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百鬼夜行 ~少年忍者と毒舌鎌鼬の物語~  作者: MIYA
第1部「峠見宿」

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第20話 偽の密書

「一通だけ持ち出せ。ただし封は切るな」


 巌堂玄蔵(がんどうげんぞう)の説明を聞き、風切疾風(かざきりはやて)はすぐに手を上げた。


 三月二十日。央都(おうと)の合同養成所では、忍の仮免試験が三日目を迎えていた。今日の課題は、見張りのいる倉へ忍び込み、指定された密書を持ち出すことだった。


「本物が何通もあったらどうすんだ?」


「持ち出すのは一通だ」


「じゃあ偽物が混ざってたら?」


「それを見分けるのも試験だ」


「先に言えよ!」


「今言った」


 肩に乗ったナギが吹き出した。


「お前、昨日の試験で何を習ったんだよ」


「分かんねえことを聞いただけだろ!」


「なら最後まで説明を聞け」


 玄蔵に言われ、疾風は口を閉じた。


 裏庭には試験用の倉が建っていた。正面の引き戸には鈴が下がり、右側の壁には小窓がある。周囲を囲む木柵の外には提出台が置かれ、その手前の地面に白い線が引かれていた。


 玄蔵は板に描かれた見取り図を指した。


「正面に見張りを一人、倉の中に巡回役を一人置く。見つかれば減点だが、その場で試験を終わらせるわけではない。密書を間違えた場合は、持ち出し失敗とする」


「封を開けちゃ駄目なんだろ。どうやって本物か確かめるんだ?」


「依頼札を読め」


 疾風は受け取った木札を裏返した。


 そこには届け先として『忍務局南出張所』と書かれ、受取人の印が描かれている。赤い二重丸で、内側と外側の線がどちらも途切れずにつながっていた。


 荷運びなら、荷札に書かれた届け先と荷物の印を確かめてから出発する。それなのに密書を持ち出すと聞いた途端、疾風は侵入経路のことばかり考えていた。


「……なるほどな」


「何がだ?」


「取りに行く前に届け先を覚えとかなきゃいけねえ」


「当たり前だろ。違う荷を運んでどうすんだよ」


 ナギの言葉に言い返しかけたところで、背後から声がした。


「風切。足元」


 振り向くと、灰青の装束を着た少女が立っていた。


 黒髪を高く結い、背中には地図筒。右手の指先には、いつものように墨が付いている。


「朱莉(あかり)!」


「声が大きい。見張りに聞こえるよ」


「何でここにいるんだよ!」


「試験官の補佐。今日は採点を手伝うことになったの」


 鈴守朱莉(すずもりあかり)は、三年前に峠見宿(とうげみじゅく)で知り合った捜索忍だった。


 当時、疾風は峠の抜け道を何日か案内したことがある。都へ出てきてからも顔を合わせていたが、養成所で待ち構えているとは思わなかった。


 朱莉は挨拶もそこそこに、疾風の足元へ視線を落とした。


「右足の踵(かかと)が浮いてる」


「何だよ。まだ始まってねえぞ」


「その立ち方のまま倉へ入ったら、最初の床板を鳴らすよ」


「入る前から分かんのか?」


「足を置く癖は、入る前でも見えるでしょ」


 疾風は右足を踏み直した。


 朱莉は一度確かめると、ようやく顔を上げた。


「それと、昨日の口頭試験はどうだった?」


「見張りの位置で減点された」


「どこを見落としたの?」


「物置の裏。ナギが見てた場所を聞かなかったんだよ」


「今日は?」


「もう聞くって決めた!」


「なら期待してる」


 朱莉の隣には黒褐色の犬が座っていた。


 左耳に古い裂け目があり、首には赤い組紐を巻いている。体の大きさはナギの何倍もあったが、前足をそろえて静かに待っていた。


「シグレもいるのか!」


「久しぶり、疾風」


 犬神のシグレが穏やかな声で答えた。


「今日は僕も補佐なんだ。巡回役が決められた道を歩いたか、足跡と匂いを確かめる仕事だよ」


「じゃあ俺たちの匂いも分かるのか?」


「分かるけど、それで捕まえるわけじゃないよ。見つけるのは見張り役の仕事だからね」


