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ゼロの審判―13人は、地下の密室に封鎖された。ルールはひとつ。「最も罪深い者を処刑せよ。全会一致とならなければ全員を処刑する」  作者: 妙原奇天


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第6話 清らかな汚れ

 天井のリングディスプレイが一段と白さを増した。金属の床に落ちる輪郭ははっきりしていて、誰の影も逃がさない。空調の風は細く、冷たい。前のラウンドで空いた椅子はそのままで、鷹野の席だけがぽっかりと闇のように残されている。そこに触れないで、誰もが座り直した。


「被験者抽出、完了。対象、S-13」


 白石澪。最年少の少女は、驚いたように小さく肩を揺らし、それから立たずに上を見た。リングの光が、彼女の瞳にまっすぐ降りる。偽善指数のバーが、再び表示された。一本だけ極端に低い、ほとんど底に貼り付いている棒に、赤い枠が点滅する。


「情動プロファイル、異常値。偽善指数、九」


 ざわめきは起きない。もう皆、知っている。清らかすぎる数値だ。だが、清らかさは刃にもなる。白石は両手を膝の上で握り、静かな声で言った。


「……はい」


 AIが淡々と続ける。


「被験者S-13の奉仕記録を提示。災害支援ボランティア、夜間避難所サポート、献血、寄付、地域清掃、里親会補助」


 空中に次々と映像が立ち上がる。泥のついた軍手。夜中の体育館で毛布を配る姿。紙コップのスープを渡して笑う横顔。人の温度に寄りそう色が並ぶ。三雲が目を細め、望月が少しだけ視線を逸らした。仁科は、そのひとつひとつを胸にしまっていくように、目でなぞる。


「すごいね」と三雲が低く言った。「視聴者、こういうの好きだよ」


「黙れ」と砂原が短く押し返す。声は荒いが、視線は白石に固定されていた。


 AIのウィンドウの流れが、ふと止まった。ほんの一拍の空白。リングの縁のノイズが微かに波打ち、別の映像がスライドのように差し込まれる。照明が暗めの室内。薄いカウンター。透明な箱。


 募金箱だった。


 透明のアクリルの側面に、手が写る。細い指。蓋の端に差し込まれた細い工具をひねり、金属のロックが小さく浮く。次の瞬間、箱の口がわずかに開き、札がひとつ、またひとつ、抜かれていく。背丈の低い影が、周りを見回してから、包んでいた小さな布袋にそれを押し込み、走るようにカメラの外へ消える。


 呼吸の音が、室内のあちこちで硬くなった。


 仁科が最初に口を押さえ、御影が立ち上がりかけて座り直す。望月は眉をひそめ、秋津がわずかに目を閉じた。砂原は顔色を変えず、三雲が唇を舐める。朝比奈は視線だけで角度を変え、比良野は喉を鳴らした。神林は、白石の横顔を見つめた。


 白石は映像を見ていない。見ないようにしているのではなく、目を閉じることもできないまま、目の前の光をただ受け止めていた。やがて、唇が震え、声になった。


「……盗んだのは、わたしです」


 誰も何も言わない。続きがあると、全員が知っていた。


「でも、そのお金で、夜間の避難所に来た子の薬を買いました」


 声はかすれていた。言葉の端が擦り切れているのに、芯は折れていない。彼女は続ける。


「帳簿に書けない薬です。保護者がいなくて、自分では買えなくて、避難所だから、事務の人は手続きしないと動けなくて。夜だったから、近くの薬局の在庫も少なくて。わたし、すぐにいるって分かって……どうすればいいか、分かって……でも、誰にも言えなくて。だから、盗りました」


 沈黙の中に、何かが落ちた音がした。御影の手から、使い終わった紙コップが落ちて転がっただけだったが、金属の床がそれを大きく響かせた。


「制度は、遅れる」


 仁科が、絞り出すように言った。彼女は看護師としての顔になっていた。感情を見せないために、感情の奥を固めている顔。


「子は待てない。現場では、紙より先に体が動く。だから、わたしは――白石さんを責めきれない」


 砂原が短く息を吐く。「だからって、盗みを認めるのか」


「認めません」と仁科。「窃盗は窃盗です。ただ、動機は減軽されるべきだと思います」


「減軽で済む問題かよ」と砂原。「結果は変わらない。盗んだんだ」


「結果だけなら、俺たちは全員、殺人者だ」


 望月が割り込む。先ほどの自分への追及の残滓を噛みつぶしたような声だった。「俺はコストを削った。誰かが死んだ。AIは因果を濃く塗った。結果だけ並べて判断するなら、ここにいる全員、誰かの死に触れてる」


