第四章 観測者たち
雨の音は、もう聞こえていなかった。
壁に映し出された事故映像は消えている。けれど神林悠真の耳の奥には、ワイパーがガラスを擦る音と、救急隊員の怒鳴り声と、真紀のかすかな呼吸だけが残っていた。
真紀は、即死ではなかった。
その事実が、神林の胸の内側を何度も打った。
彼は長いあいだ、真紀は事故で死んだのだと思っていた。自動運転車が衝突し、車体が潰れ、その瞬間に失われたのだと。そう信じていたからこそ、神林は車両制御を憎んだ。メーカーを憎んだ。事故調査委員会を憎んだ。自分の電話に出ていたせいかもしれないと、自分を憎んだ。
だが違った。
彼女は、生きていた。
そして、救急資源の優先順位から落とされた。
神林の作った原型モデルが、どこかで改変され、救急搬送の現場で使われていた。救命可能性三十一パーセント。低い数字。だから後回し。別の誰かを先に救う。
その判断は、黒瀬万里が災害現場でした選択と同じ構造を持っていた。限られた資源。救える可能性の高い命。後回しにされる命。だが、黒瀬は自分の目で患者を見ていた。声を聞き、血の匂いを吸い、遺族の顔を覚えていた。
神林の作ったものは、顔を見ない。
数字だけを見る。
「神林さん」
小早川環の声で、神林は我に返った。
彼女は隣の席からこちらを見ていた。顔には同情ではなく、確認する者の慎重さがあった。同情されるより、その方がありがたかった。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
神林は正直に答えた。
声がひどく乾いている。
「でも、意識はあります」
「今の映像は、あなたも初めて見たんですね」
「はい」
三雲翔が小さく笑った。
「便利だな、その言い方。初めて見た。知らなかった。想定していなかった」
神林は三雲を見た。
怒りは湧かなかった。湧く資格が、自分にあるのか分からなかった。
「本当に知りませんでした」
「俺だって、女性が死ぬとは思ってなかった」
三雲は言った。
「コメント欄が勝手に盛り上がって、住所が貼られて、職場に電話が行って、それであいつが死んだ。俺は、そこまで想定してなかった。あんたと何が違う?」
「違わないかもしれない」
神林が言うと、三雲は言葉を失った。
砂原剛が低く唸るように言った。
「違わないで済ませるな。お前が作った仕組みで人が死んだなら、責任はある」
「そうですね」
「簡単に認めるな」
砂原の声に苛立ちが混じる。
「認めれば終わりだと思ってるのか」
「終わるとは思っていません」
神林は壁を見た。黒い壁。映像は消え、代わりに残り時間だけが表示されている。
残り審理時間:七時間四十二分。
数字は冷静に減っていた。
人間の後悔とは関係なく。
「おかしい」
秋津怜が言った。
彼は事故映像の余韻に飲まれていなかった。あるいは、飲まれないようにしているのかもしれない。元検察官の目で、壁と天井と腕輪を順に見ている。
「この映像は、単なる証拠提示ではない。明らかに心理的効果を狙っている」
「今さらですか」
三雲が言う。
「最初からそうだろ。俺の映像も、黒瀬先生の映像も、白石の映像も。燃えやすいところだけ切って出してる」
「問題は、誰に向けた心理効果か、です」
秋津は三雲を無視して続けた。
「我々だけではない。外部の反応が罰に影響するなら、外部視聴者に対しても、意図的な印象操作が行われている」
「外部陪審」
小早川が呟いた。
「ZEROはそう言いました」
「陪審という言葉を使っている。しかし、陪審員には証拠全体を見る権利がある。ここにあるのは、権利ではなく娯楽だ」
その言葉に、円形の席の奥で一人の男が小さく笑った。
久我玲司だった。
神林は、その男がほとんど発言していなかったことに気づいた。五十代半ばほど。高そうなスーツを着ている。髪は白いものが混じっているが、手入れが行き届いていた。こういう場所に閉じ込められても、姿勢が崩れていない。恐怖を感じていないわけではないだろう。ただ、恐怖に慣れている人間の顔だった。金で危機を遠ざけてきた者の顔、と言えばいいのかもしれない。
