娘だからだ
翌日、父は午後三時に来た。
時間ぴったりだった。インターホンが鳴った瞬間、真琴の身体は反射的に強張った。画面を見ると、父が立っていた。紺色のシャツ。無表情な顔。いつもと同じ父だった。だが、その父がこれから十八年間隠していたことを話す。そう思うと、真琴は玄関まで歩くのに時間がかかった。
鍵を開ける。チェーンを外す。ドアを開ける。
「入ってもいいか」父が言った。
真琴は無言で頷いた。
父は部屋に入ると、まず玄関の鍵を確認した。それから窓の方へ目を向ける。「カーテンは閉めているのか」
「昼間は開けてる」
「夜は必ず閉めなさい」
真琴は顔をしかめた。「そういう話をしに来たの?」
父は黙った。
六畳の部屋に、父は似合わなかった。実家のリビングでは大きく見えた父が、この狭い部屋では妙に窮屈そうだった。真琴は折り畳みテーブルの前に座った。父も向かいに座る。テーブルの上には、診療記録とノートを置いてあった。
父はそれを見た。「読んだのか」
「読んだ」
「そうか」
「お母さんから聞いた。最初は医者に言われて黙ってたって」
父は小さく頷いた。「それは事実だ」
「でも、それだけじゃないんでしょ」
父は真琴を見た。その目には疲れがあった。怒りでもなく、苛立ちでもない。長い間、何かを一人で抱えてきた人間の疲れだった。
「どこまで知った」
「栞ちゃんと私は仲が良かった。事件の日、一緒にいた。私は白い車と男二人を見た。二人目の男の手には火傷の痕があったかもしれない。あと、栞ちゃんの前にも、似たことがあった可能性がある」
父の表情がわずかに変わった。「そこまで」
「まだあるの?」
父はすぐには答えなかった。真琴はその沈黙を許さなかった。
「今日は黙らないで」声が震えた。「もう、黙らないで」
父は目を伏せた。それから、ゆっくり息を吐いた。
「十八年前、お前は栞ちゃんと若葉公園にいた」
「知ってる」
「二人で楠の木のそばで遊んでいたとき、男が栞ちゃんに声をかけた」
「犬を見せるって」
「そうだ」父は低い声で言った。「お前は栞ちゃんの袖を引いて止めようとした。だが、もう一人の男に突き飛ばされた。楠の幹にぶつかって、へたり込んだ。靴が片方脱げた」
真琴の手が震えた。楠の幹。背中に当たる固い感触。その記憶が、一瞬だけ身体に蘇った。
「栞ちゃんは」
「車に連れ込まれた。お前は声が出なかった。身体が動かなかった。車が走り去った後も、その場に座り込んだまま動けなかった」
「声が出なかった……」
「そうだ」父は即座に言った。「お前は逃げたんじゃない。身体が止まっていただけだ」
「でも、助けられなかった」
「八歳の子どもに、何ができる」
「でも」
「真琴」
父の声が強くなった。真琴は肩を震わせた。父は一瞬だけ言葉を飲み込み、声を落とした。
「お前は悪くない」
その言葉は、榊先生にも言われた。千尋にも、野村にも、兄にも似たようなことを言われた。それでも、父の口から聞くと違っていた。父はずっと黙っていた。その父が、今ようやく言った。お前は悪くない、と。
真琴は視線を逸らした。「それなら、どうして隠したの」
「医者に言われたからだ。最初は」
「最初は、でしょ」
「ああ」
父は手を組んだ。その手の甲には、細かい皺が増えていた。「お前は事件の後、ほとんど眠れなかった。夜中に泣き叫び、白い車を見ると吐いた。男の声を聞くと動けなくなった。警察が話を聞こうとしても、過呼吸になった」
「診療記録に書いてあった」
「だから医者は、刺激を避けろと言った。学校も協力した。警察も無理な聴取をやめた。私たちは、お前を守るには忘れさせるしかないと思った」
「アルバムを切ったのは?」
父は黙った。
「お父さん?」
「私だ」
真琴は息を呑んだ。あの不自然に切り取られたページ。そこには何が写っていたのか。
「栞ちゃんとお前が一緒に写っていた写真が何枚もあった。公園で撮った写真もあった。見るたびに、お前は泣いた」
「だから切ったの」
「ああ」
「写真は捨てた?」
「捨てられなかった」
「どこにあるの」
「実家にある」
真琴は胸の奥が痛んだ。捨てなかった。父は隠したが、捨てなかった。それが何を意味するのか、まだ分からなかった。
「じゃあ、今回追い出した理由は?」真琴は父を見た。
父は少し間を置いた。そして、意外なことを言った。
「お前が心配だったからだ」
