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今も見つかってないんだよ

 図書館の中は、思っていたより静かではなかった。


 ページをめくる音。誰かが咳払いをする音。カウンターで本を受け取る人の声。遠くで椅子を引く音。静寂ではなく、小さな生活音が薄く重なっていた。


 真琴は入口の近くで立ち止まり、まず逃げ道を確認した。自動ドア。ロビー。その先の外。大丈夫。苦しくなったら、すぐ出ればいい。そう自分に言い聞かせてから、館内案内図を見た。新聞資料室は二階だった。階段を上がる必要がある。エレベーターもあったが、誰かと乗り合わせるのが怖い。真琴は階段を選んだ。


 一段上がるたび、バッグの中の封筒が身体に当たる。あの写真が入っている。小川栞。知らないはずの少女。けれど、昨夜の夢の中で「まこちゃん」と呼んだ声は、知らない声ではなかった。


 二階の新聞資料室には、中年の女性が一人いるだけだった。窓際の机で新聞を読んでいる。真琴はその人から一番遠い端末の前に座った。画面には新聞記事検索の説明が表示されていた。キーワード検索。年月日検索。紙面閲覧。


 真琴はマウスを握った。手が汗ばんでいた。


 まず、日付を入力する。二〇〇八年七月二十四日。検索結果は少なかった。地域面。夏祭りの記事。交通事故。市議会。その日には、まだ失踪事件の記事はない。当たり前だ。失踪した当日なのだから。


 真琴は翌日の日付に変えた。二〇〇八年七月二十五日。検索結果が増えた。その中の一つに、目が止まった。


『小二女児、下校後に不明 高瀬市で捜索』


 真琴はクリックした。紙面が表示される。古い新聞特有の、少し滲んだ文字。見出しの下に、小さな顔写真があった。小川栞。写真の少女と同じ顔。真琴は呼吸を忘れた。


 記事には、こう書かれていた。高瀬市内に住む小学二年生、小川栞さんが、二十四日夕方から行方不明になっている。栞さんは同日午後四時ごろ、自宅近くの若葉公園付近で友人と別れた後、所在が分からなくなった。家族が午後六時過ぎに警察へ届け出た。警察と消防、地域住民が周辺を捜索している。事件と事故の両面で調べている。


 真琴は画面に顔を近づけた。友人と別れた後。その友人とは誰なのか。記事には名前がない。未成年だから伏せられているのだろう。


 真琴は次の日の記事を開いた。


『不明女児、捜索続く 高瀬市若葉町』


 その次。


『小川栞さん不明から三日 有力情報なし』


 さらに次。


『若葉公園周辺で聞き込み 白い軽自動車の目撃情報』


 白い軽自動車。その文字を見た瞬間、真琴の指が止まった。頭の奥で、また何かが軋む。白。まぶしい白。車体に反射する夕方の光。半開きのドア。中から伸びる腕。真琴は慌てて目を閉じた。違う。まだ見てはいけない。そんな気がした。


 しばらくして、ゆっくり目を開ける。記事の続きを読んだ。近隣住民の証言として、同日夕方、若葉公園近くの路地に白い軽自動車が停車していたとの情報がある。ナンバーや車種は不明。警察は事件との関連を調べている。


 真琴はメモを取ろうとして、紙もペンも持ってきていないことに気づいた。仕方なく、スマートフォンのメモアプリを開く。手が震えた。若葉公園。七月二十四日。午後四時ごろ。白い軽自動車。友人と別れた後。打ち込んだ文字が、まるで自分を責めているように見えた。


 友人。


 真琴は画面から目を離し、窓の外を見た。自分は栞の友人だったのだろうか。あの写真が自分のアルバムにあったのなら、その可能性は高い。だが、覚えていない。名前も、声も、遊んだ記憶も。ただ夢の中で、「まこちゃん」と呼ばれた。それだけだった。


 午前中いっぱい、真琴は記事を読み続けた。一週間後の記事。一か月後の記事。一年後の記事。捜索範囲は拡大した。川、山林、空き家、廃工場。不審者情報もいくつか出ていた。しかし、決定的なものは何もない。事件は少しずつ紙面の端へ追いやられていった。最初は大きな見出しだった記事が、やがて小さな囲み記事になる。半年後には、ほとんど触れられなくなる。


