第16話 裏口の番
「おいナギ。そっちの足跡を踏むなよ」
風切疾風は質屋の裏口にしゃがみ込み、地面に残った靴跡を確かめていた。
央都の金物通り。店の裏手にある石畳には、右足の踵が欠けた靴跡が残っている。昨日の南市場で見つけたものと、よく似た形だった。
「踏んでねえよ。お前こそ近づきすぎだ」
鎌鼬のナギが、少し離れた場所から答えた。
疾風は地面に落ちていた細い木片を拾った。靴跡を踏まないよう周囲へ四本並べ、印をつける。
「これでよし。俺は侍さんを呼んでくる」
「俺は?」
「ここを見ててくれ。誰か出てきても近づかなくていいからな」
「はいはい。勝手に捕まえるなって話だろ」
「そういうこと!」
ナギは積まれた木箱の上へ跳び乗った。
そこからなら質屋の裏口と路地の両方が見える。長い尾を荷箱の縁へ巻きつけ、出入りする者がいないか確かめ始めた。
疾風は腰の袋を押さえた。
三軒分の見積もりの控えと、受け取った修理金具が入っている。普段の荷札や小刀もあるため、袋の口は少し膨らんでいた。
「おい、疾風」
「何だよ」
「見積もりの紙、落とすなよ」
「分かってるって!」
疾風は袋の口を結び直し、路地を走り抜けた。
昨日訪れた見回り所には、高架荷路で会った侍がいた。
机の上には何枚もの手配書が広げられ、二人の役人が書類を整理している。
「侍さん!」
疾風が駆け込むと、侍が顔を上げた。
「紺野屋の見習いか。今度は何を見つけた?」
「昨日の足跡だ! 金物通りの質屋の裏に、そっくりなのがある!」
侍の表情が変わった。
「場所を詳しく教えろ」
疾風は通りの位置と裏口へ続く道を説明した。
質屋の名前は知らないが、入口に古い車輪が置かれ、向かいに縄屋があることは覚えている。
侍は昨日預かった荷札を取り出した。
疾風が描いた、右足の踵が欠けた靴跡だ。
「これと同じ形なのか?」
「ああ。右足だけ欠けてる。裏口へ向かって何歩も続いてたぞ」
「ほかに誰か見た者は?」
「ナギも見た。今、現場に残ってる」
侍は荷札を机に置き、二人の役人へ声をかけた。
「店の出入りを確かめる。手配書を持って来い」
役人たちが立ち上がる。
侍は疾風へ向き直った。
「案内してくれ。ただし、お前は店へ入るなよ」
「分かった!」
「何かあっても無理に取り押さえるな。知らせるだけでいい」
「昨日も言われただろ。覚えてるって!」
侍は小さく息を吐いた。
「ならいい。行くぞ」
疾風は先に立ち、金物通りへ戻った。
*
質屋の裏口では、ナギが木箱の上から道を見張っていた。
「戻ったか。今のところ誰も出てきてねえぞ」
疾風の後ろから侍と役人たちが現れる。
侍は木片で囲まれた足跡へ近づき、昨日の荷札を横に並べた。
右足の踵が欠けている点は同じだった。
靴底の幅も近い。
ただ、泥の跡はところどころ崩れており、同じ靴がつけたものだと断定できるほど鮮明ではない。
「確かに似ているな」
「だろ!」
「だが、これだけで店の者が強盗の仲間とは決められん」
侍は立ち上がり、裏口を見た。
「出入りを確認する必要がある。お前たちはここで待て」
役人の一人を表口へ回し、もう一人には裏口から少し離れた路地の角を任せた。
侍自身は表から店へ入り、店主に事情を聞くという。
「裏から誰か出てきたら知らせろ。近づいて捕まえようとするなよ」
「おう!」
疾風が返事をすると、侍は表通りへ向かった。
裏口の前には、荷下ろし用の小さな空き地がある。
戸から路地までは五歩ほど。路地はその先で二つに分かれ、一方は金物通り、もう一方は南市場へ下っていた。
荷車一台なら通れるが、人が二人並ぶと狭い。
「ナギ。逃げるならどっちだと思う?」
