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ごめんなさい

 三日後、真琴は図書館のカフェスペースにいた。


 約束の二十分前だった。また早く着きすぎた。席は壁際を選んだ。背後に人が立たない場所。入口が見える場所。逃げようと思えばすぐ逃げられる場所。そんなことばかり考えている自分が嫌だった。けれど、以前よりは少しだけましだった。少なくとも今日は、店員に注文できた。ホットティー。声は小さかったが、聞き返されなかった。それだけで、少し安心した。


 テーブルの上にはノートを置いていた。小川栞失踪事件。表紙の裏にそう書いてある。事件の名前を書くたびに、自分が何か取り返しのつかないものへ近づいている気がした。


 午後二時ちょうど、野村沙織が現れた。卒業アルバムの面影はある。背筋が伸びていて、髪はきれいにまとめられている。淡い色のブラウスに、薄い上着。いかにもきちんとした人、という印象だった。


「汐見さん?」柔らかい声だった。


 真琴は立ち上がろうとして、椅子を少し鳴らしてしまった。「す、すみません」


「大丈夫。久しぶりだね」


「うん。久しぶり」


 野村は向かいに座り、カフェラテを注文した。その動作に迷いがない。真琴は少し羨ましくなった。普通に店へ入り、普通に人と話し、普通に注文する。それだけのことが、彼女には当たり前にできる。


「川島くんから少し聞いた」野村は声を落とした。「栞ちゃんのことを調べてるって」


「うん」


「どうして今?」


 当然の質問だった。真琴は用意していた答えを口にした。「昔の写真が出てきたの。栞ちゃんの。それで……私、その頃の記憶がほとんどなくて」


 野村は驚いた顔をした。「本当に覚えてないんだ」


「栞ちゃんと仲が良かったことも、事件の日のことも」


「そっか……」野村はカップに視線を落とした。「ごめん。ちょっとびっくりしただけ」


「みんな、知ってたの?」


「みんなというか、同じクラスの子は何となく」


「私と栞ちゃんが一緒にいたこと?」


「うん」


 真琴はノートを開いた。ペンを握る手に力が入る。「覚えてることを教えてほしい」


 野村は少し考えてから話し始めた。「あの日、終業式の少し前だったよね。夏休みに入る直前で、みんな浮かれてた。栞ちゃんは転校してきたばかりだった」


「転校?」真琴は顔を上げた。「栞ちゃん、転校生だったの?」


「覚えてない?」


「うん」


「二年生の春に来たんだよ。若葉小に。たしか、四月か五月くらい」


 初めて聞く情報だった。真琴はノートに書き込む。小川栞、二年春に転校。


「どこから?」


「そこまでは覚えてない。でも、最初はあまり喋らない子だった。汐見さんが一番最初に仲良くなったんじゃなかったかな」


「私が?」


「うん。図工の時間に、栞ちゃんが絵の具を忘れて、汐見さんが貸してあげたの」


 真琴は目を閉じた。思い出そうとする。絵の具。図工室。水入れ。筆洗い場。薄い記憶の膜の向こうに、何かがある気がした。けれど、掴めない。


「それから、二人でよくいたよ」野村は続けた。「休み時間も、図書室でも、帰り道も」


「帰り道?」


「方向が同じだったから」


 真琴は地図を思い浮かべた。若葉小学校。若葉公園。栞の家。汐見家。たしかに途中までは同じ道だったのかもしれない。


「事件の日も、一緒に帰ったの?」


「たぶん。私は見てないけど、先生がそう言ってた」


「先生が?」


「事件の後、クラスで話があったの。栞ちゃんを見かけた人はいないか、知らない人に話しかけられた子はいないかって。そのとき先生が、汐見さんは今お休みしています、って言ってた」


「私の名前が出たの?」


「直接は出してなかった。でも、みんな分かってた。最後に一緒だったのは汐見さんだって」


 真琴はペンを止めた。クラス全員が知っていた。自分だけが忘れていた。その事実が、また胸を重くした。


「私、事件の後どうだった?」


 野村の表情が曇った。「うん。泣いてた」


「どんなふうに?」


「……ごめん。少し嫌な話になる」


「大丈夫」本当は大丈夫ではなかった。でも、聞かなければならない。


 野村は慎重に言葉を選んだ。「事件の翌日だったと思う。学校に警察の人が来てた。先生たちも落ち着かなくて、授業どころじゃなかった。汐見さんは来てなかったけど、放課後に一度、学校へ来たの」


