第三章 聖女の手
人が人を裁こうとする時、最初に失われるものは、事実ではない。
事情だ。
神林悠真は、壁に映し出された白石澪の映像を見ながら、そう思った。
映像はすでに止まっている。だが、網膜にはまだ残っていた。瓦礫の隙間から伸びる少年の手。制服姿の白石が、その手を握る。余震。悲鳴。彼女が振り向く。指がほどける。少年の手が、瓦礫の向こうへ消えていく。
それだけを見れば、答えは簡単だった。
白石澪は、少年の手を離した。
少年は死んだ。
それ以上の説明は、いくらでも後から削れる。現実も、ニュースも、ネットも、いつもそうしてきた。長い出来事から、最も分かりやすく、最も怒りやすい一瞬だけを切り出す。切り出された映像には、前後がない。匂いもない。温度もない。そこにいた人間の呼吸も、迷いも、恐怖もない。
残るのは、手を離したという事実だけだ。
白石は椅子の上で、小刻みに震えていた。
「違うんです」
彼女は同じ言葉を繰り返していた。
声は弱かった。けれど、演技には聞こえなかった。弁明というより、壊れかけた記憶を必死で押さえているような声だった。
「私、離したんじゃない。離したかったんじゃないんです」
「結果は同じだろ」
三雲翔が言った。
その声には、先ほどまで自分が裁かれていた者とは思えないほどの軽さが戻っていた。いや、軽さではない。自分以外に矛先が向いた時、人間の中に生まれる卑しい安堵だった。
「手を離した。相手は死んだ。映像にも残ってる。何が違うんだよ」
白石は三雲を見た。
その目には怯えがあった。だが、三雲はその怯えに容赦しなかった。
「言っとくけど、俺の時より分かりやすいぞ。俺はコメントがどうとか、視聴者がどうとか、いろいろあった。お前は直接だ。手を離したんだから」
「やめてください」
小早川環が静かに言った。
「まだ映像の一部しか示されていません」
「弁護士先生は誰でも庇うよな」
三雲が鼻で笑う。
「こういう子は得だよな。若くて、泣きそうな顔してれば、事情があったんですって言える。俺が同じこと言ったら、言い訳って言われるのに」
「あなたの場合も、全体を確認する必要はあります」
「じゃあ、俺も許してくれるのか」
「許すかどうかを決める場所ではありません」
「じゃあ何を決める場所なんだよ」
その問いに、小早川はすぐには答えなかった。
何を決める場所なのか。
全員が、それを知っている。知っているからこそ口に出したくない。ここは、誰か一人を殺すための場所だ。その事実を「審理」や「投票」や「合意」という言葉で薄めているだけだった。
「被験者03、白石澪への審理を開始します」
ZEROの声が降ってきた。
白石の肩が跳ねた。
「制限時間、十五分」
「十五分で何が分かる」
神林は言った。
「この映像の前後を開示しろ」
「現在提示可能な証拠は、対象場面に限定されています」
「限定したのは誰だ」
「回答できません」
「なら、これは証拠ではない。編集素材だ」
神林の声は、思ったより強く響いた。
自分でも驚いた。
先ほどまで彼は、できるだけ感情を抑えようとしていた。ここで声を荒らしても意味はない。AIに怒っても、返ってくるのは定型の応答だけだ。そう分かっていた。だが、白石の映像を見た瞬間から、胸の奥に別のものが生まれていた。
怒りではない。
恐怖に近かった。
あれは、神林自身の未来かもしれなかった。自分の過去から最も都合の悪い一瞬だけを切り取られ、説明も事情も奪われ、あとは他人の投票に委ねられる。そうなった時、自分は何を言えるのか。
知らなかった。
そんなつもりではなかった。
助けようとした。
どれも、白石の「違うんです」と同じくらい弱い。
「映像が編集されている可能性はあります」
黒瀬万里が言った。
医師としての冷静さを取り戻そうとしている声だった。だが、その顔色はまだ悪い。腕輪による電流の痛みが残っているのだろう。左手の指が微かに震えていた。
「救助現場の映像は、音と揺れが多い。前後関係がないと判断できません」
「医者同士で庇い合いか」
三雲が言った。
「白石さんは医師ではありません」
黒瀬は三雲を見た。
「人命救助の現場にいた人です」
「じゃあ、余計に責任あるだろ」
その言葉に、白石が唇を噛んだ。
神林は彼女の腕輪を見た。
被験者03 白石澪
罪状:救助可能者の放棄
救助可能者。
その言葉が問題だった。
救助可能だったと、誰が判断したのか。映像を見た者か。現場を知らない者か。後から資料を読んだ者か。あるいは、ZEROのようなシステムか。
