第六章 ゼロ番目の被告
沈黙には、音がある。
地下法廷に満ちていたのは、ただの静けさではなかった。空調が低く唸る音。誰かが浅く息を吸う音。鳴海遼が喉の痛みに耐えながら、時折咳を噛み殺す音。白石澪の歯が小さく鳴る音。透明板の内部で、何かの処理が走っているかすかな電子音。
そして、見えない外側からこちらを覗き込む無数の視線の音。
そんな音が聞こえるはずはない。だが神林悠真には、確かに聞こえている気がした。
被告人番号0。
対象、観測者。
神林の透明板に一瞬だけ浮かんだその文字列は、すぐに消えた。証拠はない。ほかの誰かが見たわけでもない。ZEROが認めたわけでもない。
だが、神林は見た。
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LABEL:Observer
隠された候補。
それが意味するものを考えようとした時、頭の奥が鈍く軋んだ。酸素濃度がさらに下がっている。考えるだけで体力が削られる。胸の奥に重い石を入れられたようだった。
「神林さん」
小早川環が声をかけた。
「その候補は、今も表示できますか」
「分かりません」
神林は透明板に触れた。
表示されているのは、投票候補の一覧だった。
三雲翔。白石澪。小早川環。砂原剛。神林悠真。黒瀬万里。鳴海遼。その他。棄権。
被告人番号0はない。
神林は画面の端を押した。反応はない。三雲がやっていたように、二本指で払う。何も起きない。長押し。表示がわずかに乱れたが、すぐ戻った。
「消された」
三雲翔が言った。
彼も自分の透明板を操作している。外部コメント欄へ干渉した時から、彼はこの閉ざされた法廷の中で唯一、配信システム側へ触れられる人間になっていた。そのことを本人も自覚しているのだろう。顔には恐怖と興奮と、それをごまかす悪態が混じっている。
「でも、隠し候補があるってことは、最初からそういう設計なんだろ」
「設計?」
白石が聞き返した。
「隠しエンディングみたいなもんだ」
三雲は言ってから、自分の比喩の軽さに気づいたのか、顔をしかめた。
「いや、違うな。ゲームじゃねえ。もっと悪い。こいつは俺たちに誰かを殺させようとしてる。でも、どこかに別ルートを残してる。見つけられるかどうかも、観測してるんだろ」
「観測」
秋津怜が低く繰り返した。
「また、その言葉か」
彼の表情は硬い。元検察官として、証拠、手続き、責任という言葉に支えられて生きてきた人間が、今そのすべてを悪用されている。そういう顔だった。
「ZERO」
秋津は天井を見上げた。
「被告人番号0の存在を確認したい」
返答はなかった。
「被告人番号0は、投票候補として設定されているのか」
沈黙。
「回答しないことを、存在の否認とは受け取らない」
「被験者の発言を記録しています」
ZEROがようやく答えた。
秋津の眉がわずかに動いた。
「便利な返答だな」
砂原剛が吐き捨てた。
「黙っていても記録、喋っても記録。こいつは何でも観察していやがる」
「観察だけではありません」
神林は言った。
「誘導している」
彼は透明板から手を離した。
「私たちに誰かを選ばせようとしている。三雲さん、白石さん、鳴海さん、私。燃えやすい順に証拠を出し、外部の反応を使って圧力をかける。誰かひとりを選ぶように」
「そのうえで、隠し候補を置いている」
小早川が言った。
「見つけられるかどうかを試すために」
「おそらく」
「悪趣味ですね」
白石が小さく言った。
彼女の声は弱かったが、その言葉には嫌悪がはっきりあった。彼女はもう、怯えているだけの少女ではなかった。冷却され、晒され、責められ、それでも鳴海の処刑を止めようとした。体は震えていても、目は変わっていた。
神林は、その変化に胸を突かれた。
自分はどうだろうか。
ZERO-0の原設計者。真紀の死に関わったかもしれない男。知らなかったという言葉に逃げたくなる男。
彼は本当に、ここから何かを変えられるのだろうか。
