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百鬼夜行 ~少年忍者と毒舌鎌鼬の物語~  作者: MIYA
第1部「峠見宿」

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第17話 名前の幅

「見積もりが一枚足りないね」


 お紺(こん)の指が算盤(そろばん)の上で止まった。


 風切疾風(かざきりはやて)は紺野屋(こんのや)の帳場に立ち、机に並べた紙を見下ろしていた。金物通りから持ち帰ったのは修理済みの留め金と、二軒分の見積もり。三軒目でもらった紙は、今日の騒ぎで落としてしまった。


「三軒とも回ったぞ。値段だって覚えてる」


「じゃあ三軒目はいくらだい?」


「三十文。丈夫な鉄で、注文してから二日だ」


「それを証明する紙は?」


「……ねえ」


「そういうことだよ」


 お紺は二枚の控えをそろえ、机の端へ置いた。


 鎌鼬(かまいたち)のナギが疾風の肩で尾を揺らす。


「だから袋の口をちゃんと閉めとけって言っただろ」


「お前だって荷車を止めるのに夢中だったじゃねえか!」


「俺は見積もりを預かってねえもん」


「そうだけどさ!」


 疾風は両掌を見た。


 一昨日の高架荷路で擦りむいた傷は、今日の荷車騒ぎでまた開いてしまった。新しい布を巻いてあるが、指を深く曲げると皮膚が引っ張られる。


「その手まで傷めて、何をやってるんだい」


「仕方ねえだろ。あのままじゃ市場の人が危なかったんだ」


「それは侍から聞いたよ。荷車を止めたのは立派さ」


 お紺は疾風の手をちらりと見た。


「だけど、よくやったからって仕事の失敗が消えるわけじゃない。預かった物をなくしたら、届け直すのも仕事だよ」


「また金物通りまで行くのかよ!」


「嫌なら三十文を自分で払って、金具を買ってきてもいいよ」


「明日行ってきます!」


 即答するとナギが声を立てて笑った。


「決めるの早えな」


「三十文なんて払えるかよ!」


「だったら最初から素直に行けって」


 疾風は修理済みの留め金を机へ置いた。お紺が品物を確かめ、受取済みの印を帳面へ押す。


「それと、役所には報告したのかい?」


「これから行く。逃げた男の腰に赤い印の札があったんだ」


「だったら先にそっちを済ませておいで。あんたらだけで追うんじゃないよ」


「分かってるって!」


「その返事を聞くのは何度目だろうねえ」


 お紺は煙管(きせる)を置き、今日の日当二十文を数えた。


 寝床代八文と三食分の九文を引くと、手元に増えるのは三文。疾風は母の帳面を開き、昨日の残高だった四貫五十七文に書き足した。


『四貫六十文』


「一日働いて三文かあ」


「昨日は六文減らしてただろ。増えただけいいじゃねえか」


「そうだけどよ」


 ナギは疾風の帳面をのぞき込んだ。


「俺が立て替えた荷綱代も忘れんなよ」


「十文だろ。覚えてるって」


「いつ返す?」


「稼ぎが増えたら」


「今、三文増えたじゃねえか」


「三文しか増えてねえんだよ!」


 お紺が算盤をはじいた。


「返す当てのない金は借りるんじゃないよ」


「返すって! ちゃんと返すから!」


 ナギは満足そうに尾を動かした。


「利子は付けねえから安心しろ」


「当たり前だろ!」


 帳面を袋にしまうと、疾風は見回り所へ向かった。


 夕方の市場はまだ人通りが多い。昨日追いかけた灰色の頭巾も、今日逃げた男も見当たらなかった。


 見回り所では、高架荷路で会った侍が帳面を広げていた。


「風切か。さっきの荷車の件なら報告を受けているぞ」


「それとは別だ。逃げた男の腰に札があった」


「札?」


「荷札みたいな四角いやつ。赤い印が付いてた」


 侍は筆を取った。


「印の形は覚えているか?」


「そこまでは見えなかった。でも赤かったのは間違いねえ」


「分かった。見た範囲だけでいい」


 侍は帳面へ書き込み、筆を置いた。


