仲良かったもんな
翌朝、真琴は実家の前に立っていた。
門扉の錆びた音。玄関脇の植木鉢。二階の窓。何も変わっていない。それなのに、真琴には別の家のように見えた。
チャイムは押さなかった。
父にも母にも、来ることを告げていない。告げれば止められると思った。あるいは、理由を聞かれる。何のためにアルバムが必要なのか正直に言えば、また「調べるな」と言われる。言わなければ嘘をつくことになる。どちらも嫌だった。だから、黙って来た。
鍵は持っていた。父から返せとは言われていない。それだけを言い訳にして、真琴は鍵穴に差し込んだ。ドアを開けると、実家の匂いがした。煮物。洗剤。古い木。その匂いに、一瞬だけ足が止まる。ここはもう自分の家ではない。それでも、自分の過去はここにある。
靴を脱いで上がる。誰もいないことを確認しながら、廊下を進む。父の書斎。母の部屋。リビング。物音一つない。平日の午前中、父は仕事で、母は出かけているのだろう。
真琴は自分の旧部屋へ向かった。ドアを開けると、記憶より広く感じた。荷物がなくなったからだ。本棚は空になり、机の上には何もない。カーテンだけが残っている。この部屋に七年間いた。その七年間が、急によそよそしく見えた。
押し入れを開ける。段ボール箱が何箱か積まれていた。真琴はラベルを確認しながら、ひとつずつ中を確かめた。古い教科書。子ども服。おもちゃ。そして、一番奥の箱に、卒業アルバムがあった。若葉小学校。背表紙に書かれた文字を見ただけで、心臓が少し速くなった。
その隣に、薄い冊子があった。文集だった。手に取ると、ページが少し波打っている。誰かが一度、濡れた手で触ったような跡。真琴はそれもバッグに入れた。
立ち上がろうとして、押し入れの奥にもう一つ段ボールがあることに気づいた。ラベルには、父の字で「写真」と書かれている。真琴は手を伸ばしかけ、止めた。時間がない。それに、今は卒業アルバムで十分だ。写真の箱はまた来ればいい。
真琴は部屋を出た。来たときと同じように靴を履き、鍵を閉める。玄関の前で一度だけ振り返った。誰もいない家。でも、誰かの気配が染みついている家。
来たことを、家族に言うつもりはなかった。少なくとも今は。
アパートへ戻る途中、真琴はバッグの重みを感じていた。中には、自分の過去が入っている。それを見るのが怖かった。けれど、見なければ先へ進めない。
部屋に戻ると、真琴はすぐに卒業アルバムを開いた。若葉小学校。六年生の集合写真。真琴は隅の方に写っていた。髪を肩で切りそろえ、ぎこちなく笑っている。懐かしいというより、知らない子どもを見ている気分だった。
同級生の名前を一人ずつ確認する。覚えている名前もある。覚えていない名前もある。そして、ひとりの名前で手が止まった。
川島亮介。クラスの中心にいた男子。よく喋る。声が大きい。誰とでもすぐ仲良くなる。真琴の記憶の中で、彼はいつも半袖だった。なぜそんなことだけ覚えているのか分からない。
次に見つけたのは、野村沙織。真面目で、学級委員をしていた女子。字がきれいだった。そして、もう一人。宮田千尋。真琴と同じ図書委員だった子。大人しくて、あまり目立たない。記憶の中の千尋は、いつも本を抱えていた。
この三人なら、何か知っているかもしれない。問題は、どう連絡するかだった。
真琴はSNSを開いた。本名で検索する。川島亮介。同姓同名が多すぎる。地域名、学校名、年齢を加える。何件か候補が出てきた。その中に、顔に見覚えのある男性がいた。プロフィール写真は、スーツ姿。地元の不動産会社勤務。投稿には、同級生との飲み会らしい写真もある。
真琴は画面を見つめた。この人に連絡する。ただそれだけのことが、崖から飛び降りるほど怖かった。
メッセージ欄を開く。
『突然すみません。若葉小学校で同級生だった汐見真琴です』
そこまで打って、手が止まった。気持ち悪いと思われるかもしれない。今さら何だと思われるかもしれない。引きこもりだったことを知られているかもしれない。いや、知られていなくても、二十六歳で何をしているのか聞かれたら答えられない。
真琴は文章を消した。もう一度打つ。また消す。三十分ほど繰り返した。
結局、送ったのは簡単な文面だった。
『突然すみません。若葉小学校で同級生だった汐見真琴です。二〇〇八年の小川栞さんの件について、覚えていることがあれば少し伺いたいです』
