私が言ったから
翌朝、真琴はコンビニへ行った。
診療記録開示請求の申請書を印刷するためだった。コピー機の前で、何度も操作を間違えた。後ろに人が並んでいないか気になって、画面の文字が頭に入らない。それでも、何とか印刷した。申請書が排出口から出てきた瞬間、真琴は小さく息を吐いた。たった数枚の紙。けれど、それは十八年前の自分へ続く扉だった。
アパートに戻ると、必要書類を確認した。本人確認書類。印鑑。手数料。診療時期。受診した診療科。県立こども医療センター、児童精神科。
真琴はペンを握った。診療記録の開示を求める理由。その欄で、手が止まった。何と書けばいいのか。失った記憶を取り戻すため。十八年前の失踪事件を調べるため。家族が隠した真実を知るため。どれも正しく、どれも重すぎる。真琴は結局、こう書いた。
「自身の過去の治療内容を確認するため」
事務的な言葉だった。でも、それでよかった。感情を書き込んでも、書類は助けてくれない。
問題は電話だった。病院へ問い合わせなければならない。真琴はスマートフォンを前に、一時間近く座っていた。電話番号を見つめる。押せない。電話は苦手だ。相手の顔が見えない。沈黙が怖い。言葉に詰まったら逃げ場がない。それでも、やるしかない。
真琴はノートに台詞を書いた。「診療記録の開示請求についてお尋ねしたいのですが」。十回ほど声に出してから、発信した。
呼び出し音。一回。二回。三回。
『はい、県立こども医療センターです』
真琴の喉が詰まった。「あ、あの」声が裏返る。「診療記録の、開示請求について、お尋ねしたいのですが」
言えた。たどたどしかったが、言えた。
担当部署へ繋がれ、同じ説明をもう一度した。十八年前の記録は全て残っているとは限らない。ただし、当時の一部書類や診断書の控えが保存されている可能性はある。本人確認が取れれば申請は可能。郵送でも受け付ける。
担当者は淡々としていた。その淡々とした声に、逆に救われた。真琴の事情に踏み込まない。驚かない。責めない。ただ、手続きを説明する。
電話を切った後、真琴はしばらく動けなかった。心臓がまだ速い。けれど、電話は終わった。また一つ、できた。
申請書を郵送したのは、その日の午後だった。ポストに封筒を入れるとき、指先が震えた。赤い投入口に吸い込まれていく封筒を見ながら、真琴は思った。もう戻せない。記録が届けば、そこには自分の知らない自分がいる。壊れていた八歳の自分。大人たちに守られ、隠され、封じられた自分。それを読む覚悟が、本当にあるのか。答えは出なかった。けれど、封筒はもう手元になかった。
それから十日ほど、真琴は待つしかなかった。
待つ時間は長かった。調査を進めようにも、核心は診療記録の中にある気がした。その間、真琴は日常を整えることにした。朝、起きる。カーテンを開ける。簡単な食事を作る。近所を歩く。ノートを整理する。夜更かししすぎない。当たり前のことばかりだった。でも、真琴にとっては訓練だった。
コンビニには一人で行けるようになった。図書館にも、少しなら行ける。電話はまだ怖いが、一度かけられた。兄とは、二日に一度ほど連絡を取るようになった。母からのメッセージには、まだ返せない日が多かった。父からは何も来なかった。その沈黙が、真琴を苛立たせた。同時に、少し怖かった。父は何を考えているのだろう。自分がここまで調べていることを知っているのか。知ったら、止めるのか。
ある夜、兄から電話が来た。
『病院の記録、申請したんだって?』
「お母さんから聞いたの?」
『いや。お前が前に医療センターって言ってたから、そうすると思った』
「お父さんには?」
『言ってない』
「本当に?」
『本当だ』
真琴は少し黙った。「お兄ちゃんは、知りたくないの」
『何を』
「十八年前のこと」
電話の向こうで、兄が息を吐いた。『知りたいよ。でも、怖くもある』
「お兄ちゃんでも?」
『当たり前だろ』
その答えは意外だった。兄はいつも、真琴より大人だった。父と母の間でうまく立ち回り、仕事をして、結婚して、普通の生活を築いている。怖いものなど少ないのだと思っていた。
『俺は、あの頃の家を覚えてる』兄の声が低くなった。『母さんは毎晩泣いてた。親父は警察や学校に行って、帰ってくると黙って風呂場で手を洗ってた。真琴は夜中に叫ぶ。俺は何もできない。家の中にいるのに、家じゃないみたいだった』
真琴は黙った。
『だから、知りたい。でも、またあの頃に戻るのは怖い』
兄の言葉は、真琴の胸に残った。家族にも傷がある。分かり始めている。でも、それを認めることは、自分の怒りを手放すことのようで怖かった。
「私は、まだ許せないよ」
『許さなくていい』
「え?」
『今は。無理に許さなくていい。まず知ればいい』
兄はそう言った。その言葉は、不思議と真琴を楽にした。許すために調べているのではない。責めるためでもない。ただ、知るため。それでいい。
