第15話 値札の裏
「買ったら給金から引くからね」
出発前のお紺の声が、まだ耳に残っていた。
央都の南にある金物通り。その入口で風切疾風は三枚の荷札を広げ、今日の仕事を確かめていた。
修理に出した金具の受け取りが一件。新しい留め金の見積もりが三件。
買い物を頼まれたわけではない。
「分かってるって。値段を聞いて帰ればいいんだろ」
「その台詞、店を出るときも言ってたぞ」
肩の上でナギが尾を動かした。
灰茶色の鎌鼬は、今日も小さな道具袋を背負っている。中にはお紺から預かった、見本用の古い留め金が入っていた。
「お前、安いと聞くとすぐ買いたがるからな」
「安く買えるならいいだろ」
「お紺さんが決めるって言ってたのを忘れたのか?」
「忘れてねえよ!」
疾風は荷札を腰の袋へ戻した。
両掌には、まだ綱擦れの傷が残っている。昨日より痛みは引いたものの、重い荷を持つと親指の付け根が引っ張られた。
そのため、今日は荷車を引く仕事ではなく、軽い金具の受け取りと値段の調査を任されたのだ。
「しかし、お紺さんも細けえよな。留め金二つくらい、一軒で買えばいいじゃん」
「毎日荷車を走らせるんだぞ。安くてもすぐ壊れる金具じゃ困るだろ」
「だからお前も連れてきたんだよ」
「俺は荷役として働いてんだ。お前の買い物の付き添いじゃねえ」
「はいはい。細工師ナギ様の目を貸してくれ」
「その言い方が気に食わねえ」
言い合いながら通りへ入った。
軒先には鍋の取っ手や荷車の車輪、人工妖装の部品まで並んでいる。店の奥から金属を叩く音が響き、通りには熱した鉄と油の匂いが漂っていた。
一軒目の店には、大きな車輪が入口の横に立てかけられていた。
疾風が荷札を出すと、店主は奥から布包みを持ってきた。
「紺野屋の修理品だな。曲がった所は直してあるよ」
包みの中には、修理を依頼していた留め金が入っていた。
ナギが台へ跳び乗り、前足で金具を裏返す。
「削ったのはここだけか?」
「ああ。穴の内側は触ってない。合わせが変わると困るからな」
ナギは金具を傾け、光へ向けた。
擦り減った部分には金属が足され、表面が滑らかに整えられている。穴の周囲には以前の加工跡が残っていた。
「いい仕事だな」
「そりゃどうも」
店主が笑った。
疾風も受け取って確かめた。
少し重くなっているが、留め具の幅は以前とほとんど変わらない。これなら元の場所へ取り付けられそうだ。
「じゃあ、これと同じ寸法で新品を二つ作ったら、いくら?」
「鉄の留め金二つで二十六文だ。三日でできる」
「二十六か。もう少しまけられねえ?」
「まだ買うとも決めてないんだろ?」
「まあ、そうだけどさ」
「なら先にほかの店も見ておいで。それでもうちがよければ頼んでくれ」
疾風は笑った。
「おっちゃん、商売うまいな」
「お前さんほどじゃないよ」
店主は値段と納期を書いた控えを渡してくれた。
疾風は修理済みの金具と控えを受け取り、荷札の裏にも二十六文と書き込む。
店を出ると、ナギが耳元で言った。
「一軒目から値切るなよ。まだ相場も分かってねえだろ」
「相場を知るために値切ったんだって」
「嘘つけ。安くなったら買う顔してたぞ」
「顔は関係ねえだろ!」
ナギは鼻を鳴らした。
「お紺さんに言いつけてやろうか」
「やめろよ! 本当に給金から引かれるだろ!」
*
二軒目の見積もりは二十二文だった。
「おっ、安い!」
疾風が身を乗り出すと、ナギがすぐに金具の見本を確かめた。
「待て。これ、縁が薄いぞ」
「同じ鉄だろ?」
「鉄なら何でもいいってわけじゃねえ」
ナギは前足で留め金の内側を示した。
荷車の車軸を押さえる部分だ。何度も走らせれば、ここが擦れて少しずつ削れていく。
「薄い方が早く傷む。重い荷を載せるなら、長持ちしねえぞ」
「じゃあ厚い方は?」
店主が棚から別の金具を取り出した。
「こっちなら二十八文だね。二つ一組でその値段だ」
二種類の金具が並べられた。
疾風は一つずつ手に取ってみた。
わずかな厚さの違いしかない。それでも指で押したときの硬さは、かなり違っていた。
「なるほどな。安い方を二回買うくらいなら、丈夫な方を一回買った方が得かもしれねえ」
「ようやく分かったか」
「まだ一軒残ってるって!」