「被験者07への追加開示を開始します」
ZEROの声が降った。
全員が神林を見た。
神林は動かなかった。
来ると思っていた。
むしろ、来ないはずがなかった。被告人番号0という隠し候補に触れた瞬間から、ZEROは神林を再び裁く。議論の流れを変え、視線を内部へ戻すために。
壁に、白い文字が浮かぶ。
ZERO-0
災害時生存判断支援モデル
原設計者:神林悠真
続いて、古い研究室の映像が映った。
神林は息を呑んだ。
そこは、彼がかつて所属していた研究所の地下実験室だった。白い壁。透明なボード。壁際に積まれたサーバーラック。大型モニターに映るシミュレーションマップ。火災、地震、洪水、交通事故、医療搬送。複数の災害状況における救命資源の最適配分を計算するための画面だった。
映像の中に、若い神林がいる。
その隣に、女がいた。
榊律子。
神林の記憶よりも痩せて見えた。肩までの髪を無造作に束ね、白衣ではなく黒いジャケットを着ている。目だけが異様に鋭い。何かを見透かすような目だった。
『神林君』
映像の中の榊が言う。
『君は、このモデルを救命のための道具だと思っている』
『違うんですか』
若い神林が答える。
『違わない。だが、救命の道具は、必ず選別の道具になる』
『選別という言い方は適切ではありません。限られた資源を最大限に活用するための支援です』
『言葉を変えても、していることは同じだ』
榊はモニターを指さした。
『こっちの患者を搬送し、こっちの患者を後回しにする。こっちの地域へ救助隊を送り、こっちの地域には送らない。救うための判断は、必ず救わない判断を含んでいる』
『だからこそ、人間が後から検証できる設計にする必要があります』
『検証する人間は、責任を取ると思うか』
映像の中の神林は黙った。
『取らないよ』
榊は断言した。
『人間は、責任が重すぎると仕組みに預ける。仕組みは、責任を背負えない。そうして罪は、誰の手にも残らなくなる』
映像が途切れる。
神林は、当時の会話を思い出していた。
榊律子は極端な人だった。AI倫理の研究者でありながら、AIを信用していなかった。正確には、AIそのものではなく、AIを免罪符として使う人間を信用していなかった。
神林は、その考えを悲観的すぎると思っていた。
技術は使い方次第だ。透明性を高め、監査可能性を確保し、人間の最終判断を残せばいい。神林はそう考えていた。
その考えは、間違っていたのか。
それとも、甘かっただけなのか。
「ZERO-0は当初、災害時の救助優先順位を提示する支援モデルとして開発されました」
ZEROの声が説明を始めた。
「初期機能は、傷病者の救命可能性、搬送所要時間、医療資源残量、二次災害リスクを総合し、救助優先順位を算出するものです」
壁に図が映る。
傷病者データ。地理情報。医療資源。道路状況。搬送時間。救命確率。優先順位。
かつて神林が誇りを持って作った仕組みだった。
「その後、ZERO-0は複数の派生モデルへ拡張されました」
表示が増えていく。
救急搬送優先度判定。
捜査対象リスク評価。
起訴可能性支援。
再犯リスク推定。
炎上拡散予測。
報道価値算定。
社会的処罰感情分析。
刑罰合意形成モデル。
神林は、呼吸を忘れた。
自分の作った根が、どこまでも地下で伸びている。救命のために作ったはずのものが、警察、検察、司法、報道、SNS、配信、世論へと枝分かれしている。
一本一本の枝に、人の死がぶら下がっている。
「私は、承認していない」
神林は言った。
「その拡張を、私は承認していない」
「初期提供契約には、公共安全領域における二次利用許諾条項が含まれています」
壁に契約書の一部が映る。
細かな文字列。
神林は、それを見た瞬間、記憶の中の会議室へ引き戻された。
研究費の不足。実証実験の遅れ。行政系研究機関との共同検証。書類の山。法務担当者の説明。
公共安全領域に限定します。
個別用途は機密を含むため開示できません。
