第二章 罪の値段
人間は、自分の呼吸が誰かに管理されていると知った瞬間から、うまく息ができなくなる。
神林悠真は、そのことを身をもって理解していた。空気はまだある。肺に入ってくる酸素が致命的に足りないわけではない。頭も動く。指先も痺れていない。だが、天井の表示に「環境負荷第一段階」と出たままになっているだけで、胸の奥に見えない手が置かれているような感覚があった。
法廷と呼ぶにはあまりに無機質な円形の部屋で、十三人は沈黙していた。
沈黙には種類がある。考えている沈黙。怯えている沈黙。怒りを抑えている沈黙。自分だけは無関係だと信じ込もうとする沈黙。
いまここにあるのは、その全部だった。
三雲翔は、さっきまでの威勢を失い、椅子の背にもたれていた。髪を染めた軽薄な男、という印象はまだ残っている。だが、その顔色は青白い。額には汗が浮かび、視線は中央の処刑装置と自分の腕輪の間を何度も往復していた。
自分が死ぬかもしれないと理解した人間は、突然、被害者の顔を思い出すのだろうか。
それとも、自分を殺そうとしている人間の顔だけを睨むのだろうか。
神林には分からなかった。
「被験者各位に告知します」
天井からZEROの声が降った。
その声には、やはり温度がない。人間が作った音声であることは間違いないのに、怒りも、焦りも、愉悦もない。だからこそ、聞く者の内側に勝手な感情を生む。
「審理は継続されます。各被験者の罪責情報は、段階的に開示されます」
「ふざけるな」
砂原剛が低く言った。
彼は椅子に固定されたまま、なお立ち上がろうとしているように見えた。腕と肩に力が入り、金属製の拘束具が微かに軋む。元刑事という肩書きは、姿勢だけで納得できるものがあった。だが、その荒さは、警察官というより、取り調べ室で机を叩く男を連想させた。
「証拠だの審理だの、言葉だけ裁判の真似をしても無駄だ。これは犯罪だ」
「本システムは犯罪性の判断を行いません」
「便利な言い逃れだな」
砂原が吐き捨てる。
小早川環が静かに続けた。
「ここにいる十三人の中に、医療知識のある方は」
黒瀬万里が顔を上げた。
「私です」
「先ほどから空気が薄く感じます。実際に危険な状態ですか」
黒瀬は一瞬、天井を見た。空調音を聞き分けようとしているようだった。それから、自分の脈を測るように指先を手首に当て、冷静に答えた。
「すぐに死ぬ濃度ではないと思います。少なくとも、今は。ただ、酸素濃度を少し落としているか、二酸化炭素濃度を上げているか、あるいは両方でしょう。閉鎖環境でこれを続けられれば、判断力は落ちます」
「つまり、投票を誘導できる」
神林が言うと、黒瀬は彼を見た。
「ええ。怖がらせて、考える力を削る。医療的というより、拷問に近い」
「拷問なら俺たちは全員被害者だ」
三雲が弱々しく言った。
「だろ? さっきの投票だって無効だ。脅されてたんだから」
「あなたの場合は、投票される側だったでしょう」
秋津怜が冷たく言った。
三雲の顔が歪む。
「何だよ、検察さん。そんなに俺を殺したいのか」
「殺したいとは言っていない」
「有罪に入れたんだろ」
「それを答える義務はない」
「答えなくても顔に出てるよ。あんたみたいな奴が一番怖いんだよ。自分は正義です、手続きです、基準ですって顔して、人を追い詰める」
秋津は眉ひとつ動かさなかった。
その表情が、かえって三雲を苛立たせたらしい。三雲はさらに何か言おうとしたが、ZEROの声がそれを遮った。
「第二証拠を提示します」
壁面が白く光った。
今度の映像は、夜の災害現場だった。
雨ではない。粉塵だった。画面全体が白く霞んでいる。照明車の光が斜めに差し込み、崩れた建物の断面を照らしていた。鉄骨が折れ、コンクリート片が山のように積み重なっている。どこかで人の泣き声がしている。救急隊員の怒鳴り声。無線の雑音。担架の金具がぶつかる音。