「私が?」


「お母さんと一緒に。たぶん、先生と話すためだったんだと思う」


 母。若い母。泣き腫らした顔で、自分の手を引いて学校へ行く母。そんな光景が一瞬だけ浮かびかけ、すぐ消えた。


「そのとき、廊下で栞ちゃんのお母さんと会った」野村の声がさらに低くなった。


「栞ちゃんのお母さん?」


「うん。栞ちゃんのお母さんも学校に来てた。情報を聞きに来たのかもしれない。廊下ですれ違ったとき、汐見さんが急に泣き出したの」


 真琴の喉が鳴った。「何か言ってた?」


「うん」野村は真琴を見た。目を逸らさず、しかし痛ましそうに。「『ごめんなさい』って。何度も」


 真琴の手からペンが滑り落ちた。


 ごめんなさい。その言葉が、頭の中で反響した。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。自分の声で。幼い声で。廊下に響く声。誰かの泣き声。母の腕。栞の母親の白い顔。真琴は息を吸うのを忘れた。


「汐見さん?」野村の声が遠くなる。


「ごめんなさいって……誰に」


「栞ちゃんのお母さんに。先生がすぐ止めてたけど、汐見さん、床に座り込んで泣いてた」


「なんで私、謝ってたの」


「分からない。でも、子どもだったし、自分を責めてたんじゃないかな」


「私が、何かしたのかな」


 野村はすぐに首を振った。「違うと思う」


「どうして分かるの」


「だって、汐見さんも被害者だったんだよ」


 被害者。その言葉は、真琴の中にうまく入ってこなかった。栞が被害者なのは分かる。その家族も被害者だ。でも、自分は? 自分は帰ってきた。生きている。十八年間、忘れていた。そんな自分が被害者と言えるのだろうか。


「事件の後、汐見さん、しばらく学校に来なかった」野村は続けた。「二学期に戻ってきたけど、教室に入れない日もあった。運動場で車の音がすると泣いたり、男の先生が大きな声を出すと固まったり」


「私、そんなに」


「うん。でも、誰もその話はしないようになった。先生に言われたの。汐見さんに事件のことを聞いてはいけませんって」


 真琴は唇を噛んだ。大人たちが決めたのだ。聞かないこと。触れないこと。思い出させないこと。それはきっと善意だった。けれど、その善意の積み重ねが、十八年分の空白になった。


「千尋さんは?」真琴は声を絞り出した。「千尋さんなら、何か覚えてる?」


「たぶん。一番近くにいたと思う」


「私と?」


「うん。栞ちゃんがいなくなった後、汐見さんの隣に一番いたのは千尋さんだったから」


 野村はスマートフォンを取り出した。「連絡してみる?」


「連絡先、知ってるの?」


「同窓会のグループにはいないけど、前に偶然会ったことがある。今、地元の小さな本屋で働いてるはず」


「本屋」


 その言葉に、真琴は少し反応した。本屋なら、まだ行けるかもしれない。カフェよりも静かで、図書館に近い。「場所、教えてもらえる?」


「もちろん」


 野村は店名と住所を送ってくれた。若葉町から二駅先の商店街。古書と新刊を少し扱う小さな店らしい。


「汐見さん」野村が、少し迷うように呼んだ。


「何?」


「無理して思い出さなくてもいいと思う」


 真琴は顔を上げた。「私、当時子どもだったけど、それでも分かった。あの事件の後、汐見さんは本当に苦しそうだった。だから、忘れたままでいられるなら、その方がいいこともあるのかもしれない」


「でも、忘れてたせいで、私は何も分からないまま大人になった」真琴は静かに言った。「家族が何を隠してるのかも、どうして追い出されたのかも、自分が何を怖がってるのかも、全部分からない」


 野村は黙った。


「分からないまま生きるのも、結構苦しいよ」


 それは、口に出して初めて分かった本音だった。真琴はずっと、ただ怠けているのだと思っていた。外に出られないのは自分が弱いから。人と話せないのは自分が駄目だから。大学を辞めたのも、働けないのも、部屋に閉じこもっていたのも、全部自分のせい。でも、もしその根っこに十八年前の事件があるのだとしたら。自分は何を抱えていたのか。それを知らないまま、ずっと自分を責め続けてきたのか。


「知りたい」真琴は言った。「怖いけど、知りたい」


 野村はしばらく真琴を見ていた。そして、小さく頷いた。「分かった。千尋さんに連絡できそうなら、私から一度伝えてみる」


「ありがとう」


「あと、これ」


 野村はバッグから一枚の紙を出した。古いコピーだった。「何?」


「小学校の文集。私、当時のものをスキャンしてたの。栞ちゃんのページがある」


 真琴は紙を受け取った。そこには、丸みのある子どもの字で短い作文が書かれていた。


『わたしのすきなもの』


 小川栞。


 すきなものは、白いワンピースです。お母さんが買ってくれました。夏にきると、すずしいです。あと、まこちゃんと図書室に行くのがすきです。まこちゃんは本を読むのが早いです。わたしも早く読めるようになりたいです。


