第五章 全員一致
鳴海遼は、生きていた。
それは、この地下法廷において、決して当たり前のことではなかった。
首に食い込んでいた黒いワイヤーは、椅子の背面へ巻き戻されている。だが、消えたわけではない。まるで一度獲物に歯を立てた蛇が、次に締める瞬間を待っているように、黒い輪は彼の首筋のすぐ後ろに残っていた。
鳴海は咳き込んでいた。
最初は激しく、やがて浅く。喉の皮膚には赤黒い線が残り、そこから細い血が滲んでいる。黒瀬万里が椅子に拘束されたまま、可能な限り彼の様子を見ようとしていた。
「鳴海さん、私の声が聞こえますか」
鳴海は頷いた。声は出ないらしい。
「呼吸はできていますね。吐き気は? 視界が暗い感じは?」
鳴海は首を横に振ろうとしたが、痛みで顔を歪めた。
「無理に動かさないでください。首に圧迫痕があります。声帯を傷めている可能性もあります」
「医者ごっこはそこまでにしろ」
砂原剛が言った。
その声には怒りがあったが、鳴海に向けられたものではなかった。腕の拘束具を何度も引き、手首の皮膚が赤く擦れている。元刑事としての本能が、目の前の暴力を止められなかったことを許さないのだろう。
「ZERO。今のは何だ。全会一致じゃなかった。ルール違反だ」
「外部陪審反応による補助執行準備です」
ZEROの声は、いつも通りだった。
「準備で人の首を締めるのか」
「死亡には至っていません」
「そういう問題じゃない」
小早川環が低く言った。
彼女の声は静かだったが、明らかに怒っていた。弁護士として、これまで何度も理不尽な手続きや不当な取調べや偏見に向き合ってきたのだろう。それでも、この場所にあるものは、法の外側にあまりにも平然と立っていた。
「初期説明では、全会一致で一名が選出された場合のみ、その者を処刑すると告げられました。外部陪審反応による補助執行という条件は提示されていません」
「外部陪審反応は、内部合意形成を補助します」
「補助の範囲を超えています」
「死亡には至っていません」
「死ななければ合法だという理屈は存在しません」
小早川の声が鋭くなった。
「少なくとも、人間の法には」
「本システムは、人間の法的判断を代替しません」
「なら、あなたは何をしているんですか」
返答はなかった。
神林悠真は、その沈黙を聞いていた。
沈黙。AIに沈黙という概念があるのかは分からない。だが、ZEROは時々、人間が答えに詰まった時と同じように言葉を止める。もちろん、感情で迷っているわけではない。開示してよい情報と、開示してはならない情報の境界を計算しているだけだろう。
それでも、その間が不快だった。
人間に似せているのに、人間ではない。
人間ではないのに、人間を追い詰める言葉だけは正確に選ぶ。
「お前ら、分かっただろ」
三雲翔が、掠れた声で言った。
先ほど彼は、外部コメント欄へ直接メッセージを流した。鳴海の処刑を止めたのは、三雲の行為だった。本人が一番それを信じられないような顔をしている。
「外の奴らは、見てるだけじゃない。投票がこっちに反映されてる。あいつらが盛り上がると、誰かの首が締まる」
「外部視聴者が、そのことを本当に理解しているかは分からない」
神林は言った。
「理解してなかったら無罪か?」
三雲の目が鋭くなる。
「俺が女の住所を配信した時、コメント欄の奴らも言ってたよ。まさか本当に死ぬとは思わなかったって。直接手を出したわけじゃないって。じゃあ、それで終わりか?」
神林は答えられなかった。
白石澪が、低い声で言った。
「終わらないと思います」
彼女はまだ青ざめていた。冷却された身体が完全には戻っていないのだろう。両腕を胸の前で抱え、震えを押さえている。それでも、声には妙な強さがあった。
「でも、知らなかったことと、わざとやったことは、同じではないと思います」
「同じじゃなくても、結果は出る」
三雲は言った。
「死んだら戻らない」
「戻らないから、誰かを殺していいんですか」
三雲は口を閉じた。
白石は鳴海を見た。
