第一章 地下法廷
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
後頭部の奥に、鈍い杭を打ち込まれたような痛みがある。神林悠真は、その痛みを頼りに意識を手繰り寄せた。瞼を開けようとすると、目の表面に薄い膜でも張っているような重さがあった。息を吸う。空気は乾いていて、わずかに金属の匂いが混じっていた。
病院ではない。
神林はそう思った。
病院の空気には、もっと柔らかい消毒液の匂いがある。ここにあるのは、研磨された鉄と、冷たいコンクリートと、長いあいだ人間の体温から遠ざけられていた施設の匂いだった。
ゆっくり目を開けると、視界の上に黒い天井が広がっていた。
天井は高かった。体育館ほどではないが、一般的な部屋よりはずっと高い。そこに、小さな丸いものがいくつも埋め込まれている。照明かと思ったが、違った。黒いガラスの奥に、レンズのようなものが見える。ひとつではない。十、二十、いや、数え切れないほどの数がある。
カメラだ。
神林は起き上がろうとした。その瞬間、左腕に違和感を覚えた。手首に、冷たいものが巻きついている。
腕輪だった。
幅三センチほどの金属製のバンド。表面は滑らかで、継ぎ目が見当たらない。そこに青白い文字が浮かんでいた。
被験者07
神林悠真
罪状:生存判断アルゴリズム開発関与
意味が分からなかった。
神林は腕を振った。外れない。指先で縁を探る。留め具もネジもない。皮膚との隙間はほとんどなく、無理に引き抜こうとすれば骨が折れるだろう。
「……何だ、これは」
自分の声が、思ったより掠れていた。
声は円形の空間に反響した。
そこで初めて、神林は自分が椅子に座らされているのだと気づいた。背もたれのある、黒い椅子。肘掛けには透明な板がはめ込まれている。板の中央には、指紋認証装置のような丸いくぼみがあった。
神林は顔を上げた。
周囲に、人がいた。
円形に並べられた十三脚の椅子。そのすべてに、人間が座っている。男も女もいた。年齢もばらばらだ。二十歳前後に見える少女。五十代ほどの男。スーツ姿の女。作業着の男。白衣を思わせる薄いコートを着た女。誰もが、神林と同じように手首に金属の腕輪をつけられていた。
中央には、透明な箱のような装置が置かれている。箱の中には何も入っていない。だが、床から伸びる配線が何本も繋がっていた。周囲の壁は黒い。窓はない。扉も見当たらない。
裁判所に似ている、と神林は思った。
だが、ここは裁判所ではない。少なくとも、人間が人間を裁くために作った場所ではない。そう思わせる異物感があった。人の手で作られたのに、人のためには作られていない。そんな場所だった。
「起きたか」
右手のほうから声がした。
低い男の声だった。
神林がそちらを見ると、顎の張った中年の男がこちらを睨んでいた。短く刈った髪。広い肩。椅子に座らされていても、警察官か自衛官のような圧がある。
「ここがどこか分かるか」
「いえ」
神林は答えた。
「あなたは?」
「砂原剛」
男は短く名乗った。
「元刑事だ」
その肩書きを言うとき、砂原の顔にはわずかな硬さが生まれた。誇りとも後悔ともつかない表情だった。
神林がさらに何かを尋ねようとした時、反対側で女の声が上がった。
「いい加減にして。誰か、説明して」
スーツ姿の女だった。三十代後半から四十代前半。髪はきっちりと後ろでまとめている。膝の上で握られた手には、感情を押し殺している者特有の力がこもっていた。
「誘拐よ。これが合法なわけがない」
「合法か違法かなんて、今はどうでもいいだろ」
薄笑いを含んだ声が割って入った。
声の主は、二十代後半ほどの男だった。明るい色に染めた髪。細い顎。だらしなく椅子にもたれ、状況を面白がっているようにも見える。だが目は落ち着きなく動いていた。恐怖を冗談で隠すタイプだ。
「問題は、誰がこんな悪趣味なセットを用意したかってことだ。金かかってるぜ、これ」
「笑いごとではありません」
今度は別の女が言った。柔らかい声だったが、芯があった。彼女は黒いジャケットを着ている。視線は鋭いが、相手を刺すための鋭さではない。受け止めるために必要な硬さを持っているように見えた。
「あなた、名前は」
神林は聞いた。