送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねた。すぐにスマートフォンを伏せる。返事が来るのが怖い。来ないのも怖い。そのまま部屋を歩き回った。六畳の部屋では、五歩で壁にぶつかる。それでも歩いた。
一時間後、通知が鳴った。真琴は画面を見るまでに、さらに五分かかった。川島から返信が来ていた。
『汐見? 久しぶり。びっくりした。小川栞って、あの事件の?』
普通の返事だった。少なくとも、気持ち悪がられてはいない。真琴は少しだけ息を吐いた。
『そうです。覚えていることがあれば教えてほしいです』
すぐに既読がつく。
『覚えてるけど、メッセージで話すのはちょっと重いな。会える?』
真琴は固まった。会う。画面越しではなく。実際に。人と。無理だ。そう思った。でも、ここで断れば終わる。真琴は震える指で返した。
『短時間なら』
川島はすぐに店の名前を送ってきた。駅前の喫茶店。明日の午後二時。真琴は了承した。送信してから、布団に倒れ込んだ。明日、人に会う。同級生に。十八年前の事件について聞くために。
身体が拒絶していた。胃が痛い。喉が渇く。しかし、心のどこかに小さな火のようなものがあった。怖い。でも、知りたい。
その夜、真琴は何度も会話の練習をした。こんにちは。久しぶり。急にごめん。小川栞さんのことを覚えてる? 私、その頃の記憶が曖昧で。何度も声に出し、途中で恥ずかしくなって黙った。
翌日、真琴は約束の一時間前には喫茶店の近くに着いていた。早すぎる。分かっていたが、遅刻が怖かった。駅前は人が多かった。学生。会社員。買い物客。真琴は人波の端を歩き、喫茶店の看板を見つけた。中を覗く。それほど混んでいない。それでも、席に座る自分を想像するだけで足がすくんだ。
店に入ったのは、約束の十五分前だった。店員に「お好きな席へどうぞ」と言われ、入口に近い席を選ぶ。逃げやすいからだ。メニューを見る。文字が頭に入らない。注文を聞かれ、咄嗟にアイスコーヒーと言った。普段は飲まないのに。
午後二時ちょうど、川島亮介が現れた。写真より少しがっしりしている。短く整えた髪。明るい表情。店に入るなり真琴を見つけ、軽く手を上げた。
「汐見?」
真琴は立ち上がりかけ、うまく立てずに中途半端に頭を下げた。「……久しぶり」
「いや、ほんと久しぶり。小学校以来?」
「たぶん」
「全然変わって……いや、変わったな」
川島は笑った。悪意のない笑いだった。けれど真琴は、どう返せばいいか分からなかった。
川島は向かいに座り、ホットコーヒーを注文した。しばらく普通の会話が続いた。今どこに住んでいるのか。仕事は何をしているのか。同級生の誰が結婚したのか。真琴は曖昧に返事をした。仕事の話になると、喉が詰まった。
「今は、少し休んでて」
それだけ言うと、川島は深く聞かなかった。意外だった。もっと無遠慮に聞かれると思っていた。
「で、小川栞のことだよな」川島が声を落とした。
真琴は背筋を伸ばした。「うん」
「あれ、まだ調べてる人いるんだな」
「私は……最近知ったから」
「最近?」川島は怪訝そうにした。
真琴は迷ったが、全部は言わないことにした。「昔のアルバムから写真が出てきたの。栞ちゃんの」
「ああ」川島は頷いた。「汐見、仲良かったもんな」
真琴の指先が冷たくなった。「私と?」
「うん。小川と汐見、よく一緒にいたじゃん」
「覚えてない」
真琴がそう言うと、川島は驚いた顔をした。「覚えてないの?」
「その頃の記憶が、少し曖昧で」
「少しっていうか……小川のことも?」
真琴は頷いた。川島は言葉を探すように、しばらく黙った。「そっか。まあ、無理もないのか」
「どういう意味?」
「いや……あの日、汐見、すごかったから」
胸が締めつけられた。「すごかった?」
「泣いてた。ずっと」
真琴は息を止めた。「どこで?」
「学校の近くの道路だったと思う。先生たちが集まってて、警察が来てた。俺ら、親に外出るなって言われてたんだけど、窓から見えたんだよ」
「私が?」
「うん。汐見が先生に抱えられてて、ずっと何か叫んでた」
「何を?」
川島は眉を寄せた。「そこまでは聞こえなかった。でも、小川の名前は言ってたと思う」
真琴は膝の上で拳を握った。泣いていた。叫んでいた。栞の名前を。
「その後、私どうなったか覚えてる?」
「しばらく学校来なかった」