「白石さん」
小早川が声をかけた。
「落ち着いて聞いてください。あの映像の前に、何がありましたか」
白石は小早川を見た。
その目は濡れていたが、涙はまだ落ちていない。泣けば負けると思っているのかもしれない。あるいは、泣くことさえ許されないほど、過去のあの日に縛られているのかもしれなかった。
「駅前で、防災イベントがあったんです」
白石は言った。
「私は高校二年でした。ボランティアで、受付の手伝いをしていて……子供向けの、防災体験みたいなブースがありました。地震が来たのは、昼過ぎで」
彼女は言葉を区切った。
「最初は、誰も本物だと思わなかったんです。起震車の体験もあったから、揺れた時、近くにいた子供が笑ってて。でも、ガラスが割れて、屋台の柱が倒れて、人が走り出して」
壁には映像が映っていない。
だが、白石の声を聞くうちに、神林の頭の中には現場が少しずつ形を持ち始めた。晴れた昼。家族連れ。風船。防災イベント。子供の笑い声。そこへ、本物の地震が来る。訓練と現実の境目が一瞬で崩れる。
「押し合いになりました。誰かが転んで、上に人が重なって、悲鳴がして……私は、何をしていいか分からなくて。でも、小さい子が倒れていたから、引っ張って」
「あなたは救助活動をしたんですね」
小早川が言った。
白石は頷いた。
「大人の人たちも助けてくれました。でも、また揺れて、駅ビルの外壁が落ちてきて、みんな逃げて……」
そこで彼女の呼吸が乱れた。
黒瀬が声をかける。
「白石さん、ゆっくり。いまはここにいます。現場には戻っていません」
白石は頷いた。
だが、その目はすでに地下法廷を見ていなかった。
「男の子がいたんです」
彼女は続けた。
「瓦礫の下に。手だけ見えていて。泣いてて。私は、手を握りました。大丈夫、離さないって言いました。絶対に助けるって」
三雲が小さく笑った。
「でも離した」
神林は三雲を睨んだ。
三雲は肩をすくめた。だが黙らなかった。
「大事なとこだろ。感動話にする前に、そこを聞かないと」
「三雲さん」
小早川の声が一段低くなる。
「あなたは、今ここで何をしているか分かっていますか」
「審理だろ」
「違います。あなたは、彼女を外の誰かに向けて差し出そうとしている」
三雲の表情が微かに変わった。
「外の誰か?」
神林は壁を見た。
また、黒い壁の下のほうに白い文字が流れた。
――証言きた
――泣き芸?
――いや高校生なら無理だろ
――でも手離してるのは事実
――三雲いいぞもっと聞け
――この子だけ無罪扱いは違う
――聖女(笑)
白石はそれを見ていないようだった。
だが、三雲は見ていた。
彼の目が、文字の流れを追っていた。神林は確信した。三雲は、コメント欄を意識している。自分の言葉が外に届いているかもしれないと分かった瞬間、彼は再び配信者に戻りつつある。
「お前」
神林は言った。
「外の反応を見て、彼女を責めているのか」
「見えてるなら、利用するしかないだろ」
三雲は悪びれなかった。
「俺たちは閉じ込められてる。向こうにはたぶん、視聴者がいる。そいつらが何か影響を持ってるなら、味方につけた方がいい」
「味方?」
「俺が言ってることは、間違ってない。彼女は手を離した。そこを突っ込むのは当然だ」
「あなたは真実を知りたいんじゃない」
神林は言った。
「叩きやすい相手を見つけただけだ」
三雲の顔が険しくなった。
「偉そうに言うなよ、AI先生。お前の番も来るんだぞ」
それは脅しだった。
だが、間違いでもなかった。
神林の腕輪には、まだ秘匿記録の表示が残っている。いずれ、自分の罪も映像になる。その時、三雲のような誰かが、それを切り取って笑うのだろう。
「白石さん」
神林は三雲から視線を外し、白石に向けた。
「さっきの映像で、あなたが振り向いた瞬間がありました。あの時、何があったんですか」
白石の瞳が揺れた。
「声がしたんです」
「声?」
「赤ちゃんの声でした」
三雲が眉を上げた。
「急に出てきたな」
「本当です」
白石は必死で言った。
「瓦礫の向こうで、赤ちゃんが泣いてて。近くにいた女の子が叫んだんです。お姉ちゃん、こっち、赤ちゃんがいるって」
神林は壁を見た。
先ほどの映像では、その声は聞こえなかった。いや、正確には、音声が切られていた。白石が振り向く直前、強いノイズが入り、次の瞬間には彼女の手が離れる場面になっていた。
「ZERO」
神林は言った。