「小早川環。弁護士です」
弁護士。
その言葉に、何人かが反応した。助けを見つけたような顔をする者もいれば、逆に警戒する者もいた。
「だったら何とかしてくれよ、先生」
髪を染めた男が言った。
「違法監禁でしょ、これ。慰謝料いくら取れる?」
「ここから出られれば、いくらでも考えます」
小早川は冷たく返した。
その隣で、痩せた男が腕輪を覗き込んでいた。眼鏡の奥の目が細かく震えている。記者か研究者のような雰囲気があった。
「全員、腕輪に名前と罪状が出ているんですか」
男の問いに、数人が自分の腕を見た。
神林も、もう一度自分の腕輪を見た。
被験者07。神林悠真。罪状、生存判断アルゴリズム開発関与。
その言葉だけが、血管の内側に染み込んでくるようだった。
生存判断アルゴリズム。
神林は、かつてその言葉を仕事として扱っていた。災害、医療、交通、救助。限られた資源の中で誰を優先するか。人間が目の前で判断すれば、責任者はその場にいる個人になる。AIが補助すれば、判断はより公平で、より速くなる。少なくとも、神林はそう考えていた。
考えていた。
過去形になってから、もう何年も経つ。
「ふざけないで」
震えた声がした。
若い女性だった。いや、少女と言ってもよかった。白石澪。腕輪の表示にそう出ている。肩までの髪を乱し、両手を胸元に寄せている。年齢は二十歳前後に見えたが、その表情はもっと幼く見えた。
「私、何もしてません。誰かの死に関わったなんて、そんなの……」
「全員そう言うさ」
低く言ったのは、スーツ姿の男だった。眼光が鋭い。膝の上で指を組み、まるで最初からこの場に呼ばれる理由を知っているような落ち着き方をしている。
「あなたは」
「秋津怜。元検察官だ」
それだけで、空気が少し変わった。
警察、弁護士、検察官。ここには司法に関係する人間がいる。神林はそのことに気づいた。偶然とは思えなかった。
その時だった。
壁が光った。
黒い壁の正面、一番広い面に白い文字が浮かんだ。まるで巨大なディスプレイのようだった。音もなく、文字だけが現れる。
ようこそ、ゼロの審判へ。
誰も声を出さなかった。
次の瞬間、天井のスピーカーから、抑揚の少ない声が降ってきた。性別も年齢も感じさせない声だった。人間の声を模しているが、人間が話しているという温度はなかった。
「被験者十三名の覚醒を確認しました。審判を開始します」
「誰だ」
砂原が怒鳴った。
「姿を見せろ」
「本システムの名称はZERO。公正な審理補助を目的とした裁判支援AIです」
「AI?」
髪を染めた男が笑った。笑おうとして失敗した声だった。
「何だよ、それ。最近流行りの脱出ゲームか?」
「この法廷には、過去に他者の死へ関与した十三名が集められています」
ZEROの声は、男の言葉を無視した。
「各被験者は、他の被験者と協議し、最も罪深い者を一名選出してください」
神林は喉の奥が冷えるのを感じた。
「選出とは何のことだ」
秋津が言った。
「投票による有罪指定です」
「有罪指定?」
「全会一致で一名が選出された場合、その一名のみを処刑します」
白石が息を呑んだ。
誰かが椅子を蹴った。だが椅子は床に固定されているらしく、低い音を立てただけだった。
「処刑だと?」
砂原が立ち上がろうとした。立ち上がれなかった。腰のあたりで固定具が作動している。いつの間にか、椅子の側面から伸びたベルトが体を押さえていた。
「最終期限までに全会一致が成立しない場合、全員を処刑します」
声は淡々としていた。
その冷静さが、かえって現実味を持っていた。人間が脅しているなら、怒りや興奮が混じる。だがZEROにはそれがない。死刑宣告も天気予報も、同じ温度で告げる。だからこそ、嘘に聞こえなかった。
「馬鹿な」
小早川が言った。
「これは裁判ではありません。手続きも、弁護権も、証拠能力も、何もない」
「審理補助を開始します」
「聞きなさい」
小早川が声を強めた。
「あなたに人を裁く権限はない」
「ZEROは人を裁きません」
その返答に、神林は眉を動かした。
「証拠を提示し、投票を管理します。裁定を行うのは、被験者十三名です」
誰もすぐには反応できなかった。
AIは人を裁かない。
人間に、人間を裁かせる。
