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まこちゃん

 母の足音は、ドアの前で止まった。


「真琴」


 いつもより低い声だった。真琴は写真を胸に押し当てたまま、息を殺していた。返事をしなければ、母は諦める。これまで何度もそうだった。部屋から出たくないとき、話したくないとき、母はしばらく待って、それから小さくため息をつき、階段を下りていった。


 しかし、その夜は違った。


「開けるわよ」


 真琴の身体が強張った。「やめて」思わず声が出た。ドアの向こうの気配が止まる。


「じゃあ、少しだけ話させて」


「話すことなんてない」


「荷物のことだけ」


「勝手にすれば」


 そう言いながら、真琴は床に散らばったアルバムへ目をやった。切り取られたページ。古い日付。知らない少女。母に見つかれば、何かが起こる。確信に近い不安があった。なぜそう思うのかは分からない。それでも、隠さなければならなかった。


「真琴」母の声が震えた。「お願い」


 沈黙。真琴はドアを見つめた。


 しばらくして、母の足音が遠ざかった。真琴はようやく息を吐いた。汗で手のひらが湿っていた。


 写真の少女は、まだ笑っている。


 真琴はそれを裏返し、日付をもう一度見た。二〇〇八年七月二十四日。その日、自分は何をしていたのだろう。思い出そうとすると、頭の奥が白く霞む。小学生の夏休み。蝉の声。プールバッグ。麦茶。母の作った昼食。そういう断片はある。けれど、その日だけが抜け落ちている。日付を見た瞬間に浮かんだ、車のドアが閉まる音。あれは何だったのか。


 真琴は写真を机の引き出しに隠した。アルバムは段ボールの一番下に戻して、切り取られたページが見えないよう、上から古いノートを重ねた。それだけで、少しだけ自分が悪いことをしているような気分になった。けれど、隠した。家族が隠しているのなら、自分も隠していい。そう思った。


 引っ越しの日は、あっという間に来た。


 それまでの二週間、真琴はほとんど家族と話さなかった。母は荷造りを手伝おうとしたが、真琴は拒んだ。父は必要な手続きだけを淡々と進めた。兄は何度か来たが、真琴が顔を合わせようとしなかったため、廊下に立ったまま帰っていった。段ボールは増えていった。本。服。文具。古いノートパソコン。小さな電気ケトル。母が買ってきた食器。父が用意した契約書類。真琴の生活が、箱に詰められていく。


 不思議なことに、荷造りをしている間だけは少し落ち着いた。何を持っていくか、何を捨てるか、それを決める作業には明確な答えがあった。これは必要。これは不要。これは保留。人生もそうならよかった、と真琴は思った。


 引っ越し当日の朝、空は曇っていた。真琴は寝不足のまま、部屋の中央に立っていた。家具は残す。持っていくのは、段ボール八箱と衣装ケース二つだけ。七年間閉じこもっていた割には、自分の持ち物は驚くほど少なかった。部屋ががらんとして見えた。いや、本当は元から空っぽだったのかもしれない。


 引っ越し業者の若い男性二人が、慣れた様子で荷物を運び出していく。真琴は部屋の隅に立ち、彼らと目を合わせないようにした。


「こちらも運びますか?」業者の一人が、机の上の小さな箱を指差した。


 真琴はびくりとした。その中には、あの写真が入っている。「それは、自分で持ちます」声が裏返った。業者は軽く頷き、それ以上は何も聞かなかった。真琴は小箱をバッグに入れた。写真一枚。たったそれだけが、今の自分にとって最も大事な荷物だった。


 家を出る直前、母が玄関に立った。目が赤かった。


「真琴」


「何」


「ご飯、ちゃんと食べてね」


 真琴は答えなかった。「困ったことがあったら、連絡して」


「だったら追い出さなきゃいいじゃん」


 母は唇を噛んだ。真琴は靴を履いた。七年間、外出用の靴を履くことはほとんどなかった。少しきつい。それでも、靴はまだ履けた。


 玄関の外に出ると、湿った風が頬に触れた。背後で、家の匂いがした。煮物。洗剤。古い木材。自分が逃げ込んできた匂い。振り返りたくなかった。振り返ったら、泣くと思った。


 兄の車に乗る。父は助手席。真琴は後部座席。母は家に残った。車が動き出す。実家が遠ざかる。真琴は窓の外を見ないようにした。けれど、見てしまった。二階の自分の部屋。カーテンは開いていた。そこにもう、自分はいない。