診療記録が届いたのは、申請から十三日目の午後だった。
簡易書留だった。配達員がインターホンを鳴らした瞬間、真琴は身体を強張らせた。玄関へ行き、チェーンをかけたまま返事をする。受け取りにはサインが必要だった。手が震えたが、何とか書いた。
封筒は厚かった。県立こども医療センター。その文字を見ただけで、息が浅くなる。
真琴はテーブルの前に座った。封を切るまでに、十分かかった。
中には、開示決定通知書、診療記録の写し、診断書の控え、心理面接記録の一部が入っていた。紙はコピーだったが、ところどころ文字が薄い。十八年前の記録。
真琴は一枚目をめくった。
患者氏名。汐見真琴。当時八歳。初診日、二〇〇八年七月三十一日。主訴。「失踪事件目撃後の急性ストレス反応、不眠、悪夢、失語傾向、強い恐怖反応」
目撃後。その三文字が、真琴の胸に刺さった。自分はやはり、見ていた。
次のページには、医師の所見があった。事件当日、対象児は友人とともに公園周辺にいたと推定される。発見時、強い解離状態。呼びかけへの反応乏しい。「白い車」「犬はいなかった」「男が二人」等の断片的発言あり。以後、事件に関する直接質問に対して著しい混乱、泣き叫び、過呼吸を呈する。
真琴は紙を握りしめた。呼吸が乱れる。十八年前の医師の言葉が、今の身体を揺さぶる。
次のページ。心理面接記録。八月五日。対象児、母親同席。夜間悪夢あり。「栞ちゃんが車に乗せられた」と発言。詳細を問うと沈黙。その後、「私が言ったから」と繰り返す。
真琴は眉を寄せた。私が言ったから。何を。
八月九日。父親同席。対象児、白色車両の写真提示に強い拒否反応。軽自動車、ワゴン車等の判別不可。「犬を見せるって言った」「でも犬はいなかった」と発言。
八月十二日。対象児、男性医師の入室に強い恐怖反応。女性医師へ変更。「手が熱そうだった」と発言。
手が熱そう。火傷の痕。夢で見た手。真琴は手元を見た。自分の手が震えている。
八月十九日。事件に関連する記憶の想起を試みるも、強い解離、パニック反応あり。安全確保を優先。無理な想起は避ける方針。
診断。急性ストレス障害。解離性健忘。心的外傷後ストレス反応。
真琴はその文字を、何度も読んだ。
解離性健忘。
記憶の欠落は、怠けでも逃げでもなかった。脳が封印した。自分を守るために。
最後の診断書の控えには、さらに重い言葉があった。
「事件目撃に関する記憶は、現時点で著しく断片化しており、強制的な想起は精神状態の悪化を招く可能性が高い。家庭および学校環境において、当該事件に関する刺激を可能な限り避け、安定した生活環境を維持することが望ましい」
家庭および学校環境において、刺激を避ける。事件に触れない。思い出させない。安定した生活環境。
真琴は紙を見つめた。ここに、家族の沈黙の始まりがあった。医師の言葉。学校の配慮。警察の慎重姿勢。すべてが重なって、真琴の記憶は封じられた。父と母は、それに従った。十八年間。最初は治療だったのかもしれない。でも、いつしかそれは檻になった。
真琴は診療記録の続きを読んだ。九月。悪夢は減少。登校再開。ただし公園付近への接近困難。白色車両への恐怖反応残存。十月。事件関連の質問に対し、「分からない」と答えることが増える。情動反応はやや安定。十一月。対象児、事件前後の記憶について「夢みたい」「本当か分からない」と発言。十二月。家庭での様子は安定傾向。両親、事件関連の話題を避ける方針継続希望。
真琴はその一文で手を止めた。両親、方針継続希望。父と母が選んだ。思い出させないことを。それが正しかったのか、間違っていたのか、今の真琴には判断できなかった。八歳の自分を救うには必要だったのかもしれない。でも、二十六歳の自分は、その代償を背負っている。
ページの最後に、見慣れない添付資料があった。警察提出用の意見書。そこには、医師がこう書いていた。
「対象児は事件に関し重要な目撃情報を有する可能性があるが、現時点での詳細聴取は精神的負荷が大きく、証言の一貫性も保てない恐れがある。必要な聴取は短時間かつ専門家同席のもと行うことが望ましい」
重要な目撃情報。証言の一貫性。真琴は目を閉じた。警察は自分から聞こうとした。でも、自分は話せなかった。話せないまま、事件は止まった。
机の上には、新聞記事のコピー、同級生の証言、栞の手紙、診療記録が並んでいる。断片は増えた。けれど、まだ核心が見えない。男は誰だったのか。二人目の男は誰か。なぜ父は今になって追い出したのか。
そのとき、診療記録の中の一枚が目に留まった。八月二十二日の心理面接記録。今まで飛ばしていたページだった。
真琴は読み始めた。対象児、自由描画を実施。白い車と思われる図を描く。車両横に大人の男性二名。一名は帽子。一名は右手に赤い印。対象児、赤い印について「熱い手」と説明。車両後部に「はこ」と発言。詳細確認時、強い泣き反応。
箱。真琴は眉をひそめた。車の後部に箱。何の箱。