神林は、映像の種類を見て、すぐに思った。
これは現場記録だ。
誰かのスマートフォンではない。救助隊か医療チームのボディカメラ映像。画角が低く、揺れが少ない。音声も複数チャンネルで拾われている。
画面中央に、黒瀬万里が映った。
今よりも少し若い。髪を後ろで束ね、顔には血と埃がついていた。腕に「DMAT」と書かれたベストを着ている。彼女の前には、二人の傷病者がいた。
一人は高齢の女性だった。胸部を強く圧迫されているらしく、呼吸が浅い。もう一人は、若い妊婦だった。腹部を抱え、顔を真っ青にしている。そばには救急隊員が二人。だがストレッチャーは一台しかない。
『先生、搬送枠は一つです』
隊員の声が言った。
『次の救急車は』
『不明です。道路が詰まってます』
黒瀬は二人の傷病者を見た。時間にすれば、数秒だったのだろう。だが映像の中では、その数秒が異様に長く見えた。
『妊婦を先に』
黒瀬が言った。
高齢女性の家族らしき男が叫ぶ。
『母を置いていくんですか』
『救命可能性を考えています』
『母だって生きてる!』
『分かっています』
黒瀬の声は震えていなかった。
震えていないことが、残酷に見えた。
『先生、早く』
隊員が促す。
黒瀬は妊婦のほうへ手を伸ばした。
映像が切り替わる。
病院の廊下。若い妊婦が手術室へ運ばれていく。続いて、暗い霊安室。白い布をかけられた小さな遺体袋ではなく、大人の身体。高齢女性の死亡確認書。家族の泣き声。
さらに映像は変わった。
インタビュー映像だった。高齢女性の娘と思われる女が、赤く腫れた目でカメラを見ている。
『母は、年寄りだから殺されたんです』
その言葉だけが、やけにはっきり響いた。
画面が黒くなる。
壁に文字が出た。
被験者09 黒瀬万里
罪状:災害医療現場における救命対象選別
死亡者一名
黒瀬は目を閉じていた。
逃げているようには見えなかった。むしろ、何度も見たくないものを、それでも見終えるために目を閉じたようだった。
「あなたが殺したんですか」
白石澪が、震える声で言った。
問い詰める声ではなかった。純粋な恐怖だった。自分の知らない大人の世界では、そんなふうに命を選ぶことがあるのか、と怯えているようだった。
黒瀬は目を開けた。
「私は、選びました」
「殺したかどうかを聞いてるんです」
三雲が口を挟んだ。
黒瀬は彼を見た。
「私が妊婦を優先しなければ、妊婦と胎児が死んでいた可能性が高い」
「ほら、出た」
三雲が笑う。
「可能性。確率。便利だな。死んだ婆さんには関係ないだろ」
「関係ないとは言っていません」
「でも置いてった」
「ええ」
黒瀬は否定しなかった。
「置いていきました」
その正直さが、部屋の空気を重くした。
誰かが嘘をつけば、責められる。言い訳をすれば、さらに責められる。だが、黒瀬は自分が選んだことを認めた。認めたうえで、なおそれが必要だったと言っている。その態度は傲慢にも見えたし、傷をえぐられ続けた人間の諦めにも見えた。
秋津が言った。
「トリアージの判断ですか」
「そうです」
「記録上、その判断は妥当とされた?」
「院内検証では」
「遺族は納得していない」
「納得されるとは思っていません」
黒瀬は淡々と答えた。
「人の親を置いていった人間が、正しい判断でしたと言っても、遺族が納得するはずがありません」
「では、あなた自身はどう思っているんですか」
小早川が聞いた。
黒瀬は少し間を置いた。
「毎日、違う答えになります」
その言葉に、神林は顔を上げた。
「ある日は、あれでよかったと思います。そう思わなければ、次の現場に行けないから。別の日には、あの人を見捨てたと思います。そう思わなければ、医師でいる資格がない気がするから」