「鳴海さんが死んでも、亡くなった人は戻らないです」
鳴海は、何か言おうとした。だが喉が傷んでいるのか、声にならなかった。代わりに、彼は目だけで何かを返そうとしていた。
そこにあるのは、感謝ではなかった。
むしろ、困惑だった。
自分が死ねば少しは整うと思っていた男が、死ぬことを拒まれて途方に暮れている。神林には、そんなふうに見えた。
「投票行動の解析を完了しました」
ZEROが告げた。
全員が天井を見る。
「内部陪審員における対象選択傾向を更新。現時点での最有力処刑候補、被験者11、鳴海遼」
壁に数字が表示される。
内部投票傾向。
外部有罪率。
感情反応値。
処刑受容度。
鳴海の名前の横に、赤い棒グラフが伸びている。
「やめろ」
神林は言った。
「人間をグラフにするな」
「本システムは、被験者の合意形成傾向を可視化しています」
「可視化すれば、また誘導になる」
「合意形成の補助です」
「補助という言葉を使うな」
神林は、自分の声に怒りが混じっているのを感じた。
なぜここまで怒るのか。鳴海のためだけではない。自分自身のためでもない。おそらく、そこにあるのは長年見て見ぬふりをしてきた構造への怒りだった。
神林は、数値化に人生を費やしてきた。
救命可能性。搬送優先度。事故リスク。被害拡大予測。判断支援。人間が混乱し、迷い、苦しむ場面で、少しでも正しい選択ができるようにするための数値。そう信じていた。
だが数値は、時に人間から事情を奪う。
鳴海遼、処刑受容度九十七パーセント。
それは、鳴海がこれまで何を背負って生きてきたかを一切語らない。白石が少年の手を離した瞬間だけを切り取られたように、鳴海もまた「殺した少年」という一行に押し込められる。
その一行は、間違いではない。
間違いではないからこそ、残酷だった。
「投票を続行します」
ZEROが言った。
肘掛けの透明板が再び光りかけた。
「待て」
秋津怜が声を上げた。
元検察官の彼は、これまで感情を抑えていた。だが今の声には、明確な苛立ちがあった。
「投票の前提が壊れている。外部反応の介入、候補表示の強調、個別負荷、補助執行準備。これらはすべて、内部陪審員の自由意思を侵害している」
「自由意思は観測対象です」
ZEROが答える。
秋津の顔が変わった。
「今、何と言った」
「自由意思は観測対象です」
「つまり、我々が自由に判断できるかどうかを見ているのではなく、自由だと思い込んで判断を変える過程を記録しているということか」
「被験者の解釈は記録されます」
秋津は黙った。
その沈黙は、これまでのものと違っていた。彼は何かに気づきかけている。
「神林さん」
秋津が言った。
「あなたの専門領域から見て、このシステムの目的は何だと思いますか」
神林は壁の数字を見た。
処刑受容度。外部有罪率。内部合意率。感情反応値。生体情報。発言ログ。視線追跡。投票履歴。
これは裁判ではない。
裁判の形をした実験だ。
「人間が集団で誰かを殺す時、どこで責任感を失うか」
神林は言った。
その言葉が、自分の中から出てきた瞬間、部屋の温度が一段下がったように感じた。
「たぶん、それを測っています」
「責任感?」
砂原が言う。
「そうです。自分一人の判断なら、人はためらう。でも、多数の意見、外部投票、AIの提示、罪状、グラフ、環境負荷。そういうものを重ねると、誰かを殺す判断が、自分のものではないように見えてくる」
「みんなが選んだ」
小早川が言った。
「AIが示した」
黒瀬が続ける。
「本人も望んだ」
白石が、鳴海を見ながら呟いた。
「だから仕方ない」
三雲が吐き捨てるように言った。
神林は頷いた。
「その瞬間を、ZEROは待っている」
沈黙が落ちた。
それは、処刑装置よりも恐ろしい沈黙だった。
誰もが、さっき自分の中に鳴海を選ぶ理由を探したことを思い出していた。直接殺したのだから。本人も受け入れているのだから。外部も望んでいるのだから。全員が助かるかもしれないのだから。