 ナギが肩から身を乗り出した。


「後で通路を見せてもらっていいか?」


「試験が終わってからならね。今は僕も答えを教えられないから」


「聞いてねえよ」


「そうだね。君は疾風と違って、聞く前に考える方だし」


「おい! どういう意味だよ!」


 朱莉が小さく笑った。


 裏庭の向こうでは、巡回役が倉へ入っていく。正面の見張りも戸の横へ立ち、腰の鈴を確かめていた。


 朱莉は記録札へ目を落とした。


「準備はいい?」


「おう!」


「では始めるよ。依頼札はなくさないでね」


「なくさねえって!」


 ナギが耳元で言った。


「その台詞、見積もりのときも聞いたぞ」


「今それ言うな!」


*


 倉の正面には見張りが立っていた。


 疾風は木柵の陰からその姿を確かめた。見張りは時折左右へ顔を向けているが、戸から大きく離れることはない。


「正面は厳しそうだな」


「戸の上に鈴もある。開ければ鳴るぞ」


「じゃあ右の窓か」


 疾風はすぐには動かなかった。


 昨日の口頭試験では、自分から見える場所だけで見張りを決めてしまった。今日はナギの見たものも聞いておきたい。


「おいナギ。そっちから何が見える?」


「窓の下に石段が二つある。上の段は右端が欠けてるな。あと、窓の格子が一本ずれてる」


「格子?」


「下の留めが浮いてる。外せるかもしれねえ」


 疾風はナギの示した方へ目を向けた。


 建物の右側には人一人が通れるほどの空き地があり、そこへ小窓が開いている。窓の下には確かに石段が二つ積まれていた。


「よし。近くで見ようぜ」


「見張りの向きも確かめろよ」


 二人は木柵に沿って進んだ。


 正面の見張りが反対側を向いたところで建物の脇へ移る。足元には細かい砂利が敷かれていたため、疾風は石の多い場所を避けながら歩いた。


 小窓の前でしゃがみ込む。


 格子の一本は下の溝から少し浮いていた。強く引けば外れそうだが、そのまま動かせば木が擦れる。


「これ、音が出るな」


「先に上を押さえればいい。下だけ動かせ」


 ナギが石段へ跳び乗った。


 小さな前足で格子の上を押さえ、下端をゆっくり持ち上げる。疾風が反対側を支えると、格子が溝から外れた。


 かすかな木の音がした。


 二人は動きを止めた。


 倉の中から足音が聞こえる。


 巡回役が近づいているらしい。


「待て」


 ナギが小声で言った。


 疾風は格子を支えたまま、窓の下へ身を縮めた。足音は窓の近くを通り過ぎ、そのまま奥へ遠ざかっていく。


「……今なら入れるな」


「ああ。でも外した格子は倒すなよ」


 疾風は格子を壁際へ寝かせた。


 それから小窓をのぞき込んだ。


 倉の中には棚が三つ並び、中央に机が置かれている。壁際には大きな荷箱が二つあり、奥の棚の向こうを巡回役が歩いていた。


 机の上には封筒が一通。


 赤い印が押され、横には『密書』と書いた札まで添えられている。


「……あったぞ!」


「声!」


 ナギの尾が疾風の口を塞いだ。


 巡回役の足音が止まる。


「何か聞こえたな」


 二人は窓の外へ身を伏せた。


 しばらくして足音が再び動き始める。棚の間を抜け、奥の通路へ戻っていった。


「危ねえ……」


「お前、忍びの試験だって分かってんのか?」


「分かってるって。次は静かにする!」


「今からじゃ遅い気もするけどな」


 疾風はもう一度倉の中を見た。


 机の上の封筒は、窓からでも見える位置に置かれている。誰かが親切に置いてくれたような場所だった。


「……ちょっと怪しいな」


「俺もそう思う」


「でも印は丸いぞ」


「二重かどうかは、ここからじゃよく見えねえ」


「近くで確かめる」


 疾風は包帯の巻かれた手を窓枠へ掛けた。


 掌の傷はだいぶ塞がってきたが、強く握るとまだ皮膚が引っ張られる。ナギが先に中へ入り、足を置ける場所を確かめてくれた。


「下は大丈夫だ。降りられるぞ」


「おう」


 疾風は窓枠へ体を乗せた。