 一年後。


『小川栞さん不明から一年 家族、情報提供呼びかけ』


 そこには、栞の母親の言葉が載っていた。どんな小さなことでも構いません。娘に会いたい。ただ、それだけです。


 真琴はその一文を読み、喉が詰まった。


 それ以降の記事を探しても、栞が見つかったという記録は出てこなかった。捜索の報告も、逮捕の記事も。ただ、記事そのものが消えていった。栞がその後どうなったのか、記事の上では何も分からない。それが余計に、胸を重くした。


 真琴は椅子にもたれた。目が痛い。情報を読みすぎて、頭がぼんやりしていた。だが、一つだけ分かったことがある。家族が隠していたものは、ただの古い写真ではない。失踪事件だ。しかも、自分はその中心に近い場所にいたかもしれない。


 真琴は端末を閉じようとして、ふと思い直した。自分の名前を検索してみる。汐見真琴。検索結果は出なかった。当然だ。事件当時、自分も子どもだった。実名で報道されるはずがない。次に、住所に近い地名を入れてみる。若葉町。高瀬市。小川栞。古い記事がいくつか出た。その中に、一つだけ気になる見出しがあった。


『不明女児と一緒にいた児童、体調不良で聞き取り困難』


 真琴の心臓が跳ねた。記事の日付は、二〇〇八年七月二十七日。事件から三日後。


 真琴はクリックした。記事は短かった。小川栞さんが行方不明となる直前、一緒にいたとみられる同級生の児童が、強い精神的動揺を見せており、警察の聞き取りが難航していることが分かった。児童は事件当日、栞さんと若葉公園付近にいた可能性がある。警察は保護者と相談のうえ、慎重に事情を聴く方針。


 真琴は画面を見つめた。同級生の児童。強い精神的動揺。聞き取り困難。それは、自分なのか。ほとんど答えは出ていた。それでも、認めたくなかった。自分が栞と一緒にいた。自分だけが戻ってきた。そして、栞は消えた。


 真琴の胸に、冷たいものが広がっていく。もしそうなら、なぜ自分は覚えていないのか。なぜ家族は教えてくれなかったのか。なぜ父は今になって、自分を家から追い出したのか。


 資料室の空気が重くなった気がした。真琴は立ち上がった。足元がふらつく。端末の利用終了ボタンを押し、バッグを抱えるようにして部屋を出た。階段を下りる途中で、視界が揺れた。危ないと思い、手すりを掴む。掌に冷たい金属の感触。深呼吸。吸って、吐く。大丈夫。まだ倒れていない。


 ロビーに下りると、館内の空気が少し明るく感じた。子ども向けの本棚の前で、母親と幼い男の子が絵本を選んでいる。その光景を見た瞬間、真琴は胸が痛くなった。八歳の栞にも、母親がいた。帰りを待つ家があった。ランドセルがあった。お気に入りの服があった。それらをすべて置いたまま、栞は消えた。


 真琴はロビーの椅子に座った。すぐには外へ出られなかった。スマートフォンを取り出し、小川栞についてさらに検索する。今度はSNSも見る。事件名で検索すると、十年以上前の投稿や、未解決事件を扱う匿名掲示板の書き込みが見つかった。大半は無責任な推測だった。親が怪しい。近所の男ではないか。通り魔。事故。家出。真琴は読んでいて気分が悪くなった。


 その中に、ひとつ気になる書き込みがあった。


『当時、現場にもう一人女の子いたよね。泣きながら保護されたって聞いた』


 投稿は十二年前。返信には、噂だろ、ソースは、という言葉が並んでいる。真琴はその画面をスクリーンショットした。泣きながら保護された女の子。もしそれが自分なら、どこで保護されたのか。誰が見つけたのか。なぜ自分だけが無事だったのか。


 真琴は図書館を出た。外の光が眩しかった。歩き出すと、足が重い。けれど、帰るだけでは終われなかった。地図アプリを開く。若葉公園。今のアパートからなら歩いて二十五分ほどだった。


 真琴は立ち止まった。行くべきか。行かないべきか。答えは決まっていた。怖い。でも、行かなければ何も分からない。


 真琴は若葉公園へ向かった。


 住宅街を抜ける。古い商店街を通る。閉まったシャッター。錆びた看板。花屋。昔ながらの文房具店。歩いているうちに、景色のいくつかが記憶に引っかかった。この道を、昔通ったことがある。誰かと並んで。いや、誰かと手をつないで歩いていたかもしれない。でも、誰となのかは分からない。ただ、暑かった。とても暑い日だった。