 机には質屋の出入りを記録した紙が並んでいる。疾風が昨日描いた、右の踵(かかと)が欠けた足跡の荷札も挟まれていた。


「質屋の店主はどうなったんだ?」


「今のところ話を聞いているだけだ。逃げた者が店に出入りしていたとしても、店主が事情を知っていたとは限らん」


「じゃあ炭谷って工房は?」


「そちらも調べる。お前たちはもう店を探るなよ」


 疾風は少し口を尖(とが)らせた。


「俺たちが見つけた手がかりなのに」


「手がかりを見つけたことと、取り調べができることは別だ」


 侍は疾風の包帯へ視線を落とした。


「それに、その手では綱も満足に握れんだろう」


「……ちょっと痛むだけだ」


「なら今日は休め。逃げた男の件は役所で引き受ける」


 疾風は返事をしかけ、机の上の足跡を見直した。


 今の自分がもう一度あの男を見つけたとしても、取り押さえられるとは限らない。昨日の市場ではナギに加速を断られ、今日は荷車を止めるだけで手の傷を開いてしまった。


「分かった。何か分かったら教えてくれよ」


「伝えられることがあればな」


 侍に頭を下げ、見回り所を出た。


 ナギが肩の上から顔をのぞかせる。


「珍しく素直だったな」


「明日も仕事があるんだよ」


「それだけか?」


「……手も痛えし」


「最初からそう言えって」


 ナギはそれ以上からかわなかった。


*


 翌朝、二人は再び金物通りへ向かった。


 三軒目の店主は、疾風が事情を説明するなり大きなため息をついた。


「見積もりをなくした?」


「悪い。昨日ちょっと騒ぎがあってさ」


「荷車を止めた見習いってのは、お前さんか?」


「知ってんの?」


「この通りでも噂になってるよ。市場で荷車が暴走したってな」


 店主は疾風の包帯を見た。


「それで見積もりまで落としたのか」


「たぶんな。だから悪いけど、もう一枚書いてくれねえ?」


「仕方ねえな。少し待ってろ」


 店主は注文帳を取り出し、昨日の記録を探した。


 留め金二つで三十文。鉄を厚くし、車軸に触れる穴の内側を磨く。注文を受けてから出来上がるまで二日。


 昨日と同じ内容が新しい紙へ書き写された。


「ほら。今度はなくすなよ」


「絶対なくさねえ!」


「昨日もそんなこと言ってたよな」


 ナギが横から口を挟む。


「お前は黙ってろ!」


 疾風は見積もりを受け取ると、袋へ入れる前に口の留め具を確かめた。


 布の端をきちんと折り込み、荷札と一緒に奥へ押し込む。最後に袋の口を引いて、紙が飛び出さないことを確かめた。


「そこまでやるなら昨日やれよ」


「今やってんだからいいだろ!」


 紺野屋へ戻ると、お紺は三軒分の見積もりを並べた。


 一軒目は二十六文。


 二軒目は薄い金具が二十二文、厚い金具が二十八文。


 三軒目は三十文。


 値段だけでなく、厚さと仕上げの違いも確かめていく。


「二軒目の二十八文にしようかね」


「三十文のやつじゃねえの?」


「あれも悪くない。でも、うちの荷車ならこっちで十分だよ」


「二文しか違わねえぞ」


「二文だって銭は銭さ。同じ仕事ができるなら安い方を選ぶ」


 ナギが見積もりをのぞいた。


「俺も二軒目だな。穴の内側がしっかりしてた」


「じゃあ決まりだ」


 お紺は二軒目の控えに印を押し、注文を出すよう指示した。


 疾風は三十文の控えを一度だけ見た。せっかく書き直してもらったのに選ばれなかったのが、少し惜しい。


「何だい、その顔は」


「いや。三十文の方が丈夫そうだったからさ」


「一番高い物を買うのが商売じゃないんだよ」


 お紺は注文書を疾風へ渡した。


「この紙はなくすんじゃないよ」


「もうなくさねえって!」


「じゃあ行っておいで」


 疾風は今度こそ袋の口を閉め、店を出た。


 その日から数日間は軽い荷運びと使い走りが続いた。


 両掌の傷が治りきるまでは重い荷綱を任せてもらえず、ナギも無理に契装しようとは言わなかった。疾風は少し物足りなかったが、包帯を取り替えるたびに痛みが薄れていくのは分かった。


