思い出さない方がいい
真琴は、スマートフォンを握ったまま動けなかった。
『思い出さない方がいい』
たった一文。それだけで、部屋の温度が下がった気がした。誰が送ったのか。なぜ今なのか。父の賭けは当たった。でも、真琴が動き始めたことを、誰かが知っている。そういうことだ。
真琴はすぐに兄へ連絡した。スクリーンショットを送り、短く打つ。
『知らない番号から来た』
数秒で既読がついた。すぐ電話が鳴った。
「出ちゃ駄目だった?」
『メッセージだけならいい。電話は出るな』兄の声は硬かった。『今、鍵閉めてるか』
「閉めてる。チェーンも」
『窓は?』
「カーテン閉めた」
『外に人影は?』
「見てない」
『見るな。カーテン開けるな』
命令口調だった。でも、このときばかりは腹が立たなかった。怖かったからだ。
「警察に言う?」
『言う。親父にも連絡する』
「お父さんには……」
『これは共有するべきだ』
真琴は反論しなかった。電話の向こうで、兄が何かを操作している音がした。
『今日は外に出るな。明日の朝、俺が行く』
「仕事は?」
『半休取る』
「そこまでしなくても」
『する』
兄の声には迷いがなかった。
『真琴、相手はお前の番号を知ってる。今までの動きをどこかで把握していた可能性がある』
「でも、どうやって」
『分からない。だから怖い』
真琴はスマートフォンを握りしめた。自分の番号を知っている人間は多くない。家族。川島。野村。千尋。市民センター。病院。どこかから漏れたのか。それとも、もっと別の経路か。
『とにかく、今日は何もしないで寝ろ』
「寝られるわけない」
『じゃあ、電気つけたままでいい。テレビでもつけろ』
「うん」
『電話は繋げたままにするか』
真琴は少し迷った。子どもみたいだと思った。でも、今は一人でいたくなかった。
「少しだけ」
『分かった』
兄は何も話さなかった。ただ、通話が繋がっている。それだけで、部屋の闇がほんの少し薄くなった。
真琴はテレビをつけた。音量を小さくする。内容は頭に入らない。机の上には、栞の手紙と診療記録がある。
思い出すな。その警告は、真琴の記憶に触れた誰かが送っている。ならば、相手にとって本当に怖いのは、真琴の記憶なのだ。そう考えた瞬間、恐怖の中に小さな怒りが混じった。思い出してほしくない。なら、思い出してやる。そう思った。
翌朝、兄は本当に来た。
午前八時半。眠れないまま朝を迎えた真琴がドアを開けると、兄はコンビニ袋を持って立っていた。
「朝飯」
「いらない」
「食べろ」
「お父さんみたい」
「それは嫌だな」
兄は少し顔をしかめた。真琴は思わず笑いそうになった。
部屋に入った兄は、まず窓と玄関を確認した。それから、スマートフォンのメッセージを見た。
「番号は?」
「非通知じゃない」
「調べる」
「調べられるの?」
「知り合いに詳しいやつがいる。限界はあるけど」
兄はスクリーンショットを自分の端末へ送った。「親父にも送った。警察には親父が相談するって」
「早い」
「親父はこういうときだけ早い」兄の言葉には皮肉があった。
真琴はテーブルの前に座った。兄が買ってきたおにぎりを開ける。味はあまりしなかった。それでも、食べた。
「今日、どうするつもりだった」兄が聞いた。
「調べたいことがある」
「何を?」
「メッセージを送ってきた人間のことを、もう少し知りたい。それと、記憶をもっと引き出したい」
兄は困ったように眉を寄せた。「記憶を引き出す?」
「若葉公園にもう一度行きたい」
「今日はやめろ」
「でも」
「一日待て。今日は状況を整理する日にする」
真琴は反論できなかった。兄が部屋の中を見回した。「ここも少し対策した方がいい」
「対策?」
「補助錠と、防犯ブザー。あと、知らない番号は絶対に出ない。メッセージは全部保存」
「大げさ」