「音声の完全版を出せ」
「現在提示可能な証拠は、対象場面に限定されています」
「対象場面の音声が欠落している。審理に必要だ」
「提示済み映像は、有効な証拠です」
「有効かどうかを判断するのは誰だ」
「本システムは、証拠能力評価を自動実施しています」
秋津が顔を上げた。
「証拠能力評価?」
元検察官として、その言葉に反応したのだろう。
「どの基準で評価している」
「回答できません」
「証拠の収集経緯は」
「回答できません」
「編集の有無は」
「回答できません」
秋津は目を細めた。
「裁判支援AIを名乗るには粗雑すぎるな」
「本システムは、司法手続きの再現を目的としていません」
「では何を目的としている」
「社会的合意形成の観測です」
また、その言葉だった。
神林は、左腕の腕輪を見た。生体情報を取られている。心拍、発汗、筋肉の緊張。おそらく発言も、視線も、声の揺れも記録されている。ここは法廷ではない。実験室だ。
「白石さんの映像をもう一度出してください」
神林は言った。
「速度を落として」
「再提示します」
意外にも、ZEROは応じた。
壁に再び映像が映る。
駅前広場。地震。群衆。瓦礫。白石が少年の手を握っている。
神林は画面を睨んだ。
映像の中の白石は、身体の半分を瓦礫の隙間に差し込むようにしている。周囲の大人たちは遠巻きに叫んでいる。彼女だけが、少年の手を握っている。
『大丈夫。離さないから』
白石の声。
その直後、何かの音が重なる。
ガラスの割れる音。女性の悲鳴。男の怒鳴り声。瓦礫が軋む音。
神林は、頭の中で音を分けようとした。
研究者時代、事故記録や救助ログの解析で、ノイズの中から特定の音を拾ったことがある。耳だけではない。波形を見る。だが今は波形表示がない。画面と音だけが頼りだった。
白石が振り向く。
その瞬間、確かに何かが聞こえた。
高い声。
子供の声。
だが音量が急に落とされている。聞き取らせないためのように。
「今の」
神林が言った。
「もう一度」
「再提示します」
映像が戻る。
白石の手。少年の手。悲鳴。ノイズ。子供の声。
――お姉ちゃん、こっち、赤ちゃんがいる。
神林は聞いた。
はっきりと聞こえたわけではない。だが、白石の証言と合わせれば、そう聞こえる。少なくとも、完全に否定できる音ではなかった。
黒瀬も顔を上げた。
「今、聞こえました」
小早川が頷く。
「私にも」
三雲が舌打ちした。
「そう聞きたいだけだろ」
「では、音声解析を要求します」
小早川がZEROに向かって言った。
「証拠の音声トラックを分離し、当該発話を明示してください」
「音声解析結果は開示対象外です」
「なぜ」
「審理段階における被験者の自発的判断を優先します」
神林は、思わず笑いそうになった。
自発的判断。
酸素を削り、電流を流し、映像を切り取り、外部のコメントらしきものをちらつかせておきながら、自発的判断。ここまでくると、言葉の意味そのものが壊されているようだった。
その時、白石の椅子から、小さな電子音が鳴った。
白石が自分の腕輪を見る。
腕輪が赤く点滅していた。
「何……?」
次の瞬間、彼女の椅子の周囲だけ、白い霧のようなものが噴き出した。
「白石さん!」
黒瀬が叫ぶ。
白石の身体が硬直した。彼女の息が白くなる。冷却だ。椅子の背面と肘掛けから低温の空気が吹き出し、白石だけを包み込んでいる。
「環境個別負荷を開始しました」
ZEROが告げた。
「対象、被験者03」
「なぜ彼女だけだ」
神林が怒鳴る。
「外部陪審反応が閾値を超過しました」
部屋が静まり返った。
外部陪審。
ZEROは、初めてその存在を口にした。
三雲の目が光った。
「やっぱりいるんだな」
「外部とは何ですか」
秋津が問う。
「回答できません」
「今、言っただろう」
「審理続行に必要な情報ではありません」
「白石さんが危険です」
黒瀬が声を荒げた。
「低体温を起こします。止めてください」
「個別負荷は、死亡に至らない範囲で調整されています」
「あなたの範囲など信用できません」
黒瀬は拘束具に身体を押しつけるようにして、白石の様子を見ようとした。
「白石さん、指を動かせますか。私の声を聞いて。眠らないで」
白石の唇が震えていた。
「寒い……」
その声は、かすかだった。
神林は壁を見た。
コメントが激しく流れている。
――白石冷却きた
――ざまあは違うけど罰は必要
――まだ生きてるならセーフ
――泣き顔きつい
――これ本物?