 四日分の日当は合計八十文。寝床代と食費を差し引けば十二文が残る計算だったが、替えの布と傷に塗る薬に同じだけ使った。


 結局、帳面の数字は四貫六十文から動かなかった。


 そして三月十七日。


 紺野屋へ役所の使いが来た。


*


「二貫だ」


 見回り所の机に置かれた袋を見て、疾風は思わず身を乗り出した。


「二貫!?」


 高架荷路での救助と、質屋での逃走者拘束への協力が認められたのだという。


 侍は袋の口を押さえた。


「受け取る前に話を聞け。これは逃げた男の懸賞金ではない。荷車を止めて市場の人を守ったことと、捕縛への協力に対する謝礼だ」


「分かってるって! 二貫だろ!」


「金額しか聞いてねえじゃねえか」


 ナギが疾風の袖を引いた。


 侍は受領書を二人の前へ差し出した。


「今回は二人の名義で受け取ってもらう。ここへ署名してくれ」


 紙には人間と妖怪の名前を書く欄が並んでいた。


 どちらも同じ幅だ。


「ナギ。お前の欄もあるぞ」


「当たり前だろ。俺だって働いたんだからな」


 疾風は筆を取り、『風切疾風』と書いた。


 続いてナギが前足で筆を握り、隣へ『ナギ』と記す。二文字なので余白が大きく残ったが、ナギは気にしなかった。


 侍は二人の名前を確かめ、袋の中身を分けた。


「一貫ずつだ」


 机の上に同じ大きさの銭袋が二つ並ぶ。


 疾風は自分の袋を手に取り、掌へ載せた。普段の日当二十文とは、ずいぶん違う重さだった。


「すっげえ! 一貫だぞ、ナギ!」


「こっちも一貫だ。ちゃんと半分ずつだな」


 ナギも袋を受け取り、自分の財布へしまう。


「これで開業資金が一気に増える!」


「その前に借金だろ」


 疾風の手が止まった。


 ナギは前足を差し出している。


「荷綱代、十文」


「……今かよ」


「今だよ。一貫もらったんだから払えるだろ」


「せっかく増えたばっかなのに!」


「借りたままじゃ増えたことにならねえぞ」


 侍が口元を押さえている。


 疾風は渋々財布を開き、十文を数えた。


「ほら。これで貸し借りなしだ」


「おう。確かに受け取った」


 ナギは十文を自分の財布へしまった。


 侍は受領書を帳面へ挟むと、二人へ顔を向けた。


「謝礼をもらったからといって、次も危ないことをしていいわけじゃないぞ」


「分かってるって!」


「その返事も聞き飽きたな」


 ナギが笑った。


 見回り所を出ると、疾風はすぐに母の帳面を開こうとした。


「待てよ」


 ナギが肩から顔を寄せてきた。


「何だ?」


「ひとつ買いたい物がある」


「工具か?」


「違う。看板だ」


 疾風は手を止めた。


「……看板?」


「俺たちの店の看板」


 ナギは夜市へ続く通りを指した。


「せっかく二人とも一貫もらったんだ。今のうちに板だけ買っとこうぜ」


*


 夜市の木工品の露店には、磨かれた板が何枚も並んでいた。


 行灯(あんどん)の光を受けて、木目が淡く浮かんでいる。名前を彫った札や小さな棚の奥には、大きな看板用の板も立てかけられていた。


 ナギが選んだのは横長の一枚だった。


 両端が丸く削られ、手を滑らせても引っかからない。木目もそろっていて、正面に文字を入れるには都合がよさそうだった。


「これがいい」


「店もないのに看板かよ」


 疾風は板を手に取った。傷の残る掌へ角が当たらないよう、ナギが反対側を支える。


「今は店がなくても、そのうち使うだろ」


「そりゃ使うけどさ。仮免だってまだなのに」


「じゃあ仮免を取るまでしまっとけばいい」


 ナギは板の表面を前足でなぞった。


「お前、店を出すって言いながら、まだ何にも形にしてねえだろ」


「金は貯めてるぞ」


「金だけじゃ店の名前は書けねえよ」


 疾風は板をもう一度見た。


 いつか自分の運送屋を開く。父のように荷を運び、困った人がいれば忍びの仕事だって引き受ける。


