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しおりちゃんを返して

 真琴は手紙を読み終えたあと、しばらく声が出なかった。


 まこちゃんのひみつ。こわがっていた男の人。事件の前から、何かが始まっていた。その事実が、胸の奥に沈んでいく。


 千尋は何も急かさなかった。古い書店の奥の事務室で、二人はただ黙っていた。外では商店街のシャッターが下りる音がした。夜の音だった。


「私、そんなこと言ってたの」


 真琴がようやく口を開くと、千尋は小さく頷いた。「はっきり全部を聞いたわけじゃない。でも、栞ちゃんが心配してた」


「栞ちゃんが?」


「うん。真琴ちゃんが、最近変だって。公園に行くと怖がるって」


 真琴は手紙を机に置いた。指先が冷えていた。


「なのに、私たちは公園に行った」


「たぶん、仲直りするためだったんだと思う」


「そのせいで」


「真琴ちゃん」千尋が静かに遮った。「その言い方はしないで」


 真琴は顔を上げた。


「でも」


「私たちは八歳だった」千尋の声は震えていた。「大人に言うべきだったとか、逃げればよかったとか、今ならいくらでも言える。でも、あのときの私たちは、何が危ないのかも分かってなかった」


 真琴は答えられなかった。理屈では分かる。けれど、感情は理屈の通りには動かない。栞は消えた。自分は戻った。それだけが、どうしようもなく重かった。


「その男のこと、他に覚えてる?」


「私は直接見てない」千尋は首を振った。「でも、栞ちゃんは言ってた。優しそうだけど、真琴ちゃんが怖がるから近づかない方がいいかなって」


「優しそう……」


「うん。お菓子をくれたとか、犬の話をしたとか、そんなことも言ってた気がする」


 真琴の頭の奥が鋭く痛んだ。犬。小さな白い犬。首輪。男の低い声。触ってみる? 真琴は目を閉じた。映像はすぐ消えた。けれど、嫌な感触だけが残る。


「その話、先生は知ってたのかな」


「分からない。でも、当時の担任なら何か知ってるかもしれない」


「担任……」


「榊先生」


 名前を聞いた瞬間、真琴の胸がかすかに反応した。榊恵子。若葉小学校二年二組の担任。丸い眼鏡。短い髪。チョークの粉がついた指。厳しいけれど、よく笑う先生。その顔だけは、不思議とすぐに浮かんだ。


「先生、今もいるの?」


「学校にはいないと思う。たしか定年退職したって聞いた」千尋はスマートフォンを操作した。「前に、地域の読書ボランティアの記事で名前を見たことがある。若葉市民センターで活動してるはず」


 真琴はノートに書いた。榊恵子。若葉市民センター。読書ボランティア。


「会いに行くの?」千尋が尋ねた。


「行く」


 答えはすぐに出た。怖さはあった。けれど、迷いは少なくなっていた。知りたい。その気持ちが、恐怖を少しずつ上回り始めていた。


 書店を出ると、兄が駐車場の車のそばに立っていた。真琴を見るなり、ほっとした顔をする。


「終わったか」


「うん」


「大丈夫か」


「大丈夫じゃない」真琴は正直に言った。「でも、帰れる」


 兄は頷いた。「送る」


「歩いて帰る」


「夜だ」


「分かってる」


 二人はしばらく黙って向き合った。兄は一歩引いた。


「じゃあ、駅まででいい」


「分かった」


 二人は商店街を歩いた。シャッターの閉まった店が並び、街灯の白い光が歩道に落ちている。兄は約束通り、少し離れて歩いた。近すぎず、遠すぎず。真琴はその距離が不思議だった。七年間、家族との距離は近すぎるか遠すぎるかのどちらかだった。母は近すぎた。父は遠すぎた。兄は、いないに等しかった。今、兄は少し離れている。それが一番息がしやすい距離だと、真琴は初めて知った。


 翌日、真琴は若葉市民センターに電話をかけた。


 電話をかけるだけで、三十分かかった。番号を入力しては消し、深呼吸し、また入力する。ようやく発信すると、女性職員が明るい声で出た。真琴は用意していたメモを見ながら、榊恵子先生の読書ボランティアについて尋ねた。声は震えた。それでも、最後まで言えた。


 榊は毎週木曜日の午後、子ども向け読み聞かせの活動に来ているという。今日は水曜日。明日行けば会える。


 電話を切った瞬間、真琴は床に座り込んだ。たった一本の電話で、全身が疲れていた。だが、できた。電話をかけ、用件を伝え、情報を得た。以前の自分なら、絶対にできなかった。真琴はノートの端に小さく書いた。


