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潮時を読むだけの女はいらないと言われましたが王都の婚礼水門は開けません  作者: むむさん


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第1話 潮時を読むだけの女

潮見塔の石段は、朝のうちだけ嘘をつかない。


夜明け前に冷えた石は、満ち潮が近ければしっとり汗をかく。引き潮なら白く乾き、霧が出ても靴裏に粉が残る。ミレーナ・カルヴァはその粉を指先でこすり、爪の端に残った塩を舌へ乗せた。


苦い。


ただの塩気ではない。内海から押した水が、昨夜の雨を抱いたまま川へ戻されている。七門のうち、どこか一つが半拍だけ早く鳴った味だった。


「第一橋、四つ。第二橋、三つ。第三橋、鳴らず」


ミレーナは濡れた手を前掛けで拭き、水門暦の余白へ細い字で記した。母の代から使う真鍮の筆箱は角がへこみ、留め具も少し甘い。けれど中の赤鉛筆だけは、毎朝きちんと削ってある。水門暦係が線を引き損ねれば、王都リュメールの下町は朝食の湯を沸かす前に泥水をかぶる。


その責任を、誰も美しいとは言わない。


鐘楼から、遅れて低い音が一つ落ちた。


「第四橋、一つ」


門番の少年が息を切らせて階段を上がってきた。まだ見習いのトマだ。帽子が斜めになり、胸に下げた封鉛札の束が鳴っている。


「カルヴァ係、ロゼル家の馬車が下で待ってます。急ぎだって」


「封鉛札は」


「七門分、あります」


「見せて」


トマは不満そうに唇を尖らせたが、すぐ束を差し出した。ミレーナは番号順に鉛の縁をなぞる。第一、第二、第三。第四の角に、爪ほどの欠けがあった。


欠けそのものは、門を止める理由になる。封鉛札は飾りではない。門の手動軸に結び、勝手に開けていないと示すためのものだ。欠けていれば、誰かが無理に外したか、外そうとしたことになる。


「第四門は午前の開門不可。予備札の確認まで閉じて」


「え、でもロゼル様が」


「水はロゼル様の家名を読まないわ」


トマは黙った。こういう言い方をすると、母みたいだと自分でも思う。少し意地悪で、少し疲れている。けれど水門暦係が優しい言葉を選んでいる間にも、水は石段を上がる。


ミレーナは水門暦に赤い短線を引き、帳面を閉じた。


塔の下では、黒塗りの馬車が濡れた敷石を塞いでいた。御者台にはロゼル家の紋。銀の水鳥が羽を広げた、見栄えだけは涼しい紋章だ。


馬車の扉が開き、ジュリアン・ロゼルが降りてきた。朝の潮風が強いのに、襟元の絹は乱れていない。ミレーナが一晩橋鐘を数えていたとき、彼は暖炉の前で眠っていたのだろう。そう思ってしまう自分を、ミレーナは少しだけ恥じた。婚約者に向ける感情としては、ずいぶん乾いている。