 そう考えて貯めてきたが、実際に店の名前を掲げる場所を手にするのは初めてだった。


「これ、いくら?」


「三十文だよ」


 露店の主人が答えた。


「二十五文にならねえ?」


「ならないね。木目のいい板だから」


「じゃあ二十八!」


「三十」


「二十九!」


「三十」


 ナギが疾風の袖を引いた。


「もういいだろ。俺も半分出す」


「半分?」


「二人の店の看板だ。十五文ずつでいいじゃねえか」


 疾風は板を持ったままナギを見た。


「お前も出すのか?」


「俺の名前も入れるんだぞ。お前だけに払わせるかよ」


「……そっか」


 疾風は財布から十五文を取り出した。


「じゃあ半分ずつだな!」


「最初からそう言ってるだろ」


 二人で三十文を支払い、板を受け取った。


 通りの端へ移ると、疾風は壁へ板を立てかけた。ナギも隣へ座り、表面を見上げる。


「さて、何て書く?」


「まず店の名前だろ。その下に俺の名前を大きく入れて……」


「待て」


 ナギの声が低くなった。


「何だよ」


「俺の名前は?」


「横に書くぞ」


「どれくらいの大きさで?」


「そりゃ、お前は二文字だから小さくても入るだろ」


 ナギはしばらく黙っていた。


 疾風が顔を近づけると、前足で板を叩く。


「俺は十五文出したんだぞ」


「そうだな」


「お前も十五文だな」


「そうだって」


「だったら名前の場所も半分ずつだろ」


 疾風は板を見直した。


『風切疾風』は四文字。


『ナギ』は二文字。


 同じ大きさの文字を並べれば、疾風の名前だけが倍の場所を取る。


「でもお前の二文字をでかくしたら、妙な看板にならねえか?」


「じゃあお前の四文字を小さくしろ」


「嫌だよ! 俺だってでかく書きたい!」


「俺もだよ!」


 二人は板を挟んでにらみ合った。


 露店の主人が少し離れた所からこちらを見ている。これ以上騒いだら追い払われそうだったので、疾風は板を地面へ寝かせた。


「……だったら、こうしようぜ」


 板の真ん中へ指を置く。


「左半分が俺。右半分がお前」


「文字の数は違うぞ」


「そこは字の大きさで調整するんだよ。同じ幅に収めりゃいいだろ」


 ナギは板の端から真ん中まで歩いた。


 それから反対側へ移り、同じように歩数を数える。


「……確かに半分だな」


「だろ!」


「でも勝手に彫るなよ」


「何でだよ」


「店の名前が決まってねえだろ。上に何を書くか決めてからだ」


 疾風は板を見つめた。


 確かに、店名はまだ決めていない。


 運送屋にするのか、忍びの仕事も引き受ける店にするのか。やりたいことはいくつもあるが、ひとつの名前には収まっていなかった。


「じゃあ、そこはあとで決めるか」


「そうしろ。俺の鏨(たがね)も、もう少し練習したいしな」


「看板を彫るのはお前か?」


「ほかに誰がいるんだよ」


「俺だって字くらい書けるぞ」


「お前が彫ったら、文字の幅より穴の深さで揉めそうだ」


「そんなに下手じゃねえよ!」


 ナギは鼻を鳴らした。


 結局、板には何も書かず、露店でもらった布で包み直した。


 疾風が背負い紐を調整すると、ナギが板の位置を直す。背中に当たる角を少しずらせば、歩いても邪魔にならなかった。


「これでよし」


「まだ真っ白だけどな」


「名前を入れる場所はできただろ」


 ナギは得意そうに尾を立てた。


 疾風は背中の板を軽く叩き、夜市の奥へ歩き出した。


 しばらく進むと、絵を売る露店が見えてきた。


 芝居の役者絵や旅先の風景に交じり、人と妖怪が夜道を進む大きな絵が飾られている。


「ナギ。あれ見ろよ」


 疾風は足を止めた。


 絵には提灯(ちょうちん)を持つ人間や、大きな鬼、小さな狸が描かれていた。鬼は荷車を引き、その荷台には狸が座っている。狐の商人は算盤を抱え、河童の子どもが水桶を運んでいた。