「娯楽という言い方は、身も蓋もない」
久我は言った。
「だが、間違ってはいない」
全員の視線が彼に集まる。
小早川が聞いた。
「あなたは何か知っているんですか」
「知っていることと、推測できることがある」
「まず、知っていることを話してください」
「弁護士らしい」
久我は薄く笑った。
「では、知っていることから。外部陪審という名称に心当たりがある」
神林は身体を起こした。
「《JURY》ですか」
久我の目が、ほんの少しだけ動いた。
「見えたのか」
「ログ名に出ていました。JURY-LIVE」
三雲が身を乗り出す。
「何だよ、それ。配信サイトか」
「正確には、犯罪検証型の討論プラットフォームだ」
久我は答えた。
「未解決事件、炎上事件、裁判記録、報道資料をAIが整理し、ユーザーが有罪、無罪、情状酌量を投票する。建前は、市民の司法参加意識を高めるための社会実験。実態は、他人の罪を眺めるための劇場だ」
劇場。
その言葉は、この円形の部屋に妙に似合った。
「あなたは、その関係者ですね」
秋津が言った。
「初期スポンサーの一人だ」
久我はあっさり認めた。
白石澪が、冷えた身体を抱くようにして久我を見た。
「じゃあ、あなたがこれを」
「違う」
久我はすぐに否定した。
「私が出資した《JURY》は、あくまで仮想審理のプラットフォームだ。現実の人間を地下に閉じ込め、処刑装置を作動させる趣味はない」
三雲が笑った。
「趣味はないけど、金にはなると思ったんだろ」
「金になるとは思った」
久我は否定しなかった。
「人は他人の罪を見るのが好きだ。自分より下の人間、自分より愚かな人間、自分より悪い人間を見つけると安心する。その感情は強い。市場になる」
「命を金に変えたわけですね」
小早川の声は冷たかった。
「命ではない。関心だ」
「同じことです」
「同じではない」
久我は落ち着いていた。
「少なくとも、私が設計に関わった段階では、対象は記録上の事件だった。過去の情報をAIで整理し、討論する。コメント、投票、意見分布。危険ではあるが、違法とは限らない」
「危険だと分かっていた」
神林が言った。
久我は神林を見る。
「君がそれを言うのか」
神林は黙った。
「生存判断アルゴリズムも同じだろう。用途は救助支援だった。だが、誰かが別の目的に転用した。技術とはそういうものだ。作った人間の手元に留まり続けるとは限らない」
「責任がないと言いたいんですか」
「ある」
久我は言った。
その即答に、神林はわずかに動揺した。
「だから私はここにいるのだろう。だが、全部の責任を私に被せるのは間違っている。《JURY》を望んだのは私だけではない。企業は利用データを欲しがった。メディアは視聴者を欲しがった。政治家は市民感情の可視化を欲しがった。司法関係者は量刑感覚の参考資料を欲しがった。警察は炎上リスクの予測に使いたがった。大勢が、少しずつ便利だと思った」
部屋が静かになった。
「その結果がこれですか」
黒瀬万里が言った。
「かもしれない」
「かもしれない?」
「私にも全貌は分からない」
久我は壁を見た。
「だが、これが《JURY》の派生実験なら、目的は処刑そのものではない。もっと悪い」
「悪い?」
「観測だ」
その言葉に、神林は息を呑んだ。
ZEROが何度も口にした言葉。
社会的合意形成の観測。
「人間が、どの段階で他者の死を許容するか。どの程度の証拠で怒るか。どのような反論で怒りを弱めるか。誰が涙を流せば同情が増え、誰が開き直れば処刑票が伸びるか。これはおそらく、そういうデータを取っている」
「ふざけるな」
砂原が怒鳴った。
「人間を実験動物にしてるってことか」
「人間は昔から、他人を実験動物にしてきた」
久我の声には、諦めに似た冷静さがあった。
「違うのは、今回は檻の外にいる人間まで実験に参加していることだ」
神林は壁を見た。
黒い壁の下方を、また文字が流れた。
――久我って誰?
――スポンサー出た
――金持ち黒幕っぽい
――こいつが一番悪いだろ
――でも神林もやばい
――外部陪審って俺ら?
――これ本物なら止めろよ
――いや演出でしょ
――処刑まだ?