真琴は眉をひそめた。「心配? 追い出すことが?」
「ああ」父の声は静かだった。「お前は七年間、部屋から出られなかった。外が怖い理由を自分でも分かっていない。私は、その根っこに十八年前の事件があることを知っていた」
「だったら話せばよかったじゃん」
「話せば、また壊れると思った」
「また出た」真琴の声に刺が混じった。「お父さんも、お兄ちゃんも、みんなそれを言う」
「実際に、お前は壊れていた」父の声が少し強くなった。「夜中に叫び続けた娘を、私は何度も抱きかかえた。白い車を見ただけで道に倒れた娘を、私は何度も背負って帰った。それが何年も続いた。そういう娘に、同じことを思い出させたくなかった」
真琴は言葉を失った。父が、自分を背負っていた。その光景が、頭の中で像を結ばない。
「でも、このままでは駄目だとも分かっていた」
父は続けた。目を伏せたまま。
「七年間、お前は部屋から出なかった。私が何かを言えば、母さんに止められる。母さんが言えば、お前が泣く。それを繰り返すうちに、家の中に言える言葉がなくなった」
「だから追い出した」
「このままでは、お前の人生が終わる」
父の声には感情がなかった。感情がないのではない。感情が多すぎて、声にならないのだと真琴は思った。
「外に出れば、何かに気づくかもしれないと思った。怒りでも、恐怖でも、何でもいい。動く理由が生まれれば、お前は動ける。そういう子どもだったから」
「そういう子どもだった?」
「社交的だった。誰かが困っていれば放っておけなかった。知らない相手にもはっきり言えた。そういう子どもが、七年間部屋に閉じこもっていた。本来のお前じゃない。そう思っていた」
真琴は視線を落とした。小さい頃は違った。いつからかこうなった。自分でも薄々感じていたことを、父が言葉にした。
「強引に追い出せば、怒りを燃料にして動き始めるかもしれない。そして動くうちに、自分で過去に辿り着くかもしれない。そう思った」
「賭けだったの?」
「そうだ」父はそれを認めた。「乱暴な賭けだった。間違った方法だったかもしれない。でも、他に思いつかなかった」
「相談してくれればよかった」
「お前は相談できる状態ではなかった」
「勝手に決めないでよ!」
真琴は叫んだ。声が壁にぶつかって返ってくる。「ずっとそうじゃん。私が壊れるから。私が怖がるから。私が耐えられないから。そうやって全部勝手に決めて、勝手に隠して、最後には勝手に追い出した。私は何なの。守られるだけの荷物なの?」
父の顔が歪んだ。初めて見る表情だった。「荷物だと思ったことは一度もない」
「じゃあ、どうして」
「娘だからだ」
父の声が震えた。
「お前が娘だから、失うのが怖かった」
真琴は何も言えなくなった。父は拳を握っていた。
「栞ちゃんの家を見た。娘が帰らない家を。母親が毎日泣いて、父親が警察署に通い続ける家を。あれが明日の汐見家だったかもしれないと思うと、私は正気ではいられなかった」
父は言葉を続けた。
「お前は戻ってきた。生きて戻ってきた。だから、何があっても守らなければならないと思った。壊れかけても、部屋から出られなくても、それでも生きているなら、それでいいと思った」
「それで、閉じ込めた」
「ああ」
「忘れさせた」
「ああ」
「外に出られなくなっても?」
父は目を伏せた。「気づいていた。だが認めたくなかった」
「ひどいよ」
「分かっている」
「分かってない」
「……そうかもしれない」
沈黙が落ちた。真琴はテーブルの上の診療記録を見た。記憶の封印。家族の沈黙。父の賭け。全部が繋がり始めている。
「お父さん」
真琴は父を見た。
「もう止めないで」声が震えた。「私は今まで、何も知らなかった。自分がどうして外を怖がるのかも、どうして家族が変なのかも、全部分からなかった。分からないまま、七年も部屋にいた」
父は黙って聞いていた。
「でも、今は少しずつ分かってきてる。怖いけど、前より息ができる。だから、もう止めないで」
「止めない」
真琴は驚いた。「え?」
「止めない」父は繰り返した。「もう、止める気はない」
「どうして急に」
「急ではない」父は真琴を見た。「お前が動き始めたとき、分かった。私の賭けは当たったのかもしれないと。それなら、もう邪魔をすることはない」
真琴は言葉に詰まった。賭けは当たった。その言葉が、怒りとも、悲しさとも、何か別のものとも区別がつかない感情を呼び起こした。