「市場の方だな。人に紛れやすい」
「俺もそう思う」
「だからって、勝手に追うなよ」
「分かってる。見張るだけだ」
疾風は木箱の陰へ身を寄せた。
ナギも少し位置を変え、裏口を見たまま前足を伸ばす。
「そうだ。荷綱を一本、用意しとこうぜ」
「何でだよ」
「この前の救助で使った綱は借り物だったろ。何かあったとき、俺たちの綱があった方がいい」
「お紺さんに頼めば貸してくれるぞ」
「店の荷を運ぶときならな。俺たちの仕事で使う分は、自分たちで持っておきたいんだよ」
疾風は腰の袋を確かめた。
荷札と小刀はある。
だが長い綱は持っていなかった。
今朝は見積もりを取るだけの仕事だったので、使う予定がなかったのだ。
「いくらするんだ?」
「向かいの縄屋に十文のがある。さっき見えた」
「十文か……今の俺には痛えな」
「俺が出すよ」
ナギは自分の財布を取り出した。
「おっ、助かる!」
「あとで返せよ」
「お前が払うって言ったんだろ!」
「立て替えるって意味だよ」
「先に言えって!」
ナギは笑い、向かいの縄屋へ声をかけた。
裏口にいた店主が顔を出す。
「何だい、ナギ。今日は細工の仕事か?」
「いや、荷綱が欲しい。そこの十文のやつ、見せてくれ」
店主は軒先から綱を一本外した。
ナギは木箱の上から降りたが、質屋の裏口が見える範囲を離れない。店主が綱を持ってくると、前足で太さと編み目を確かめた。
「長さは?」
「荷車一台を締めるには十分だよ」
「ちょっと引っ張っていいか?」
「切らない程度にしておくれ」
ナギは綱の端を引き、傷んだ繊維がないか確かめた。
「よし。これにする」
十文を渡して綱を受け取る。
店主が戻ると、ナギは疾風の足元へ綱を置いた。
「ほら。ちゃんとしたやつだ」
疾風は端を持ってみた。
太すぎず、結び目を作りやすい。荷車の固定にも、人を引き上げるときにも使えそうだった。
「いいな、これ」
「変な結び方するなよ」
「まだ何も結んでねえだろ!」
疾風は綱を持ち直した。
掌の擦り傷が少し痛む。
昨日よりましになったとはいえ、強く引くにはまだ不安があった。
「……これ、俺よりお前が持ってた方がよくねえか?」
「何でだよ」
「手がまだ痛むんだって」
「最初からそう言えよ」
ナギは綱を前足で抱え直した。
そのとき、質屋の中から物が倒れる音がした。
続いて怒鳴り声が響く。
「おい! 何をする!」
二人は同時に裏口を見た。
*
「開けろ!」
戸の向こうから男の声がした。
次に、木の閂が外れる音が響く。
「ナギ!」
「聞こえてる!」
裏口が勢いよく開いた。
男が二人飛び出してきた。
先に出た男は背が高く、右肩に大きな布包みを掛けている。もう一人は小柄で、戸口に立ったまま後ろを振り返った。
「裏だ!」
疾風は路地の角へ向かって叫んだ。
見張っていた役人が顔を上げる。
「何人だ!」
「二人!」
背の高い男が走り出した。
小柄な男も後を追おうとしたが、足元にナギがいることに気づいて踏みとどまる。
「どけ!」
男がナギを蹴ろうとした。
ナギは一間ほど跳んで避け、積まれた木箱の縁へ移った。
「疾風! 綱だ!」
抱えていた新しい荷綱の端を投げる。
疾風はそれを受け取った。
「どこへ掛ける!」
「そこの柱だ!」
ナギが示したのは、荷下ろし場の柱だった。
太い木材が石の土台に固定されている。
疾風は柱へ走り、綱を一度回した。
もう片方の端は、ナギが木箱の脇へ引き寄せている。
小柄な男はナギを追い、木箱の横へ踏み込んだ。
その足元へ、ナギが綱の輪を広げる。
「足元見ろよ!」
ナギの声に、男が視線を落とした。
しかし遅かった。