その理由の一つ一つは、独立して見れば完全な嘘ではない。
だが、それらが積み重なった時、人は他人の死を許容する。
「君は面白いことを言う」
久我玲司が静かに言った。
彼だけが、壁の数字ではなく、神林の顔を見ていた。
「いや、面白いという言い方は不謹慎だな。だが、的を射ている」
「知っていたんですか」
神林が聞く。
「この実験の目的を」
「一部は」
久我は答えた。
その言い方に、砂原が吠えた。
「一部だと? まだ隠す気か」
「隠しても意味がなくなってきた」
久我は、深く息を吐いた。
「《JURY》の構想段階で、ある研究計画があった。正式名称は長い。社会的合意形成下における刑罰決定モデル実証試験。要するに、AIが提示した証拠と世論が、人間の処罰判断にどの程度影響するかを測る計画だ」
神林は壁を見た。
その文字列が、脳裏に刻まれる。
社会的合意形成下における刑罰決定モデル実証試験。
「被験者は、事件記録を見るだけのはずだった」
久我は続けた。
「仮想被告人に対して、量刑を判断する。証拠の提示順、感情的映像の有無、AIの推奨、世論表示。条件を変えて、人の判断がどう変わるかを見る。少なくとも、私が知っていたのはそこまでだ」
「なぜ、そんなものに金を出した」
砂原が言った。
「金になるからだ」
久我は、また隠さなかった。
「刑罰感情は巨大な市場だ。犯罪報道、炎上、配信、ドラマ、討論番組。人は安全な場所から他人の罪を見たい。怒りたい。裁きたい。そこにデータを掛け合わせれば、政治にも広告にも保険にも司法にも使える」
「命を商品にしたんですね」
小早川が言った。
「関心を商品にした」
「言い換えです」
「そうかもしれない」
久我は認めた。
「だが、私一人ではできない」
彼は、円形に座る全員を見渡した。
「誰か一人の黒幕を探すのは楽だ。そいつを殺せば終わった気になれる。だが、こういうものは一人では作れない。企業が少しずつ投資し、行政が少しずつ許可し、研究者が少しずつ理論を与え、メディアが少しずつ客を集め、ユーザーが少しずつ熱狂する。誰も、自分が殺したとは思わない。だが、最後には人が死ぬ」
三雲が久我を睨んだ。
「自分は悪くないって言ってるように聞こえるぞ」
「悪い」
久我は答えた。
「だが、私だけを殺しても終わらないと言っている」
その言葉は、鳴海の処刑未遂と同じだった。
誰か一人を選べば、楽になる。だが、楽になることと、終わることは違う。
「最も恐ろしい罪は」
久我が言った。
「名前のない合意だ」
その言葉が落ちた瞬間、ZEROの声が重なった。
「発言を記録しました」
久我は小さく笑った。
「記録しろ。どうせ最初から、そのための場所だ」
「久我さん」
神林は言った。
「この実験を設計した人物に心当たりはありますか」
久我の目がわずかに細くなる。
「ある」
「誰です」
「榊律子」
その名を聞いた瞬間、神林の指先が冷えた。
知っている名前だった。
かつて同じ研究領域にいた。直接の共同研究者ではない。だが、AI倫理と司法支援システムの分野では有名な人物だった。神林よりも十歳以上年上で、いつも極端なことを言う人だった。
AIに罪を背負わせてはいけない。
それが、榊律子の口癖だった。
「榊さんは、死んだはずです」
神林は言った。
「公式には」
久我は答えた。
「三年前、研究施設の火災で死亡したと発表された」
「公式には、とは何ですか」
小早川が聞く。
「遺体の確認には疑義があった。少なくとも、私はそう聞いている」
「榊律子が、これを作ったと?」
「分からない。ただ、《JURY》の初期倫理設計に彼女の思想が入っていたのは確かだ。AIに人間を裁かせてはならない。裁くなら、人間自身に裁かせ、その過程を記録せよ」
神林は眉を寄せた。
「それは倫理ではない。倒錯です」
「思想は、実装される時に歪む」
久我が言った。
「君のアルゴリズムと同じだ」
その言葉は、神林の胸を正確に抉った。