「どれくらい?」
「夏休み挟んだからな……二学期もしばらく来てなかった気がする。戻ってきたときも、なんか別人みたいだった」
「別人?」
「大人しくなった。誰とも喋らなくなった」
真琴はアイスコーヒーのグラスを見つめた。氷が溶けて、カランと音を立てた。大人しくなった。前から大人しかったけど、もっと。その言葉が、小さい頃は違ったような気がするという自分の感覚と重なった。事件が、何かを変えた。でも、何を変えたのかが分からない。
「私、栞ちゃんと最後に一緒にいたの?」
川島は視線を落とした。「噂では、そうだった」
「噂?」
「大人たちは何も言わなかったから。でも、みんな知ってたよ。小川と汐見があの日一緒に遊んでたって」
真琴は唇を噛んだ。やはりそうだ。自分は最後に栞といた。
「他に覚えてることは?」
「うーん……」川島は腕を組んだ。「そういえば、栞のことを迎えに来た人がいたって話があった」
「迎え?」
「いや、子どもの噂だよ。知らないおじさんが話しかけてたとか。先生たちは絶対そういう話するなって言ってたけど」
「知らないおじさん」
「あと、車。白い車」
真琴の頭の奥が痛んだ。「軽自動車?」
「たぶん。俺は見てないけど、上級生が見たって言ってた」
「誰?」
「そこまでは覚えてないな」川島は申し訳なさそうに言った。「ごめん。俺も子どもだったし」
「ううん。ありがとう」
真琴はそう言った。声が少しだけ自然に出た。川島は真琴を見て、ふっと表情を緩めた。
「汐見、なんか変わったな」
「え?」
「いや、昔よりちゃんと喋ってる」
真琴は戸惑った。ちゃんと喋っている。そんなことを言われたのは初めてだった。「そうかな」
「うん。少なくとも、今の方が目が合う」
真琴は慌てて視線を逸らした。恥ずかしさと、少しの嬉しさが混じった。
会話は三十分ほどで終わった。店を出るとき、川島は言った。「野村沙織なら、もっと覚えてるかも。あいつ学級委員だったし、先生の話とか聞いてたはず」
「連絡先、分かる?」
「同窓会のグループにいる。聞いてみるよ」
「ありがとう」
「あとさ」川島は少し言いにくそうにした。「無理すんなよ。あの事件、当時も大人たちピリピリしてたし。汐見ん家も、たぶん相当大変だったんだと思う」
真琴は何も言えなかった。家族が大変だった。そんな視点は、真琴の中になかった。自分だけが隠され、閉じ込められ、追い出されたと思っていた。でも、十八年前。父も母も兄も、何かを経験している。それを考えるのは、まだ腹立たしかった。同情するには早すぎる。けれど、完全には無視できなかった。
アパートへ戻る途中、真琴はコンビニに寄った。今度は前より少しだけ落ち着いていた。おにぎりとお茶を買う。セルフレジでバーコードを読み取る。袋に入れる。店員に会釈する。それだけのことが、昨日より少しだけ簡単だった。
部屋に戻ると、川島からメッセージが届いていた。
『野村、話してもいいって。連絡先送る』
続いて、野村沙織のアカウントが送られてくる。真琴はしばらく画面を見つめた。外の世界は、怖いだけではないのかもしれない。人は無遠慮で、視線は痛くて、会話は疲れる。でも、そこには情報がある。自分の知らない自分を覚えている人がいる。
真琴はノートを開いた。川島亮介の証言。栞と真琴は仲が良かった。事件当日、一緒に遊んでいた噂。真琴は学校近くの道路で泣いて保護された。栞の名前を叫んでいた。事件後、別人のように大人しくなった。知らない男。白い車。野村沙織に確認。
書き終えてから、真琴はページの端に小さく書いた。
仲良かったもんな。
川島の言葉を、文字にした。それは証言ではなく、自分への言葉だった。覚えていないけれど、自分と栞は友達だった。それだけは、他の誰かの記憶の中に残っている。
夜、兄から電話が来た。真琴は迷った末に出た。
「……もしもし」
『真琴?』兄の声が、少し驚いていた。電話に出ると思っていなかったのだろう。
「何」
『大丈夫か』
いつもの問いだった。うっとうしい。でも、完全に嫌ではない。
「実家に行ってきた」
『え?』
「誰にも言わずに。鍵で入った」
電話の向こうで、兄がしばらく黙った。『……怒られるぞ、親父に』
「知ってる」
『母さんは?』
「いなかった。誰もいなかった」
『そうか』
責める声ではなかった。真琴は少し肩の力が抜けた。
「卒業アルバム、持ってきた」