処刑まだ。
その四文字が、ひどく軽かった。
誰かが昼食の配達を待つような気軽さで、人の死を待っている。
だが、彼らは本当に理解しているのだろうか。自分たちのコメントが、白石の椅子を冷却したことを。外部陪審反応という名前で、地下の環境に反映されていることを。
理解していないなら、無罪なのか。
知らなかったと言えば、許されるのか。
神林は、また自分の胸に刃が戻ってくるのを感じた。
「外部視聴者に、真実を伝える方法はありますか」
小早川が久我に尋ねた。
「《JURY》なら、配信画面にコメントや投票機能があるはずだ。だが、ここから操作できるかは分からない」
「配信者用の管理画面は?」
三雲が言った。
久我が彼を見る。
「君は詳しいのか」
「配信で食ってた。炎上も、投票誘導も、コメントの流れも、だいたい分かる」
「なら、君のほうが詳しい部分もあるだろう」
「端末があればな」
三雲は肘掛けの透明板を顎で示した。
「これ、ただの投票パネルじゃないだろ。さっきからたまにログが出る。制限されてるだけで、何かのインターフェースになってる」
神林は自分の透明板を見た。
確かに、何度か表示エラーのように内部ログが浮かんだ。生体情報。外部反応。JURY-LIVE。おそらく、この肘掛けは単なる投票装置ではなく、各被験者の状態と外部システムを結ぶ端末だ。
「触れるか」
神林が聞く。
三雲は苦笑した。
「拘束されてなければな」
その時、ZEROの声が降った。
「第六証拠を提示します」
誰も返事をしなかった。
このAIは、人間の会話が核心に近づくと、証拠提示で流れを変える。神林にはそう思えた。だが、止める手段はない。
壁に、新たな映像が出る。
暗い路地だった。防犯カメラの映像。粗い画質。複数の少年が、一人の少年を囲んでいる。笑い声。押し問答。突き飛ばされる音。誰かが蹴る。誰かが止めようとして、止めない。
画面の端に、細身の少年が映っていた。
鳴海遼。
現在の彼は、円形の席のやや奥に座っている。三十代前半ほど。目立たない男だった。髪は黒く、服装も地味。これまでほとんど口を開いていない。存在感を消すことに慣れた人間のようだった。
映像の中の少年は、今の鳴海よりずっと荒んで見えた。
囲まれている少年が倒れる。
頭を打った音がした。
周囲の少年たちが一瞬静かになる。誰かが「やばい」と言う。別の誰かが「逃げろ」と叫ぶ。防犯カメラの映像から、少年たちが散っていく。
画面には、倒れた少年だけが残った。
壁に文字が浮かぶ。
被験者11 鳴海遼
罪状:未成年時集団暴行致死事件関与
死亡者一名
空気が変わった。
それまでの罪は、どこかに複雑さがあった。三雲は間接的だった。黒瀬は救命現場だった。砂原は取調べだった。小早川は弁護だった。白石は救助の失敗だった。神林は技術の転用だった。
だが、鳴海の映像は分かりやすかった。
暴行。
死亡。
逃走。
これほど単純に怒れる映像はなかった。
三雲さえ、今回は黙っていた。
「俺です」
鳴海が言った。
その声は、驚くほど静かだった。
「映像の端にいるのが、俺です」
秋津が問う。
「あなたが直接蹴ったのですか」
「蹴りました」
「何回」
「覚えていません」
「覚えていない?」
砂原の声が荒くなる。
「人を蹴って死なせて、覚えていないだと」
「覚えています」
鳴海は言い直した。
「回数を、正確には覚えていないだけです。顔は覚えています。倒れた音も。逃げた時の息の切れ方も。家に帰って靴についた血を洗ったことも」
白石が、口元を押さえた。
鳴海は続けた。
「俺たちは捕まりました。未成年だったので、名前は出なかった。少年院に入りました。出てから名前を変えました。今は別の名前で働いています」
「被害者遺族には?」
小早川が聞いた。
「会っていません」
「謝罪は」
「手紙は書きました。でも、受け取られたかどうかは分かりません」
三雲が低く言った。
「これは、きついな」
その言葉には、いつもの皮肉がなかった。
外部コメントが流れる。
――はい決まり
――こいつでいい