 片足を室内へ入れたところで、包帯の端が格子の留め金に引っかかる。


「うわっ」


「動くな。外してやる」


 ナギが戻り、前足で布を外した。


 疾風は手を引き抜き、今度はゆっくり床へ降りた。


 足元の板は鳴らなかった。


「よし!」


「喜ぶのは出てからにしろよ」


 二人は机へ向かった。


 疾風は昨日の抜き足を思い出し、前の足へ少しずつ体重を移した。後ろ足を急に持ち上げなければ、板はほとんど音を立てない。


 机まであと三歩。


 ナギはそこで足を止めた。


「左の棚を見ろ」


「何だ?」


「床に白い筋がある。荷箱を動かした跡じゃねえか?」


 疾風は目を向けた。


 左の棚の下には細長い擦れ跡があり、その奥には何かを置けそうな空間があった。机の反対側には古い帳面も積まれている。


「ほかにも隠し場所があるってことか」


「だろうな。机の下も見た方がいい」


 疾風は頷きかけた。


 だが、机の上の封筒が目に入った。


 ここまで静かに入り、もう少しで手が届く。印が合っていれば、わざわざほかを探す必要もない。


「先にこいつを確かめる。違ったら下も見る」


「……分かった。ちゃんと印を見ろよ」


 疾風は机へ近づいた。


 封筒には二重の丸い印が押されていた。大きさも依頼札の見本とほとんど変わらない。


 ただ、外側の丸が途中で途切れている。


「……ん?」


 疾風は封筒を持たず、顔を近づけた。


 依頼札にあった印は、二つの丸がきれいにつながっていたはずだ。


 それでも、古い印なら押し方が悪くて欠けることもあるだろう。大きさも形も似ている。


 すぐそこまで来ているのに、手ぶらで帰るのも惜しい。


「印が少し欠けてるけど、たぶんこれだ」


「たぶんで持っていくのか?」


「ほかも探してたら見張りが戻るだろ。取ってから考える!」


 疾風が机へ手を伸ばした。


 そのとき右の袖口が机の縁に触れた。


 白い粉が、紺色の布に付く。


「何だこれ」


「粉だな。机の縁に塗ってある」


「触るなって札はなかったぞ」


「そういう問題じゃねえだろ」


 疾風は袖口を確かめた。


 粉は机の端にだけ薄く付いていた。何かの目印かもしれないが、見張りの足音はすぐ近くまで来ている。


「もう取るぞ!」


 疾風は封筒をつかみ、懐へしまった。


 次の瞬間、奥の棚から足音が響いた。


「誰かいるな!」


「まずい!」


 ナギが床を走った。


 疾風も机から離れ、棚の陰へ飛び込む。


 巡回役は中央の通路へ出てきた。顔は見えないものの、足元の影が棚の隙間に伸びている。


 ここから正面の戸へ向かえば、間違いなく見つかる。


「窓へ戻るぞ」


「左から回れ。そっちは荷箱で行き止まりだ!」


 疾風はナギの後を追った。


 棚の裏には細い通路があった。途中に積まれた木箱を避け、体を横にして抜ける。


 膝が箱の角に当たった。


「いてっ!」


「何だ?」


 巡回役が声を上げた。


 疾風は箱が倒れていないことだけ確かめ、足を進めた。


 窓の下へたどり着くと、ナギが先に外へ跳んだ。


「今なら出られる!」


「分かった!」


 疾風は窓枠をつかみ、体を外へ押し出した。


 石段へ足を着ける。


 だが、ナギが最初に指摘していた上段の欠けた角へ、うっかり踵を乗せてしまった。


 砂が崩れ、体が横へ傾く。


「うわっ!」


「だから端が欠けてるって言ったろ!」


 疾風は窓枠へ重さを預け、どうにか姿勢を戻した。


 倉の正面から鈴が鳴る。


 巡回役が外の見張りへ知らせたらしい。


「走れ!」


 二人は木柵に沿って駆け出した。


 後ろから声が掛かったものの、振り返らなかった。正面の見張りが追ってくる前に、指定された出口へ回り込む。


 白い線が見えた。


 疾風は最後の数歩を一気に走り抜けた。


「よっしゃ! 持ってきたぞ!」


 ナギも少し遅れて線を越えた。


「封は切ってねえだろうな?」


「当たり前だろ!」


「なら、まずは見せてみろよ」


 疾風は懐を押さえた。