 アパートは、以前見たときよりも古く感じた。曇り空のせいかもしれない。外壁の薄いベージュはところどころ黒ずみ、鉄階段の端には赤茶色の錆が浮いている。部屋は二階の角部屋だった。二〇三号室。父が鍵を開ける。六畳の洋室。小さなキッチン。ユニットバス。押し入れ。ベランダ。窓を開けると、向かいの家の屋根と細い道路が見えた。


 真琴は部屋の真ん中に立った。ここが、これからの自分の世界。そう思った途端、喉が詰まった。狭い。知らない。落ち着かない。実家の部屋よりも少しだけ明るいのに、安全には思えなかった。


 業者が荷物を運び込む。段ボールが積まれていく。父がガスや電気の説明をする。兄がカーテンを取り付ける。真琴は何もできなかった。立っているだけだった。


「冷蔵庫は明日届く」父が言った。「今日はクーラーボックスに入れてあるものを食べなさい」


「いらない」


「食べなさい」


「命令しないで」


 父は真琴を見た。何か言いかけて、やめた。その顔に疲労が見えた。父も年を取ったのだ、と真琴は初めて思った。けれど、同情する気にはなれなかった。


 兄がカーテンレールから手を下ろした。「とりあえず、俺の番号はすぐ出るようにしておけよ」


「必要ない」


「真琴」


「帰って」


 兄は困ったように笑った。昔は、兄のその顔が好きだった。真琴が小学生の頃、兄はよく庇ってくれた。父に叱られたとき、近所の子にからかわれたとき、兄は面倒くさそうにしながらも最後には助けてくれた。でも、いつからか兄は遠くなった。高校へ行き、大学へ行き、就職し、結婚した。真琴だけが、家に残った。


「本当に困ったら、連絡しろ」


「帰ってって言ってる」


 兄はそれ以上言わなかった。父はテーブルの上に封筒を置いた。「当面の生活費だ。無駄遣いはするな」それだけ言って、玄関へ向かった。兄も続く。ドアが閉まる寸前、兄が振り返った。


「真琴」


 真琴は顔を上げなかった。


「……悪い」


 何に対する謝罪なのか分からなかった。


 兄たちが去ると、部屋は急に静かになった。いや、静かではなかった。外階段を誰かが下りる音。隣室のテレビ。道路を走る自転車のブレーキ。遠くで吠える犬。実家の部屋では聞こえなかった音が、壁や窓を通して入ってくる。


 真琴は玄関の鍵をかけた。一つ。二つ。チェーンもかけた。それでも不安だった。誰かが来るかもしれない。誰かが覗くかもしれない。誰かが、自分を見つけるかもしれない。


 見つける?


 自分で浮かんだ言葉に、真琴は眉をひそめた。誰が。何のために。首を振る。考えすぎだ。


 真琴は床に座り込んだ。段ボールの匂いがした。新しい部屋には、自分の匂いがない。


 バッグから小箱を取り出し、中の写真を確認する。知らない少女。二〇〇八年七月二十四日。真琴はその写真を、テーブル代わりの小さな折り畳み台に置いた。少女の顔を見つめる。


「あなたのせいなの?」


 声に出してから、馬鹿みたいだと思った。写真が答えるはずがない。それでも、その少女はすべてを知っているように見えた。


 その夜、真琴は眠れなかった。布団は新しい。カーテンも新しい。天井の染みも、窓の外の街灯も、全部知らない。実家なら、夜中にどの床板が鳴るか分かった。トイレへ行くとき、どの段を踏めば音がしないかも分かった。父が帰ってきた音。母が朝食を作る音。兄が来た日の玄関の開き方。家の音は全部、身体が覚えていた。ここには、それがない。


 深夜一時。隣の部屋で何かが落ちる音がした。真琴は布団の中で跳ね起きた。心臓が激しく鳴る。深夜二時。外階段を誰かが上がった。足音が近づく。止まる。また進む。隣のドアが開く。閉まる。それだけのことに、真琴は泣きそうになった。


 深夜三時過ぎ、ようやく眠気が来た。うとうとした瞬間、夢を見た。蝉の声。息が苦しくなるほどの暑さ。小さな手。白いワンピース。誰かが言う。


 ――まこちゃん、こっち。


 真琴は目を開けた。朝だった。カーテンの隙間から、細い光が入っている。身体が重い。夢の内容はすぐに薄れていった。けれど、ひとつだけ残った。まこちゃん。そう呼ぶ声。家族ではない。同級生でもない。もっと幼い、女の子の声。