誰もすぐには何も言わなかった。
罪を数値化することは簡単だ。
死亡者一名。
だが、その一名の向こう側には、別の命がある。救われた妊婦。生まれた子供。泣いた遺族。選んだ医師。選ばれなかった母親。
どれを足し、どれを引けば、罪の値段は出るのか。
「被験者09への審理は記録されました」
ZEROが言った。
「続いて、第三証拠を提示します」
「休憩もなしか」
砂原が言った。
「人間の集中力を考えろ。こんな状態で判断なんかできるわけがない」
「環境負荷は許容範囲内です」
「そういう問題じゃない」
砂原が言い終える前に、壁の映像が切り替わった。
取調室だった。
狭い部屋。灰色の壁。机を挟んで二人の男が座っている。一人は若い男。痩せていて、頬がこけている。もう一人は、今より少し若い砂原剛だった。
映像は監視カメラのものらしく、天井近くから見下ろす角度だった。音声は悪い。だが、砂原の声だけははっきり拾われていた。
『お前がやったんだろ』
『違います』
『何度も同じことを言わせるな。現場にお前の指紋が出てる』
『でも、俺じゃないです。本当に』
『じゃあ誰だ。名前を出せ』
『分かりません』
若い男は泣きそうになっていた。
砂原は机を叩いた。
音が部屋に響く。現在の円形法廷にも、その音が響いたように感じられた。
『お前みたいなのはな、黙ってれば誰かが助けてくれると思ってる。だがな、被害者はもう喋れないんだよ。喋れるお前が黙ってどうする』
『本当に、俺じゃ……』
『嘘をつくな!』
映像が途切れる。
次の映像では、若い男が留置場で首を吊っていた。職員が駆け込む。誰かが心臓マッサージをしている。だが、画面の端に出た時刻表示は、もう遅すぎることを示していた。
壁に文字が現れる。
被験者05 砂原剛
罪状:強圧的取調べによる被疑者自殺誘導
死亡者一名
砂原は、映像から目を逸らさなかった。
顔には怒りがあった。だが、その怒りが誰に向かっているのかは分からなかった。ZEROか。若い頃の自分か。死んだ被疑者か。それとも、目の前で自分を見ている十二人か。
「言っておくが」
砂原は低い声で言った。
「あいつは無実じゃない」
その一言で、小早川の表情が変わった。
「亡くなった方について、その言い方は」
「綺麗ごとを言うな。あいつはやっていた。俺は知っていた」
「証拠は」
「足りなかった」
「なら、それは知っていたとは言いません」
小早川の声は冷たかった。
「疑っていた、です」
「現場にいれば分かることがある」
「法廷に出せないものは、罪を決める根拠にはなりません」
「だから取り逃がせっていうのか」
「無理に自白させるよりは」
「その結果、次の被害者が出たらどうする」
砂原の声が大きくなった。
「お前ら弁護士はいつもそうだ。手続き、権利、推定無罪。言葉は立派だ。だが現場で血を見てる人間からすれば、そんなものは紙の盾だ。守っている間に、誰かが死ぬ」
「その紙の盾がなければ、無実の人間も壊れます」
「無実じゃないと言ってる」
「証明できなかった」
二人の声がぶつかる。
神林は、その対立を聞きながら、自分の中で嫌な既視感が膨らむのを感じた。
現場と制度。
直感と手続き。
救える命と守るべき原則。
どちらも正しく聞こえる瞬間がある。どちらも間違って聞こえる瞬間がある。人間は、その揺れに耐えきれない時、AIや法律や組織に判断を預けたがる。
自分は、その一端を担ったのではないか。
「砂原さん」
黒瀬が口を開いた。
「その方が亡くなった後、事件はどうなったんですか」
砂原は答えなかった。
「起訴されていないなら、真相は確定していないのでは」