ナギは薄い方の金具を棚へ戻した。
店主は二種類の見積もりを別々の控えへ書いてくれた。
薄い金具が二十二文。
厚い金具が二十八文。
どちらも二つ一組の値段だった。
疾風は控えを袋へしまった。
「お紺さんならどっちを選ぶと思う?」
「安いだけの金具は買わねえだろ。途中で壊れたら、荷を傷つけることになる」
「……昨日の外箱みたいにか?」
「自分で言ったな」
「お前が言わせたんだろ!」
ナギが声を立てて笑った。
三軒目は通りの奥にあった。
入口の前には荷車が一台止まり、男たちが木箱を運び込んでいる。奥の作業場からは大きな金槌の音が響いていた。
疾風が見本を出すと、店主は寸法を確かめた。
「この形なら三十文だな。鉄は厚めにする。出来上がりは明後日だ」
「三十文か。今までで一番高えな」
「その代わり長く使える。毎日走らせる荷車なら悪い買い物じゃないぞ」
ナギが見本の金具を受け取った。
「穴の内側は磨いてあるのか?」
「もちろんだ。車軸へ傷がついたら困るからな」
「角の仕上げは?」
「そこも落としてある。触ってみろ」
ナギは見本を裏返し、前足で縁をなぞった。
「……いいな。値段なりの仕事だ」
疾風はナギを見た。
「お前がそこまで言うなら、いい品なんだな」
「高いけどな」
「そこが問題なんだよ!」
三軒目の店主も見積もりを書いてくれた。
机にはほかにも注文書が積まれている。そのうち何枚かは赤い線で消され、脇へよけられていた。
「おっちゃん、注文が多いんだな」
疾風が尋ねると、店主は顔をしかめた。
「忙しいというより、面倒なことがあってな」
「何かあったのか?」
「部品を盗まれたんだよ。裏の倉からな」
疾風の手が止まった。
「盗まれた?」
「ああ。昨日の夜明け前だ。店を開けたら裏の戸が開いていてな。役所には届けてあるんだが、仕事は止められないからね」
掲示板にあった盗難の知らせだ。
疾風は預かっていた控えを袋へしまわず、そのまま店主へ向き直った。
「どんな部品がなくなったんだ?」
「脚甲に使う関節の留め具と、小さな接続部品だ。古い型だが、修理には使える」
ナギが顔を上げた。
「脚甲の部品か」
「そうだ。新品ほど高くはないが、欲しがる職人はいる」
疾風は一昨日の高架荷路を思い出した。
強盗の男が装着していた金属製の脚甲。
膝の横には小さな筒が並び、踏み込むたびに金具が伸びていた。途中で曲がれないという欠点があったものの、あの速さは忘れられない。
その部品が盗まれたという。
「なあ、その脚甲の部品って、高架で使われてたやつと同じなのか?」
「高架? ああ、強盗の話か」
店主は首を振った。
「わしは実物を見てないから分からんな。同じ型でも作り手によって違うし、古い部品を組み合わせることもある」
「そうか……」
「お前さんたち、あの騒ぎに巻き込まれたのか?」
「まあな。俺たちの荷が狙われたんだよ」
店主は疾風の掌の包帯を見た。
「それでその手か。無茶するもんじゃないぞ」
「分かってるって」
疾風は肩をすくめた。
「盗まれた物が見つかったら、教えてやるよ」
「ありがたいが、見つけても勝手に取り返そうとするなよ。役所へ知らせてくれればいい」
「おう!」
疾風は見積もりの控えを受け取り、礼を言って店を出た。
通りへ戻ると、ナギが肩の上で口を開いた。
「お前、あの部品が強盗の脚甲に使われてると思ってんだろ」
「気になるだろ。脚甲の強盗が出て、その翌朝に脚甲の部品が盗まれたんだぞ」
「関係あるかもしれねえ。でも同じ物だって証拠はねえぞ」
「分かってるよ」
疾風は三軒の控えを取り出した。
二十六文。
二十二文と二十八文。
三十文。
見積もりは全部そろった。
修理に出した金具も受け取った。
買い物はしていない。
「よし。これでお紺さんに文句は言われねえな!」
「仕事の分はな」
「じゃあ、少しくらい寄り道してもいいだろ」
ナギは嫌そうに目を細めた。
「また何か見つけたのか?」
「さっきから気になってた店があるんだよ」
疾風は通りの反対側を指した。
古道具と工具を並べた質屋だった。
*
質屋の軒先には、使い古された工具が吊るされていた。
細い鏨、曲がった金具、荷車の部品。どれも新品ではないが、磨き直されていて使えそうな物ばかりだった。