 封筒はちゃんと残っていた。


*


 提出台の向こうで朱莉が地図を広げていた。


 机には記録札が並び、シグレが巡回役の足取りを示した札を整理している。倉の見取り図には、見張りが歩いた経路が細い線で描き込まれていた。


「終わったぞ!」


「風切。報告は時刻から」


 朱莉は筆を持ったまま顔を上げた。


「いつ倉へ入ったの?」


「二つ目の合図の鐘が鳴って、少したってからだ」


「どこから?」


「右の小窓。格子を一本外した」


「出た場所は?」


「同じ窓だ」


「見張りには?」


「声は掛けられた。でも捕まってねえ!」


 朱莉はシグレが並べた札を確かめた。


「倉の中で物音を聞かれてるね。見つかった扱いだから減点。出口まで運べた分は記録するよ」


「じゃあ成功だな!」


「まだ密書を見てないでしょ」


「おっと、そうだった!」


 疾風は懐から封筒を取り出した。


 紙は折れておらず、封も切れていない。大きな赤い印も、倉で見たときと同じ状態だった。


「これだ!」


 朱莉は封筒を受け取ろうとせず、まず印を確かめた。


 次に疾風の右の袖口を見る。


「風切。右の袖を見せて」


「何でだ?」


「白い粉が付いてる」


 朱莉は指先で粉を軽く払った。


 墨の染みた指に白い粒が残る。


「机の縁に触れたでしょ」


「ああ。それがどうしたんだよ」


「机の上の封筒を取ったんだね」


「そうだって。ちゃんと持ってきただろ!」


 朱莉は依頼札を差し出した。


「じゃあ、印を並べてみて」


「印?」


「うん。同じか確かめて」


 疾風は札と封筒を並べた。


 どちらにも赤い二重丸がある。


 大きさも同じだ。


 だが、依頼札に描かれた外側の丸は途切れずに閉じている。封筒の印は、右上の線が欠けていた。


「……あ」


「気づいた?」


「いや、でもさ。古い印だったら少しくらい欠けることもあるだろ?」


「依頼札にある見本と違うよ。届け先を示す印が一致しないなら、それだけで確かめ直す必要があるでしょ」


 朱莉は封筒を指した。


「それ、偽物だよ」


「……は?」


 疾風はもう一度二つの印を見比べた。


 倉の中でも気づいていた。


 外側の線が欠けていることには、確かに気づいていたのだ。


 それなのに、見つけた封筒を持ち帰る方を選んでしまった。


「机の縁に付いていた粉も、この封筒に近づいた人を記録するためのものなの」


 朱莉は疾風の袖に残った粉を払った。


「白い粉に気づいたのに、何が付いたのか確かめなかったんだね」


「……急いでたんだよ」


「急ぐ必要はあったと思う。でも、持ち出す物を間違えたら、どんなに早く運んでも届けられないよ」


 疾風は封筒を裏返した。


 封はきちんと閉じている。


 倉から持ち出すまでは、うまくいったつもりだった。昨日の反省も生かし、侵入する前にはナギの観察を聞いた。


 窓の格子も二人で外し、足音を避けて机まで近づけた。


 それでも肝心の封筒を選ぶところで、自分の判断を急いでしまった。


「……本物はどこにあったんだ?」


「それは教えられない」


「もう試験終わったんだぞ!」


「次の受験者がいるから」


「じゃあ、もう一回入って取ってきてもいいか?」


「この課題は一回だけ。今日はここまでだよ」


 朱莉は返却口を示した。


「偽物の封筒はそこへ戻して」


 疾風は封筒を見た。


 何か言い返したかった。


 偽物ならもっと分かりやすくしておけとか、粉を塗るなんて卑怯だとか。いつもなら一つくらい冗談を思いつくのに、今日はどれも口に出す気になれなかった。


 何しろ印が違うことには、自分でも気づいていたのだ。


「……分かったよ」


 疾風は封筒を返却口へ入れた。


 ナギが机の端へ跳び乗った。


「俺、机の下も見ろって言ったよな」


「ああ」


「印もちゃんと見ろって言ったよな」


「ああ。聞いてた」


「聞いてたのに取ったのか」


「……そうだよ」


 ナギは少し黙った。


 それから朱莉の広げた地図へ目を向ける。