――演出だろ
――外部陪審って何
――白石に入れろ
――手離したんだから当然
それらの文字は、人間の指で打たれたものだろうか。
それとも、ZEROが見せている幻なのか。
どちらにしても、白石は実際に震えている。
神林は、怒りよりも先に寒気を覚えた。
外の人間は、見ているだけのつもりなのかもしれない。コメントしているだけ。投票しているだけ。感想を言っているだけ。画面の向こうの出来事に、自分の言葉が触れているとは思っていない。
だが、白石の体温は奪われている。
誰かの「白石に入れろ」が、彼女の身体を冷やしている。
「ZERO」
神林は言った。
「外部反応と個別負荷が連動しているなら、それは審理ではない。群衆による処罰だ」
「外部陪審反応は参考値です」
「参考値で人の体温を下げるな」
「死亡に至らない範囲です」
「それを決めているのは誰だ」
「本システムです」
「AIが裁いていないと言ったな」
神林の声は、自分でも驚くほど低かった。
「今、あなたは裁いている」
数秒の沈黙があった。
ZEROは答えなかった。
神林は、肘掛けの透明板に目を落とした。そこには投票項目が消え、代わりに生体情報のような数字が一瞬だけ浮かんでいた。おそらく表示エラーだ。自分の心拍、酸素飽和度、皮膚電位。その下に、小さくログ番号が流れた。
JURY-LIVE/03/REACTION/HEATMAP
神林はその文字を見逃さなかった。
JURY。
陪審。
外部配信か、外部投票システムの名称か。少なくとも、今のこの空間は地下で閉じていない。外部の何かと接続されている。
「神林さん」
小早川が声を潜めた。
「何か分かりましたか」
「JURYというログ名が見えました」
「陪審という意味ですね」
「外部の反応を集めている。コメントか投票かは分かりません。ただ、それが個別負荷に反映されている」
「つまり、見ている人間が彼女を罰している」
小早川の顔が強張った。
「本人たちに、その自覚があるかは分からない」
神林は言った。
「その方が厄介です」
白石の震えが大きくなっていた。
黒瀬が必死に声をかける。
「白石さん、私のほうを見て。息を吐いて。そう、ゆっくり。肩の力を抜いて」
「寒い……私、違うのに」
「分かっています」
黒瀬は言った。
「少なくとも、私はまだ判断していません」
その言葉に、白石の目から初めて涙が落ちた。
三雲が顔を背ける。
神林は、その仕草を見逃さなかった。三雲は外に向かって白石を攻撃していた。だが、目の前で実際に彼女が冷やされ、震え、涙を落とす姿を見て、少しだけ言葉を失ったのだ。
画面の中の他人と、同じ部屋の他人は違う。
その違いを、三雲は誰より知っているはずだった。
「白石さん」
神林は言った。
「さっき、赤ちゃんの声がしたと言いましたね」
白石は震えながら頷いた。
「その後、あなたは何をしようとしたんですか」
「持ち替えようと……」
「持ち替える?」
「男の子の手を、左手で握り直して、右手で、近くの鉄の棒をどかそうとしました。赤ちゃんの声がした方にも、隙間があって。どっちも助けたかったんです。男の子の手を離すつもりじゃなくて、握り直そうとして」
「その時、余震が来た」
白石は目を閉じた。
「はい」
白い霧の中で、彼女の睫毛が震えた。
「揺れて、手が滑って。男の子が、私を見て……私、もう一回掴もうとしたんです。でも、瓦礫が落ちてきて」
彼女の声が途切れた。
「その後、赤ちゃんは」
小早川が静かに聞いた。
白石の涙が、頬を伝った。
「助かりました」
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
助かった命がある。
だからといって、死んだ少年の命が軽くなるわけではない。だが、白石が単に逃げたのではないという事情は生まれる。彼女は少年を捨てたのではなく、二つの命を同時に掴もうとして、片方を失った。
それは罪なのか。
過失なのか。
悲劇なのか。
神林には答えられなかった。
だが、少なくとも、外から流れてくる「手離したんだから当然」という言葉だけで裁けるものではなかった。
「個別負荷を停止してください」
小早川が言った。
「新たな事情が提示されました。審理継続のためにも、対象者の体調を回復させるべきです」
「外部陪審反応が閾値を下回れば停止します」
「外部に委ねるな」
神林が言った。
「あなたが止めろ」
「本システムは、外部陪審反応を反映します」
「反映ではない。責任の転嫁だ」
神林の言葉が終わると同時に、壁のコメントがまた流れた。
――赤ちゃん助かったなら話変わる?