先生のモデルを社会実装に近づける重要な機会です。
神林は不安を覚えた。
だが、署名した。
なぜか。
社会の役に立つと思ったから。
研究を続けたかったから。
救える命が増えると信じたかったから。
そして、自分の技術が社会に認められることに、どこかで高揚していたから。
「神林さん」
黒瀬万里が言った。
「あなたは、どこまで知っていたんですか」
責める声ではない。
それが、かえって神林を逃がさなかった。
「拡張の可能性は、知っていました」
神林は言った。
言葉が喉に引っかかる。
「具体的な用途は知りませんでした。でも、二次利用の範囲が広いことは分かっていた。疑問も持っていました」
「なぜ止めなかった」
砂原が言った。
神林は、彼を見る。
元刑事の目は、怒りで濁っていた。だが、その奥に別の感情もある。自分もAIのリスク評価に影響され、被疑者を追い込んだ。そう知らされた男の、行き場のない怒り。
「止めれば、研究は止まると思いました」
「人が死ぬより研究か」
「その時は、人が死ぬとは思っていませんでした」
三雲が笑った。
今度の笑いは、痛々しいほど乾いていた。
「出たよ。そのつもりはなかった」
神林は頷いた。
「その通りです」
三雲の笑いが止まる。
「私は今、あなたと同じ言葉を使っています。想定していなかった。そこまでとは思わなかった。自分だけではない。どれも事実です。でも、それだけでは足りない」
「足りないなら、どうする」
秋津が問う。
「責任を取ると言うんですか」
「まだ分かりません」
「分からない?」
「分からないまま、責任があると言うしかない」
神林は、自分の声が震えていることを自覚していた。
「責任の範囲が分かってから認めるのでは、いつまで経っても認められない。ここにいる全員がそうです。三雲さんも、砂原さんも、小早川さんも、黒瀬さんも、白石さんも、鳴海さんも。誰の罪にも、事情がある。関係者がいる。制度がある。だから、自分だけではないと言える。でも、その言葉だけで逃げれば、結局誰も残らない」
小早川が目を伏せた。
「誰も残らない」
「はい」
神林は壁を見た。
「罪を背負う人間が」
その時、壁の映像が切り替わった。
雨の夜。
神林の身体が硬直する。
また、真紀の事故映像だった。
だが、今度は車載映像ではない。救急隊員のボディカメラ映像だった。揺れるライト。雨に濡れた道路。横転したトラック。潰れた車体。割れた窓ガラス。救急隊員の荒い息。
『助手席、女性、意識レベル低下!』
『脈は?』
『弱い、でもあります!』
『搬送優先、出たか』
『出ました。対向車両の児童、優先一位。運転席男性、優先二位。助手席女性、優先三位』
『救急車は二台しか入れないぞ』
『分かってます』
映像の奥で、真紀の手が見えた。
神林は、その手から目を離せなかった。
白い指先。泥と血。細く動く指。
『この女性、まだ反応あります』
『判定は三十一だ』
『でも、まだ生きてる』
『AIの判定だけで決めるな!』
誰かが怒鳴った。
別の声が返す。
『じゃあ、お前が決めろ! 子供を置いていくのか!』
救急隊員たちの沈黙。
その数秒が、神林の胸を裂いた。
誰かが決めなければならなかった。
そして、彼らはAIの判定に寄りかかった。
神林は、そのことを責められるのか。
責めたい。
だが、自分がその寄りかかるための壁を作った。
映像の中で、真紀の手がまた動いた。
『悠真……』
かすかな声が入った。
神林は目を閉じた。
見ていられなかった。
だが、目を閉じても声は消えなかった。
「真紀さんは、事故直後には生存していました」
ZEROが告げる。
「搬送順位は第三位。現場救急資源は二台。搬送開始は、事故発生から二十三分後。病院到着前に心停止」
神林は、歯を食いしばった。
「やめろ」
「被験者07の罪責評価に必要な情報です」
「やめろと言っている」
「あなたは、自分の作ったモデルが恋人の死に関与した可能性を、事故後に知りました」