店先の棚には、値札の付いた留め具が並んでいる。
疾風はその一つへ目を留めた。
「ナギ。あれを見ろよ」
「どれだ?」
丸い留め具の横に、短い金属の腕が付いていた。関節の動きを押さえる部品らしく、端には小さな穴が二つ並んでいる。
「脚甲の留め具か?」
「そうみたいだな」
ナギは棚の上へ跳び乗った。
「古い型だ。でも、あの強盗がつけてた脚甲と同じ物とは限らねえぞ」
「分かってる。値札を見てみろよ」
札には十八文と書かれていた。
疾風は首を傾けた。
さっきまで見ていた荷車の留め金とは用途が違う。単純に値段を比べられないのは分かっている。
だが、これほど小さな部品に十八文というのは、どうにも高く感じた。
「どこから仕入れてるんだろうな」
「買い取った物じゃねえのか?」
「全部がそうとは限らねえだろ。直して売ってるのかもしれねえ」
ナギは店内をのぞいた。
奥では店主が帳面を広げ、棚の品を一つずつ確かめている。買い取りの札と売値を並べて書いているらしかった。
「普通に聞けばいいんじゃねえの?」
「盗まれた部品のことを聞いたら、怪しまれるかもしれねえだろ」
「お前はもう怪しい顔してるぞ」
「うるせえな。ちょっと考えがあるんだよ」
疾風はナギを肩から降ろした。
「なあ、喧嘩してくれ」
「……は?」
「仲違いした荷役のふりをするんだ。俺が安く買えるって言い張るから、お前は反対してくれ」
ナギは疾風を見上げた。
「普段と変わらねえじゃねえか」
「だからうまくいくんだろ!」
「俺が本気で怒っても文句言うなよ」
「乗った!」
二人は店へ入った。
「だからお前が間違ってんだって!」
疾風は入るなり声を張り上げた。
店主が顔を上げる。
「何だい。喧嘩なら外でやってくれ」
「喧嘩じゃねえよ! こいつが値段の分からねえこと言うんだ!」
「誰が分かってねえって?」
ナギが前足を広げた。
「お前が金具一つ三文で買えるって言うからだろ! まともな脚甲の部品がそんな値段で買えるかよ!」
「三文?」
店主は二人を見比べた。
疾風は棚の留め具を指した。
「これだよ! 古い金具なんだから三文で十分だろ?」
「馬鹿言うんじゃない。十八文だよ」
「高すぎるって! こんな小さい物に十八文も払えるかよ!」
「大きさで値段が決まるわけじゃないんだよ」
店主は帳面を閉じ、留め具を取り上げた。
「これは脚甲の関節に使う部品だ。古い型だが作りがいい。そう簡単に代わりが利く物じゃない」
ナギが台へ跳び乗った。
「ちょっと見せろよ」
「何だい、お前さんも細工をするのか?」
「やってるぞ。金具の修理ならな」
ナギは留め具を受け取り、裏返した。
穴の縁には薄く削った跡がある。表面は磨かれているが、内側の角だけ少し色が違っていた。
「これ、修理した品だろ」
「よく分かったね」
「穴が広がってた所を直してある。新品じゃねえな」
「そうだよ。修理上がりの品だ」
店主は少し得意そうに腕を組んだ。
「だからこそ値がついてるんだ。古い部品を直す方が、新しく作るより手間のかかることもあるからね」
「だったらなおさら三文でいいだろ!」
疾風が割って入る。
店主は呆れた顔をした。
「お前さんは話を聞いてたのかい?」
「聞いてるよ! 中古で修理品なんだろ?」
「そうだが、修理したのがどこか分かって言ってるのか?」
「知らねえよ!」
「炭谷の工房だよ。あそこの仕事なら、古い金具でも安心して使える」
疾風は心の中でその名前を繰り返した。
炭谷。
聞いたことのない工房だった。
「そんなに腕がいいのか?」
「古い脚甲を直させたら、あそこは確かだよ。ほかじゃ断られる型でも引き受けることがある」
ナギが金具を返した。
「仕上がりは悪くねえな。確かに丁寧だ」
「ほら、分かる者には分かるんだ」
店主は満足そうに値札を戻した。
疾風はまだ不満そうな顔を作る。
「じゃあ、炭谷に直接頼めば安いんじゃねえの?」
「工房は修理を引き受ける所だよ。店頭で一つずつ売ってるわけじゃない」
「どこにあるんだよ」
「この通りを少し外れた所さ。もっとも、部品を一つ買うだけなら、うちで買った方が早いけどね」
店主は値札を指で押さえた。
「で、買うのかい?」
疾風はナギを見た。
ナギは何も言わず、軽く尾を動かした。