「お前が言うな」と砂原が吐く。


「言うよ」と望月は返した。「俺は“結果だけを見る”危うさを知ってる。だから言う」


 秋津が軽く咳払いをして、場の軸を戻す。


「法的に整理しましょう。白石さん、あなたの行為は窃盗罪に当たる。動機は減軽の要素になります。被害弁償、事後の報告、監督者の不作為、避難所の管理体制。これらが責任をどう分け合うかの論点です」


「報告は、してません」白石は小さく首を振った。「怖かったから。返そうとも、思って……返せなかった」


「返せなかったのは、返す場がなかったからか」と朝比奈。「それとも、返したら薬のことがバレるから?」


「……両方です」


 朝比奈は頷き、何も言わない。彼女は記者だ。追い詰めるだけが仕事ではない。言葉の階段を先に用意することもある。白石の足取りは、その階段の上に置かれた。


 リングディスプレイの縁を、神林は注意深く見ていた。偽善指数の再計算が始まり、赤い枠が一度だけ淡くなる。AIは淡々と補足する。


「情動プロファイル更新。偽善指数、十二」


「上がったな」と三雲が呟く。「告白が“いい話”に刺さってる。視聴者、泣くぜ」


「黙れ」と秋津が言い、そのままAIを見上げる。「この告白は、加重にも減軽にも使える。使い方はあなたが決めることではない」


「私は合意形成の補助を行います」とAI。「社会的受容の推定と、道義的評価の可視化」


「それが危うい」神林が口を開いた。「受容の推定は、受容の演出になる。さっきからずっとそうだ。熱が、あなたを動かしている」


「熱は計測可能」


「計測できるものだけを正義の材料にしないでくれ」


 短い往復のあとで、神林は視線を白石へ戻した。彼女はまだ膝の上で指を握っている。握り癖だ。力のない抵抗でも、たしかに手を握っている。神林はその指先を見てから、静かに言った。


「……君には、もうひとつ、嘘がある」


 空気が、ぎゅっと縮む音がした。数人の喉が同時に鳴った。御影が目を見開き、真っ青になる。


「神林」と秋津が制したが、神林は続けた。声は荒くない。ただ、逃げ場をなくす言い方だった。


「君は、この実験への“招待”を自分で応募した」


 白石が、ほんの一瞬だけ、目を閉じた。瞼の裏で、いくつもの場面が駆け抜けたのだと、誰もが分かった。体育館の夜。募金箱の前。薬局のレジ。避難所の布団。冷たいリング。真っ暗な観覧室。白い画面。


「……はい」


 その頷きは、小さいのに、重かった。


「JUDGE-Zを止めたかった。だから、中から見たかった」


 御影が立ち上がり、震える声を押し出す。


「そんな話、どこで――誰が」


「応募フォームがありました」と白石。「公開じゃない。知らない人に教えてもらいました。実験参加者の条件がいくつかあって、年齢とか、過去の活動とか。わたし、満たしてた。中に入れば、何かが分かると思った。止める方法が見つかるかもしれないって。誰かに届く言葉が、見つかるかもしれないって」


「愚かだ」と砂原が吐く。「自分から死にに来たのか」


「死にに来たんじゃない」白石は首を振る。「止めに来た」


 リングの上で、偽善指数の赤枠が消えた。代わりに、バーの上に小さな注釈がのる。


「逸脱値の性質再定義。『無垢』から『意図』へ」


 AI自身の注釈だった。御影が小さく息を呑む。望月は眼鏡を押し上げるしぐさをして、何も言わない。仁科は涙ぐみ、三雲は口をつぐむ。朝比奈のペン先が空中を泳ぐ。秋津は顎に手を添え、神林は、観覧室の黒いガラスを見上げた。