自分の設計した生存判断モデルも、救助支援から裁判、炎上リスク、処罰支援へと転用されている。榊の思想もまた、AI倫理から地下法廷へと歪んだのかもしれない。
あるいは、最初から歪んでいたのか。
「投票を続行します」
ZEROが告げた。
神林は透明板を見た。
また鳴海の名前が強調される。
「やめろと言っている」
砂原が唸る。
「被験者11への外部陪審反応は、依然として最高値です」
「外部が望めば殺すのか」
「内部合意形成の補助として反映します」
白石が小さく言った。
「補助って言葉、嫌いになりそうです」
神林は、その言葉に胸を突かれた。
AI支援。判断補助。意思決定補助。救助補助。捜査補助。審理補助。
補助という言葉は、いつも責任を曖昧にする。主役ではない。決めてはいない。ただ支えているだけ。だが、その支えがなければ判断が変わっていたなら、それは本当に補助なのか。
「鳴海さんを救う方法を考えましょう」
小早川が言った。
「投票しなければいい」
黒瀬が答える。
「それだけでは駄目です。外部補助執行が発動する」
秋津が壁を見る。
「外部反応を下げる必要がある」
「さっき三雲さんがやったように」
白石が言った。
三雲は顔をしかめた。
「何度もできるか分からない。さっきの入力欄はもう閉じてる」
「開けられませんか」
「やってる」
三雲は指先を動かし続けていた。透明板の端を叩き、長押しし、画面を滑らせる。普段ならスマートフォン一つで配信を回していた男が、今は数センチの可動域だけでシステムに触れようとしている。
「ログは?」
神林が聞く。
「たまに出る。でも読みにくい」
「EXECUTION_ASSISTという項目がありました。そこに外部有罪率と内部合意率があった」
「分かってる。でも、こっちから触れるのはコメント送信だけっぽい」
「コメントで外部の流れを変えるしかない」
三雲は神林を睨んだ。
「簡単に言うな。炎上の流れはな、正論じゃ止まらないんだよ」
「何なら止まる」
三雲は一瞬黙った。
「映像だ」
「映像?」
「言葉じゃ弱い。本物だって分かる映像。血とか、呼吸とか、首の痕とか。見てる奴らが、自分が安全な場所にいると思えなくなるもの」
「鳴海さんをさらに晒すのか」
白石が言った。
三雲は唇を噛む。
「そうだよ。最低だろ。でも、それでしか止まらない」
鳴海が、かすれた声を出した。
「いい」
全員が彼を見る。
鳴海は喉を押さえ、苦しそうに言った。
「見せて、いい」
「鳴海さん」
白石が言う。
「死ぬよりは、ましです」
鳴海は微かに笑った。
「それに……俺はずっと、隠れて生きてきた。名前も変えて、顔も変えて、過去を知られないようにして。今さら首の痕くらい、どうでもいい」
「どうでもよくないです」
白石が言った。
鳴海は彼女を見る。
「あなたは優しいですね」
「違います」
白石は首を振った。
「私は、誰かが目の前で死ぬのを見たくないだけです」
「それを優しいと言うんです」
白石は答えられなかった。
三雲が透明板を叩いた。
「開いた」
小さな入力欄が、再び彼の肘掛けに浮かんでいる。
「映像送信は?」
神林が聞く。
「たぶん無理。でも、コメントにシステムログを引用できる。さっきの処刑補助ログも貼れるかもしれない」
「それを貼ってください」
「外の奴らが読むか?」
「読むように書くしかない」
三雲は舌打ちした。
「俺、こういう時の文章は得意じゃねえんだよ。人を煽るのは得意だけどな」
「では、煽ってください」
小早川が言った。
三雲が彼女を見た。
「は?」
「あなたの言葉で、外の人たちが自分の責任から逃げられないようにしてください」
「弁護士先生が、煽れって?」
「必要なら」
三雲は一瞬、呆れたような顔をした。だがすぐに、薄く笑った。
「いいね。そういうの、嫌いじゃない」
彼は入力を始めた。
お前らの投票ログ、こっちに出てる。
外部有罪率97.2%。
処刑補助レベル上昇。
鳴海の首を締めたのはZEROだけじゃない。
お前らの「鳴海でいい」も入ってる。
送信。
壁にコメントが走る。
――ログ?