「ミレーナ。やっと降りてきたのか」


「潮見をしていました」


「毎朝毎朝、潮時を読むだけだろう。そんなものは門番に任せればいい」


トマが後ろで息を呑んだ。ミレーナは振り返らなかった。


「ご用件を」


ジュリアンは手袋を片方だけ外し、丸めた羊皮紙を差し出した。青いリボン、金の飾り罫。婚礼水路の臨時使用願だった。


「今日の正午、中央運河を開ける。婚礼船を通す」


「本日の正午は満ち戻りです。中央運河は開けられません」


「王家の婚礼水路だぞ。客も呼んである」


「王家の婚礼水路だからこそ、許可と潮時が必要です」


「許可ならこれに君が署名すれば済む」


彼は笑った。子どものいたずらを許すような笑いだった。ミレーナはその笑いを、昔は優しさだと思おうとしていた。今は違う。彼は自分が壊すものの形を知らないだけだ。


「署名できません。第四封鉛札が欠けています。昨夜、どなたかが門を動かした疑いがあります」


「大げさな。鉛の欠けくらいで」


「鉛の欠けくらいで、下町の洗濯場は床上まで水をかぶります」


「洗濯場?」


ジュリアンの眉がわずかに上がった。貴族の婚礼船と下町の洗濯場を同じ皿に載せられたことが、不愉快なのだろう。


「今日は大事な披露の日なんだ。セリーヌを水祝姫として迎える。王都の商会連中も見に来る。婚礼船が中央水路を通れば、ロゼル家の水運事業は一気に広がる」


セリーヌ。


名前は聞いていた。ベルシュ家の令嬢で、銀の髪を水面に垂らして祈る姿が美しいと評判の人。彼女が祈れば水路は澄む、という噂を、ジュリアンが商会に売り込んでいることも知っていた。


けれど、ミレーナの署名が必要だとは聞いていない。


「水祝姫の披露に、なぜ婚礼水路を」


「見栄えがいい。君も分かるだろう」


「婚礼水路は飾りではありません」


「本当に融通が利かないな」


ジュリアンは羊皮紙を押しつけるように近づけた。


「ミレーナ、君は僕の婚約者だ。家のために少しは役に立て。潮時を読むだけの女に、これ以上何を望めばいい?」


潮見塔の上で数えた鐘の音が、胸の奥で一斉に鳴った気がした。第一橋、四つ。第二橋、三つ。第三橋、鳴らず。第四橋、一つ。ずれた音は、聞こえなかったことにはできない。


ミレーナは羊皮紙を受け取らず、自分の手袋を外した。


左手の薬指には、青い石の婚約指輪がある。三年前、ジュリアンはこの石を「水の都に似合う」と言った。石の名は知らなかった。水の色なら何でも同じなのだと、今なら分かる。


「署名はできません」


「なら婚約は白紙だ」


あまりにも早かった。


言葉が落ちる前から、彼はそう言うつもりだったのだろう。ミレーナの胸に刺さったものは悲しみより、妙な納得だった。水門を無理に開ける人は、縁も同じ手つきで開け閉めする。


「分かりました」


「分かりました、だと?」


「婚約の件は、後ほど書面で受け取ります。ただし水門は開けません」


ジュリアンの顔から、きれいな余裕が剥がれた。


「君は自分の立場が分かっているのか」


「分かっています。王都水門暦係です」


ミレーナは指輪を外した。朝の冷えで少しきつく、関節のところで止まった。無理に引くと皮膚が赤くなった。痛い。けれど、痛みがあってよかった。何かを失うのに、何も感じないほど乾いていたくはなかった。


ようやく抜けた指輪を、彼の羊皮紙の上へ置く。


「トマ」


「は、はい」


「潮見塔控えに戻って。閉門朱線を入れる」


ジュリアンが笑った。今度は短く、鋭い。


「そんな線一本で、僕の船を止められると思うな」


「線一本では止まりません」


ミレーナは塔へ戻り、帳面を開いた。赤鉛筆の先は、先ほどより少し丸くなっている。削り直す時間はない。丸いまま、今日の正午の欄へ深く線を引いた。


「封鉛札、橋鐘、潮位、許可簿。四つが揃わなければ、水門は開きません」


塔の入口に、知らない男が立っていた。濃灰の外套に治水監査局の銀章。風に乱れた黒髪を押さえもせず、彼はまずミレーナの手元を見た。指輪ではなく、朱線の位置を。


「カルヴァ係。治水監査官のエリオ・ランベールです。昨夜の試し鐘について、確認に来ました」


ジュリアンが舌打ちした。


エリオはその音を拾ったはずだが、顔を向けなかった。ただ、ミレーナの帳面の端が濡れているのに気づき、胸ポケットから薄い油紙を差し出した。


「記録がにじみます。よろしければ」


勝手に覗かない。触れる前に許可を待つ。


それだけのことに、ミレーナは一瞬返事を忘れた。仕事を仕事として扱われるのは、こんなに静かなことだったのか。


「ありがとうございます、ランベール監査官」


油紙で帳面を包み、ミレーナは正午の欄にもう一度、赤を重ねた。


「本日の婚礼水門は、開けません」


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