「大げさでいい」兄は真顔だった。「十八年前、大人たちは油断した。今度はしない」
その言葉に、真琴は反論できなかった。
その日の午後、父から連絡が来た。警察に相談したという。ただし、メッセージ一通では具体的に動けないと言われた。嫌がらせの可能性もあるし、十八年前の事件との直接的な関連が証明できないというのが理由だった。
「もどかしい」真琴は言った。
「警察はそういうものだ」兄が静かに言った。「でも、記録として残しておくことは大事だ。何かあったとき、証拠になる」
翌日、兄は約束通り一緒に若葉公園へ行った。
朝の公園には人が少なかった。濡れた土の匂い。朝露の残る草。楠の葉が、風もないのにかすかに揺れている。
真琴は入口で足を止めた。身体が抵抗する。ここに来るたびに同じだ。でも、今日は前より少し早く、その抵抗を押しのけることができた。
「一人で大丈夫か」兄が少し離れたところで待っていた。
「ここはいい。奥の路地には行かない」
「分かった」
真琴は楠の前に立った。大きな木だった。幹は太く、枝葉が広がって、木陰が地面に濃い影を落としている。幹の中ほどに、大きな割れ目があった。真琴はその割れ目を見つめた。
ここを知っている。この木の割れ目を知っている。自分と栞の秘密の場所。
目を閉じると、少しだけ見えた。夕方の光。白いワンピースの背中。自分の手が楠の割れ目に何かを押し込んでいる。
鈴だ。
真琴は目を開けた。胸の奥で、記憶が震えた。栞のキーホルダー。赤い鈴。それをここに隠した。車が走り去った後、真琴は震えながら路地に落ちた鈴を拾い、秘密の場所に押し込んだ。
「お兄ちゃん」
真琴は振り返った。兄がすぐに近づいてくる。
「何があった」
「楠の割れ目に、栞ちゃんのものが入ってるかもしれない」
兄は眉を上げた。「何が」
「赤い鈴のキーホルダー。事件の日に落ちたのを、私が拾って隠した記憶がある」
「十八年前から?」
「うん」
兄はしゃがみ込んで割れ目を覗いた。奥は暗い。指で探ると、硬いものに触れた。
「何かある」
真琴は息を止めた。「触らないで。警察に言った方がいい」
「そうだな」兄はすぐにスマートフォンを取り出した。「写真だけ撮る」
閃光。割れ目の中に、小さな金属のようなものが見える。写真ではよく分からないが、確かに何かがある。
兄が相馬に連絡した。相馬は十八年前の捜査に関わっていた刑事で、父が以前から連絡を取っていた人物だった。三十分ほどで、相馬と若い刑事が公園に到着した。
相馬は慎重に割れ目の中を確認し、表情を引き締めた。
「汐見さん、ここに何かを隠した記憶があるんですね」
真琴は頷いた。「事件の日、栞ちゃんのキーホルダーが路地に落ちた。私が拾って、ここに入れた記憶があります」
「なぜここに?」
「栞ちゃんと私の、秘密の場所だったから。誰かに取られたくなかった」
相馬は若い刑事に指示を出し、割れ目の中のものを慎重に取り出させた。出てきたのは、錆びた小さな金属片だった。丸い輪。その先に、赤い塗装がわずかに残った鈴。音はもう鳴らない。泥にまみれ、錆びついている。でも、確かに鈴だった。
真琴はそれを見つめた。胸の奥で、何かが崩れた。
「……あった」
兄はすぐにスマートフォンを取り出した。「触るな。写真撮る」
真琴は頷いた。手を伸ばしかけて、止めた。触れてはいけない。これは栞のものだ。十八年間、この木の中で眠っていた証拠だ。
「鑑識に回します」相馬が言った。「十八年前のものですから、どこまで分かるかは不明ですが、重要な物証です」
「これで、事件が動きますか」
「動かします」
相馬はそう言った。断言だった。その言葉に、真琴の膝から力が抜けそうになった。兄がそっと腕を支えた。
「大丈夫か」
「うん」
大丈夫ではない。でも、立っていられる。