踏み出した右足が、輪の内側へ入っていた。
「今だ!」
ナギが綱を持ち上げた。
疾風は柱へ回した端を引き、輪を男の足首へ寄せる。
綱が張った。
「うわっ!」
男の右足が止まった。
逃げようとした勢いで体が前へ倒れ、片膝が石畳へつく。
疾風の掌に痛みが走った。
「いててっ……!」
それでも綱を離さず、柱の反対側へ体を寄せる。
男の重さを腕だけで受けるつもりはない。
柱へ綱を回し、そこへ力を預ける。
男が足を振った。
「くそっ! 離せ!」
ナギはすぐに距離を取った。
綱は柱へ回してあるため、男が足を振っても簡単には緩まない。
「動くなよ。余計に絡まるぞ」
「この野郎!」
男が立ち上がろうとした。
そのとき、裏口から侍が現れた。
「そのまま動くな!」
侍は一気に間合いを詰め、男の肩を押さえた。
抵抗しようとした腕を背中側へ回させ、駆け寄った役人に縄を渡させる。
男が暴れようとすると、侍は腕を押さえる位置を変えた。
「抵抗すれば怪我をするぞ。大人しくしていろ」
男は何か叫んでいたが、両手首を縛られると動きを止めた。
侍は足首に絡んだ荷綱を外した。
「よし。もう一人は?」
疾風は市場へ続く坂を指した。
「あっちだ! 背の高い奴が逃げた!」
男の姿は路地の先へ消えかけていた。
「俺が追う。お前たちはここで待て!」
侍が走り出す。
しかし、逃げた男が坂道の途中で急に立ち止まった。
そこには荷車が一台あった。
*
南市場へ下る坂道に、木箱を二つ積んだ荷車が止められていた。
後輪の前には木の楔が差し込まれている。荷役が配達先を確かめるため、すぐ脇の店へ入っていたらしい。
逃げてきた男は荷車の後ろへ回った。
侍が距離を詰める。
「止まれ!」
男は振り返った。
それから木の楔を蹴り飛ばし、荷車の側面を強く押した。
「おい! 何してんだ!」
店から荷役が飛び出してくる。
荷車はゆっくり動き始めた。
最初はわずかに車輪が回るだけだった。だが坂を下るにつれて速度が増し、荷台に積まれた木箱が揺れ始める。
男は荷車から手を離し、横の細い路地へ走り込んだ。
「待て!」
侍は追いかけようとした。
しかし市場へ向かって転がる荷車を見て足を止めた。
下には人がいる。
魚屋の前には買い物客が並び、荷役たちも道の中央を歩いていた。
まだ暴走する荷車に気づいていない者が多い。
「荷車だ! 道を空けろ!」
侍が大声を上げた。
その声を聞き、疾風も坂へ飛び出した。
「ナギ! あの車を止めるぞ!」
「待て! 正面から受けるなよ!」
「分かってる!」
疾風は荷車の横を走った。
二つの木箱を積んだ車は、空車とは重さが違う。坂の途中で勢いを増した荷車を体で受ければ、そのまま押し潰されかねない。
狙うべきは荷台ではない。
綱だ。
「ナギ! 後ろを見ろ!」
荷車の後部から、一本の綱が引きずられていた。
坂道で荷台を支えるための補助綱らしく、後ろの枠へ結ばれている。
今は誰も持っていない。
「あれを取ってくれ!」
「どこへつなぐ!」
疾風は道の端を見た。
魚屋の手前に、荷車をつないでおくための太い柱が立っている。
根元は石畳へ固定され、普段から荷役が車を止めるのに使っている場所だ。
「あの柱だ! 俺が綱を回す!」
「なら右へ寄れ!」
ナギが荷車の後ろへ回った。
小さな体では荷車の重さを止められない。
それでも綱をつかんで持ち上げることはできる。
ナギは荷台の後ろへ跳び、引きずられていた綱の端を前足で拾った。
「疾風、受け取れ!」
綱が宙を飛んだ。
疾風は走りながら右手を伸ばした。
受け取った瞬間、掌の傷がじんと痛む。
だが、離さなかった。
前方の柱へ向かい、綱を外側から回す。