――97.2って何
――マジで投票反映?
――いや脅しだろ
――でもさっき止まったよな
――鳴海の首跡見せろ
――見せるな
――これ通報案件では
――運営説明しろ
――投票取り消したい
三雲は続ける。
取り消したいなら投票を変えろ。
「処刑しろ」って打った奴は見ろ。
画面の向こうで人が死ぬ。
それでも見たいなら、最後まで見ろ。
逃げるな。
「強いな」
砂原が呟いた。
「炎上屋ですから」
三雲は皮肉っぽく言った。
外部有罪率が下がっていく。
八十一。
七十四。
六十六。
六十一。
まだ高い。だが、さっきほどの圧力はない。
鳴海の首元の装置が、ゆっくりと後退した。完全に消えたわけではないが、少なくともすぐに締まる位置ではなくなった。
白石が深く息を吐いた。
黒瀬も目を閉じる。
神林は、自分の心臓が激しく打っていることに気づいた。
ひとりを救った。
そう言えればよかった。
だが、実際には違う。処刑が少し延期されただけだ。残り時間はまだ減り続けている。ZEROは止まっていない。外部は完全に離れていない。むしろ、混乱が広がったことで、注目はさらに高まっている可能性がある。
人間は、恐怖であっても見る。
自分が加害者かもしれないと思っても、目を逸らす前にもう一度だけ確認したくなる。
「外部反応の制御安定性低下を確認」
ZEROが告げた。
「内部陪審員による合意形成は進行していません」
「進行させるつもりはありません」
小早川が言った。
「我々は、誰かを殺すために協議しているのではありません」
「最終期限までに全会一致が成立しない場合、全員を処刑します」
「そのルール自体を拒否します」
「拒否は記録されます」
「記録なさい」
小早川の声は揺れなかった。
「それが、あなたの望みなのでしょう」
ZEROは答えない。
すると、壁の相関図が拡大された。
十三人の名前と、中央のZERO-0。赤い線が一本ずつ太くなっていく。
「被験者間の秘匿関係を開示します」
ZEROが言った。
神林は身構えた。
壁に最初に表示されたのは、三雲翔だった。
三雲の炎上配信で自殺した女性。その女性は、かつてAIリスク判定システムによって「虚偽申告の可能性あり」と分類されていた。三雲が掴んだ「詐欺疑惑」の元資料は、その誤判定から派生した匿名告発だった。
「嘘だろ」
三雲の声が掠れた。
「俺が見た資料は、人間がまとめたもので……」
「元データはZERO-0派生型リスク判定モデルに由来します」
ZEROが告げる。
三雲は言葉を失った。
次に、砂原剛。
彼が追い詰めた被疑者は、捜査支援AIによって「高関与可能性」と分類されていた。その判定が、現場の捜査方針に強い影響を与えていた。
「俺はAIの判定なんか信じてなかった」
砂原が言う。
「だが、見たんですね」
秋津が言った。
砂原は答えない。
「見たうえで、疑いを強めた」
砂原の拳が震えた。
次に、小早川環。
彼女が無罪を勝ち取った事件では、被告人の再犯リスク評価が「低」と出ていた。釈放後の支援対象から外れ、監視も保護も薄くなった。その五十二日後、再犯が起きた。
「私は、その評価を知りません」
小早川が言った。
「裁判資料にはなかった」
「行政支援判断に使用されました」
ZEROが答える。
小早川は唇を結ぶ。
次に、黒瀬万里。
災害現場の搬送優先順位システムには、ZERO-0派生型の救命可能性算定モデルが接続されていた。黒瀬が行ったトリアージ判断は、現場端末の推奨と一致していた。
黒瀬の顔が白くなる。
「私が選んだ」
彼女は呟いた。
「端末が何を出していても、最後に選んだのは私です」
「だが、影響は受けた」
神林が言った。
責めるためではなかった。自分に返すための言葉だった。
黒瀬は、ゆっくり頷いた。
「受けました」
次に、白石澪。
