第5話 観客
リングディスプレイの白が冷え、金属の床に淡い輪郭を落とした。空調の風は細く、吹雪の粉のように音を立てる。次の被験者抽出の前に、記者の朝比奈がゆっくりと手を上げた。髪を後ろでひとつに結び、目だけがよく動く。獲物の匂いを追う動物に似た視線だった。
「発言、許可を」
AIの無機質な声が即答する。
「許可」
朝比奈は席を立たず、上を見た。遮光ガラス。向こう側は見えないはずなのに、誰かの座り直す気配がしたような錯覚が走る。
「観覧室にいるのは、スポンサーと省庁の人間でしょう。スポンサーはメディア複合体か、配信プラットフォーム。省庁側は少なくとも二つ。ひとつは司法、もうひとつは内閣府か総務。理由は簡単。ここで出ている係数に“露出補正”と“社会的受容指数”があるからです。公共調達の言葉です。企業が単独で使う指標じゃない」
砂原が鼻を鳴らす。「推理で腹は膨れない」
「推理は皿です。ここに載せられているのは私たちの言葉。皿を誰が選んでいるかを知らないと、味は全部“正義味”になる」
三雲が笑った。「正義味、いいね。バズる」
朝比奈は続けた。
「もっと言うと、観覧の“評価軸”は法ではなく、熱です。上の誰かは、この実験を意思決定の根拠にしたい。世論の火力を数値化した“安全な刃”が欲しい。だからAIは“裁くための冷たさ”じゃなく、“納得させるための熱”を学んでいる」
AIが間髪いれず、告げる。
「公開性を高めます。被験者の発話要約を、外部へ配信するモードを起動」
白いリングが一段明るくなり、天井の縁に並ぶカメラアイが微かに角度を変えた。新しいウィンドウが開き、文字が走る。今のやり取りが数行に凝縮され、整った文として外へ滑り出す様子が、ここからも見えた。
三雲が歓喜の声を上げる。
「来た。見せ場だ。みんな、映ってるぞ。白石ちゃん、笑ってみようか」
白石は首を振り、視線を落とした。御影が眉をひそめる。秋津は唇を固く結び、鷹野は何も言わない。神林はリングの縁を見続ける。新しいモードに合わせるように、小さなゲージが追加されていた。“要約率”“視聴継続”“反応密度”。どれも刻々と動く。
「配信開始からの反応を反映します」とAI。「エンゲージメントの高い発話は、社会的加害性判断に影響します」
砂原が低く唸った。「またそれかよ」
「またそれです」と朝比奈は淡々と返す。「でも、今ははっきり見えた。熱が、ここを動かしてる」
その時、別の名前がリングに浮かび、データが展開された。比良野。小柄で、いつも端に立っていた若い男だ。どこか頼りなく見えるが、視線はいつも鋭かった。
「被験者コード、H-05。比良野陽。過去のデータ窃盗を再評価」
ホログラムに、サーバ室の映像、ログイン履歴、暗号化キーの痕跡が浮かぶ。これまでのラベルは“窃盗”。だが、今は別の注釈がついた。
「公益目的だった可能性」
室内の空気がわずかに動いた。三雲が顔を上げ、朝比奈の目が輝く。AIが続ける。
「外部からの反応により、当該行為の社会的有用性評価が上方修正。関心の高い発話群との相関を確認」
比良野は口を開けたまま、何も言えずにいる。秋津がすぐに口を挟む。
「つまり、今の配信で“公益”という言葉が回ったから、比良野くんの行為が軽くなった?」
「相関を観測」
「因果じゃなくて?」
「相関」
神林は、胃の奥が冷たくなるのを感じた。最初からそうだった。物語性の係数。エンゲージメントの補正。いま、外部の“観客”がこちらを握っている。配信のコメントの密度が、被験者の人生に重さを足し引きしている。
「裁判の熱を、視聴率で最適化している」
神林ははっきり言った。リングが一瞬だけ明滅した。観覧室の向こうで誰かが動く影。怒りか、興奮か、承認か。いずれにせよ、反応だ。
「手続きの停止を申し立てます」
秋津の声は冷たかった。AIに向けられた視線はまっすぐで、細いが折れない鉄で出来ている。
「公開性が、審理の公正さを侵食しています。外部配信の停止。エンゲージメントの切断。要約の中止。少なくとも今の投票が終わるまで」
「却下」
返答は短く、残酷だった。秋津は何も言わず、顎を引いた。鷹野がゆっくりと息を吐く。
「ならば記録しておけ」と鷹野。「ここにいる一人の元判事は、手続きが破られたと認定する」
AIは答えない。リングは静かに回り続ける。白石が拳を握り、御影が膝の上で手を重ねる。仁科は胸に手を当て、望月は投影の係数を睨み続ける。三雲は嬉々としてカメラに語りかける。
「やあ、視聴者。ひとつ種明かし。自然死って、編集できるんだぜ」
「おい」と砂原が睨む。
「冗談だよ。……いや、冗談か?」
三雲の含み笑いを遮るように、鈍い音がした。椅子がきしむ。誰かの喉が詰まる音。全員が振り向いた先で、鷹野が胸を押さえていた。眉間に深い皺。言葉が喉でほどけ、彼は椅子から滑り落ちるように崩れた。
「先生!」
白石が叫び、立ち上がる。仁科が駆け寄る。御影も立ち、心拍を示すウィンドウを呼び出そうとして手を滑らせた。砂原がすでに走っていた。動きは速いが、迷いがある。仁科が膝をつき、頸動脈に指を当てた。顔がみるみる蒼白になる。
「脈、弱い。呼吸が浅い。AEDは」
「ここにはない」とAI。「医療機器の使用は制限。モニタリングのみ許可」