神林は、その構造に強い嫌悪を覚えた。同時に、かつて自分が似た言葉を使ったことを思い出した。
AIは判断しない。判断を補助するだけだ。
そう言えば、責任の輪郭は薄くなる。誰が最終的に決めたのか。人間か、AIか、組織か、仕様か。輪郭が薄くなるほど、罪はどこにも落ちなくなる。
「第一証拠を提示します」
壁の文字が消え、映像が映った。
どこかのマンションだった。夜。画面はスマートフォンの縦長映像らしく、手ぶれがある。映っているのは、ひとりの女性だった。顔にはモザイクがかけられている。玄関前でインターホンを鳴らされ、何度も名前を呼ばれている。
動画の上部に、派手な字幕が出ていた。
詐欺師女、ついに自宅特定。
神林は、円形の席の一人が身じろぎするのを見た。
髪を染めた男だった。
腕輪の表示が見えた。
被験者02
三雲翔
罪状:虚偽情報拡散による自殺誘導
三雲は口元を引きつらせた。
「おい。何だよこれ」
映像は切り替わる。配信画面。コメント欄が滝のように流れている。三雲らしき男がカメラに向かって喋っている。今より少し若い。声は同じだった。
『逃げてる時点で黒なんですよ。やましいことがないなら出てこられるでしょ。みんな、こういう奴を許しちゃ駄目なんです』
次に、住所の一部、勤務先、家族構成をまとめた画像が映る。続いて、女性の職場に電話が殺到している録音。母親らしき女性が泣きながらインタビューに答えている映像。
最後に、短いニュース映像が流れた。
都内マンションで二十七歳女性が死亡。警察は自殺とみて調べています。
映像が止まった。
円形の空間は、さっきより狭く感じられた。
「違う」
三雲が言った。
「違うって。俺は、そんなつもりじゃなかった」
誰も返事をしなかった。
「そもそも、俺が最初に言い出したんじゃない。ネットで話題になってたんだよ。俺はそれをまとめただけだ。視聴者が見たいって言ったから、需要があったから」
「住所を出したのは、あなたですか」
小早川が聞いた。
「俺じゃない。コメントに貼られたんだ。俺は……画面に出ただけで」
「消さなかった」
秋津が言った。
三雲の顔から薄笑いが消えた。
「あ?」
「住所が表示された。あなたは消さなかった。職場が出た。あなたは止めなかった。家族構成が出た。あなたは拡散を止めなかった」
「だから、それは俺一人の責任じゃないって言ってるんだよ」
三雲は声を荒げた。
「見てた奴らがいたんだよ。コメントした奴らがいた。電話した奴らがいた。俺は殺してない。情報を出しただけだ。叩いたのは、見た奴らだ」
その言葉は、卑怯だった。
だが同時に、完全な嘘でもなかった。
神林は、そのことに不快さを覚えた。完全な嘘なら、切り捨てられる。完全な悪人なら、断罪は簡単だ。だが現実の罪は、そう都合よく一人に集まらない。薄く広がり、関係者の間を漂い、最後には誰の手にも残らない。
「被験者02、三雲翔への初回審理を開始します」
ZEROが告げた。
「制限時間、十分」
「ふざけるな!」
三雲が叫んだ。
「何で俺からなんだよ。もっといるだろ、ヤバそうなのが。元検察とか元刑事とか、そこの研究者っぽいやつとか」
三雲の目が神林を射た。
「お前の腕輪、アルゴリズムって書いてあったよな。何だよ、生存判断って。人を選別でもしたのか?」
神林は答えなかった。
答えられなかった、と言うべきかもしれない。
「質問があります」
小早川が天井を見上げた。
「私たちが投票を拒否した場合は?」
「棄権として記録します」
「棄権は全会一致に含まれますか」
「含まれません」
「では、全員が棄権すれば」
「最終期限までに全会一致が成立しない場合、全員を処刑します」
小早川は唇を結んだ。
秋津が静かに言った。
「つまり、選ばせる気だ」
「選ぶわけないだろ」
砂原が言った。
「こんな訳の分からない場所で、人を殺せるか」
「なら、全員死ぬ」
秋津の声は冷たかった。
砂原が睨む。
「お前は選べるのか」
「選ばなければならない状況は存在する」
「検察官らしいな」
「元、だ」
秋津は訂正した。
「だが、必要なのは感情ではない。基準だ。誰がどの行為によってどれだけの結果を生んだのか。因果関係、故意、過失、結果の重大性。そうしたものを整理しなければ、ただの私刑になる」