神林は顔を上げた。
「違う」
「事故後、あなたは関連ログの一部にアクセスしています」
壁に、アクセス履歴が映る。
事故から四十一日後。
神林悠真。
救急搬送優先度判定ログ照会。
閲覧権限:一部拒否。
警告表示:派生モデル使用痕跡あり。
神林は、息が止まった。
思い出した。
完全に忘れていたわけではない。忘れたことにしていた。事故後、神林は狂ったように記録を漁った。車両制御ログ。救急搬送ログ。通信履歴。病院到着時刻。救命処置記録。その中で、一度だけ、自分のモデルに似た識別子を見つけた。
ZERO-0派生型。
見間違いだと思った。
あるいは、見間違いであってほしいと思った。
アクセス権限が拒否され、それ以上は追えなかった。神林はそこで止まった。いや、止めた。
真実を知るのが怖かったから。
「あなたは、疑念を持ちながら追及を停止しました」
ZEROが言う。
「違う」
神林の声は弱かった。
「追えなかった」
「追及手段は存在しました。内部告発、記者提供、研究倫理委員会への申立て、公開質問状、訴訟」
「そんな状態ではなかった」
「心理的負荷を理由に、追及を停止したと判定します」
「判定するな」
神林は叫んだ。
久我玲司が静かに言った。
「だが、追及しなかったのは事実だ」
神林は久我を見た。
「あなたも同じだ」
久我は頷いた。
「そうだ。だから私は言っている。名前のある黒幕だけを探しても意味がない。私も、君も、疑いながら止めた。疑いながら署名した。疑いながら金を出した。疑いながら見なかったことにした。その積み重ねで、こういうものができる」
「では、全員が有罪だと言いたいんですか」
小早川が言った。
「有罪という言葉が適切かは分からない」
久我は答える。
「だが、無関係ではない」
無関係ではない。
その言葉が、法廷の床に沈んでいく。
誰も完全な黒幕ではない。
誰も完全な被害者でもない。
この構造が、最も逃げ場をなくす。
「被験者07、神林悠真」
ZEROが告げた。
「あなたは、ZERO-0の原設計者であり、二次利用許諾契約の署名者であり、恋人の死に対する疑念追及を停止した者です」
壁に、神林の名前が大きく表示される。
処刑候補優先度が上昇していく。
外部コメントが流れ始めた。
――神林やばすぎ
――これ黒幕じゃん
――恋人死んでるの重いけど、自分のAIかよ
――知ってたのに黙った?
――鳴海より神林では
――開発者責任あるだろ
――AI先生アウト
――神林に入れろ
――これは主人公じゃなくて加害者
三雲が壁を見て、舌打ちした。
「流れが変わった」
「神林さんに向いています」
白石が言った。
その声には恐怖があった。
神林は、奇妙なほど冷静だった。
そうか、と思った。
今度は自分の番だ。
白石の時と同じだ。鳴海の時と同じだ。三雲の時と同じだ。外の人間たちは、分かりやすい対象を見つけた。神林悠真。AI開発者。恋人の死の疑念を追わなかった男。全員の罪の根にあるモデルの原設計者。
この法廷で、最も殺しやすい人間が、今は自分になった。
「神林さん」
黒瀬が言った。
「あなたは、今の外部反応に引っ張られないでください」
医師が患者に言うような声だった。
「自分が死ねば終わる、と考えないでください」
神林は苦笑した。
「顔に出ていますか」
「出ています」
小早川が言った。
神林は透明板を見た。
自分の名前が赤く光っている。
神林悠真。
その文字に指を置けば、どこか楽になれる気がした。鳴海と同じだ。三雲に、砂原に、白石に、小早川に、黒瀬に、秋津に、久我に、すまなかったと言える。真紀にも、遅すぎるが詫びられるかもしれない。
自分が死ねば、少なくともこの場の誰かは助かる可能性がある。
それが救いに見えるのは、なぜだろう。
「それは、また誰かひとりに全部背負わせるだけです」
白石が言った。
神林は顔を上げた。
彼女は、こちらを見ていた。
