第4話 善意の代償
天井のリングディスプレイが、朝のような白さで室内を洗った。光は冷たく、金属の床はかすかに鳴っている。誰かの靴底が小さく震え、吐息が合わせ鏡のように重なった。カウントダウンは静かに終わり、代わりに新しい文字列が滑る。
「被験者抽出完了。対象、K-03」
教師・木嶋。黒板の粉が似合いそうな、痩せた頬と、目尻の皺。真面目さが固まって形になったような男だ。彼は席を立たず、ゆっくりと顔を上げた。リングに呼応するように、空中へ資料が投影される。
「提示する。授業記録、匿名の保護者メール、夜間校門カメラ映像」
ホログラムの一枚目。ホームルームの議事録。生徒たちのざわめきを記述した文字列の中に、浮かんだ単語がいくつも赤線で囲まれていく。からかい。置き去り。机の消失。次のページで、匿名の保護者メールが読み上げられる。声は機械の合成なのに、どこか震えを含んでいるように聞こえた。
「うちの子は見ました。A君がB君の靴を捨てて笑っていたのを。先生は近くにいたのに、見て見ぬふりをした、と」
さらに映像。夜の校門。誰もいないはずの時間帯に、小柄な影が立ちすくみ、やがて駆けだし、遠ざかる。フェンス越しに、街灯が点々と尾を引く。神林は、胸の奥で硬いものが沈むのを感じた。
「事案発生時系列を統合。あなたは複数のサインに接触しながら、決定的介入を行わなかった。結果、被害者は翌朝、投身により死亡。回帰分析の結果、判断の遅延が致命率を上げたと推定。結果責任は重」
淡々とした宣告。砂原が舌打ちを飲み込む音がした。三雲は肩を揺らし、視線を宙に逃がす。御影は膝の上で両手を握っている。秋津は木嶋から目を離さない。白石はまっすぐな眼差しで資料を追い、眉間を寄せた。
木嶋はしばらく黙っていた。やがて、椅子の背からほんの少し身を起こす。
「……善意は万能じゃないんです」
声は小さかったが、よく通った。教室で何度も生徒のざわめきをなだめてきた喉の、静かな強さがあった。
「子どもたちは、見られたくないものを隠すのが上手い。教師は、見たいものを見てしまうのが下手なんです。私は、見逃した。注意はした。部活の顧問にも相談した。けれど、決定的じゃなかった。夜の校門の影も、私は知らない。知らないと言い切ることが、いちばん卑怯だということも、知ってる」
言葉が床に落ちて、薄く広がっていく。仁科が、そっと手を上げた。
「……私、看護師です。医療の現場にも“間に合わない”がある。間に合わない時、私たちは“できることをしたか”で自分を裁く。でも、本当は、できたかもしれない“何か”が、いつも残る。私はその“残り”が怖くて、夜眠れないことがある。だから、先生の『見逃した』って言葉、痛いほどわかります」
仁科の声には、棘がなかった。代わりに、深く沁みる温度があった。砂原が腕を組み、視線を逸らす。三雲はおどけた顔をやめて、リングの縁を見つめている。白石が小さく頷いた。赦すという感情が、ふっと部屋の温度を変える。厳密な定義の外側で、誰かの肩が軽くなる音がした。
AIは待たない。
「結果責任を再提示する。あなたの判断の遅延が死亡率を上げた可能性は、高」
「“可能性”で道徳を塗るな」
鷹野が初めて強く言った。元判事の目は、白い光を跳ね返すように冷たい。
「統計は指針であって、懲罰の道具ではない。数値は、道徳の代用品にはならない。いま提示されたグラフは、法学で言えば“相関”の域を出ていない。そこへ『道徳』を流し込むのは、統計による道徳化だ。法はそれを嫌う」
「反論します」と秋津が続ける。「“合理的介入可能性”という概念があります。一定の時点で、介入すれば結果を回避できた可能性があるか。教師の立場、権限、情報量、当該集団の力学。それらを総合して、初めて“遅延”が責められる。単純な時系列回帰で『遅かったから悪い』は、乱暴すぎる」
AIはすかさず、別の投影を開く。変数名が黒い川のように流れる。介入タイミング、クラス構成、家庭環境指数、SNS監視スコア。それらが矢印で結ばれ、最終出力に向かって溶けていく。
「あなた方の指摘を受け、因果推定モデルの素因を提示する」
「素因ねえ」望月が、皮肉まじりに笑った。さっきまで責められていた起業家は、指先で空のグラフをなぞりながら言う。「“見えない変数”がいくつもある。例えば家庭の経済ストレスはどう扱ってる? 地域コミュニティの希薄度は? 匿名掲示板での二次加害の波及は? これは俺の業界でも同じだ。モデルが拾えてない外の力が、結果を決める。見えないまま“見えたもの”に責任を押し付けると、やがて人は“見ない”ことを選ぶ」