 真琴は紙を見つめたまま動けなくなった。まこちゃん。文字の中に、自分がいた。栞の世界の中に、自分がいた。忘れていたのは、自分だけだった。


「持ってていいよ」野村が言った。


「いいの?」


「うん。汐見さんに持っていてほしい」


 真琴はコピーを胸に抱えた。泣きそうになった。でも、ここでは泣かなかった。


 カフェを出た後、真琴は兄にメッセージを送った。


『終わった』


 すぐに返信が来た。


『大丈夫か』


 真琴は迷ってから返す。


『大丈夫ではないけど、帰れる』


『迎えに行こうか』


『いらない』


 少しして、兄から返事が来た。


『分かった。気をつけて帰れ』


 真琴はスマートフォンをしまった。


 帰り道、空は曇り始めていた。湿った風が吹いている。真琴は歩きながら、野村の言葉を思い返した。ごめんなさい。栞の母に、何度も謝っていた自分。なぜ謝ったのか。置いて逃げたから? 助けを呼べなかったから? 声が出なかったから? 考えるほど、胸の奥に暗い穴が広がっていく。


 アパートに戻ると、真琴はすぐにノートを開いた。野村沙織の証言。小川栞は二年春に転校。栞と真琴は仲が良かった。図書室によく行っていた。事件翌日、真琴は栞の母に「ごめんなさい」と繰り返した。事件後、真琴は車の音や男の声に強い反応。宮田千尋が真琴の近くにいた。


 書き終えると、文集のコピーをノートに挟んだ。栞の字。自分の名前。それは、新聞記事よりも重かった。


 夜になって雨が降り始めた。アパートの薄い窓に、雨粒が当たる。真琴は電気を消して、布団に入った。眠れる気はしなかった。案の定、目を閉じると廊下の光景が浮かんだ。小学校の廊下。ワックスの匂い。濡れた傘。大人たちの足音。自分の泣き声。そして、白い顔をした女の人。栞の母。


 真琴は布団の中で身体を丸めた。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。その言葉だけが、何度も聞こえる。


 やがて、別の声が重なった。


 ――まこちゃん、言わないで。


 真琴は目を開けた。暗い天井が見える。今のは何だったのか。栞の声? それとも、自分が作り出した幻?


 まこちゃん、言わないで。何を。誰に。


 真琴は起き上がり、水を飲んだ。手が震えていた。記憶が少しずつ近づいている。それは分かる。けれど、記憶は優しく戻ってくるわけではなかった。刃物のように、突然皮膚を裂いてくる。


 翌日、野村からメッセージが届いた。


『千尋さんに連絡が取れました。会ってもいいそうです。ただ、少しだけ条件があります』


 真琴は画面を見つめた。条件。嫌な予感がした。


『何ですか』


 返信はすぐに来た。


『栞ちゃんの話をするなら、千尋さんの働いている書店ではなく、閉店後にしたいそうです。あと、真琴さんに直接渡したいものがあると言っています』


 直接渡したいもの。真琴の胸がざわついた。千尋は何かを持っている。十八年前から残っている何かを。


 真琴は返信した。


『会います』


 約束は翌日の夜になった。場所は、千尋の働く書店。閉店は午後八時。真琴にとって、夜に外へ出るのはかなり怖かった。けれど、不思議と断ろうとは思わなかった。


 その日の夕方、兄に連絡を入れた。


『明日、宮田千尋さんに会う。場所は若葉書房。閉店後』


 兄からすぐ電話が来た。真琴はため息をつきながら出た。


「何」


『夜は危ない』


「分かってる」


『俺が近くまで行く』


「来なくていい」


『邪魔はしない。終わるまで外にいる』


「監視じゃん」


『そうだよ』


 あまりにあっさり認められて、真琴は言葉に詰まった。


『今だけは嫌われてもいい』兄の声は静かだった。『お前が何を調べたいのか、少し分かってきた。でも、やっぱり一人にはできない』


「お父さんに言う?」


『言わない』


「本当に?」


『本当だ。少なくとも、今は』


 真琴は迷った。兄を完全に信じることはできない。でも、完全に拒むこともできなくなっていた。


「店の中には入らないで」


『分かった』


「話にも口出ししないで」


『分かった』


「終わったら連絡する」


『それでいい』


 電話を切った後、真琴は少しだけ疲れた。誰かに行動を伝える。誰かが外で待っている。それは鬱陶しい。でも、夜の書店へ行くことを考えると、兄が近くにいると知って少し安心する自分もいた。それが悔しかった。