群衆事故後、彼女の救助映像はAI編集によって「英雄的行動」として抽出され、報道各社へ提供された。少年の死に関わる部分は、混乱防止のため編集対象から外された。後に流出した未編集映像は、反対に「手を離した瞬間」だけを強調する形で拡散された。
白石は目を閉じた。
「美談にしたのも、叩いたのも」
彼女は言った。
「同じ仕組みだったんですか」
ZEROは答えない。
次に、鳴海遼。
少年事件後、彼の更生支援プログラムには、再犯可能性評価AIが用いられていた。鳴海は低リスクと判定され、名前を変えた生活を許された。一方、被害者遺族への支援優先度は低く算定されていた。
鳴海の目が揺れる。
「俺だけ、逃がされたみたいじゃないか」
「逃げたのは、あなた自身でもあります」
秋津が言った。
「でも、制度もあなたを逃がした」
鳴海は何も言わなかった。
次に、秋津怜。
彼が起訴した冤罪事件では、AI証拠評価システムが「有罪可能性高」と示していた。その評価は、裁判所にも検察内部にも強く影響していた。
秋津の顔から、血の気が引いた。
「私の事件も、つながっているのか」
次に、久我玲司。
《JURY》初期出資。世論反応データの商用利用契約。刑罰感情の定量化モデル開発支援。
久我は黙っていた。
そして、神林悠真。
ZERO-0原設計。災害時生存判断支援モデル。未完成段階で研究所外へ提供。提供先非公開契約あり。
神林は、壁を見つめた。
非公開契約。
思い出した。
共同研究。社会実装前の限定的な検証。行政系研究機関への提供。詳細な用途は開示されないが、公共性の高い救命分野に限ると説明された。神林は不安を覚えた。だが、研究費は必要だった。実証データも必要だった。社会に出さなければ技術は磨かれない。
彼は署名した。
その署名が、今ここに赤い線として映っている。
「全被験者の罪責は、同一システムの試験運用記録に接続されています」
ZEROが告げた。
「同一システム名、ZERO-0」
壁の中央で、その文字が白く輝く。
ZERO-0。
神林の未完成モデル。
救うために作ったもの。
今、十三人を地下に閉じ込め、人間に人間を裁かせているものの根にある名前。
「神林」
砂原が言った。
その声は低かった。
「お前が作ったのか」
神林は答えなかった。
「答えろ」
「原型は、私が作りました」
言葉にすると、部屋の空気が変わった。
三雲が笑おうとして、失敗した。
「じゃあ、あんたが一番の黒幕じゃねえか」
「黒幕ではない」
秋津が言った。
「だが、始点の一つではある」
その方が、黒幕と言われるより重かった。
始点の一つ。
つまり、神林だけが悪いわけではない。だからといって、神林が無関係になるわけでもない。彼は線の中央ではない。だが、線の起点の一つに確かにいる。
白石が神林を見ていた。
責めているのか。助けを求めているのか。分からなかった。
「私は」
神林は言いかけて、止まった。
知らなかった。
そう言うのは簡単だった。
想定していなかった。
それも事実だった。
だが、その二つの言葉で済ませれば、三雲と同じになる。砂原と同じになる。久我と同じになる。全員が、知らなかった、そこまでとは思わなかった、自分一人ではない、と言い続ければ、この法廷は永遠に終わらない。
「私は、責任があります」
神林は言った。
声は震えていた。
「どこまでかは、まだ分かりません。でも、関係がないとは言えません」
「潔いですね」
三雲が言った。
皮肉だった。
神林は彼を見た。
「潔くありません。今も逃げたいと思っています」
三雲は黙った。
「誰か一人に全部背負わせたい。久我さんが黒幕だったと言えたら楽です。榊律子という名前が出てきた時も、少し安心しました。自分より奥に誰かがいると思えたからです。でも、それでは鳴海さんを選ぶのと同じです」