『そうか』
「川島くんに会った」
『誰?』
「小学校の同級生。栞ちゃんのことで話を聞いた」
電話の向こうで、兄が息を呑む気配があった。『一人で会ったのか』
「そう」
『危ないだろ』
「同級生だよ」
『そういう問題じゃない』
「じゃあどういう問題?」
真琴の声が尖った。「お兄ちゃんも、お父さんたちと同じこと言うの? 調べるな、動くな、危ない、黙ってろって」
『真琴』
「私は知りたいの。私のことなのに、私だけ知らないなんておかしいでしょ」
兄はすぐには答えなかった。けれど、今度の沈黙は父や母のものとは少し違った。迷っている沈黙だった。
『……俺も、全部は知らない』兄が低い声で言った。
「嘘」
『本当だ。当時、俺は中学生だった。親父たちは俺にも詳しく話さなかった。ただ、真琴がひどい状態だったことは覚えてる』
「どんな?」
『夜中に叫んでた。何度も。母さんがずっと隣で寝てた』
真琴は言葉を失った。
『学校にも行けなくなった。外に出ると泣いた。白い車を見ると吐いた』
「白い車……」
『それ以上は、親父たちが話さなかった』
「なんで今まで何も言わなかったの」
『言えるわけないだろ。お前、何も覚えてなかったんだぞ』
「だからって」
『思い出させて、また壊れたらどうする』
兄の声が少し強くなった。真琴は黙った。壊れたら。その言葉が、重かった。家族は真琴を弱いものとして扱っている。そのことに腹が立つ。だが、今日の路地で膝が震えたのも事実だった。記憶の断片だけで、呼吸ができなくなった。兄の心配を、完全に間違いだとは言えなかった。
「でも、もう壊れてるよ」真琴は小さく言った。「七年も部屋から出られなかった。家から追い出されて、今さら外に放り出されてる。これ以上、何が壊れるの」
兄は黙った。
「だったら、せめて理由が欲しい」
電話の向こうで、兄が長く息を吐いた。
『分かった』
「何が」
『俺が知ってる範囲なら話す。でも、親父たちが隠してる部分は、本当に知らない』
「うん」
『ただし、一人で危ないことはするな。誰かに会うなら、場所と相手を教えろ』
「監視?」
『違う。保険』
「同じじゃん」
『同じでもいい』
その言い方が少し兄らしくて、真琴は反論できなかった。
電話を切る前、兄が言った。
『真琴』
「何」
『今日、外で人に会えたんだな』
真琴は黙った。
『すごいと思う』
返事ができなかった。褒められるようなことではない。二十六歳の大人が、同級生と喫茶店で話しただけだ。普通の人なら、何でもない。でも、真琴には何でもなくなかった。
「……切る」
『ああ』
電話を切った後、真琴はしばらくスマートフォンを見つめていた。すごい。その言葉が、胸の奥に残っていた。
翌日、真琴は野村沙織に連絡した。返事は丁寧だった。
『覚えている範囲でよければ。ただ、私より宮田千尋さんの方が、真琴さんと仲が良かったと思います』
宮田千尋。図書委員の子。真琴は卒業アルバムの写真を見直した。黒髪のおとなしい少女。その顔を見た瞬間、胸の奥に小さな温かさが灯った。千尋。その名前には、少しだけ安心感があった。
野村との約束は三日後になった。場所は図書館のカフェスペース。真琴はそれを兄に伝えた。兄からは短く返事が来た。
『分かった。終わったら連絡して』
監視のようで少し嫌だった。でも、心のどこかで安心もした。
三日後まで、真琴は調査を続けた。当時の学校行事。若葉町の地図。栞の自宅の場所。若葉公園から学校までの道。点と点をノートに書き写していく。作業をしている間、真琴は少しだけ自分を忘れられた。引きこもり。無職。追い出された娘。そういう言葉ではなく、今の自分は調べている人間だった。答えを探している人間だった。それだけで、息がしやすかった。
夜、真琴は窓を開けた。外から湿った風が入ってくる。遠くで電車の音がした。アパートの前の道を、誰かが笑いながら通り過ぎる。以前なら、その声だけでカーテンを閉めていた。けれど、その夜は少しだけ聞いていた。
外の世界は怖い。けれど、完全な敵ではない。真琴はそう思い始めていた。
ノートの上には、栞の写真がある。白いワンピース。緊張した笑顔。その少女は、十八年前の夏からずっと、真琴を待っていたのかもしれない。そして真琴はようやく、部屋の扉を開けた。まだ一歩。たった一歩。でも、その一歩は確かに外へ向かっていた。