 翌日の夜。若葉書房は、商店街の端にあった。小さな店だった。ガラス戸の向こうに、低い本棚が並んでいる。入口脇には雑誌。奥に文庫本。レジの横に、手書きのポップが貼られている。


 閉店十分前。真琴は店の前で立ち止まった。少し離れたコインパーキングに、兄の車が停まっているのが見えた。兄はこちらを見ていないふりをしている。本当に来たのか。真琴は複雑な気持ちで息を吐いた。


 ガラス戸を開ける。小さなベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 レジにいた女性が顔を上げた。宮田千尋。真琴はすぐに分かった。卒業アルバムの少女が、そのまま静かに大人になったような人だった。黒髪を後ろで結び、薄いカーディガンを羽織っている。目元は穏やかだが、どこか緊張している。


「汐見さん?」


「……宮田さん」


「久しぶり」千尋は小さく笑った。


 その笑顔を見た瞬間、真琴の胸の奥が少し温かくなった。懐かしい。初めて、そう思った。


 店内には客が一人だけいた。雑誌を買って出ていくと、千尋は入口の札を「閉店」に変えた。照明が少し落とされる。外の商店街の音が遠くなった。


「奥で話そう」


 千尋に案内され、真琴は店の奥の小さな事務室に入った。古い机。椅子が二脚。段ボールに入った新刊。壁には文庫の注文票が貼られている。千尋はお茶を出してくれた。


「ありがとう」


「緊張してる?」


「してる」


 真琴が正直に答えると、千尋は少し笑った。「昔も、真琴ちゃんはそうだった」


「昔?」


「緊張すると、手をぎゅっと握るの」


 真琴は自分の手を見た。確かに拳を握っていた。


 千尋は机の引き出しから、古い封筒を取り出した。茶色く変色した封筒。表には、子どもの字でこう書かれていた。


『まこちゃんへ』


 真琴の呼吸が止まった。


「それ……」


「十八年前、栞ちゃんが真琴ちゃんに渡そうとしていたもの」千尋は封筒を机の上に置いた。「事件の日の前日、私が預かったの」


「どうして」


「真琴ちゃんとけんかしたから」


 真琴は目を見開いた。「私と栞ちゃんが?」


「うん。小さなけんかだったと思う。でも、栞ちゃんは気にしてた。だから手紙を書いたの。明日、仲直りするんだって言ってた」


 真琴は封筒を見つめた。まこちゃんへ。その字は、文集の字と同じだった。


「なんで、今まで」


「渡せなかった」千尋の声が震えた。「事件が起きて、栞ちゃんはいなくなって、真琴ちゃんは学校に来なくなった。戻ってきたときには、事件の話をしてはいけないって先生に言われた。手紙のことも言えなかった」


「ずっと持ってたの?」


「うん」


「十八年も?」


「捨てられなかった」


 千尋は俯いた。「本当は、もっと早く渡すべきだった。ごめん」


 真琴は首を振った。責める気にはなれなかった。誰もが子どもだった。十八年前、大人たちの沈黙の中で、子どもたちは子どもなりに何かを抱えてしまった。


 真琴は震える手で封筒を取った。糊はすでに弱くなっていた。中には、小さな便箋が一枚入っている。丸い字。ところどころ間違えて消した跡。


『まこちゃんへ


 きのうはごめんね。

 まこちゃんのひみつを、いわないってやくそくしたのに、ちひろちゃんに少しいってしまいました。

 でも、ぜんぶは言ってないよ。

 まこちゃんがこわがっていた男の人のことは、だれにも言ってないです。

 明日、公園であやまります。

 また図書室に行こうね。


 しおり』


 真琴は文字を追った。一行ずつ。意味が、遅れて頭に入ってくる。まこちゃんのひみつ。こわがっていた男の人。だれにも言ってない。


 真琴の全身から血の気が引いた。


「男の人……?」


 千尋も青ざめた顔で頷いた。「私も、その部分だけは覚えてる」


「何を?」


「事件の少し前から、真琴ちゃんが変なことを言ってたの」千尋の声は小さかった。「公園の近くに、知らない男の人がいるって。栞ちゃんが、その人に話しかけられてるって」


 真琴の耳鳴りが強くなった。「私は……事件の前から、その男を知ってたの?」


「たぶん」千尋は真琴を見た。「真琴ちゃんは、栞ちゃんが連れていかれた日だけじゃない。その前から、何かを見てたんだと思う」


 真琴は手紙を握りしめた。ごめんなさい。栞の母に謝っていた理由。事件の日に突然何かが起きたのではない。自分は前から知っていた。栞に近づく男の存在を。それなのに、言えなかった。誰にも。だから、栞は消えた。


 真琴の中で、十八年前の夏が音を立てて近づいてきた。

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