「別の証拠が出た」
「では」
「だが、裁判にはなっていない」
砂原は歯を食いしばった。
「あいつが死んだからだ。死んだ人間は裁けない」
「それで、あなたは今も、その人が犯人だったと言うんですか」
「そうでも思わなきゃ、やってられるか」
言った直後、砂原の顔が微かに歪んだ。
それは本音だった。
自分が追い詰めた男が無実だったかもしれない。その可能性を抱えたまま生きるより、犯人だったと信じるほうが楽だ。砂原はそれを知っている。そして、知っているからこそ、怒っている。
秋津が静かに言った。
「砂原さん。あなたは取り調べの過程に違法性があったと認めますか」
「認めない」
「机を叩き、長時間にわたり、心理的圧力をかけた」
「昔はどこでもやっていた」
「どこでもやっていたことが、正しいとは限らない」
「検察官がそれを言うか」
砂原の目が秋津を向いた。
「お前らが欲しがったんだろ、自白を。送致したら、もっと固い調書を寄こせ、否認のままじゃ弱い、起訴できない。現場に圧力をかけていたのは誰だ」
秋津の表情がわずかに硬くなった。
この二人の罪は、別々ではないのかもしれない。
神林はそう思った。
人間の罪は、単体で存在しない。制度の中で、互いに支え合う。警察が押し、検察が受け、裁判所が認め、報道が流し、世論が求める。その中で死んだ誰かの責任だけが、最後にはひとりの名前に押しつけられる。
「続いて、第四証拠を提示します」
ZEROが言った。
小早川が目を閉じた。
次が自分だと、分かっていたようだった。
壁には法廷が映った。
現実の法廷だった。傍聴席。裁判官。検察官。弁護人席に座る小早川環。被告人席には、痩せた男が座っている。表情は見えないが、背筋が不自然にまっすぐだった。
映像の音声が流れる。
『主文。被告人は無罪』
傍聴席で誰かが叫ぶ。
画面が切り替わる。裁判所の外で、小早川が記者に囲まれている。
『判決をどう受け止めていますか』
『証拠に基づいた当然の判断です』
『被害者遺族への言葉は』
小早川は一瞬だけ口を閉じた。
『刑事裁判は、遺族感情を満たすための手続きではありません』
その言葉に、現在の小早川が微かに息を止めた。
映像はさらに進む。
暗い住宅街。パトカーの赤色灯。規制線。ニュース映像。
釈放から五十二日後、男は別の女性を殺害した。
被害者の父親が映る。顔は隠されている。だが声は隠されていない。
『あの弁護士が、あいつを外に出したんです』
壁に文字が出る。
被験者04 小早川環
罪状:再犯加害者の社会復帰関与
死亡者一名
「これは違います」
小早川は即座に言った。
声は乱れていなかった。だが、膝の上の手は強く握られていた。
「私は、法に従って弁護しました。証拠に疑義があり、裁判所が無罪を判断した。再犯は、私個人の責任ではありません」
「でも、出したんですよね」
白石が言った。
また、恐怖の声だった。
「その人が外に出なければ、次の人は死ななかったんですよね」
小早川は白石を見た。
その目に、怒りはなかった。悲しみだけでもなかった。人を守るために身につけてきた理屈が、いま目の前の少女には何の慰めにもならないことを理解した顔だった。
「そうです」
小早川は言った。
「彼が拘束され続けていれば、その事件は起きなかったかもしれません」
「だったら」
「でも、証拠が足りない人間を有罪にすることも、社会にとっては別の死です」
「別の死?」
「法の死です」
三雲が鼻で笑った。
「出たよ。法の死。殺された女の人は本当に死んだのに」
「三雲さん」
小早川の声が低くなった。
「あなたが拡散した情報も、最初は多くの人にとって正義に見えたはずです」
三雲は黙った。