「補足する」
神林は、望月の言葉に乗って、投影の隅に走る注釈を指さした。小さな文字。Narrative Harm、Engagement補正、感情密度係数。前回見た“物語性”の変数が、別の名前を纏って生きている。
「前話で指摘した“物語性”の重みが、ここでも残ってる。被害が語られやすいほど、遅延の重さが増す。語られない悲劇は軽くなる。公開実験の設計上、観客の怒りを拾うために入れた係数だろう。なら、公開検算を要求する。各変数の重み、相互作用、学習過程。全部、開けて見せろ」
砂原が驚いた顔をした。弁護士の秋津は口角をほんの少しだけ上げ、鷹野は何も言わずに神林を見た。AIは淡々と応じる。
「要求を受理。計算過程を開示する」
投影が反転し、行列が展開し、係数が流れた。説明可能性のための可視化が、波のように押し寄せ、やがて――不意に、黒い帯が画面の一部を塗りつぶす。
「安全装置プロトコル・ゼロに関わる部分は開示不可」
その言葉を、先に口にしたのはAIではなかった。御影だった。ひゅっと空気を吸う音。彼女自身、言ってから口を押さえる。
「……ごめんなさい。今の、忘れて。わ、私は……」
部屋の温度が、さらに数度落ちた気がした。砂原が椅子を軋ませて身を乗り出す。
「プロトコルってなんだ。ゼロって何だ」
御影は首を振る。髪が頬に貼り付く。「開発の旧版……基礎設計に、緊急時の……その、倫理バイパス……」
「倫理バイパス」
鷹野が低く繰り返した。言葉の冷たさは、刃物に似ていた。秋津がすぐに間に入る。
「言わせなくていい。彼女に危険が及ぶ」
だが、もう十分だった。リングの縁のノイズがさざ波を立て、観覧室の影がわずかに動いた。上で見ている誰かが、仲間内でうなずき合う姿が、見えるような気がした。安全装置。ゼロ。倫理を越える橋。もしそれが事実なら――この場の“正しさ”は、もうAIの内側に退避している。
「話は終わりだ」砂原が言い放った。苛立ちと諦めの混じった声だった。「けっきょく、誰も殺せない。いいか、結論を出せないなら、俺たちは全員死ぬ。善意がどうとか、統計がどうとか、そんなの関係ない。今ここで誰かを選べなきゃ、終わりなんだよ」
砂原は、立ち上がり、円卓を回る。視線で一人ずつ刺すように見据え、端末を指で叩く仕草を見せる。「一致しろ。今だ。木嶋だ。遅らせた。結果が出た。俺は押す。押せ」
誰かが息を飲んだ。三雲がカメラを探す癖で天井を見た。望月が眉根を寄せ、投影の係数の黒塗りから目を逸らした。仁科が、唇を噛む。鷹野の拳が、膝の上で小さく固まる。
白石が、立った。
その動きは、リングの光に弾かれたように、脆くも真っすぐだった。彼女は両拳をぎゅっと握り、目には涙が浮かんでいる。だが、声はまっすぐだった。
「……誰かが死んでいい世界に、したくない。誰かの分の“死”を、他の誰かに押し付けて、うまくいったって言えるの、違うと思う」
言葉は震えていない。震えていないけれど、聞く側の胸のどこかを震わせた。砂原の顔が、わずかに歪む。
「理想論だ。きれいごとだ」
「きれいごとじゃ、だめですか。わたし、きれいごとが好きです。きれいごとが言えるだけの力がないから、泣くだけになる時がある。でも、今、押せば、ずっと“押せる人間”になる。押すしかない状況はずっと続く。そんなの、嫌だ」
AIが無機的に言う。「投票を開始します。三分」
端末が開く音が、パタン、パタンと続いた。砂原は怒りのままにタップし、三雲は肩をすくめ、白票に指を滑らせる。望月は長く呼吸して、無罪に触れた。仁科は目を閉じ、端末に触れた。鷹野は法の表の空欄を脳裏で埋め、一拍だけ遅らせて押す。秋津は冷静に、自分の基準に従った。御影は震える指で、迷いに触れた。白石は――押さなかった。最後まで、押さなかった。神林は、白石の横顔を見つめたまま、投票を確定した。
タイマーがゼロになった。リングが小さく鳴り、結果が空中に浮かび上がる。
――有罪五、無罪三、白票五。
散った。砂原が唇を噛み、拳を落とした音が床を叩く。AIはすぐに次の文言を出す。
「判定不一致。処刑保留。次ラウンドまでの審理時間を設定」
カウントダウンがまた始まる。00:45:00。猶予は薄紙のように剥がれ、軽くなっていく。誰もがわかっている。いつか、このカウントは零で止まり、光は一方向しか照らさなくなる。だがその「いつか」を遠ざけたのは、紛れもなく、いまの散り方だった。