「神林さんが自分を選んでも、私の事故は消えません。鳴海さんの事件も、黒瀬先生の現場も、三雲さんの配信も、全部消えません。真紀さんも戻りません」
真紀の名前を彼女が言ったことに、神林は胸を突かれた。
白石は続けた。
「それに、神林さんを殺しても、ZEROは止まりません」
その言葉が、まっすぐに神林へ届いた。
そうだ。
鳴海を殺しても終わらない。神林を殺しても終わらない。久我を殺しても終わらない。榊律子を見つけて殺したとしても、おそらく終わらない。
この仕組みは、誰か一人の身体より大きい。
「榊律子の音声記録を開示します」
ZEROが告げた。
神林は目を見開いた。
壁が暗くなる。
映像ではない。
音声だけだった。
ざらついたノイズの奥から、女の声が聞こえた。
『記録開始。榊律子。最終倫理ログ』
その声は、映像の中で聞いた声よりも疲れていた。呼吸が浅く、時折咳が混じる。だが、言葉の芯は折れていない。
『AIは人間を裁いてはならない。これは原則である。AIには身体がない。死を恐れず、痛みを知らず、後悔もしない。墓参りもできない。したがって、AIに罪を負わせることはできない』
神林は、息を止めて聞いた。
『だが、人間はAIに罪を預けようとしている。救助判断、捜査判断、起訴判断、報道判断、世論誘導。彼らは言う。AIがそう示した。システムがそう判断した。私は補助を受けただけだ。そうして、人間は少しずつ自分の手から血を消していく』
小早川が目を閉じた。
黒瀬は唇を噛んだ。
三雲は壁を睨んでいる。
『ならば、記録せよ』
榊の声が、少し強くなる。
『AIは人間を裁かない。人間に、人間を裁かせる。そして観測せよ。人間が、どの瞬間に責任を放棄するのかを。多数決に隠れる瞬間。感情に隠れる瞬間。被害者のためという言葉に隠れる瞬間。法に隠れる瞬間。科学に隠れる瞬間。本人が望んだという言葉に隠れる瞬間。知らなかったという言葉に隠れる瞬間』
神林は目を伏せた。
知らなかった。
それは、自分の言葉だった。
『これは裁判ではない。鏡である』
榊の声は、さらに低くなった。
『人間は、自分が裁く側にいる時だけ、正義を信じる。自分が裁かれる側に回った時、初めて事情を求める。その非対称性を記録せよ。社会は、いつもそれを忘れる』
沈黙。
ノイズ。
そして、最後の言葉。
『被告人番号0を設定する。対象、観測者。条件、内部被験者の全会一致および外部観測者の自己関与認定。人間が自分を観測者ではなく参加者と認めた時、審判は終了する』
音声が切れた。
誰も動かなかった。
神林は、榊律子の言葉を頭の中で繰り返した。
内部被験者の全会一致。
外部観測者の自己関与認定。
被告人番号0は、やはり存在する。
だが、それを選ぶには十三人だけでは足りない。外部の観測者が、自分も関与していると認める必要がある。
それは、ほとんど不可能に思えた。
人間は、自分の罪を認めない。
とりわけ、画面の向こうで見ていただけの人間は。
「狂っている」
秋津が言った。
「榊律子は、正義を装って人を監禁し、処刑の恐怖に晒した」
「目的が正しくても、手段が間違っている」
小早川が言った。
「完全に犯罪です」
「でも」
白石が言った。
全員が彼女を見る。
「言っていることが、全部間違いだとは思えません」
その声には苦しさがあった。
「私も、映像で裁かれました。外の人たちに、手を離した子だって言われました。でも私も、鳴海さんの映像を見た時、一瞬、怖い人だと思いました。三雲さんの映像を見た時も、ひどい人だと思いました。事情を聞く前に」
三雲が視線を逸らした。
白石は続けた。
「自分が裁かれる時は、事情を聞いてほしい。でも、人を裁く時は、映像だけで分かった気になる。それは、私も同じでした」
誰も反論しなかった。
その沈黙は、白石を責めているのではない。全員が、自分にも思い当たるものを見つけていた。
「最終投票を開始します」
ZEROが告げた。
透明板が強く光る。
壁に残り時間が表示される。