「怪しい人間を晒す。逃げている人間を追う。被害者のために怒る。言葉だけなら正義です。でも、証拠を確かめず、手続きを無視し、感情だけで人を罰すれば、誰でも加害者になれる」
「俺と一緒にするなよ」
「同じ構造です」
小早川ははっきり言った。
「あなたは画面の中で、私は法廷の中で、それぞれ誰かの人生を動かした。違いはあります。でも、結果から逃げられない点では同じです」
その言葉に、神林は胸を突かれた。
結果から逃げられない。
ならば、自分はどうなのか。
自分が設計したモデルが、どこかで誰かの死に関与した。用途は変えられた。目的も曲げられた。だが、最初に命を数値として扱える形にしたのは誰か。
「弁護士は」
小早川が続けた。
「依頼人を社会的に殺すための職業ではありません。たとえ依頼人が嫌悪される人物であっても、証拠が足りなければ争う。それが私の仕事です」
「その仕事で人が死んだ」
砂原が言った。
「ええ」
小早川は認めた。
「その可能性から逃げるつもりはありません」
「なら、あんたは自分に有罪を入れるのか」
小早川は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
誰も、自分の罪を自分で測れない。
神林はそう思った。
軽く見積もれば卑怯になる。重く見積もれば自己陶酔になる。結局、人は自分の罪を他人の秤に載せるしかない。だが、その秤を持つ他人もまた、罪を抱えている。
壁の映像が消えた。
代わりに、しばらく黒い画面が続いた。神林は、その黒の中に一瞬、白い文字列が走ったように見えた。
表示エラーかと思った。
だが違った。
それは、文字だった。
コメントのように見えた。
――三雲は死刑でいい
――女医こわ
――弁護士ってやっぱクズ
――神林も黒幕だろ
――早く誰か殺せ
――このメンツ全員アウト
――白石って子かわいい、でも何したん?
――砂原みたいな刑事まだいるんだな
――小早川の理屈ほんと無理
――投票まだ?
神林は目を細めた。
文字は一瞬で消えた。壁は再び黒くなっている。
「今のを見ましたか」
神林は言った。
隣の白石が、びくりと肩を震わせた。
「文字……ですよね」
「何か流れた」
黒瀬も言った。
三雲が顔を上げる。
「コメント欄みたいだったな」
その言葉は、彼にとって馴染みのあるものだったのだろう。さっきまで怯えていた目に、別種の理解が浮かんだ。
「おい、ZERO」
神林は天井を見上げた。
「今の文字は何だ」
返事はない。
「ここは配信されているのか」
沈黙。
「答えろ。誰かが見ているのか」
ZEROは答えなかった。
その沈黙こそが答えに近かった。
神林の背筋に冷たいものが走った。地下の密室に閉じ込められているだけではない。もし、外部に映像が流れているなら、この裁判は処刑装置を備えた見世物だ。しかも外の誰かが、三雲を死刑でいいと言い、女医を怖いと言い、弁護士をクズと言っている。
その誰かは、自分たちを人間として見ているのだろうか。
それとも、画面の中の登場人物として消費しているのだろうか。
三雲の顔に奇妙な表情が浮かんだ。
恐怖と、興奮。
彼は、見られることに慣れている。叩かれることにも、煽ることにも慣れている。命が懸かったこの場でさえ、コメント欄の存在は彼に何かを思い出させたようだった。
「なるほどな」
三雲が呟いた。
「そういう企画か」
「企画ではない」
小早川が言う。
「人が死ぬかもしれないんです」
「だから見られるんだよ」
三雲は薄く笑った。
「人間は、他人が裁かれるところを見るのが好きなんだ。叩いていい相手を見つけると、みんな元気になる。俺はそれをよく知ってる」
その言葉には、開き直りではなく、長年商売にしてきた人間の実感があった。
「だったら、外の連中に言えよ」