荷車はまだ坂を下っている。
柱を通した綱が張り始めた。
「ぐっ……!」
疾風の体が柱へ引き寄せられる。
綱を一度回しただけでは勢いが強く、手元で滑り続けた。
包帯の下へ熱い痛みが走る。
「もう一周だ!」
ナギが叫ぶ。
「分かってる!」
疾風は綱の端を柱へもう一度回した。
摩擦が増え、荷車の速度が落ち始める。
だが、車輪はまだ回っていた。
市場の入口が近づいている。
「誰か! 楔を持ってきてくれ!」
疾風が叫ぶと、先ほどの荷役が駆け寄ってきた。
「俺の車だ! 綱を持てるか!」
「これ以上は手が痛え!」
「なら俺が持つ!」
荷役は疾風の後ろへ回り、綱の端を受け取った。
柱に巻かれた部分が緩まないよう体重を掛ける。
荷車の速度がさらに落ちた。
ナギが車輪の横から叫んだ。
「今なら止められるぞ!」
荷役は木の楔を手に取り、車輪の進む先へ横から押し出した。
木が軋んだ。
車輪が楔へ乗り上げかける。
「押さえろ!」
荷役が綱を引いた。
疾風も痛む手で端を支え、柱へ結びつける。
荷車の車輪がようやく止まった。
市場の入口まで、あと数歩だった。
「……止まった」
疾風は柱へ背中を預けた。
魚屋の客たちは道の端へ避けている。
子どもを抱き寄せた女が、止まった荷車を見て大きく息を吐いた。
荷役が車輪へもう一つ楔を入れ、荷台が動かないことを確かめる。
「助かったよ! 本当にありがとう!」
疾風は顔を上げた。
「おう。荷が落ちなくてよかったな!」
礼を言われると、少し気分がよくなった。
しかしナギは足元へ来るなり、疾風の右手を見た。
「おい。手を見せろ」
「大丈夫だって」
「いいから見せろよ」
疾風は掌を開いた。
包帯の端に赤い染みが広がっていた。
「……ちょっと開いたな」
「ちょっとじゃねえだろ」
ナギは長い尾を動かした。
「帰ったら手当てしろよ。今度こそ休ませろ」
「分かってるって」
「聞き飽きたぞ、その返事」
疾風は苦笑した。
荷役が荷台の木箱を確かめている間、疾風は自分の袋へ手を伸ばした。
そこで指が止まる。
「……あれ?」
「どうした?」
「見積もりが一枚ねえ」
袋の口を開き、中身を取り出した。
修理済みの留め金はある。
一軒目の二十六文の控えも、二軒目の二種類の見積もりも残っていた。
だが、三軒目でもらった三十文の控えがない。
「おい、嘘だろ……」
「落としたのか?」
「たぶん、さっき走ったときだ」
疾風は荷車が通った道を振り返った。
路地の端には細い水路があり、紙切れがいくつも流れている。
あの中へ落ちていたら、今から探しても見つからないかもしれない。
「やべえ。お紺さんに怒られる……」
「だから袋の口を結べって言っただろ」
「結んだよ! 走ったときに緩んだんだって!」
探しに戻ろうとしたところで、前方から侍の声が響いた。
「風切!」
疾風が顔を上げる。
侍が坂の途中へ戻ってきていた。
「逃げた男を見なかったか!」
「いや、荷車を止めてたんだ!」
疾風は路地の先を見た。
男が入ったのは市場の裏へ続く細道だった。
そこから先は幾つもの通りに分かれている。
今から追っても間に合うとは思えない。
しかし、そのとき路地の角に人影が現れた。
「ナギ! あっちだ!」
疾風が指さす。
逃げた男が、建物の陰から姿を見せていた。
背の高い体。
右肩に抱えた布包み。
間違いなく、質屋の裏口から逃げた男だった。
距離はある。
今から追いつくには遠すぎた。
疾風は走り出さず、男の姿を目で追った。
男が角を曲がる。
その一瞬、腰の帯から何かが揺れた。
小さな四角い札だった。
荷札に似た形をしている。
表には、赤い印が押されていた。