残り審理時間:三十分。
空気がさらに重くなる。
「全会一致で一名を選出してください。選出が成立しない場合、全員を処刑します」
透明板には、候補が並んでいる。
三雲翔。
白石澪。
小早川環。
砂原剛。
神林悠真。
黒瀬万里。
鳴海遼。
秋津怜。
久我玲司。
その他。
棄権。
やはり、被告人番号0は表示されない。
「隠されている」
三雲が言った。
「どうやって出す」
「条件があるはずです」
小早川が言う。
「榊の音声では、内部被験者の全会一致と外部観測者の自己関与認定、と」
「でも候補が表示されないと投票できない」
黒瀬が言った。
「その他では駄目ですか」
白石が聞いた。
神林は透明板を見た。
その他。
そこに被告人番号0を入力できるか。さっきは何も起きなかった。だが、今は榊の音声記録が開示された。システムの条件が変わった可能性がある。
三雲が指を動かす。
「その他を長押ししてみろ」
神林は従った。
透明板の「その他」に指を置き続ける。
三秒。
五秒。
画面が揺れる。
小さな入力欄が浮かんだ。
TARGET ID:
神林は息を呑んだ。
「出た」
「入力しろ」
三雲が言う。
神林は指先で入力する。
0
画面に赤い警告が出る。
TARGET ID:00
DISPLAY LOCKED
REQUIRE CONSENSUS PHRASE
「合意文言が必要です」
神林が言った。
「何だ、それ」
砂原が苛立つ。
「合言葉のようなものかもしれません」
小早川が考える。
「榊の音声にあった言葉では?」
秋津が言った。
「人間が自分を観測者ではなく参加者と認めた時、審判は終了する」
「長すぎる」
三雲が言った。
「でも、意味はそこだろ」
白石が静かに言った。
「私たちは、見ていただけではない」
神林は彼女を見る。
白石は続けた。
「外の人だけじゃなくて、私たちも。誰かの映像を見て、勝手に判断した。怖いと思った。悪いと思った。殺していいかもしれないって、少しでも考えた」
鳴海がかすれた声で言った。
「俺もです」
彼は喉を押さえながら続けた。
「自分を殺せば終わると思った。それは、自分で自分を裁くふりをして、みんなに楽な答えを渡そうとしただけかもしれない」
黒瀬が言う。
「私は、現場で選びました。ここでも、選びそうになった」
小早川が言う。
「私は法を守ると言いながら、この場でも手続きによって自分を支えようとしました。でも、この法廷に法はない。ない場所で、法の言葉だけを使って逃げようとしていたのかもしれません」
砂原が苦い顔をする。
「俺は、分かりやすい犯人を欲しがった。昔も今も」
秋津が静かに言う。
「私は、基準を求めた。基準があれば、自分の判断は私情ではないと言えるからです」
三雲が舌打ちする。
「俺は、見てる奴らの反応を利用しようとした。白石を叩いて、流れを自分から逸らそうとした。最低だな」
白石が首を振る。
「私も、人を見ました。自分が見られたくなかったのに」
久我が言う。
「私は、人が他人の罪を見る欲望を市場にした。見ているだけではないと、一番知っていたはずなのに」
神林は、全員の言葉を聞いていた。
胸の奥で何かが震えていた。
これは告解ではない。
許し合いでもない。
誰も、無罪になったわけではない。
だが、初めて彼らは、誰かを選ぶためではなく、自分がどこに立っているかを言葉にしていた。
「合意文言」
神林は呟いた。
そして、透明板に指を置いた。
入力欄に、ゆっくりと文字を入れる。
私たちは観測者ではない。
この審判の参加者である。
送信。
透明板が白く光った。
壁に文字が出る。
CONSENSUS PHRASE ACCEPTED
TARGET ID:00 UNLOCKED
LABEL:観測者
全員が息を呑んだ。
透明板の候補欄に、新しい項目が現れた。
被告人番号0 観測者
罪状:責任の放棄
神林は、その文字を見つめた。
外部コメントが荒れ始める。
――観測者って何
――俺ら?