仕入れ先の名前は分かった。
これ以上値段の話を続けても、別の情報が出てくるとは限らない。
「……今日は買わねえ」
「だったら最初からそう言いな」
店主がため息をつく。
するとナギが疾風の足首を前足で叩いた。
「ほら見ろ。俺が高いって言っただろ!」
「お前、最初から十八文だって知ってたのかよ!」
「相場を知らねえのはお前だけだ!」
「だったら先に教えろよ!」
「お前が聞かなかったんだろ!」
店主は額を押さえた。
「もういいから出ていってくれ。買わないなら店先を塞がないでおくれ」
二人は言い合いを続けながら店を出た。
角を曲がって質屋が見えなくなると、疾風はとうとう笑い出した。
「ははっ! お前、うまいじゃん!」
「半分は本音だよ」
「何だよ、それ!」
「三文で買えると思ってる奴には、本気で説教してたぞ」
「思ってねえって! わざと間違えたんだよ!」
「ならいいけどな」
ナギは疾風の肩へ登った。
「で、炭谷って工房を調べるのか?」
「気にはなる。でも今すぐ押しかけたって、盗難と関係あるか分かんねえだろ」
「そうだな。質屋だって普通に仕入れただけかもしれねえ」
疾風は頷いた。
盗まれた脚甲の部品。
質屋に並んでいた修理品。
仕入れ先の炭谷という工房。
今はまだ、同じ物だと確かめられない。
疾風は予備の荷札を一枚取り出し、裏へ『炭谷』と書いた。
「名前だけは忘れねえようにしとく」
「お前、人の顔は忘れねえくせに店の名前はすぐ忘れるからな」
「余計なお世話だ!」
ナギが尾で荷札の端を押さえた。
「それより、さっきの店の裏を見てみねえか?」
疾風は顔を上げた。
「何で?」
「修理品がどこから運び込まれてるか、少しくらい分かるかもしれねえだろ」
「お前も気になってんじゃねえか!」
「お前一人で突っ走られたら困るからな」
二人は質屋の裏へ続く路地へ向かった。
*
質屋の裏手は、荷車一台が通れるほどの細い道だった。
両側には店の裏口が並び、木箱や使い古した道具が端へ寄せられている。表通りの金属を叩く音が、建物の間を通って小さく聞こえた。
「勝手に店へ入るなよ」
ナギが念を押した。
「入らねえよ。道から見るだけだって」
疾風は質屋の裏口が見える位置で足を止めた。
戸の脇には壊れた車輪が立てかけられ、その下に黒い泥がたまっている。
荷下ろし場の石畳は、まだ少し濡れていた。店の者が水を流したらしく、細い溝に汚れた水が残っている。
「ここから品を入れてるんだな」
「そりゃ裏口だからな」
「もう少し何か見つかんねえかな」
「そんな都合よく――」
ナギが言葉を止めた。
前足で石畳を指す。
「疾風。足元」
疾風はそちらを見た。
泥の上に靴跡が残っていた。
大きな跡がいくつも重なっている。その中に、硬い靴底で踏みつけたような深い跡があった。
疾風はしゃがみ込んだ。
「……これ」
右足の跡だった。
踵の外側が欠けている。
疾風は顔を近づけた。
昨日、南市場の路地で見つけた跡とよく似ていた。
「ナギ。昨日の足跡、覚えてるか?」
「右の踵が欠けてたやつだろ」
「ああ。これも同じ形じゃねえか?」
ナギが地面へ降りた。
足跡の周囲を一周し、隣に残った左足の跡も確かめる。
「待て。こっちは普通の形だ」
「昨日も右だけ欠けてた」
「幅も近いな。だが、同じ靴だとはまだ決められねえぞ」
「分かってる」
疾風は足跡をたどった。
一歩。
その先に、もう一歩。
つま先はいずれも質屋の裏戸を向いている。
右足の跡だけ、踵の外側が同じように欠けていた。
「……裏口に入ってる」
ナギも戸を見上げた。
疾風は昨日の荷札を思い出した。
墨で描いた、右足の踵。
役人へ渡してしまったので今は手元にない。それでも欠けた角の形は覚えている。
目の前の跡と同じかどうか、確かめる必要があった。
ナギが疾風の足元へ戻ってきた。
「どうする?」
疾風は裏戸を見た。
閉まっている。
中からは物を動かす音がするが、誰がいるのかは分からない。
昨日なら、ここで戸を開けていたかもしれない。
しかし、疾風は手を伸ばさなかった。
「……まずは役人だな」
「おう。それがいい」
ナギは頷いた。
疾風は立ち上がる前に、もう一度足跡を見た。
右足の踵。
外側が欠けていた。