「一つだけ頼みがある」
「何」
「翔太に必ず知らせろ。一人では動くな」
「命令じゃないの?」
「頼みだ」父は少し目を伏せた。「お前が私を信用できないことは分かっている」
真琴は答えられなかった。
「それでも、私はお前を見ていたい。今度は、黙ってではなく」
真琴は父を見た。すぐに許すことはできない。それでも、その言葉は以前の父とは違っていた。命令ではない。頼みだった。
「考える」真琴は言った。
父は小さく頷いた。「それでいい」
父は立ち上がった。帰るのかと思ったが、玄関へ向かう前に振り返った。「アルバムの写真を持ってくる」
「切り取ったやつ?」
「ああ」
「全部?」
「全部だ」
真琴は頷いた。父が玄関で靴を履く。ドアを開ける直前、真琴は声をかけた。
「お父さん」
父が振り返った。
「私を追い出したこと、許したわけじゃないから」
「ああ」
「でも、話してくれてよかった」
父の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
「すまなかった」
小さな声だった。
父が出ていった後、真琴は鍵を閉めた。チェーンもかけた。それから、テーブルの前に戻った。診療記録。栞の手紙。ノート。十八年前の事件は、単なる少女失踪ではなかった。でも、父が追い出した理由は、真琴が想像していたものとは違っていた。犯人への恐怖ではない。ただ、娘に動いてほしかった。不器用で、乱暴で、間違った方法だったけれど、その根っこにあったものは憎しみではなかった。
それが、一番複雑だった。
真琴はノートに新しいページを開いた。男は誰だったのか。二人目の男は誰か。栞はどこへ連れていかれたのか。箱とは何か。まだ、核心は見えない。
夕方、兄から電話が来た。
『親父、行ったんだな』
「うん」
『話したか』
「話した」
『大丈夫か』
いつもの問い。真琴は少しだけ笑った。「大丈夫ではない」
『だろうな』
「でも、前よりは分かった」
『そっか』
兄はそれだけ言った。真琴は少し迷ってから、父から聞いた内容を話した。事件当日のこと。楠の幹に突き飛ばされたこと。声が出なかったこと。父が追い出した本当の理由。
兄は黙って聞いていた。
『そうか。賭けか』
「うん」
『親父らしいな。相談もせずに』
兄の言葉には、呆れと苦さが混じっていた。
『真琴、これからどうする』
「調べ続ける」
『一人でやるな』
「分かってる」
「お兄ちゃんも手伝ってよ」
電話の向こうで、兄が少し驚いた気配があった。
『珍しいな。お前から頼んできた』
「うるさい」
『分かった。夜なら時間は作れる』
「奥さんは?」
『説明する』
「迷惑じゃない?」
『俺が決めることだ』
真琴は黙った。誰かが自分のために動く。それを受け入れるのは苦手だった。申し訳なさと、鬱陶しさと、安心が混ざる。
『一人で抱えるな』兄が言った。『今度は、家族全員で間違えないようにしよう』
その言葉に、真琴は胸が詰まった。家族全員で間違えた。十八年前、家族は真琴を守ろうとして、別の形で傷つけた。今度は。本当に今度があるのだろうか。
「分かった」真琴は小さく言った。「調べたことは連絡する」
『約束な』
「うん」
電話を切った後、真琴は窓のカーテンを閉めた。父に言われたからではない。自分でそう決めた。外はもう暗くなっていた。ガラスに、自分の顔が映る。少し疲れた顔。でも、以前より目に力がある気がした。
その夜、真琴は事件についてさらに調べた。男が二人いた。帽子の男。火傷の痕の男。箱。栞の前にも被害者がいた可能性。これらの断片を並べると、一つの嫌な像が浮かび上がってくる。単独犯ではない。組織的な何かが、この事件の背後にある。
真琴はノートに書いた。
誘拐ではなく、何かの仕組み?
書いた直後、スマートフォンが震えた。知らない番号からの着信だった。真琴は画面を見つめた。出ない。そう決めていたのに、着信は長く続いた。切れる。すぐにメッセージが届いた。番号だけの差出人。
『思い出さない方がいい』
真琴の全身が冷たくなった。
知らない誰かが、真琴を見ている。そして、真琴が思い出し始めたことを知っている。
父の賭けは当たった。でも、それは同時に、真琴が動き始めたことを誰かに知らせてしまったということでもあった。