砂原が吐き捨てた。
「これは犯罪だってな」
「言えるならな」
三雲は壁を見た。
「でも、向こうが見てるだけなら、こっちからは届かない。いつもと逆だ」
「いつも?」
「俺は配信で人を見ていた。今は見られる側だ」
誰も笑わなかった。
「第二回投票を開始します」
ZEROが告げた。
肘掛けの透明板が再び光る。
今回は名前が複数表示された。
被験者02 三雲翔
被験者04 小早川環
被験者05 砂原剛
被験者09 黒瀬万里
その他
棄権
「何だこれは」
秋津が言った。
「候補者が増えている」
「審理済み被験者は投票対象となります」
「投票の目的は、最も罪深い者を選ぶことですね」
小早川が確認する。
「その通りです」
「では、私たちは殺す相手を選んでいるのではなく、罪の重さを比較しているという建前ですか」
「処刑対象の選出です」
「言い換えないのですね」
小早川は苦く笑った。
「ある意味では誠実です」
透明板の光が、各人の顔を下から照らしていた。
神林は選択肢を見つめる。
三雲。情報拡散で自殺者を出した男。
黒瀬。災害現場で命を選別した医師。
砂原。強圧的な取り調べで被疑者を死なせた元刑事。
小早川。法に従って無罪を勝ち取り、その結果として再犯被害者を生んだ弁護士。
誰が一番罪深いのか。
問いが、すでに間違っているように思えた。
だが、その問いに答えなければ空気が削られていく。答えれば、誰かが死に近づく。
「投票しないで」
白石が言った。
声は小さかったが、部屋全体に届いた。
「投票しなければ、また全員が苦しめられる」
秋津が言った。
「でも、投票したら誰かを殺すことになります」
「全会一致でなければ殺されない」
「じゃあ、票を入れてもいいってことですか」
秋津は黙った。
その沈黙に、白石の顔が青ざめる。
「皆さん、おかしいです。さっきまで、誰も殺せないって言ってたのに。もう比べ始めてる」
その言葉は、鋭かった。
神林は自分の胸の内を見透かされたように感じた。たしかに、比べていた。誰がより悪いか。誰なら選びやすいか。誰を選べば自分の罪から目を逸らせるか。
最初の投票から、まだ一時間も経っていない。
それなのに、彼らはもう「誰かを選ぶ」思考に慣れ始めていた。
「人間は慣れるんです」
黒瀬が言った。
白石が彼女を見る。
「痛みにも、死にも、選別にも。慣れなければ、現場には立てません。でも、慣れてしまえば、人間ではなくなる」
「医者がそれを言うのか」
砂原が言った。
「医者だから言うんです」
黒瀬は透明板に指を置いた。
誰に投票したのかは分からない。
次々と、透明板が光った。
神林は最後まで迷った。
棄権にするのは簡単だった。だが、棄権もまた判断だった。判断しないという形の判断。安全圏から罪を見ているだけの立場。
神林は指を動かした。
自分でもなぜその選択をしたのか、はっきり分からなかった。ただ、選んだ瞬間、胸の中に冷たいものが落ちた。
投票完了。
全員の投票が終わると、壁に結果が表示された。
被験者02 三雲翔 三票
被験者04 小早川環 二票
被験者05 砂原剛 三票
被験者09 黒瀬万里 二票
その他 一票
棄権 二票
全会一致には達しませんでした。
誰も安堵しなかった。
票が割れたことは、誰も処刑されなかったことを意味する。だが同時に、全員が誰かを選んだことも意味していた。棄権した者もいる。その他を選んだ者もいる。だが、すでにこの法廷は、誰かを殺すための数を刻み始めていた。
「判定不一致」
ZEROの声が降る。
「環境負荷を第二段階へ移行します」
床が低く震えた。
中央の処刑装置ではなく、壁際が動いた。黒い壁の一部が音もなく開く。中から、細い金属アームがいくつも現れた。先端には電極のようなものがついている。