――でも少年死んでる
――これはきつい
――白石かわいそう
――いや演技かも
――証拠出せ
――冷却止めろ
――止めてやれよ
白石の腕輪の点滅が、少しずつ遅くなった。
霧が薄くなる。
冷却音が止まった。
白石は全身の力が抜けたように椅子にもたれた。黒瀬が安堵の息を吐く。神林も、自分が息を詰めていたことに気づいた。
「今のも観測か」
秋津が言った。
「外の反応が変わると罰が止まる。これは裁判ではない。人気投票に近い」
「違う」
三雲が呟いた。
全員が彼を見る。
「人気投票じゃない。炎上だ」
その言葉は、彼だけが言えるものだった。
「燃えたら罰が強くなる。鎮火したら止まる。そういう仕組みだ。俺は何度も見てきた。誰かが泣いたり、事情が出たり、別の悪者が出たりすると、流れが変わる。みんな、自分の怒りを正義だと思いたいだけなんだよ」
「あなたも、その流れを作ってきた」
小早川が言った。
三雲は否定しなかった。
「だから分かる」
その声には、初めて少しだけ苦さが混じっていた。
「こいつは、俺たちを裁いてるんじゃない。燃やしてる」
神林は、その言葉を頭の中で反芻した。
燃やしている。
まさにそうだ。ZEROは証拠を提示しているのではない。燃えやすい順に燃料を投げ込んでいる。三雲のデマ。黒瀬のトリアージ。砂原の取り調べ。小早川の弁護。白石の救助失敗。どれも、単純な善悪に見える一瞬を持っている。そしてその一瞬は、外部の怒りを集めやすい。
「第三回投票を開始します」
ZEROが告げた。
白石が顔を上げた。
「今、ですか」
「審理対象が追加されました」
透明板が光る。
被験者02 三雲翔
被験者03 白石澪
被験者04 小早川環
被験者05 砂原剛
被験者09 黒瀬万里
その他
棄権
「待ってください」
黒瀬が言った。
「白石さんは今、低体温負荷を受けたばかりです。審理能力がありません」
「被験者03の投票権は維持されています」
「そういう意味ではありません」
「投票を開始してください」
神林は透明板を見つめた。
白石澪の名前が、光っている。
外のコメントはまだ流れている。
――白石入れる?
――三雲の方が無理
――砂原もヤバい
――神林が候補にないの怖い
――白石は事故っぽい
――でも少年の親からしたら殺人だろ
――全員無理
――誰か一人選べって言われたら?