 電話できた。


 その一行が、事件のメモより少しだけ眩しく見えた。


 木曜日。若葉市民センターは、公園の近くにあった。真琴はその道を歩きながら、何度も立ち止まりそうになった。若葉公園の前を通らなければならない。あの楠。あの路地。白い車の記憶。視界に入れないようにしても、身体は反応した。胸が苦しくなる。手が冷たくなる。けれど、今日は倒れなかった。歩幅を小さくして、通り過ぎた。


 市民センターの一階ロビーには、地域の掲示板があった。読書会。健康体操。書道教室。子ども読み聞かせ会。その案内の下に、榊恵子の名前があった。


 真琴は二階の小会議室へ向かった。中から子どもたちの声が聞こえる。扉の隙間から覗くと、年配の女性が絵本を読んでいた。榊先生だった。髪は白くなり、眼鏡の形も変わっている。けれど、声は記憶の中と同じだった。少し低く、よく通る声。


 真琴は廊下の椅子に座って、読み聞かせが終わるのを待った。


 三十分ほどして、子どもたちが部屋から出てきた。母親たちが笑いながら荷物をまとめている。最後に榊が絵本を抱えて出てきた。真琴は立ち上がった。


「あの」


 榊が振り向いた。真琴の顔を見て、最初は分からない様子だった。だが、数秒後、その目が大きく開いた。


「……汐見さん?」


 真琴は驚いた。「覚えてるんですか」


「もちろん」榊は絵本を胸に抱え直した。「汐見真琴さんでしょう」


 名前を呼ばれた瞬間、真琴の中の八歳の自分が目を覚ました気がした。先生に名前を呼ばれる。廊下に立つ。ランドセル。上履き。胸の奥がぎゅっと痛む。


「少し、お話できますか」真琴は言った。「小川栞さんのことで」


 榊の表情が変わった。穏やかな読書ボランティアの顔が消え、元教師の顔になった。そして、その奥に深い痛みが見えた。


「いつか、来るかもしれないと思っていました」榊は静かに言った。


 二人は市民センターの隅にある小さな談話室へ移動した。窓の外には若葉公園の木々が見える。真琴は窓に背を向けて座った。榊はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。


「どこまで知っていますか」榊が尋ねた。


「栞ちゃんが失踪したこと。私が最後に一緒にいたらしいこと。事件の後、私は学校に来られなくなったこと」真琴は膝の上で手を握った。「それから、事件の前から、私は知らない男の人を怖がっていたかもしれないこと」


 榊はゆっくり目を閉じた。「そこまで」


「先生は、知っていたんですか」


「全部ではありません。ただ、あなたの様子がおかしいことには気づいていました」


「いつからですか」


「事件の二週間ほど前です」


 真琴は息を呑んだ。二週間。思っていたより長い。


「あなたは、それまで毎日栞さんと一緒に帰っていました。でも、ある日から急に、公園の前を通りたくないと言い始めた」


「理由は」


「言いませんでした。ただ、怖い人がいる、と」


 榊は当時を思い出すように視線を落とした。「私は、地域に不審者がいるのかもしれないと思い、学校で注意喚起をしました。けれど、あなたは具体的なことを話してくれなかった」