「そういや、左の棚の下に擦れ跡があった。あれは何だ?」


「気になった?」


「荷箱を動かした跡に見えたんだよ」


「そこも採点の対象だから、今は答えられないよ」


 朱莉は地図の一角を指で隠した。


 ナギはそれ以上聞かなかった。


 疾風は地図をのぞき込んだ。そこには自分たちの通った窓や、倉の棚の位置まで描かれている。


「お前、試験の前に全部調べたのか?」


「そうしないと、受験者がどこで見つかったか確かめられないでしょ」


「すげえな……」


「風切の侵入経路も悪くなかったよ。格子を外した判断と、帰りに同じ道を使ったことは評価する」


 朱莉は採点札をそろえた。


「ただ、窓から入るときに一度止まってるね。出るときも石段で足を滑らせかけた」


「そこまで見てたのかよ!」


「足跡が残ってるから」


 シグレが答えた。


「窓の下だけ、砂が二度崩れてるんだ。入るときは格子を外した場所で止まって、出るときは欠けた石段を踏んでいる。倉の中では巡回役にも声を掛けられたね」


「うわ……全部残ってんじゃねえか」


「全部じゃないよ。僕が分かるのは、残った跡だけだから」


 シグレは静かに尾を動かした。


 朱莉が筆を取った。


「風切。三年前、峠で道を案内してくれたときのこと覚えてる?」


「覚えてるぞ。お前、地図ばっか描いてたよな」


「あなたは分かれ道のたびに、どこへ行きたいのか聞いてくれた」


「そりゃそうだろ。行き先が分かんなきゃ道も選べねえし」


「今日は?」


 疾風は口を閉じた。


 朱莉は机の上の依頼札を見た。


「行き先は分かってたのに、持ち出す物を確かめきらなかったね」


「……そうだな」


「次は、そこまで運び屋の仕事をして」


 朱莉は採点欄へ印を付けた。


 疾風が何か返そうとしたとき、シグレが横から言った。


「でも、窓までの道はよかったよ。倉へ入るときも床板をほとんど鳴らしてなかった」


「おお! そこは褒めてくれんのか!」


「うん。できたことはちゃんと記録するからね」


 疾風は少しだけ胸を張った。


 ところが、ナギがすかさず言った。


「持ち出したのは偽物だけどな」


「分かってるって!」


 朱莉は二人のやり取りを聞きながら、地図の余白へ筆を走らせていた。


 短い線を何本か引き、小さな丸を書き足している。


「何描いてんだ?」


「ちょっと待って」


「新しい道か?」


「違うよ」


 疾風は机へ身を乗り出した。


 地図の隅に、跳ねた前髪が描かれている。


 その下には大きな目と、片方だけ高く上がった眉。口をぽかんと開けた少年の顔が、あっという間に出来上がった。


「……おい」


「できた」


「俺じゃねえか!」


 朱莉は小さく笑った。


「似てるでしょ」


「似てねえよ! 何でこんな間抜けな顔なんだ!」


「偽物って言われたときの顔」


 ナギが机へ前足を掛けた。


 描かれた顔をじっと見つめ、横幅を測るように前足を動かす。


「もっと口が開いてたな」


「お前まで何言ってんだよ!」


「あと目も丸かったぞ」


「だから似てねえって!」


 シグレも絵をのぞき込んだ。


「僕は似てると思うけどな」


「お前まで!」


 朱莉は描き終えた地図を持ち上げた。


 その端を指で押さえ、墨が乾くのを待っている。


「次は本物を持ってきて」


 疾風は絵をもう一度見た。


 自分の顔だと言われれば否定しきれない。だが、あんなに口を開けていた覚えはなかった。


「次は絶対間違えねえからな!」


「期待してる」


 朱莉は地図を巻き始めた。


 けれど最後の一折りだけ残し、描いたばかりの顔が潰れないようにしている。


 ナギはまだ笑っていた。


「おい疾風。あとであの絵、もらって帰ろうぜ」


「絶対いらねえ!」


「看板の裏に描けばいいだろ」


「やめろ! 俺たちの店が間抜けになる!」


 朱莉はとうとう声を立てて笑った。

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