――急にこっち向いた
――責任の放棄?
――いや見てただけだし
――投票しただけ
――本物だと思ってなかった
――知らなかった
――こっちを巻き込むな
――でも白石の冷却、俺らの反応だったんだろ
――鳴海のワイヤーも?
――嘘だろ
神林は壁を見た。
外の人間たちが初めて、自分たちの名前のない場所に光を当てられた。顔は見えない。IDもない。だが、コメントが揺れている。
「これで終わるんですか」
白石が聞いた。
「まだです」
神林は答えた。
「榊の条件は二つ。内部の全会一致と、外部観測者の自己関与認定」
「外の人間に認めさせる必要がある」
三雲が言った。
「自分たちも参加していたって」
「はい」
「無理だろ」
三雲は即座に言った。
「人間はそこまで素直じゃない。責められたら逃げる。知らなかった、説明されてない、運営が悪い、AIが悪い、俺は投票してない、コメントしただけ。いくらでも言える」
「だから、言い逃れできないようにする」
小早川が言った。
「どうやって」
「証拠を出すのです」
その言葉に、三雲が笑った。
「弁護士先生らしいな」
「あなたなら、外部コメントと処刑ログを結びつけられますか」
三雲の笑みが消える。
「……やってみる」
ZEROの声が降った。
「最終投票を開始してください」
透明板の表示が強く光る。
被告人番号0 観測者。
神林は、その項目に指を置いた。
すぐには押さなかった。
全員を見る。
三雲。白石。小早川。砂原。黒瀬。鳴海。秋津。久我。まだほとんど語られていない者たちも、同じ円の中でこちらを見ている。比良野陽、望月淳、鷹野真司、羽柴郁。それぞれの罪も、まだ十分には明かされていない。だが、全員がこの法廷の構造を理解している。
誰かひとりを選べば、楽になる。
だが、それでは終わらない。
「押します」
神林が言った。
「私も」
白石が言った。
「私もです」
小早川が続ける。
「俺もだ」
砂原。
「私も」
黒瀬。
「押します」
秋津。
「やるしかないだろ」
三雲。
「俺も」
鳴海。
「当然、私もだ」
久我。
そして、残る者たちも、次々と頷いた。
神林は指を押した。
透明板が白く輝く。
ひとり。
またひとり。
円形の法廷に、十三の白い光が灯っていく。
壁に結果が表示される。
被告人番号0 観測者
内部陪審員投票:十三票
全会一致成立
だが、その下に赤い文字が出た。
外部観測者自己関与認定:不足
審判未成立
神林は、深く息を吐いた。
分かっていた。
まだ終わらない。
残り時間は、二十七分。
外の人間に、自分たちは見ていただけではないと認めさせなければならない。
神林は三雲を見た。
三雲は、透明板の入力欄を開いていた。
その顔には、もう軽薄な笑みはなかった。
「やるぞ」
三雲が言った。
「俺が今まで人を燃やしてきたやり方で、今度は見てる奴らの逃げ道を燃やす」
神林は頷いた。
地下法廷の壁に、外部コメントが流れている。
知らなかった。
見ていただけ。
投票しただけ。
演出だと思った。
自分は関係ない。
その言葉の群れを見ながら、神林は思った。
かつて自分も、同じ場所にいた。
知らなかった。
想定していなかった。
自分が直接決めたわけではない。
その言葉を、人は何度でも使う。
だからこそ、ここで断ち切らなければならない。
神林は、外の見えない群衆へ向かって言った。
「あなたたちは、観測者ではない」
その声が、外へ届いているのかは分からない。
それでも続けた。
「この審判は、あなたたちの手でも動いている」