「話さなかったんじゃなくて、話せなかったんだと思います」真琴は呟いた。「たぶん」


 榊は頷いた。「今なら、そう思います」


「当時は?」


「子どもの曖昧な不安だと考えてしまった」榊の声が少し震えた。「それが、私の一番大きな後悔です」


 真琴は黙った。榊を責める言葉は浮かばなかった。自分も覚えていない。誰も完全には掴めていなかった。けれど、その小さな見落としの積み重ねの先で、栞は消えた。


「事件の日、私は何をしていたんですか」


 榊はしばらく答えなかった。「本当に、聞きたいですか」


「はい」


「思い出すことが、あなたを傷つけるかもしれません」


「知らないままでも傷ついています」


 榊は真琴を見た。そして、ゆっくり頷いた。


「事件の日は、夏休み前の短縮授業でした。あなたと栞さんは、学校を出た後、一度図書室に寄っています」


「図書室?」


「ええ。夏休みに読む本を借りたいと言って」


 真琴の頭の奥に、ぼんやりと光景が浮かんだ。図書室。開け放たれた窓。カーテンが風で膨らむ。机の上に置かれた貸出カード。栞の白いワンピース。


「その後、二人で帰った?」


「はい。少なくとも校門を出るところまでは、一緒でした」


「栞ちゃんは、白いワンピースを着ていましたか」


「着ていました」榊は驚いたように真琴を見た。「思い出しましたか」


「少しだけ」真琴は額を押さえた。「暑かった。栞ちゃんが、本を抱えてた」


「そうです。彼女はその日、絵本を二冊借りていました」


「その本は?」


 榊は唇を結んだ。「見つかりませんでした」


 真琴の背筋が冷えた。栞は本を持ったまま消えた。八歳の少女の手にあった、夏休みの本。それすら戻らなかった。


「私はどこで見つかったんですか」


「学校の近くの道路です。若葉公園から五百メートルほど離れた場所でした」


「誰が?」


「近所の女性です。あなたは道路脇に座り込んでいて、靴を片方なくしていました」


 真琴は足元を見た。靴。片方だけの靴。アスファルトの熱。裸足の痛み。一瞬、足の裏が焼けるように痛んだ。


「私は何か言っていましたか」


 榊は辛そうに眉を寄せた。「最初は何も。声をかけても反応がなかったそうです。その後、学校に連絡が来て、私が駆けつけました」


「先生が」


「ええ。あなたは私を見ると、急に泣き出しました」


「何て言ったんですか」


 榊は長く息を吐いた。「『しおりちゃんを返して』と」


 真琴の胸が強く震えた。しおりちゃんを返して。その言葉は、自分の口から出たものなのに、刃のように戻ってきた。


「他には」


「『白い車』。『おじさん』。『犬はいなかった』」


「犬はいなかった?」真琴は顔を上げた。「どういう意味ですか」


「分かりません。当時も分かりませんでした」榊は首を振った。「でも、あなたは何度もそう言っていました。犬はいなかった。嘘だった、と」


 犬。男が話しかけるための口実。触ってみる? でも、犬はいなかった。真琴の指が震えた。


「それから、もう一つ」榊は声を潜めた。「あなたは、男が二人いたと言いました」


 部屋の空気が止まった。


「二人?」


「ええ。けれど、翌日になると、その話をしなくなりました。というより、何も話せなくなった」


 真琴はノートを開こうとして、手がうまく動かなかった。男は一人ではない。白い車。犬の嘘。二人の男。事件の形が、急に変わった。


「警察には?」


「伝えました。当然です」


「でも、記事には男が二人なんて」


「警察は慎重でした。あなたは八歳で、強いショック状態だった。証言として扱うには難しいと言われました」榊の声には、わずかな怒りが混じっていた。「ただ、それでも捜査はしたはずです。ですが、決定的な証拠は出なかった」


「私がもっとちゃんと話せていたら」


「汐見さん」榊の声が強くなった。


 真琴は肩を震わせた。


「それだけは違います。あなたは八歳でした。大人でも耐えられないことを見たかもしれない。話せなかったことは罪ではありません」


「でも、栞ちゃんは」


「栞さんを連れ去った人間が悪いのです」榊は真琴をまっすぐ見た。「あなたではありません」


 その言葉は、真琴の中にすぐには届かなかった。十八年間、自分の中で育っていたかもしれない罪悪感は、そんなに簡単には消えない。けれど、榊の声は強かった。教師としてではなく、大人として、真琴に言ってくれているようだった。


「事件後、私はどれくらい学校を休みましたか」


「夏休みを挟んで、九月の半ばまでです。戻ってからも保健室登校が続きました」


「病院にも行っていたんですか」


「はい。お父様とお母様が、専門の病院へ連れて行っていました」


 真琴は顔を上げた。「病院?」


「児童精神科です」


「どこの?」


 榊は少し迷った。「確か、県立こども医療センターだったと思います」


 新しい手がかりだった。診療記録。そこに、自分が何を話したか残っているかもしれない。「記録は残っていますか」


「病院に問い合わせるしかありません。ただ、十八年前ですから、全て残っているかは分かりません」


 真琴はノートに書き込んだ。県立こども医療センター。児童精神科。診療記録。


「先生」真琴はペンを置いた。「うちの家族は、当時どんな様子でしたか」


 榊は答えに詰まった。「正直に言ってください」


「……お母様は、ずっと泣いていました。あなたを一人にすることをひどく怖がっていた」


 真琴は母の顔を思い浮かべた。いつも階段の前に食事を置いていた母。甘やかしていた母。それは、ただ甘かったのではなく、怖かったのだろうか。


「父は?」


「お父様は、ほとんど感情を見せませんでした。ただ、一度だけ覚えています」


「何を?」


「警察の方と話した後、廊下で壁を殴っていました」


 真琴は息を止めた。父が。あの父が。


「手から血が出ていました。でも、声は出さなかった」


 真琴は何も言えなかった。父はいつも冷たいと思っていた。寡黙で、厳格で、自分に関心がない人。けれど、十八年前の父は壁を殴っていた。それを想像すると、胸が妙にざわついた。