その日の午後、警察から連絡があった。鈴のキーホルダーは、小川栞の家族が当時提出していた所持品リストと一致した。赤い鈴。ランドセルにつけていたもの。事件当日は、図書室で借りた本を入れた手提げ袋につけ替えていたらしい。栞の母が覚えていた。
真琴はその話を聞き、胸が締めつけられた。栞の母は、十八年前の娘の小さな持ち物を、今も覚えている。赤い鈴。白いワンピース。図書室の本。栞が生きていた証が、一つずつ戻ってくる。だが、それは同時に、事件の暗い核心へ近づくことでもあった。
相馬はさらに告げた。
『今回のキーホルダーの発見を受けて、捜査を再開します。』
「はい」
『メッセージを送ってきた人物の特定を急ぎます。プリペイド式の端末からで、契約者の特定には時間がかかります。ただ、発信地は高瀬市周辺です』
「近くにいるんですね」
『可能性があります。しばらく単独行動は避けてください』
電話を切った後、真琴は窓の外を見た。誰もいない。けれど、誰かが見ている気がする。以前なら、その感覚だけで布団に潜っていただろう。今も怖い。だが、怖さの中に輪郭があった。見えない恐怖は、少しずつ名前を持ち始めている。
夕方、兄が帰る前に言った。「今日、公園で何か思い出したか」
「少し」
「他には?」
真琴は少し考えた。「もっと思い出したい。楠のそばにいた記憶がある。でも、男の顔がまだ見えない」
「焦るな」
「でも」
「焦ると、余計に思い出せなくなる。診療記録にも書いてあっただろ。強制的な想起は危険だって」
真琴は頷いた。それは分かっている。けれど、待っているだけでは何も進まない。
「一つだけ聞かせて」真琴は兄を見た。「お父さんは、男が二人いたことを知ってたの?」
「ああ。警察からの話で聞いてたはずだ」
「なのに捕まらなかった」
「証拠がなかったんだろうな」兄は静かに言った。「お前の証言だけじゃ、子どもの記憶として扱われた」
「私の証言が、あのときちゃんとできてたら」
「真琴」
「分かってる」真琴は首を振った。「でも、そう思ってしまう」
「それは自然なことだ」兄は言った。「でも、今のお前は話せる。それだけで、十八年前とは違う」
兄が帰った後、真琴は部屋を整えた。ノートを開く。今日分かったこと。楠の割れ目に鈴があった。栞の所持品リストと一致した。メッセージの発信地は高瀬市周辺。捜査が再開される。
書きながら、真琴は自分の手を見た。震えていない。今日は、震えていない。公園へ行けた。兄に頼みを言えた。警察の刑事と話せた。少しずつ、できることが増えている。
その夜、真琴はまた夢を見た。いや、夢というより、記憶だった。若葉公園。夕方。栞が白いワンピースで立っている。手提げ袋には赤い鈴。帽子の男が近づいてくる。真琴は栞の袖を引く。だめ。だめだよ。でも栞は、男の方を見ている。そこへ、背後から手が伸びた。真琴の背中を強く押す。楠の幹にぶつかる。ひやりとした木の感触。へたり込む。靴が脱げる。視界の先で、栞が車に押し込まれる。声が出ない。声が出ない。車が走り去る。路地に、赤いものが落ちている。
目が覚めると、夜明け前だった。真琴はノートを開いた。夢の中の男の顔を、思い出そうとする。帽子の男。でも、顔がない。影だけがある。
もう一人の男。背後から押してきた男。その男の手を、夢の中で少しだけ見た。
親指の付け根に、火傷の痕。
真琴はその一点だけを、ノートに書き留めた。まだ全体が見えない。でも、記憶は少しずつ戻っている。それだけは確かだった。
スマートフォンが震えた。兄からだった。
『警察から連絡来た。鈴の件で、追加の聴取が入る。来週、警察署に来てほしいって。俺も一緒に行く』
真琴はメッセージを見つめた。警察署。証言。正式な場で、記憶を言葉にする。怖い。でも、逃げたくはなかった。
『分かった』と打って、送信した。
窓の外が、薄く白み始めていた。十八年前の夏が、もうすぐ完全に姿を現そうとしていた。