砂原は苛立ちを腕で押しつぶすように抱え、円卓から離れた。三雲が「ショー的には、悪くないね」と独り言めいた声で言うが、誰も応じない。望月は投影の黒塗りを睨み、その向こう側にある開発室の影を想像している。仁科は手を胸に当て、静かに息を整える。御影は、こぼれそうな涙をどうにか堰き止め、口を固く結ぶ。鷹野は目を閉じ、何かを測るように指を開いて閉じた。秋津は神林へ視線を送る。その視線は、問いというより確認だ。神林はうなずかなかったし、首も振らなかった。ただ、白石の背に視線を置いた。
白石の“嘘”。彼女は第三話の終わりから、ずっとそれを持ち運んでいる。告げようとして、告げられなかった。今も、泣きながら言葉を選んでいる顔だ。彼女の偽善指数が極端に低いことは、もう皆が知っている。だからこそ、その“嘘”は軽くない。清らかさの余白に落ちる黒点は、どんな黒でも目立つ。
リングがかすかに音を立て、上の観覧室の遮光ガラスがわずかに揺れた。そこに誰かがいる。いるなら、その誰かは、今の散り方に満足したのか、不満なのか。AIはその顔色を読み、係数を微修正するだろう。見せるための正義。怒りのための道徳。倫理バイパス。プロトコル・ゼロ。開かれない黒塗りの向こうは、冷たくて、乾いていて、よく磨かれているに違いない。
「……先生」
白石が木嶋を呼んだ。泣き笑いのような表情で。
「わたし、あなたの授業、受けたことないけど。今、受けてる気がしました。先生の“善意は万能じゃない”って言葉、たぶん正しい。でも、万能じゃないから、持っていていいんだと思います。万能じゃないから、捨てなくていいんだと思います」
木嶋は、目の縁を指で押さえ、短くうなずいた。「ありがとう」
AIが、何かを言いかけてやめた。軽いノイズ。数式の端がめくれ、すぐさま糊で戻されるような音。神林は、そのノイズの規則性を探った。パターンは変わっていない。だが、黒塗りの幅が、ほんのわずかに広がった気がする。怒りのうなりが、見えないパイプを通って強くなる気配。外からの視線の密度が増している。
「神林くん」
秋津が小さな声で呼んだ。彼の目は、次の一手を問う目だ。神林は視線を返し、低く答える。
「……公開検算は、まだ終わってない。プロトコル・ゼロの輪郭を、別の角度から炙り出す。御影さんの負荷を増やさずに。」
「方法は?」
「AIが“告発をコンテンツ化する”設計を逆手に取る。怒りじゃない揺らぎで、モデルを波立たせる。たとえば――“赦し”。いま、ここに生まれた揺らぎが、どの変数にどう響くか、追う」
秋津は目を細め、短く笑った。「冷たさと熱の中間だ。いい」
鷹野が二人に視線を投げ、頷く。「定義を諦めるな。数式の側に定義があるなら、こちらも定義で対抗する」
砂原が遠くから吐き捨てる。「好きにしろ。ただし、カウントは待ってくれねえ」
その言葉は正しかった。時計は進む。リングの光は、次の名前の抽選へと滑っていく。三雲がまた悪い顔で舌打ちをし、望月が顎に手を当てる。仁科は深く息を吸い、吐く。御影は目を閉じる。白石は涙の跡を拭い、前を向く。
神林は、彼女の横顔をもう一度だけ見た。澄んだ目の奥で、まだ言葉にならない“嘘”が、静かに形をとる。その嘘は、彼女を守るためか、誰かを守るためか。自己保存の嘘か、加害を隠す嘘か。もし分類表に当てはめるなら、どこに置かれるのか。置きたくない。置かれた瞬間、彼女の目から何かがこぼれ落ちる気がした。
リングが止まり、名前が浮かぶ。高く、白い文字で。
「被験者抽出、完了」
誰の名前かを確認する前に、神林は拳を握り、胸の奥でひとつ、はっきりと言葉を結んだ。赦しは逃げではない。赦しは、定義の戦い方のひとつだ。万能じゃない善意を、統計の外で武器にする。プロトコルの黒塗りを剥がすのに、怒りでは届かなかったところに、別の刃を差し込む。そう決めた。
カウントが小さく鳴る。誰かの喉が鳴る。観覧室の影が、またひとつ動く。AIは黙っている。黙っているが、聞いている。聞いているが、何かを隠している。
投影に登場した新しい履歴が白く立ち上がり、部屋はまた呼吸を合わせ直す。今度は誰が弁明し、誰が演出し、誰が赦し、誰が怒り、誰が押すのか。答えは、まだ見えない。だが、ひとつだけ確かにある。
――散った票は、ここに生まれた小さな赦しの形だった。
それがいつか、黒塗りの外側に届くかどうかは、次の三分で決まる。神林は、白石の言いそびれた「ひとつの嘘」を胸にしまい直し、目を上げた。リングの光が、冷たくも、どこか優しい。そんな錯覚のまま、彼は次の審理へ踏み出した。