さらに次の行。対象児、「しおりちゃんの前にも、箱があった」と発言。
真琴の背筋に冷たいものが走った。栞の前にも、箱があった。意味が分からない。けれど、ただの誘拐事件ではない気配がした。
真琴はノートに書いた。車の後部に箱。栞の前にも箱。熱い手。帽子の男。右手に火傷。
書いている途中で、スマートフォンが鳴った。母からだった。真琴は画面を見つめた。出るべきか。診療記録を読んだ直後だった。母が何を隠していたのか、少し分かってしまった今、声を聞くのが怖かった。しかし、真琴は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『真琴?』母の声が震えていた。『今、大丈夫?』
「何」
『病院から書類、届いた?』
真琴は息を止めた。「なんで知ってるの」
『昨日、病院から確認の電話が家にあったの。昔の住所が実家になっていたから』
「そう」
『読んだの?』
「読んだ」
電話の向こうで、母が小さく息を呑んだ。
『ごめんなさい』
その言葉に、真琴の胸が揺れた。ごめんなさい。自分が栞の母に言っていた言葉。今、母が自分に言っている。
『ずっと隠していて、ごめんなさい』
真琴はすぐには答えられなかった。「お母さんは、医者に言われたから黙ってたの?」
『最初は、そうだった』
「最初は?」
『あなたが少しずつ眠れるようになって、学校にも行けるようになって、笑う日も戻ってきた。だから、もう触れない方がいいと思ったの』
「それで十八年?」
『気づいたら、言えなくなっていた』母の声は泣いていた。『あなたが大きくなるほど、言うのが怖くなった。また壊してしまうんじゃないかって。私たちが黙っていたせいで、あなたが何も知らずに苦しんでいることにも、気づかないふりをした』
真琴は唇を噛んだ。「それで、引きこもっても何も言わなかったの?」
『言えなかった。外へ出なさいと言えば、あの事件に近づいてしまう気がした。外が怖いあなたを見て、私は守っているつもりで、閉じ込めていた』
母の告白は、真琴の怒りを鎮めなかった。むしろ、別の痛みに変えた。母は真琴を愛していなかったわけではない。愛していた。だから閉じ込めた。それが一番やりきれなかった。
「お父さんは?」
『お父さんは……』母は言い淀んだ。
「まだ言えないの?」
『真琴』
「もういい」
『待って』
「お母さんは、どうして私が追い出されたのか知ってるんでしょ」
電話の向こうが静かになった。「お父さんが追い出した理由。知ってるんでしょ」
『……知ってる』
真琴の心臓が重く鳴った。「教えて」
『私からは言えない』
「どうして」
『お父さんが話すべきことだから』
また父。すべての核心に、父がいる。真琴は目を閉じた。「分かった」
『真琴』
「お父さんに言って。私はもう知るつもりだから。止めても無駄だって」
母は泣きながら頷いたようだった。
電話を切ると、部屋は急に静かになった。真琴は診療記録をもう一度見た。記憶の封印。それは自分を守るために始まった。でも、封印の下にはまだ何かがある。父が話すべきこと。母が言えないこと。そして、事件の前から真琴が見ていた「男」。
その夜、真琴は眠れなかった。診療記録を何度も読み返した。特に、自由描画の記録。帽子の男。熱い手。箱。栞の前にも箱。
真琴はネットで、十八年前の周辺事件を調べ始めた。小川栞失踪事件の前後。地域周辺。児童行方不明。不審車両。検索結果は少なかった。しかし、ひとつの記事が引っかかった。
二〇〇七年。隣町で、小学生の一時行方不明騒ぎ。数時間後に保護。本人は「知らない男に車に乗せられた」と話したが、詳細不明。事件化されず。
真琴は息を詰めた。栞の前にも、箱があった。栞は最初ではない。その考えが浮かんだ瞬間、部屋の空気が冷えた。単独の誘拐ではない。もしかすると、もっと前から誰かが子どもを狙っていた。
真琴はノートに大きく書いた。
栞は最初の被害者ではない?
その文字を見て、手が止まった。これ以上は、一人で抱えきれないかもしれない。兄に連絡しようとスマートフォンを手に取ったとき、先に通知が来た。
父からだった。
画面には、短い文章が表示されていた。
『明日、話す』
それだけだった。
真琴はその文字を見つめた。十八年間閉じられていた扉が、ようやく開こうとしている。だが、その向こうに何があるのか。真琴にはまだ分からなかった。
真琴はスマートフォンをテーブルに置いた。「私が言ったから」という言葉が、また頭に浮かんだ。八歳の自分が、何かを「言った」ことで、栞が消えたと思っていた。でも本当に、言ったことが原因だったのか。言えなかったことが原因だったのか。その答えは、まだ見えなかった。けれど、明日、父が話す。その扉の向こうに、何かある。
真琴は布団に入り、目を閉じた。眠れないと思っていた。しかし、いつの間にか落ちていた。夢は見なかった。