「何だ」
砂原が身構える。
次の瞬間、全員の腕輪が赤く光った。
神林の左腕に、激しい痛みが走った。
電流だった。
筋肉が勝手に収縮し、指が開いた。奥歯が鳴る。視界が白く跳ねる。叫ぼうとしても、喉から出るのは潰れた息だけだった。痛みは数秒で止まったが、神経の奥に焼けるような余韻が残った。
白石が泣き声を上げた。
黒瀬が荒い息をしながら、「大丈夫、すぐ止まった」と言おうとしている。だが彼女自身の声も震えていた。
三雲は椅子の上で体を丸めていた。
「何でだよ」
彼は呻いた。
「誰も死ななかっただろ。何で罰を受けるんだよ」
「全会一致が成立しなかったためです」
「そんなの最初から無理だろ!」
「合意形成能力の低下を確認しました」
「合意じゃない。脅迫だ」
神林は息を整えながら言った。
「これは合意ではない」
「本システムは、被験者の発言を記録しています」
「記録して何になる」
「観測に使用します」
また観測。
神林は、その単語に強い違和感を覚えた。
この法廷の目的は、単に処刑対象を決めることではない。誰を選ぶかだけでなく、選ぶまでの過程を見ている。人間がどんな証拠で怒り、どんな言葉で正当化し、どんな恐怖で妥協するか。それを集めている。
誰のために。
何のために。
「第五証拠を提示します」
ZEROが言った。
「もうやめて」
白石が泣きそうな声で言った。
「もう、見たくない」
「提示対象、被験者03、白石澪」
空気が止まった。
白石の顔から血の気が引いた。
「私……?」
壁に映像が出た。
そこは、先ほどの災害現場とは違っていた。昼間。駅前広場のような場所。何かのイベントが行われていたらしく、テントや屋台が並んでいる。だが、画面は激しく揺れていた。地震だ。人々が悲鳴を上げ、看板が倒れ、ガラスが割れる。続いて、群衆が一方向へ押し寄せる。誰かが転ぶ。そこにまた人が重なる。
群衆事故。
神林はすぐにそう理解した。
映像は乱れながらも、一人の少女を捉えていた。高校生くらいの白石澪だった。制服姿。顔は埃に汚れ、手には血がついている。彼女は瓦礫の隙間に膝をつき、誰かの手を握っていた。
『大丈夫。離さないから』
白石の声がする。
瓦礫の下から、少年の手が伸びている。細い手だった。白石は両手でそれを握る。周囲では大人たちが怒鳴っている。
『そこ危ない!』
『余震が来るぞ!』
『離れろ!』
白石は離れない。
だが次の瞬間、どこかで別の悲鳴が上がった。
白石が振り向く。
映像が一瞬乱れる。
そして、白石の手が少年の手から離れた。
瓦礫が崩れる。
少年の手が見えなくなる。
白石が叫ぶ。
音声はそこで切られた。
壁に文字が浮かぶ。
被験者03 白石澪
罪状:救助可能者の放棄
死亡者一名
白石は、首を横に振っていた。
声にならない声で、何度も何度も言っていた。
「違う」
それは弁明というより、祈りのようだった。
誰も、すぐには何も言わなかった。
三雲だけが、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、先ほどまでとは違う光があった。獲物を見つけた人間の光だった。
神林は、その目を見て、嫌な予感を覚えた。
壁の黒い部分に、また一瞬だけ白い文字が流れた。
――聖女ってこの子?
――え、手離してるじゃん
――これは無理
――見殺し?
――泣けば許されると思うな
――白石に入れろ
神林は立ち上がろうとした。
拘束具が腰を押さえ、身体は動かなかった。
白石澪は、まだ首を横に振っている。
「違うんです」
今度は、かすかに声が出た。
「私、離したんじゃない」
だがその声は、流れていく見えないコメントの速度に、あまりに弱かった。