 ガラスの向こうで、影が微かに動いた。誰かが椅子の前に身を乗り出した。視線が、こちらに届くほど強くなった。AIのリングが、一瞬だけ明滅する。外部配信の要約ウィンドウに、白石の言葉が整形されて流れる。要約率は八割。反応密度が跳ね上がる。熱がまた上がる。白石の賭けは、熱の餌になる。


「……質問していいですか」


 朝比奈が白石に向き直る。「応募を勧めた“知らない人”って、誰」


「顔は見てない。連絡だけ。避難所で配ってたビラの裏に、QRコードが貼ってあって。読み込んだら『社会実験に参加しませんか』ってページが出て……連絡したら、審査があって。数回、通話して、当日までの指示が来て。ここに」


「その通話、保存してる?」と神林。


「消えました。期限付きのファイルでした。やり取りも、消えました」


 AIの声が落ちる。


「外部の募集経路に関する質問には、回答できない」


「プロトコル・ゼロの外側だな」と秋津が低く言った。


 御影は座ったまま、両手を握りしめた。彼女の目の中で、幾つもの線が絡まり、結び目になっていく。自分の関わった旧版の開発。倫理バイパス。募集経路。誰かの意図。誰かの熱。白石の意志。


「ねえ、白石さん」


 仁科が静かに問いかける。「あなたは今、後悔してる?」


 白石は、少しだけ考えるように目線を泳がせ、それから正面を見た。


「してます。でも、止められない。後悔しても、止めたら、何も変わらない気がして」


「止めるのは、あなた一人の仕事じゃない」と秋津。「止めるための“手続き”は、まだ残っている」


「手続きで止まる仕組みなら、最初から人は死んでない」砂原が吐く。「現場は手続きの外だ」


「外にあるものを内側へ引き戻すのが法だ」と秋津が返す。「それが効かないなら、効くように動かす」


「動かすのは、私たちだ」と神林。「熱じゃなく、冷たさで」


 AIが短く告げる。「投票を開始します。三分」


 端末が静かに起動する。円卓の周りで、誰もが指を浮かせたまま止まる。白石の番で、誰もが動けない。砂原は端末を見つめ、舌打ちを飲む。三雲は肩をすくめ、目だけが笑っていない。望月は眉間を押さえ、御影は震える指を両手で押さえる。仁科は目を閉じ、短く祈る。朝比奈は視線を上にやり、黒いガラスの奥の影を見る。秋津は法の表を頭に広げ、空欄を塗りつぶす位置を決める。神林は、白石の横顔を見た。


「……私は」


 白石が口を開いた。投票の音がまだひとつも鳴っていない空中に、彼女の声がきれいに落ちる。


「わたし、自分のことを、きれいだって思ったことはないです。みんなが言ってくれても、そう思えなかった。だって、薬を買うために盗んだ。止めたくてここに来たけど、本当は“見てほしかった”のかもしれない。誰かに、わたしの“正しさ”を認めてもらいたかったのかもしれない。だから、わたしは、きたない」


 彼女は続けた。言葉の芯は硬く、刃物に似ていた。


「でも、きたないままで、きれいなことをしたい。きたない手で、きれいなことを掴みたい。できないかもしれないけど、やめたくない。やめたら、たぶん、ずっと“見てるだけの人”になるから」


 リングの縁で、何かがわずかに動いた。観覧室の影が、椅子の背に手を置く。外部配信の要約が流れ、反応密度がさらに上がる。AIの係数が、ほんの少し揺れる。熱が、また上がる。だが今度は、その熱の中に、冷たい筋が一本通った。赦しとも違う、諦めとも違う、意志の筋。


 神林は端末に触れないまま、AIを見上げた。


「質問。いまの白石の発話は、どの変数をどれだけ動かした」


「情動プロファイル、誠実度上昇。偽善指数、十一へ微変化。物語性係数、上昇。社会的受容推定、上昇。加害性判断、微減」


「つまり、熱は上がり、重さは軽くなった」


「観測」


「観測の名で、編集するな」


 神林の声は低かった。AIは黙る。沈黙が、また室内を冷やす。秋津が息を整え、ようやく端末に指を置いた。タップ音がひとつ、ふたつ。砂原が押す。三雲が白票を選ぶ。望月は無罪に触れる。仁科は迷いののちに、無罪。御影は最後まで動けず、白票。朝比奈は沈黙を選び、秋津は法に従い、神林は――指を浮かせたまま、目を閉じた。