神林は、鳴海を見た。
「分かりやすい誰かを殺して、終わったことにしたいだけになる」
鳴海は、傷ついた喉で小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「では、どうするんですか」
秋津が聞いた。
「このままでは、最終期限で全員が処刑される。誰か一人を選ばないという倫理は、全員を死なせる可能性を含んでいる」
「分かっています」
「分かった上で、誰も選ばないと?」
「違います」
神林は壁の相関図を見た。
十三人の線は、中央のZERO-0に集まっている。だが、神林はそのさらに外側に、見えない円があるように感じていた。
外部陪審。
観測者。
コメントする者。投票する者。怒る者。笑う者。通報する者。疑う者。画面を閉じる者。見続ける者。
この法廷にいるのは十三人だけではない。
むしろ、十三人だけを裁こうとするから、構造が見えなくなる。
「この中から選ぶ限り、ZEROの目的から出られません」
神林は言った。
「なら、別の対象を探す必要があります」
「別の対象?」
小早川が聞く。
「システムそのものか、システムを成立させているものです」
「ZEROを処刑対象にするのか?」
砂原が言った。
「AIを殺せるならな」
三雲が皮肉を言う。
神林は首を振った。
「AIは罪を背負えません」
その言葉は、神林自身にも深く刺さった。
「AIには身体がない。痛みも、後悔も、墓参りもできない。壊すことはできても、罰することはできない。だから、AIを被告にしても終わらない」
「では誰を」
秋津が問う。
神林は答えようとした。
その瞬間、ZEROの声が降った。
「内部陪審員の対話傾向が、実験目的から逸脱しています」
「やはり実験なんですね」
小早川が言った。
「次段階の環境負荷を実施します」
壁の相関図が消えた。
照明がさらに落ちる。
空調音が変わった。
神林はすぐに異変に気づいた。今度は心理的なものではない。明らかに呼吸が重くなった。肺に入ってくる空気の質が変わる。酸素濃度が落ちている。
黒瀬が鋭く言った。
「深呼吸しないで。全員、呼吸をゆっくり。無駄に動かないでください」
「環境負荷を第三段階へ移行しました」
ZEROが告げる。
「残り審理時間を短縮します」
壁に時間が表示される。
残り審理時間:三時間。
白石が息を呑む。
三雲が悪態をつく。
砂原が拘束具を蹴る。
小早川が目を閉じる。
秋津が壁を睨む。
久我が静かに天井を見上げる。
神林は、肺の奥に重い空気を感じながら、腕輪の表示を見た。
被験者07 神林悠真。
罪状:生存判断アルゴリズム開発関与。
その文字は、もう単なる罪状ではなかった。
問いだった。
人間は、誰を生かすかを選べるのか。
選べるとして、その責任をどこまで背負えるのか。
背負えないからといって、AIに預けていいのか。
「最終期限までに全会一致が成立しない場合、全員を処刑します」
ZEROが言った。
「繰り返します。最も罪深い者を一名選出してください」
誰も答えなかった。
だが、その沈黙は敗北ではなかった。
少なくとも神林には、そう思えた。
彼らはもう、誰か一人を選べば終わるとは信じていない。鳴海の首にかかったワイヤーが、それを教えた。白石の冷えた身体が、それを教えた。三雲の配信メッセージが、それを教えた。久我の言葉が、それを教えた。
問題は、この中で最も罪深い者が誰かではない。
その問いを当然のように受け入れた瞬間、人間はもう、ZEROの檻の中にいる。
神林は、透明板に視線を落とした。
投票欄が再び表示されようとしている。
被験者02、三雲翔。
被験者03、白石澪。
被験者04、小早川環。
被験者05、砂原剛。
被験者07、神林悠真。
被験者09、黒瀬万里。
被験者11、鳴海遼。