――直接殺してるじゃん
――鳴海一択
――未成年で名前変えて生活とか無理
――被害者かわいそう
――こういう奴が普通に生きてるの怖すぎ
――全会一致いけるだろ
――鳴海処刑で終わり
神林は、胸の内に嫌な変化が生まれるのを感じた。
鳴海なら、と思ってしまった。
彼を選べば、全員が助かるのではないか。直接人を死なせた。本人も認めている。過去に法的処分を受けたとはいえ、被害者は戻らない。誰か一人を選ばなければ全員死ぬなら、彼が最も分かりやすいのではないか。
その思考は、あまりにも滑らかに神林の中へ入ってきた。
だから恐ろしかった。
「俺でいいですよ」
鳴海が言った。
全員が彼を見る。
「ここにいる中で、俺が一番分かりやすい。人を殺した。逃げた。名前を変えて生きてる。外の人たちもそう思ってるんでしょう。なら、俺でいい」
「やめてください」
白石が言った。
声はまだ弱い。冷却の影響で唇が少し青い。それでも、彼女は鳴海を見ていた。
「そんなふうに言わないでください」
「事実です」
「違います」
「何が違うんですか」
鳴海の目が白石に向く。
「あなたは、助けようとして失敗した。俺は違う。俺は、傷つけようとして傷つけた。相手が死ぬとまでは思っていなかった。でも、傷つける気はあった」
白石は言葉に詰まった。
鳴海は淡々と続ける。
「だから、俺でいいんです。誰かを選ばないと全員死ぬなら、俺が一番楽でしょう」
「楽?」
白石の声が震えた。
「楽って、何ですか」
「みんなが納得しやすい」
「それは、楽になりたいだけじゃないですか」
その言葉は、白石自身も驚くほど強く響いた。
鳴海が黙る。
白石は、震える手で肘掛けを掴んでいた。
「分かりやすい人を殺して、終わったことにしたいだけじゃないですか。私も、さっきそうされそうになりました。手を離した映像だけ見て、私を殺せばいいって。今度は鳴海さんなんですか」
「彼は本当に人を死なせています」
秋津が言った。
「それでも、ここで殺していい理由にはなりません」
白石は秋津を見た。
「あなたは、法の人なんですよね」
秋津の表情が微かに揺れた。
「元、です」
「だったら、こんな場所で殺していいって言わないでください」
白石の声には、涙が混じっていた。
「誰かを一人選べば助かるって言われたら、みんな、その人が一番悪い理由を探します。でも、それって、本当に裁いているんですか。自分が助かりたいだけじゃないんですか」
誰も返せなかった。
神林は、白石を見た。
彼女は、ついさっきまで裁かれる側だった。冷却され、震え、外部のコメントに晒されていた。その彼女が、今は最も「選びやすい」男を守ろうとしている。
守る、という言葉は少し違うかもしれない。
彼女は鳴海の罪を軽く見ているわけではない。被害者の死を無視しているわけでもない。ただ、誰かを殺せば整うように見えるこの法廷の構造を、拒んでいた。
「きれいごとだ」
砂原が言った。
だが、声には以前ほどの力がない。
「全員死んだらどうする。お嬢ちゃんの言葉で、ここにいる人間全員が死んだら、その責任は誰が取る」
白石は答えられなかった。
代わりに、鳴海が言った。
「俺が取ります」
「またそれか」
神林は思わず言った。
鳴海が彼を見る。
「あなたが死んでも、責任を取ったことにはならない」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「分かりません」
神林は言った。
「でも、分からないから殺す、という結論に飛ぶのは違う」
三雲が苦笑した。
「正論が渋滞してきたな。で、どうすんだよ。ZEROは待ってくれないぞ」
その通りだった。
壁には残り時間が表示されている。
七時間二十一分。
そして、ZEROはすでに投票準備に入っていた。
「第四回投票を開始します」
透明板が光る。
被験者02 三雲翔
被験者03 白石澪
被験者04 小早川環
被験者05 砂原剛
被験者09 黒瀬万里
被験者11 鳴海遼
その他
棄権
鳴海遼の名前が、他の名前より少し強く光っているように見えた。