 真琴は足を止めた。


 道路の向こうに、公園が見えた。若葉公園。古い木製の看板には、薄れた緑色の文字が残っている。入口の両側には、大きな楠が一本立っていた。


 真琴の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 ここだ。見た瞬間に分かった。記憶が戻ったわけではない。けれど、身体が知っている。この公園。この木陰。この湿った土の匂い。ここで何かがあった。


 真琴はゆっくり中へ入った。平日の午後、公園に人は少なかった。ベンチで老人が一人休んでいる。砂場の横には、誰かが忘れた黄色いバケツ。奥に滑り台。その向こうに小さな広場。


 真琴は楠の前で立ち止まった。大きな木だった。幹は太く、高さは十メートルを超えているかもしれない。枝葉が広がって、木陰が地面に濃い影を落としている。幹の中ほどに、大きな割れ目があった。子どもの拳がすっぽり入るくらいの深さがある。


 真琴はその割れ目を見つめた。


 何かが、胸の奥で動いた。


 ここを知っている。この木を知っている。この割れ目を知っている。でも、なぜ知っているのかが分からない。


 真琴はバッグから写真を取り出した。写真の背景に写っている木。斜めに伸びた枝。真琴は顔を上げた。枝の角度は同じだ。年月を経て大きくなっているが、同じ木だ。


 この写真は、若葉公園で撮られたものだった。


 真琴は震える手で写真を戻した。ここに、栞がいた。ここに、自分もいた。そして、何かが起きた。


「その写真、もしかして小川さんの子かい」


 真琴は飛び上がった。振り返ると、ベンチにいた老人がこちらを見ていた。白髪の男性。杖を持っている。顔には深い皺が刻まれていた。真琴は写真を慌てて下げた。


「あ、いえ」


「違ったらすまんね。昔、この辺りで女の子がいなくなったろう」


 心臓が嫌な音を立てた。真琴は逃げるべきか迷った。だが、老人の声に悪意はなかった。


「……覚えているんですか」


「ああ。近所だったからね。あの頃は大騒ぎだった」


「ここで、ですか」


「たしか、この公園の近くだったはずだ。あの子はよくここで遊んでた」


 老人はゆっくり立ち上がった。真琴は身構えたが、老人は距離を取ったまま、公園の奥を指した。「向こうに細い道があるだろう。昔はもっと暗くてね。車が一台ぎりぎり入れるくらいの道だった。そこで不審な車を見たって話があった」


 真琴は指された方を見た。公園の奥。フェンスの切れ目。その先に、細い路地が伸びている。白い軽自動車。半開きのドア。腕。真琴の頭が痛んだ。


「女の子が二人いたって聞いたことはありますか」真琴は声が出るか分からないまま聞いた。


 老人は目を細めた。「二人?」


「栞ちゃんと、もう一人」


「さあ……そこまでは知らんな。ただ、泣いてる子がいたって話は聞いたことがある」


 真琴の喉が乾いた。「どこで」


「公園から少し離れた道路だったかな。誰かが見つけて、連れて帰ったとか。まあ、昔の話だよ」老人はそう言って、申し訳なさそうに笑った。「それで、あの子は今も見つかってないんだよ」


 真琴は息を止めた。


「今も?」


「ああ。もう十八年になるか。結局、何も分からないままだ」老人は静かに言った。「見つからないってのは、死んだと言われるより苦しいこともある。待ち続けるしかないんだから」


 真琴は何も言えなかった。図書館の記事からは、栞が見つかったとも誰かが捕まったとも分からなかった。十八年経った今も、何も解決していない。その重さが、初めて実感を持って胸に落ちてきた。


「調べてるのかい」


 真琴は答えに詰まった。調べている。でも、自分が何者として調べているのかが分からない。ただの好奇心ではない。被害者家族でもない。関係者。その言葉が浮かんだ。


「少しだけ」


「そうか。あの子の家族も、長いこと大変だったろうな」老人は空を見上げた。


 真琴は何も言えなかった。


 老人が去った後、真琴は公園奥の路地へ向かった。フェンスの切れ目を抜けると、急に空気が変わった。左右を古い塀に挟まれた、細い道。昼間なのに薄暗い。車一台が通れるほどの幅。奥で大きな道路に繋がっている。