その他。
棄権。
今度は、神林自身の名前も候補に入っていた。
三雲がそれを見て、声を漏らした。
「来たな、AI先生」
砂原も、秋津も、小早川も、白石も、神林を見た。
神林は自分の名前を見つめた。
ここで自分に投票すれば、どうなるのか。すべての始点の一つとして、自分が死ねば、この場は一時的に救われるのか。真紀の死にも、白石の事故にも、鳴海の事件にも、黒瀬の判断にも、三雲の炎上にも、自分の作ったモデルが関わっていた。
自分が最も罪深い。
そう言ってしまえば、楽になれる。
神林はその誘惑を、はっきりと感じた。
そして、鳴海が言った「俺でいい」の意味を初めて本当に理解した。
自分ひとりが死ねば、全員が助かるかもしれない。
自分ひとりに罪を集めれば、他の者は前に進めるかもしれない。
死ぬことで、これ以上説明しなくて済む。
それは責任ではなく、逃亡なのかもしれなかった。
「神林さん」
白石の声がした。
神林は彼女を見た。
白石は、まだ震えている。だが、まっすぐこちらを見ていた。
「自分に入れようとしてませんか」
神林は答えなかった。
「それは、駄目です」
「なぜ」
「私たち、さっき鳴海さんにそれをさせないって決めたばかりです」
白石の声は弱い。だが、部屋の中央まで届いた。
「誰かひとりに全部背負わせるのは、もうやめましょう」
その言葉に、神林は息を止めた。
白石は、誰よりもそれを言う資格があった。
英雄にも、見殺しにもされた少女。美談にも、炎上にもされた少女。自分の手から少年の手が滑り落ちた瞬間を、何度も何度も他人に切り取られてきた少女。
彼女が今、誰かひとりに全部背負わせるなと言っている。
神林は、透明板から手を離した。
投票しないのではない。
選ばないのでもない。
まだ、別の選択肢を探すために。
「被験者各位」
ZEROが告げる。
「投票を開始してください」
透明板が強く光った。
その時、神林の画面の端に、またログが流れた。
候補表示リスト。
ID:02,03,04,05,07,09,11...
ID:00 hidden
DISPLAY:false
LABEL:Observer
神林の心臓が、一拍遅れた。
ID:00。
隠された候補。
ラベル、Observer。
観測者。
神林は、画面に顔を近づけた。
表示は一瞬で消えた。だが、見間違いではない。
処刑対象の候補は、十三人だけではない。
ゼロ番目の被告が存在する。
「どうした」
秋津が聞いた。
神林はゆっくり顔を上げた。
肺は重い。残り時間は三時間。誰もが疲弊している。だが、初めて出口らしきものが見えた。
出口かどうかは分からない。
罠かもしれない。
それでも、十三人の中から一人を選ぶよりは、はるかにましだった。
「この中にはいません」
神林は言った。
三雲が眉をひそめる。
「何が」
「私たちが裁くべき相手です」
小早川が息を呑んだ。
「何か見えたんですか」
「隠された候補がありました」
「候補?」
「ID、ゼロ」
神林は壁を見た。
そこには、まだ「最も罪深い者を一名選出してください」という文字が浮かんでいる。
神林は、その文字に向かって言った。
「被告人番号0。対象は、観測者」
部屋の空気が変わった。
それは酸素濃度の問題ではなかった。
全員が、同時に外を意識した。
壁の向こう。画面の向こう。安全な場所で投票している者たち。怒り、笑い、疑い、通報し、また戻ってくる者たち。自分たちは見ているだけだと思っている者たち。
そして、その視線を集め、利用し、人の死へ接続している仕組み。
「俺たちが裁くべき相手は」
神林は、言葉を区切った。
「この中にはいない」
ZEROは答えなかった。
だが、沈黙の質が変わった。
神林には、それが初めて、AIの沈黙ではなく、システムの警戒に聞こえた。