「お兄様も、よくあなたの様子を見に来ていました」


「兄が?」


「ええ。中学生でしたが、あなたの教室の前まで来て、担任の私に『真琴は今日は泣いていませんか』と聞いていました」


 兄の声が蘇る。大丈夫か。最近、何度もそう聞いてきた声。それは急に始まったことではなかったのかもしれない。十八年前から、兄は同じことを聞いていたのかもしれない。


 真琴は視線を落とした。家族を許す気には、まだなれない。追い出された痛みも、隠されていた怒りも消えない。けれど、家族がただ冷たかったわけではないことも、少しずつ見えてきた。それが、余計に苦しかった。


「汐見さん」榊が静かに言った。「あなたがここまで来られたことに、私は驚いています」


「え?」


「事件の後、あなたは本当に外を怖がっていた。知らない男性、車、公園、夏の音。全部が恐怖の引き金でした」


 真琴は黙って聞いた。


「それでも今日、あなたはここまで来た。自分で調べて、私に会いに来た」榊の目が少し潤んでいた。「それは、とても大きなことです」


 真琴は返事ができなかった。褒められると、どうしていいか分からない。けれど、胸の奥が少し温かくなった。


 市民センターを出ると、夕方の光が公園の木々を照らしていた。真琴は若葉公園の前で足を止めた。以前なら、すぐに目を逸らして逃げた。今日は、少しだけ見た。楠。滑り台。奥の細い路地。怖い。それは変わらない。でも、怖い理由が少し分かった。分からない恐怖より、名前のある恐怖の方が、ほんの少しだけ耐えられる。


 スマートフォンが震えた。兄からだった。


『終わった?』


 真琴は返信した。


『終わった。先生に会えた』


『迎えに行こうか』


 真琴は少し迷った。今日は疲れている。頭の中がいっぱいだった。それでも、返事は自然に決まった。


『歩いて帰る』


 少しして、兄から返ってきた。


『分かった。何かあったら電話して』


 真琴はスマートフォンをしまった。


 帰り道、空は薄い橙色に染まっていた。車が通るたび、身体はまだ強張る。白い軽自動車を見ると、息が止まりそうになる。それでも、真琴は歩いた。


 アパートに戻ると、すぐにノートを開いた。榊恵子の証言。事件二週間前から真琴は公園を怖がっていた。怖い人がいると言っていた。事件当日、栞と図書室に寄った。栞は本を二冊借りていた。真琴は学校近くの道路で保護。靴を片方なくしていた。「しおりちゃんを返して」。「白い車」。「おじさん」。「犬はいなかった」。男は二人。県立こども医療センター。


 書き終えてから、真琴はペンを置いた。男は二人。事件は、思っていたより大きいのかもしれない。真琴は栞の手紙をもう一度見た。まこちゃんのひみつ。こわがっていた男の人。十八年前、真琴は何を見ていたのか。そして、なぜ今、父は真琴を家から出したのか。その二つが、少しずつ近づいている気がした。


 夜、真琴は父にメッセージを送ろうとした。県立こども医療センターのことを聞くためだ。しかし、文章を打っては消した。父は答えないかもしれない。あるいは、調べるなと言うかもしれない。それなら、先に自分で動いた方がいい。


 真琴は病院のホームページを開いた。診療記録の開示請求。本人確認書類。申請書。手数料。手続きは面倒そうだった。だが、不可能ではない。真琴はページを印刷する方法を調べ、コンビニで印刷できることを知った。


 明日、行こう。そう決めた。


 怖いことが一つ増えるたびに、やることも一つ増える。以前なら、それだけで動けなくなっていた。でも今は、ノートに書けば少し整理できる。明日やること。一、コンビニで申請書を印刷。二、本人確認書類を探す。三、病院に電話。


 電話、という文字で少し手が止まる。それでも消さなかった。


 真琴は布団に入った。その夜、また夢を見た。若葉公園。夕方。楠の陰。白い車。誰かの声。夢の最後に、また見えた。口を塞いでいた手。その手には、特徴があった。


 親指の付け根に、古い火傷の痕。


 真琴は飛び起き、ノートを開いた。震える字で書く。


 二人目の男。手に火傷の痕。


 書いた瞬間、真琴は理解した。記憶は戻り始めている。もう、止まらない。

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