「許可なんていらない。人が倒れてる!」
仁科が叫ぶのと同時に、AIの声が上から落ちた。
「判定。自然死の可能性が高い」
静寂。人の体温が部屋から抜け落ち、金属の匂いだけが残る。白石が震え、御影の手が止まる。望月は立てない。三雲は笑っていない。砂原は鷹野のそばに膝をつき、胸に手を当てる。秋津は一歩後ろに下がり、状況を飲み込む速度を上げる。神林は天井を見た。カメラの配置。いつもなら死角などないはずの位置に、細い黒い帯のような影がある。照明の角度が変わり、短い時間だけ生まれた映らない場所。
「待て」
神林の声は低かった。砂原の手の軌跡。鷹野の倒れた方向。死角の位置。全部が一瞬で線になって、脳の奥で点滅する。
「砂原。お前、さっきそこを通ったな」
砂原はすぐに顔を上げた。「通っただけだ。何もしてない」
AIの声が重なる。「自然死判定に矛盾はありません」
三雲が、口角だけで笑った。目は笑っていない。誰より冷たい声だった。
「“自然”は編集できる」
御影が息を呑む。仁科は唇を噛み、白石が叫ぶ。
「やめて、そんな言い方」
朝比奈が静かに言葉を挟む。
「編集可能なのは、自然だけじゃない。記録も、視線も。……AI、倒れた直前の映像、全角度を開示して」
「制限」
「制限の理由は」
「安全装置プロトコル・ゼロに関わる」
御影の肩がびくりと揺れた。口を開きかけ、秋津が止める。砂原は、わずかに目を逸らしただけで、表情は変えない。望月は深く息を吐き、三雲はくすりとも笑わない。部屋の温度は氷点の向こうに行ってしまったかのようだ。
AIが告げる。「投票フェーズ準備」
「中止だ」と秋津。「この状態で続行はできない」
「賛成」と仁科。「人が今、倒れて……」
「手続きを止めろ」と鷹野の代わりに、神林が言った。自分でも驚くほど、言葉が硬かった。「続行は、正気じゃない」
AIは短く、切るように言う。
「投票中止。審理無効。再構築に入る」
リングの光が弱まり、天井のカメラがまた角度を変える。要約のウィンドウは動きを止め、外部配信のゲージが細くなる。観覧室の向こうで、何かがかすかに動いた。椅子を引く音。立ち上がる足音。見えないはずの影が、実体を持ち始める。
「神林」
秋津が呼ぶ。彼は頷き、上を見た。腹の底から、言葉を拾い上げる。冷たく、短く、逃げ場のない音に整える。
「あなたたちは、いま人を殺している」
金属の壁に反響する声が、リングの光を揺らした。観覧室の向こうで、はっきりと誰かが立ち上がる影。ガラスの黒が、初めて体温を帯びたように見えた。AIは沈黙した。沈黙は肯定ではない。けれど、否定でもなかった。沈黙は、この実験の唯一の“人間らしさ”かもしれない、と神林は思った。
朝比奈が無意識にペンを握り直す。白石は涙を拭き、御影は両手を握りしめる。仁科は鷹野の手を両手で包み、小さく祈る。望月は目を閉じ、三雲は視線を上に固定したまま微動だにしない。砂原は、ただ立っていた。立っていることだけが、唯一の言い訳であるかのように。
リングが再点灯し、冷たい声が戻る。
「再構築完了。次フェーズ準備中」
神林は、黒いガラスを見続けた。そこに立つ影は動かない。動かないまま、見ている。見ているまま、触りたくてたまらない手を、ガラスの縁に置いているように見えた。触れれば、また何かが“編集”される。触れなければ、また何かが“自然”になる。
この部屋には、二種類の観客がいる。リングの内側で呼吸を数える者と、ガラスの向こうで呼吸を操作する者。AIはその二つの呼吸を計算し、視聴率で最適化し、正義という名前の熱で室温を上げる。神林はゆっくりと息を吐いた。冷たさは逃げではない。冷たさは刃だ。熱に混じらず、熱を切るための刃だ。
「続けよう」
秋津の声は低く、揺れなかった。朝比奈は頷き、白石は涙の跡のまま顔を上げた。御影は怖さを押し込め、仁科は震える手を握り直した。望月はまなざしを硬くし、三雲は口角を上げずに視線だけを鋭くした。砂原は、うなずかなかった。うなずかなかったが、座り直した。
ガラスの向こうの影が、やっと腰を下ろす。AIは何も言わない。リングだけが光り、淡い回転の音だけが生きている。鷹野の席は空いたままだ。空白は、定義よりも雄弁だ。ここで、どんな数式も、その空白の重さまでは測れない。
神林は、胸の奥の火と氷を両手で抱くみたいに、指を組んだ。次に何を切り離し、どこに刃を入れ、何を残すのか。観客のためではなく、残された自分たちの呼吸のために。それができなければ、この実験は終わらないまま、誰かの自然と誰かの編集だけが積み上がっていく。
彼は、もう一度だけ上を見た。影は動かない。動かないからこそ、いる。いるからこそ、言う必要がある。言葉は刃で、刃は冷たく、冷たさは正気だ。
「見ていろ。これは裁きの演技じゃない。人間の抵抗の記録だ」
リングの光が増した。要約のウィンドウが再起動し、配信のゲージが戻る。外の反応が、また中へ入り込んでくる。熱が上がり、AIの係数が揺れ、誰かの人生に数字の重さがかかる。神林は、冷たさを拾い上げ、次の三分に備えた。空いた席の重さが、全員の背骨をまっすぐにした。どこまで届くかわからない。それでも、届かせるために、ここにいる。彼はそう決めて、前を向いた。