 同じ道を歩いているのに、誰が一番偉いのかは分からない。


「夜行絵(やこうえ)だってさ」


 ナギが絵の下の札を読んだ。


「こんな行列、どこかにあるのかな」


「祭りを描いたんじゃねえの?」


「でも、祭りの山車がねえぞ」


 疾風は絵の端を見た。


 楽器を鳴らしている者もいれば、荷を背負って歩く者もいる。誰かに連れてこられたようには見えず、それぞれが好きな場所を歩いているようだった。


「でっかい荷運びみたいだな」


「お前、絵の中の連中まで働かせる気かよ」


「だって荷車があるだろ。これだけ人数がいりゃ何だって運べそうじゃん」


「鬼に荷車を引かせたうえで、まだ運ばせるのか」


 ナギは呆れた声を出したが、しばらく絵から目を離さなかった。


 露店の主人が値段を教えてくれたものの、二人は買わずに先へ進んだ。


 看板の板を買ったばかりだ。


 それに、夜市へ来たら食べたい物もあった。


「焼き栗だ!」


 ナギが先に屋台を見つけた。


 鉄鍋の中で栗が転がり、甘い匂いが通りへ流れている。


「二袋で四文だってよ。買うか?」


「買うに決まってんだろ!」


 疾風が四文を払うと、ナギはすぐに紙袋の口をのぞいた。


「やっぱり焼きたてが一番だな」


「お前、飯のときはいつも元気だな」


「腹が減ってりゃ元気も出ねえだろ」


「そりゃそうだ」


 二人は少し離れた縁台(えんだい)へ腰を下ろした。


 看板の板を足元へ立てかけ、紙袋から栗を取り出す。殻を割るたび湯気が上がり、指先へ甘い匂いが残った。


「なあナギ。店ができたら何を売る?」


「運送屋だろ。荷を運ぶんじゃねえのか」


「それだけじゃもったいねえよ。お前の金具も売ればいい」


「作るのは俺なんだけどな」


「売るのは俺がやるって!」


「勝手に値切るなよ」


「自分の店で値切る奴がいるかよ!」


 疾風は笑いながら栗へ手を伸ばした。


 その横から、別の手が伸びてきた。


「あれ?」


 小さな手が紙袋の中から栗を一粒つまみ上げた。


 振り向くと、いつの間にか縁台の端に老人が座っている。


 薄い着物を着た小柄な老人だった。荷物も杖も持っていない。


 老人は疾風たちを見ることもなく、栗の殻を割った。


「おい爺さん!」


 疾風が声をかけた。


「それ、俺たちの栗だぞ!」


 老人は答えなかった。


 栗を口へ入れ、ゆっくり噛む。食べ終えると殻を紙の上へ置き、何事もなかったように立ち上がった。


「ちょっと待てって!」


 疾風が呼び止めても振り返らない。


 老人は夜市の人混みへ歩いていき、露店の明かりの向こうへ姿を消した。


 ナギは口を開けたまま見送っていた。


「……何だ、今の」


「知らねえよ。勝手に食っていきやがった」


「一粒だけだったな」


「一粒だって俺たちのだろ!」


 疾風は紙袋の中を確かめた。


 栗はまだ十分残っている。


 それでも、ひと言もなく持っていかれたのが気に食わなかった。


「追うか?」


 ナギが尋ねた。


「栗一粒のために追いかけたら、さすがに馬鹿だろ」


「お前ならやるかと思った」