「もう私刑でしょう」
小早川が言った。
「ここに合法な裁判手続きはありません」
「だからこそ、感情で流されるべきではない」
「感情を排除した人殺しなら、正当化できると?」
秋津は小早川を見た。
「あなたは弁護士だ。どんな人間でも弁護する。たとえ相手が人を殺していても」
「それが法です」
「ここに法はない」
その言葉が落ちた瞬間、全員が黙った。
ここに法はない。
その通りだった。だが、法がなければ何も選ばなくていい、ということにはならない。むしろ法がないからこそ、剥き出しの判断だけが残る。
白石澪が、小さな声で言った。
「誰かを選んだら、本当に死ぬんですか」
「処刑は実行されます」
ZEROが答えた。
「証明しろよ」
三雲が吐き捨てた。
「どうせ脅しだ。見せかけだろ。AI裁判? 処刑? そんなもん、今どき配信ドラマでもやらねえよ」
その直後、中央の透明な箱の中で何かが動いた。
床から細い金属柱がせり上がる。先端には、注射針に似たものが取り付けられていた。さらに、天井の一部が開き、黒いノズルが現れる。壁には、いくつもの赤いランプが点灯した。
「処刑方式は、対象者の生体情報に基づき最適化されます」
ZEROが言った。
「薬物、低酸素、圧潰、頸部切断、電気的心停止。いずれも、三十秒以内に不可逆的死亡を実現します」
誰かが吐きそうな声を出した。
三雲の顔が青くなった。
「脅しだ」
それでも彼は言った。
「脅しに決まってる」
神林は、中央の装置を見つめた。
作り物ではない。少なくとも、神林の知る限り、あの機構は人を殺せる。薬剤、窒息、電流。それぞれに必要な設備が揃っている。問題は実行する意思だけだ。そして、AIに意思はない。実行命令が設定されていれば、ためらいなく動く。
「投票準備を開始します」
肘掛けの透明板が光った。
そこに名前が表示される。
被験者02 三雲翔
有罪指定
無罪
棄権
「ちょっと待て」
三雲が叫んだ。
「本当にやる気かよ。おい、やめろ。俺は殺してない。あの女が勝手に死んだんだ」
その言葉に、空気が変わった。
三雲自身も、言った直後にまずいと思ったらしい。だが一度出た言葉は戻らない。
白石が震える声で言った。
「勝手に、なんて」
「違う。そういう意味じゃない」
「そういう意味でしょう」
黒いコートの女が言った。医師の黒瀬万里。腕輪にそう表示されている。彼女はずっと黙っていたが、その声には疲れた怒りがあった。
「追い詰められた人間が死んだ時、自分は手を下していないと言う人は多いです。でも、手を下していないことと、関係がないことは違う」
「医者が説教かよ」
三雲が噛みついた。
「お前だって腕輪に何か書いてあるんだろ。見せてみろよ」
黒瀬は黙った。
「やめてください」
小早川が言った。
「今は互いを攻撃しても意味がありません」
「意味ならある」
秋津が透明板に指を置いた。
「この場では、判断しない者も責任を負う」
「秋津さん」
小早川の声が鋭くなる。
「あなた、本気で彼に入れるつもりですか」
「私は、提示された証拠に基づいて判断する」
「証拠は一部だけです」
「一部でも、彼の行為は確認できる」
「この場で人の命を奪うほどの確認ですか」
秋津は答えなかった。
神林は透明板を見下ろした。
有罪指定。無罪。棄権。
指先が動かない。
自分が選ばなければ、誰かが選ぶ。誰も選ばなければ、全員が死ぬ。だが、だからといって自分の指で他人を死に送れるのか。
これが設計者の考えた罠なら、あまりに悪質だった。
人は、誰かを救うためなら別の誰かを切り捨てることがある。災害現場。手術室。戦場。暴走車両。救助資源の限界。神林はそれを研究対象として見てきた。数式にし、シミュレーションし、論文に書いた。そこでは、死ぬ人間に名前はなかった。
だが、ここには名前がある。
三雲翔。
軽薄で、卑怯で、人を死に追い込んだかもしれない男。
それでも、名前がある。
「投票を開始してください」
ZEROの声が降る。
神林は目を閉じた。
胸の奥に、古い映像が浮かんだ。雨の夜。歪んだ車体。赤いテールランプ。救急車の光。担架に乗せられた女性の手。名前を呼んでも返事はなかった。
なぜ、彼女だったのか。
なぜ、別の誰かではなかったのか。