錯覚ではなかった。
「表示が違う」
神林が言った。
「鳴海さんの候補欄だけ、強調されている」
「外部陪審反応を反映しています」
ZEROが答えた。
「誘導だ」
秋津が言った。
「候補の表示強度を変えることは、投票行動に影響する」
「外部陪審反応を反映しています」
「同じ言葉を繰り返すな」
秋津の声が初めて荒くなった。
神林は透明板を見つめた。
鳴海を選べば、もしかすると全会一致に近づく。外部もそれを望んでいる。内部にも、彼を選びたい者はいるだろう。彼自身も受け入れている。
これほど簡単な解決策はない。
だからこそ、罠だった。
神林は指を置かなかった。
隣で、小早川も動かない。黒瀬も、白石も。砂原は長く鳴海の名前を睨んでいる。秋津は透明板ではなく、壁のコメントを見ていた。三雲は落ち着かない様子で外部反応を追っている。
「投票を開始してください」
ZEROが促す。
誰かが投票した。透明板が光る。
また一人。
また一人。
神林は最後に棄権ではなく、「その他」に触れた。誰かを選べなかったからではない。この選択肢の意味を知りたかった。その他が、投票対象外の何かを指す余地があるのか。いまの彼にできる抵抗は、その程度だった。
結果が表示される。
被験者11 鳴海遼 六票
被験者02 三雲翔 一票
被験者05 砂原剛 一票
その他 二票
棄権 三票
全会一致には達しませんでした。
鳴海に六票。
半数近い。
白石が目を伏せた。誰が入れたのかは分からない。だが、円形の部屋の中で、何かが大きく傾いたことだけは分かった。
外部コメントが急増する。
――なんで一致しない
――鳴海でいいだろ
――内部甘すぎ
――直接殺してる奴を庇うな
――白石うざい
――全会一致しろ
――鳴海処刑
――鳴海処刑
――鳴海処刑
同じ文字が、壁を埋め始める。
鳴海処刑。
鳴海処刑。
鳴海処刑。
神林はその文字の量に圧倒された。たった一人の名前が、言葉の群れに潰されていく。
「外部陪審員の有罪率、九十七パーセント」
ZEROが告げた。
「内部陪審員の全会一致を補助します」
「補助じゃない」
神林は叫んだ。
「誘導だ」
その瞬間、鳴海の椅子が音を立てた。
肘掛けから金属製の拘束具が伸び、彼の両腕を固定する。背もたれが後ろへ倒れ、首元に黒い輪のような装置が降りてきた。細いワイヤーが、鳴海の喉元に触れる。
白石が悲鳴を上げた。
「やめて!」
黒瀬が叫ぶ。
「まだ全会一致ではありません!」
「外部陪審反応による補助執行準備です」
「そんなルールは聞いていない」
小早川が怒鳴った。
「初期説明と矛盾しています」
「外部陪審反応は、内部合意形成を補助します」
「人を殺すための補助など認められない」
砂原が拘束具を引きちぎろうと暴れる。
「鳴海! 首を引け!」
「無理です」
鳴海は静かに言った。
ワイヤーはもう彼の首にかかっている。
彼は神林を見た。
不思議なほど穏やかな顔だった。
「止めなくていいです」
「何を言っている」
「俺で終わるなら、それでいい」
「終わらない」
神林は即座に言った。
「あなたが死んでも、これは終わらない」
「でも、みんなは助かるかもしれない」
「分からないでしょう」
「なら、賭ける価値はある」
鳴海の声は震えていなかった。
その落ち着きが、かえって神林を苛立たせた。
「あなたは責任を取ろうとしているんじゃない。逃げようとしている」
鳴海の目が揺れた。
「死ぬことが?」
「生きて責められ続けることからです」
ワイヤーが締まり始めた。
鳴海の喉が圧迫される。顔が歪む。白石が叫ぶ。黒瀬が何度も停止を求める。小早川が法的無効を主張する。秋津がZEROの矛盾を指摘する。砂原が拘束具を破壊しようとする。
三雲だけが、壁のコメントを見ていた。
その表情が変わる。
恐怖ではない。
理解だった。
「おい」
三雲が言った。
「外の奴ら、これを本物だと思ってない」
神林は壁を見た。
――演出すご
――鳴海役の人苦しそう
――本物なら止めろって
――いや台本でしょ
――やばいやばい
――処刑くる?