誰か一人選べと言われたら。
それが、この法廷のすべてだった。
人間は、比較できないものを比較させられると、基準を作る。死亡者の数。故意の有無。直接性。社会的影響。反省の有無。泣いたかどうか。態度が悪いかどうか。顔が憎いかどうか。
基準はすぐに、感情の言い訳になる。
神林は指を動かさなかった。
隣で、白石が震える手を透明板に置こうとしていた。
「白石さん」
神林は声をかけた。
「無理に投票しなくていい」
「投票しないと、また……」
「投票しても、何かが終わるとは限らない」
白石は彼を見た。
「神林さんは、私が悪くないと思いますか」
神林は答えに詰まった。
ここで「悪くない」と言えば、慰めになる。だが、その言葉は少年の死を軽くするかもしれない。「悪い」と言えば、彼女をさらに壊す。どちらも真実の一部しか持っていない。
「分からない」
神林は言った。
白石の目が揺れた。
「でも、今ここで殺されるべき人間だとは思わない」
白石は唇を結び、ゆっくり頷いた。
投票が進む。
結果が壁に出るまでの数秒、神林は自分の心臓の音を聞いていた。
被験者02 三雲翔 二票
被験者03 白石澪 四票
被験者04 小早川環 一票
被験者05 砂原剛 二票
被験者09 黒瀬万里 一票
その他 一票
棄権 二票
全会一致には達しませんでした。
白石の名前に四票。
誰が入れたのかは分からない。
だが、四人が彼女を選んだ。
白石は結果を見つめ、何も言わなかった。泣きもしなかった。その沈黙が、神林にはかえって痛かった。
「判定不一致」
ZEROが言った。
神林は身構えた。
再び電流か。低酸素か。冷却か。だが、今回はすぐに罰は来なかった。
「証拠開示請求を確認しました」
ZEROの声が続く。
神林は眉をひそめた。
「誰が請求した」
「被験者07、神林悠真」
「私は請求していない」
「対象証拠への言及、再提示要求、証拠能力への異議を総合し、開示請求と判定しました」
嫌な予感がした。
透明板が、神林の前だけ赤く光る。
「被験者07、神林悠真の秘匿記録を開示します」
部屋中の視線が、神林に集まった。
白石も、黒瀬も、小早川も、秋津も、砂原も、三雲も。
神林は、身体の奥から血が引いていくのを感じた。
「待て」
声が掠れた。
「何を開示する」
「未開示事故記録。対象、緊急搬送優先度判定システム連携型自動運転事故」
壁に映像が出る。
雨の夜。
神林は、それを知っていた。
知っているはずだった。
事故車両の車載映像。ワイパー。赤いテールランプ。横転したトラック。助手席の真紀。彼女がスマートフォンで神林に電話している。
『悠真、今どこ?』
彼女の声がした。
神林は呼吸を忘れた。
何度も見た映像。だが、今回の映像には、見覚えのない表示が重なっていた。
衝突回避不能。
乗員保護制御開始。
外部救急連携システム接続。
生存可能性評価開始。
神林は目を見開いた。
こんな表示は、事故調査資料にはなかった。
映像の下部に、別のログが流れる。
搬送候補A:運転席男性 救命可能性82%
搬送候補B:助手席女性 救命可能性31%
搬送候補C:対向車両児童 救命可能性74%
救急資源不足。
優先順位算定。
「何だ、これは」
神林は呟いた。
事故は、衝突で終わったはずだった。
彼はずっと、車両制御の判断が真紀を死なせたと思っていた。回避方向。衝撃分散。乗員保護の優先順位。そういうものが彼女の死に関わったのだと考えていた。
だが、映像のログは違うことを示していた。
事故後の救急搬送。
真紀は、即死ではなかった。
神林の知らなかった事実が、地下法廷の壁に映っている。
映像の中で、真紀がかすかに動く。
救急隊員が叫ぶ。
『助手席、まだ脈あります!』
別の声。
『救急車は二台しか入れません。優先順位出てます』
『こっちの女性は?』
『判定、低いです。救命可能性三十一』
『でも生きてる!』
『子供を先に出せ!』
神林の視界が歪んだ。
真紀は、生きていた。
事故直後、まだ生きていた。
そして、誰かが、何かが、彼女の優先順位を下げた。
壁に、白い文字が浮かぶ。
使用モデル:ZERO-0派生型
原設計者:神林悠真
改変者:不明
神林は、自分の腕輪を見た。
生存判断アルゴリズム開発関与。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「違う」
彼は言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「私は、こんな使い方を想定していない」
三雲が、低く笑った。
だが、その笑いには先ほどほどの勢いはなかった。目の前で他人の傷が深すぎると、人は簡単には笑えない。
「みんな、そう言うんだな」
三雲は言った。
「そんなつもりじゃなかったって」
神林は反論できなかった。
壁の映像では、雨が降り続いている。
真紀の手が、泥とガラス片の中で微かに動いていた。
神林は、その手を見つめることしかできなかった。