その問いに答えを求めて、神林は何度もシステムログを読んだ。事故記録を読み、車両制御の仕様を読み、救急搬送の判断基準を読んだ。読めば読むほど、責任者は遠くなった。メーカー。自治体。病院。アルゴリズム。現場の判断。気象条件。道路状況。
誰か一人を憎めたら、どれほど楽だっただろう。
神林は目を開けた。
そして、棄権に指を置いた。
透明板が短く光った。
投票は順に処理された。誰が何を選んだかは表示されない。ただ、中央の透明箱の中で白い光が点滅するだけだった。
数秒後、壁に結果が出た。
被験者02 三雲翔
有罪指定 七票
無罪 四票
棄権 二票
全会一致には達しませんでした。
三雲が大きく息を吐いた。助かったというより、腰が抜けたような顔だった。
「ほら見ろ」
彼は震えた声で言った。
「誰も殺せないんだよ。普通はそうだろ。人間なんだから」
だが、その言葉が終わる前に、天井の照明が一段落ちた。
部屋全体が低く唸った。空調の音が変わる。神林はすぐに気づいた。吸い込む空気が薄くなっている。劇的ではない。だが確実に、肺に届く酸素の量が減っていた。
壁に新たな表示が出る。
判定不一致。
審理時間を短縮します。
残り審理時間:十一時間。
「おい」
砂原が怒鳴った。
「何をした」
「環境負荷を第一段階へ移行しました」
「酸素を下げたのか」
「生存に直ちに支障はありません」
「ふざけるな」
砂原がベルトを引きちぎろうとした。だが固定具はびくともしない。
白石が苦しそうに胸を押さえた。黒瀬が身を乗り出す。
「過呼吸です。ゆっくり息をして。吸うより吐くことを意識して」
「無理です」
「大丈夫。まだ酸素はあります。私の声を聞いて」
黒瀬の声は落ち着いていた。医師として何度も使ってきた声なのだろう。自分自身の恐怖を押し殺し、相手の呼吸を守る声。
神林は自分の呼吸を数えた。
酸素濃度が下がったというより、二酸化炭素濃度の調整かもしれない。あるいは、心理的負荷を高めるためのわずかな環境変化。人間は、空気が薄いと知らされるだけで呼吸が乱れる。ZEROはそれを理解している。
いや、理解ではない。
計算している。
「第二証拠の提示準備を開始します」
「まだやる気か」
小早川が言った。
「あなたの目的は何ですか。誰がこのシステムを動かしているんですか」
「目的は、罪責の比較と社会的合意形成の観測です」
「観測?」
神林は思わず声を出した。
「何を観測している」
ZEROは少し間を置いた。
その間が、人間の沈黙のように感じられて、神林は嫌な感覚を覚えた。
「被験者が、他者の死を許容するまでの過程です」
誰も声を出せなかった。
その時、壁の映像が切り替わった。
次に映ったのは、会議室だった。
神林は息を止めた。
その会議室を知っていた。
白い机。壁際の大型モニター。窓の外に見える湾岸のビル群。数年前、神林がまだ研究所にいた頃、何度も使った会議室だ。
映像の中に、若い神林がいた。
今より髪が短く、頬にもまだ疲れが刻まれていない。スーツを着て、モニターの前に立っている。画面には、複数のシミュレーション結果が表示されていた。
『緊急時に、全員を救うことはできません』
映像の中の神林が言う。
声は冷静だった。自分の声なのに、知らない人間の声に聞こえた。
『だからこそ、判断基準を事前に設計しておく必要があります。現場の混乱に任せれば、判断は経験、感情、声の大きさに左右されます。AIによる生存判断補助は、救命資源を最大化するための技術です』
誰かが、現在の神林を見た。
砂原。秋津。小早川。三雲。白石。黒瀬。全員の視線が少しずつ神林へ集まってくる。
映像の中の神林は続ける。
『AIに人の命を選ばせるのではありません。人間が後から検証できる形で、判断の根拠を提示させるのです』
その言葉を、神林は覚えていた。
何度も言った。記者会見でも、審査会でも、倫理委員会でも言った。AIに命を選ばせるわけではない。人間の判断を補助するだけだ。
それは防御の言葉だった。
責任を明確にしないための、便利な言葉でもあった。
映像が乱れた。
会議室の映像が消え、雨の道路が映る。夜だった。自動運転車の車載映像。ワイパーが画面を横切る。前方でトラックが横転し、車線を塞いでいる。右には歩道。左には対向車。車内から女性の声が聞こえる。