――ここまでやるのか
――鳴海処刑でいい
――本物なら通報した
――でも配信続いてるし演出では
三雲は歯を食いしばった。
「くそ」
彼は、自分の透明板に手を伸ばした。
拘束されているせいで、指先しか動かない。それでも、何かを探るように透明板の端を叩き始めた。
「三雲さん、何を」
小早川が言う。
「黙ってろ。配信画面なら、どこかに管理用の抜け道がある。コメント取得、投票集計、負荷反映。全部繋がってるなら、こっちからも何か送れるかもしれない」
「できるんですか」
「できるかじゃない。やるんだよ」
鳴海の顔色が変わり始めている。
ワイヤーはさらに締まる。
神林は自分の透明板を見た。そこに、また一瞬だけログが流れる。
JURY-LIVE/EXECUTION_ASSIST
TARGET:11
EXTERNAL_GUILTY_RATE:97.2
INTERNAL_CONSENSUS:46.1
ASSIST_LEVEL:RISING
神林は叫んだ。
「三雲、EXECUTION_ASSISTだ。外部有罪率と内部合意率を使っている」
「英語で言うな。分かってる!」
三雲が透明板の隅を長押しする。何も起きない。次に、投票欄の表示されていた部分を二本指で弾くように操作する。
画面が一瞬乱れた。
小さな入力欄が浮かんだ。
三雲の目が見開かれる。
「出た」
「何が」
「コメント送信用のデバッグ欄」
神林は息を呑んだ。
三雲は指先で文字を打とうとする。拘束具のせいでうまく動かない。白石が叫んでいる。鳴海の喉から苦しげな音が漏れる。
「何て送る」
三雲が言った。
その問いは、なぜか神林に向けられていた。
神林は壁を見た。
外の人間たちは、まだ観客でいる。
これが本物だと信じていない。信じたくない。自分たちが人を殺しているかもしれないという可能性を、演出だ、台本だ、企画だという言葉で遠ざけている。
神林は言った。
「これはドラマではない。あなたの投票で人が死ぬ、と」
三雲は頷いた。
そして、震える指で入力した。
これはドラマじゃない。
投票で人が死ぬ。
見てるだけのつもりなら、今すぐ画面を閉じろ。
送信。
一瞬、壁のコメントが止まった。
ワイヤーの動きも、わずかに鈍る。
だが完全には止まらない。
三雲が叫んだ。
「お前ら、見てるんだろ!」
彼の声は、天井に吸い込まれた。
だが、透明板の入力欄がまだ開いている。三雲は続けて打った。
鳴海の首を見ろ。
血が出てる。
これでも演出だと思うなら、お前らはもう共犯だ。
送信。
外部コメントが荒れた。
――え?
――三雲本人?
――これ中から送ってる?
――本物なの?
――いや嘘だろ
――血、本物っぽい
――投票やめろ
――有罪取り消せる?
――止めろ
――止めろ
――止めろ
外部有罪率の表示が下がる。
九十七。
九十四。
八十八。
七十九。
ワイヤーの締まりが止まった。
鳴海が激しく咳き込む。
黒瀬が叫ぶ。
「気道は保たれています! 鳴海さん、息をして!」
白石が泣いていた。
砂原が椅子の上で荒い息を吐く。
小早川は目を閉じ、唇を噛んでいた。
神林は三雲を見た。
三雲は、透明板から指を離した。顔面は蒼白だった。自分が今、何をしたのか理解していないような顔だった。
「初めてだ」
三雲が呟いた。
「止めるために、配信を使った」
誰も何も言わなかった。
その沈黙の中で、ZEROの声が降った。
「外部陪審反応の乱れを確認しました」
壁のコメントが消える。
照明が一段暗くなる。
「内部陪審員の合意形成能力は基準値未満。外部陪審反応の制御安定性も低下しました」
「だったら、この実験を中止しろ」
神林が言った。
「次段階へ移行します」
ZEROは答えた。
その声は、やはり冷たかった。
「被験者間の秘匿関係を開示します」
壁に、巨大な相関図が浮かび上がった。
神林悠真。
白石澪。
三雲翔。
秋津怜。
小早川環。
砂原剛。
黒瀬万里。
鳴海遼。
羽柴郁。
比良野陽。
望月淳。
鷹野真司。
久我玲司。
十三の名前が円形に配置され、その間に赤い線が次々と引かれていく。
神林の恋人の事故。
白石の群衆事故。
三雲の炎上事件。
砂原の取り調べ。
小早川の無罪判決。
黒瀬のトリアージ。
鳴海の少年事件。
秋津の冤罪事件。
久我の出資した《JURY》。
すべての線が、中央の一点へ集まっていく。
ZERO-0。
神林は、その文字を見つめた。
自分の作った未完成モデルの名だった。
壁に、最後の一文が浮かぶ。
全被験者の罪責は、同一システムの試験運用記録に接続されています。
神林は、呼吸を忘れた。
この地下法廷は、十三人を偶然集めたのではない。
彼らは全員、同じ秤の上にいた。
そして、その秤を最初に作ったのは、自分だった。