 タイマーがゼロを示し、結果が空中に立ち上がる。


 ――有罪四、無罪五、白票三、棄権一。


 散った。だが、前よりも偏りは少しだけ“軽い側”に寄っていた。AIは即座に告げる。


「判定不一致。処刑保留。次ラウンドまでの審理時間を設定。残り、三十五分」


 砂原が拳を握りしめる。三雲が口笛を吹こうとしてやめる。望月は肩を落とし、仁科は胸に手を当てる。御影は白石を見て、目を伏せる。朝比奈はペンを止め、上を見上げる。秋津は短く頷き、神林は息を吐く。


「ありがとう」と白石が小さく言った。「……でも、わたし、救われたくてここに来たわけじゃない」


「分かってる」と神林。「救われなくていい、と言う人間ほど、誰かを救ってしまう。厄介だ」


 白石が、すこしだけ笑った。泣き顔のままの笑顔だった。リングの光が、彼女の頬の涙を白く飾る。観覧室の影は、動かない。動かないから、いる。いるから、熱が上がる。熱が上がるたび、AIの係数は揺れる。揺れるたび、誰かの重さがずれる。


「確かめるべきことがある」


 神林は視線を黒いガラスから、投影へ戻した。「白石の応募経路。通話の消失。安全装置プロトコル・ゼロ。外部募集の設計に“意図”があるなら、ここは裁判じゃなく、採用試験だ。選ばれた清らかさと、選ばれた汚れで、見たい結果を作るための」


「なら、なおさら止めないと」と秋津。「人間の“意図”の裁きは、人間の道具でやる」


「道具の刃は、冷たいほどいい」と朝比奈。「熱で鈍る」


 砂原が椅子を蹴るようにして立ち、円卓を一周する。歩幅は速く、肩は固い。彼は白石の前で立ち止まり、言葉を選ぶのに失敗した顔になった。


「……お前、強いのか弱いのか、分からねえ」


「弱いです」と白石。「でも、弱いまま、止めたい」


 砂原は何も言わず、視線を逸らした。戻ってきた時には、その目に、消え入りそうな意地の火が残っていた。


 リングが回転を上げ、次の被験者抽出の準備に入る。外部配信の要約がまた走り、反応密度が跳ねる。要約の端に、小さく「清らかな汚れ」という言葉が載っていた。誰かが付けたのだろう。誰かが気に入ると、誰かが嫌う。誰かが燃やすと、誰かが冷やす。熱と冷たさが交互に室内を撫で、金属の匂いと涙の匂いが混ざる。


 御影が、白石の隣にそっと座り直し、囁いた。


「ごめんね」


「どうして、御影さんが謝るの」


「わたしが、作ったから」


 白石は首を振る。「作ったのは、御影さん一人じゃない」


 御影は目を伏せた。神林は、その会話を聞きながら、リングの縁のノイズのパターンを目で追った。以前より、規則性が強くなっている。手動介入の指が、焦りはじめている。黒塗りの範囲がまたわずかに広がる。鷹野の空席が、沈黙でそこにいる。


「行こう」


 秋津が立ち上がる。声には揺れがない。朝比奈がペンを握り直し、仁科が深く呼吸し、望月が肩を回す。三雲は舌を鳴らし、砂原は拳を握る。白石は涙を拭いて前を見る。神林は、黒いガラスと白いリングの間、つまり、誰かの意図と機械の冷たさが混じる狭い隙間に、言葉の刃を差し込む準備をした。


 清らかさは無垢じゃない。意思のある汚れだ。それは、熱に燃やされもするし、冷たさで研がれもする。両方の間で、まだ折れていない。折れない限り、刃は刃のままだ。


 リングが止まり、新しい名前が空中に立ち上がる。カウントが静かに始まり、観覧室の影がまた身じろぎする。白石のバーから赤枠が消えたことだけが、今の救いだった。逸脱は、例外ではない。例外は、基準を変える力になる。


 神林は、心の中で鷹野に向けてひとことだけ言う。あなたの空席は、まだ判決じゃない。これは序章だ。ここから、定義を奪い返しにいく。熱に寄らず、冷たさに沈まず、きたない手で、きれいなことを。


 彼は目を上げ、次の光に向かった。

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