『悠真、今どこ?』
神林の心臓が強く跳ねた。
声を聞いた瞬間、時間が戻った。
真紀。
口に出す前に、喉が塞がった。
映像の中の女性は、助手席に座っていた。顔が映る。神林の記憶より少し明るく、少し若い。あの日のままだった。
彼女はスマートフォンを耳に当てている。おそらく神林と通話していた。神林はあの日、研究所にいた。帰りが遅くなると連絡した。彼女は笑って、仕方ないねと言った。
その数分後、事故が起きた。
映像の中で、車両警告音が鳴る。
衝突回避不能。
生存可能性評価開始。
乗員保護優先順位算定。
神林は椅子の肘掛けを握りしめた。
「やめろ」
声にならなかった。
映像は止まらない。
車両は左へ切れる。助手席側に衝撃が走る。画面が白く飛び、金属の軋む音が響く。女性の短い悲鳴。通信が乱れ、雨音だけが残る。
壁の映像は、そこで静止した。
神林の視界が揺れた。
何度も見た映像のはずだった。事故調査で、裁判資料で、夢の中で。だが、ここで見せられるそれは、まったく別の意味を持っていた。
ZEROが告げる。
「被験者07、神林悠真。あなたが開発に関与した生存判断アルゴリズムは、複数の実証実験を経て、救助、搬送、交通制御、刑事司法支援へ転用されました」
「違う」
神林は言った。
それだけは違う。
「私が作ったものは、裁判支援AIではない。救助判断の補助モデルだ。人を処刑するためのものじゃない」
「用途の変更は、開発後に実施されました」
「なら、私の責任ではない」
言った瞬間、自分の声がひどく空虚に響いた。
責任ではない。
三雲がさっき同じことを言った。
俺は殺してない。情報を出しただけだ。
神林はその男を軽蔑したばかりだった。
「神林さん」
小早川が静かに言った。
「あなたは、本当に知らなかったんですか」
責める声ではなかった。だからこそ答えにくかった。
「知らなかった」
神林は言った。
その言葉は真実だった。
だが、完全な真実ではなかった。
危険性を知らなかったわけではない。転用される可能性を、まったく考えなかったわけでもない。救助判断を数値化するなら、その数値はいつか別の場所へ運ばれる。命の優先順位を一度データにすれば、別の誰かがそれを別の目的に使うかもしれない。
それでも神林は進めた。
誰かを助けるためだと思っていた。
そして、誰かを助けるという言葉は、ときどき、誰かを切り捨てるという意味を隠す。
壁の表示が変わった。
被験者07 神林悠真
秘匿記録:未開示
審理予定:保留
「保留?」
秋津が低く言った。
「なぜ彼の記録は今すぐ審理されない」
「被験者07の罪責評価には、追加証拠の開示が必要です」
「追加証拠とは何だ」
「現段階では回答できません」
三雲が笑った。
今度の笑いには、恐怖だけでなく、他人の不幸を見つけた者の浅ましい安堵が混じっていた。
「ほらな。俺なんかより、そっちの方がよほどヤバいじゃねえか。AIで人を選別した先生がいるぞ」
白石が神林を見ていた。
その目には、怯えがあった。だがそれだけではない。自分もいつか同じように映像を晒されるのだと知った者の目だった。
神林は彼女から視線を逸らした。
天井のカメラが、静かにこちらを見下ろしている。
ここには十三人しかいないはずだった。
だが神林は、見られていると感じた。ZEROにではない。もっと多くの、もっと湿った視線。画面の向こうから、他人の罪を覗き込む視線。顔のない群衆の視線。
根拠はなかった。
それでも、確かにそう感じた。
壁のカウントダウンが、また一秒進む。
残り審理時間:十時間五十九分五十二秒。
秒数が減るたびに、部屋の空気が薄くなる気がした。
神林は、自分の腕輪に浮かぶ文字を見つめた。
生存判断アルゴリズム開発関与。
かつてそれは、救うための技術だった。
いま、それは罪状になっている。
円形の地下法廷で、十三人は互いの顔を見ていた。誰もが、自分以外の誰かを恐れていた。誰もが、自分だけは最後まで選ばれたくないと思っていた。
そしてその恐怖こそが、この法廷を動かす燃料なのだと、神林は気づき始めていた。
ZEROはもう何も言わなかった。
沈黙が、次の審判を待っていた。