「俺を何だと思ってんだよ!」


 ナギは声を立てて笑った。


 疾風も栗を一つ口へ放り込み、老人が消えた通りへ目を向けた。


 人の流れは変わらない。


 魚を売る声や子どもの笑い声が聞こえ、焼き栗屋の鉄鍋も相変わらず音を立てている。


「……変な爺さんだったな」


「お前も人のこと言えねえけどな」


「何でだよ!」


 残りの栗を食べ終えると、二人は湯屋へ寄った。


 一文を払って湯に浸(つ)かり、疾風は傷のある手を湯の外へ出しておいた。包帯を外すのは、紺野屋へ戻ってからにする。


 看板代十五文、焼き栗四文、湯屋一文。


 今日の夜市で使った銭は合わせて二十文だった。


*


 紺野屋の二階へ戻ると、疾風は看板用の板を壁へ立てかけた。


 ナギが板と壁の間へ布を挟む。角が傷つかないよう位置を整えてから、自分の帳面を開いた。


「板代十五文。荷綱の十文も戻ったし、今日は悪くねえな」


「俺だって一貫もらったんだから悪くねえよ!」


 疾風も母の帳面を広げた。


 三月十三日の夜、残高は四貫六十文。


 その後の四日間で増えた十二文は、傷の手当てに使ったため差し引きはなかった。


 今日受け取った謝礼が一貫。


 荷綱代の返済が十文。


 看板用の板が十五文。


 焼き栗と湯屋で五文。


 筆で一つずつ書き込み、最後に残高を計算する。


『五貫三十文』


「……おおっ!」


 疾風は帳面を持ち上げた。


「ナギ! 五貫超えたぞ!」


「見えてるって」


「五貫三十文! 初めてこんなに増えた!」


「開業資金の五十貫までは、あと四十四貫七十文だな」


「今はそこまで言わなくていいだろ!」


 ナギは帳面を閉じた。


 それから壁に立てかけた板を見た。表面にはまだ何も書かれていない。


「店の名前、どうする?」


「考えてるって」


「どんな名前だよ」


「まだ決まってねえ」


「じゃあ考えてねえじゃん」


「これから考えるんだよ!」


 ナギは板の真ん中へ前足を置いた。


「俺の場所も忘れんなよ」


「半分ずつだろ。分かってるって」


「お前はすぐ自分の名前をでかくしようとするからな」


「お前だって同じだろ!」


 疾風は板の左半分を指でなぞった。


 ナギは右半分へ前足を置く。


 まだ文字はない。


 けれど、二人とも自分の名前を書く場所だけは決めていた。


 そのとき階下からお紺の声が響いた。


「疾風! ナギ! ちょっと降りておいで!」


 二人は顔を見合わせた。


「また仕事か?」


「今からかよ!」


 疾風は帳面を閉じ、ナギと一緒に階段を下りた。


 帳場ではお紺が一枚の紙を広げていた。


 忍務局(にんむきょく)から届いた知らせらしい。


「あんたたち、仮免の試験を受けるつもりだったね?」


「おう。もちろん!」


「だったら忘れないうちに申し込みを済ませな」


 お紺は紙の端を指で叩いた。


「仮免の試験、受けるんだろ。申し込みは明後日までだよ」

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