 真琴は足を踏み入れた。ひやりとした。記憶ではない。身体の反応だった。ここは嫌だ。ここにいてはいけない。そう訴えている。けれど、真琴は進んだ。三歩。五歩。十歩。


 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。


 白い車。半開きの後部ドア。誰かの背中。白いワンピース。自分は楠の陰にいる。身体が動かない。声が出ない。車が走り去る。赤いものが路地に落ちる。


 真琴は立ち止まった。視界が揺れる。路地の壁に手をついた。


 今のは何だ。記憶なのか。自分は、ここで何かを見た。見ていた。それは間違いない。けれど、全体像がつかめない。断片が一瞬だけ浮かんで、すぐ消える。


 真琴は路地を出た。公園の明るい場所まで戻り、楠の幹に背中をもたれた。息が荒い。手が震えている。さっき見えたものを、頭の中で繰り返した。白い車。白いワンピース。楠の陰。身体が動かなかった。声が出なかった。


 声が出なかった。


 その事実が、胸に刺さった。


 帰り道はほとんど覚えていない。アパートに着く頃には、足が棒のようになっていた。鍵を開ける。部屋に入る。鍵を閉める。チェーンをかける。その場に座り込む。やっと、息ができた。


 スマートフォンが震えた。兄からだった。


『本当に大丈夫か』


 真琴は画面を見つめた。大丈夫ではない。でも、兄に言っても意味がない。そう思った。しかし、指は勝手に動いていた。


『小川栞という名前を知ってる?』


 送信してから、後悔した。早すぎる。聞く相手を間違えた。既読がつく。返事は、すぐには来なかった。一分。三分。五分。その沈黙で、真琴は分かった。兄は知っている。少なくとも、名前に反応している。やがて、短い返信が届いた。


『どこでその名前を知った』


 真琴の背筋が冷えた。やはりだ。家族は知っている。自分だけが知らされていなかった。


 真琴は返信しなかった。すると、兄から電話がかかってきた。画面に「翔太」と表示される。真琴は出なかった。電話は切れ、すぐにメッセージが来た。


『今から行く』


 真琴は慌てて返信した。


『来ないで』


『行く』


『来たら警察呼ぶ』


 既読。しばらくして、兄から返信が来た。


『分かった。今日は行かない。でも、その件は一人で調べるな』


 真琴は乾いた笑いをこぼした。一人で調べるな。そう言われると、余計に調べたくなる。家族は全員、同じだ。理由を言わない。でも、やめろと言う。隠す。黙る。守っているつもりなのかもしれない。けれど、真琴にはそれが檻にしか見えなかった。


 その夜、真琴はノートを一冊買っておけばよかったと後悔し、古い大学ノートを段ボールから引っ張り出した。一ページ目に書く。


 小川栞失踪事件。二〇〇八年七月二十四日。高瀬市若葉町。若葉公園。白い軽自動車。同級生の児童。強い精神的動揺。泣いて保護された女の子。十八年経っても未解決。


 真琴はペンを止めた。そして、その下にもう一行書いた。


 私は何を見たのか。


 文字を見ていると、怖くなった。でも、同時に奇妙な感覚があった。今日、真琴は図書館へ行った。公園へ行った。知らない老人と話した。コンビニで買い物をするだけで震えていた自分が、十八年前の失踪事件の記事を読み、現場に立った。怖かった。苦しかった。何度も逃げたくなった。それでも、動いた。七年間止まっていた身体が、ほんの少しだけ動いた。その理由が怒りでも恐怖でも、動いたことには変わりない。


 真琴は写真をノートの横に置いた。栞の笑顔。


「私、あなたと友達だったの?」


 問いかける。答えはない。真琴は続けた。


「だったら、ごめん」


 何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。覚えていないこと。自分だけが戻ったこと。十八年間、何も知らずにいたこと。全部かもしれない。


 翌日、真琴はもう一度スマートフォンを開いた。検索欄に、新しい言葉を入力する。当時の同級生の名前を思い出そうとした。記憶は曖昧だった。けれど、卒業アルバムなら実家にある。取りに戻る必要がある。


 真琴は画面を見つめたまま、唇を噛んだ。実家には戻りたくない。父にも母にも会いたくない。でも、あの家にはまだ、自分の過去が残っている。切り取られたアルバムの向こう側に、何かが隠されている。


 真琴は兄にメッセージを送った。


『卒業アルバム、実家にある?』


 すぐに既読がついた。返事は短かった。


『あると思う』


 続いて、もう一通。


『真琴、本当に何を調べてる』


 真琴は少し迷ってから、こう返した。


『私が忘れてること』


 今度は、兄から返事が来なかった。その沈黙の向こうに、十八年前の夏があった。真琴はそれを、初めて自分の意思で見に行こうとしていた。

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