ただ、動くかどうかは別の話だ」
父が手で歯車を回そうとすると、少しだけ動いて止まった。
同じ所で何度試しても、引っ掛かる。
「駄目だ。まだ何か足りねえな」
疾風は金具の位置を確かめた。
今日買ってきた物は、回収した箱に残っていた金具とよく似ていた。だが、取り付けても歯車は回らない。
欠けた歯もある。
もう一箱は、今も谷底のどこかにある。
「親父。明日、また市場へ行こうぜ」
「何しにだ」
「ほかの部品も拾われてるかもしれねえだろ」
「そうだな。だが、明日は俺が荷を運ぶ日だ。お前は家で手を休ませろ」
「俺も仕事する!」
「その包帯が取れたら考えてやるよ」
源次は箱の蓋を戻した。
夕飯の支度が始まると、土間から味噌の匂いが流れてきた。
こよりが疾風の横に座り、机の荷札を指さした。
「兄ちゃん、これなあに?」
「荷札」
「おなじの、ふたつ?」
「違うんだって。こっちは穴が一つで、こっちは二つ」
こよりは札を見比べた。
それから二つ穴の方を持ち上げ、片方の穴に小さな指を通した。
「おめめ、ふたつ」
「目じゃねえよ」
「じゃあ、おかお?」
「顔でもねえ!」
こよりは楽しそうに笑った。
疾風は荷札を取り返し、机の上へ置いた。妹はまた触ろうとしたが、しのに呼ばれて台所へ走っていった。
一人になると、もう一度札を見た。
二つの穴は、きれいに同じ形をしている。
誰かが何かを通すために開けたのだろう。
けれど、それが何なのか分からない。
何より分からないのは、あの荷車だった。
空の燃料箱。
回り続ける車輪。
荷を運ぶ車には燃料が要る。父の荷車だって、燃料が切れれば止まる。
それなのに、あの車は動いていた。
役人は見間違いだと言った。
父は、燃料箱の中を見ていない。
疾風は荷札を帯の中へしまい、土間へ出た。
父の荷車が置かれている。
車輪の前には木の楔が差し込まれ、燃料箱の蓋は閉まっていた。父が荷を下ろしたあと、動かないようにしてあるのだ。
疾風は車輪の前にしゃがんだ。
事故の日、あの車は楔に当たるまで進んでいた。
自分が見た物を思い出すように、車輪の縁へ指を伸ばす。包帯が触れ、少し痛んだ。
動かない。
疾風はそのまま、車輪を見つめていた。