 真琴は布団から起き上がり、写真を見た。


「……しおりちゃん?」


 なぜその名前が出たのか、自分でも分からなかった。名前を思い出したのではない。口が勝手に動いたような感覚だった。


 真琴は慌ててスマートフォンを手に取った。検索窓に打ち込む。二〇〇八年 七月二十四日 少女 失踪。指が震えて、何度も打ち間違えた。検索結果が表示される。地域名を入れていないため、全国の古い事件や記事が混じっていた。真琴は自分の地元の市名を加えた。


 結果は多くなかった。古い掲示板。地域ニュースの断片。リンク切れの記事。そして、市立図書館の新聞縮刷版検索ページ。見出しの一部が表示されていた。


『小二女児、下校後に行方不明 高瀬市――』


 違う。高瀬市ではない。自分の地元の市名を入れたはずなのに。真琴は画面を見直した。いや、市名が変わったのはずっと後のことだ。当時は高瀬市だった。


 真琴の指が止まった。小二女児。行方不明。胸の奥がざわつく。リンクを開こうとしたが、記事本文は閲覧できなかった。図書館内端末でのみ利用可能。そう表示された。


 図書館。真琴は画面を見つめた。外へ出なければならない。知らない場所へ行かなければならない。カウンターで何かを聞かなければならないかもしれない。無理だ。反射的にそう思った。けれど、写真の少女が視界に入った。しおりちゃん。今、自分は確かにそう呼んだ。


 真琴は検索を続けた。


 小川栞。それが出てきたのは、十分ほど後だった。古い個人ブログの記事だった。地域の未解決事件について書かれた、ひどく簡素なページ。そこに、名前があった。


『小川栞ちゃん失踪事件』


 真琴は息を止めた。


 小川栞。八歳。二〇〇八年七月二十四日夕方、自宅近くの公園付近で消息を絶つ。現在も行方不明。


 真琴は何度もその文章を読んだ。八歳。公園。夕方。行方不明。写真の少女は、たしかに八歳くらいに見える。


 真琴は画像検索をした。古い記事に残っていた小さな写真が出てきた。画質は荒い。けれど、分かった。同じ少女だった。白いワンピース。少し緊張した笑顔。真琴の手元にある写真と、同じ日に撮られたものかもしれない。


 真琴はスマートフォンを置いた。頭の中が静かになっていた。恐怖も怒りも、一瞬だけ消えた。代わりに、冷たい疑問が残った。なぜ、失踪した少女の写真が、自分のアルバムに挟まっていたのか。なぜ、その日付を見た瞬間、自分は車の音を思い出したのか。なぜ、家族はこのことを隠しているのか。


 真琴は父に電話しようとした。スマートフォンの連絡先を開き、父の名前を表示する。けれど、発信ボタンを押せなかった。聞いても、答えない。昨日までの父を思い出せば、それは分かっていた。母も同じだ。兄も、たぶん全部は知らない。なら、自分で調べるしかない。


 そう思った瞬間、自分の中に小さな違和感が生まれた。自分で調べる。そんなことを考えたのは、いつ以来だろう。七年間、真琴は何も自分で決めてこなかった。起きる時間さえ曖昧だった。食べるものも、母が置いたものを食べるだけ。外のことは、画面越しに見るだけ。その自分が、図書館に行くことを考えている。滑稽だった。でも、同時に少し怖くもあった。


 部屋の中でじっとしていれば安全だ。けれど、部屋の中にいても、もう安全ではない。実家から追い出された時点で、真琴の世界は壊れてしまった。なら、壊れた世界の中で、せめて理由くらい知りたかった。


 午後、真琴は初めて一人で近所のコンビニへ行った。図書館へ行くには、まず外に出る練習が必要だった。玄関で靴を履くだけで五分かかった。鍵を閉める手が震えた。階段を下りると、下の部屋の窓が開いていた。テレビの音が漏れている。誰かに見られている気がして、真琴は俯いた。


 コンビニまでは徒歩四分だった。それでも、真琴には遠かった。道路を渡る。自転車を避ける。小学生の集団とすれ違う。誰も真琴を見ていない。それなのに、全員が見ているように感じた。


 コンビニの自動ドアが開く。明るい照明。冷房の匂い。レジの音。店員の「いらっしゃいませ」。真琴は固まった。何を買えばいいのか分からなくなった。水。パン。カップ麺。適当に手に取り、セルフレジへ向かう。セルフレジがあってよかった。そう思ったのに、バーコードがうまく読めない。後ろに人が並んでいる気配がする。焦る。手が滑る。パンを落とす。


「大丈夫ですか?」


 店員が声をかけてきた。真琴は頷くこともできなかった。逃げたい。今すぐ帰りたい。それでも、店員は慣れた様子でバーコードを読み取り、袋を差し出した。「こちらで大丈夫です」


 真琴は小さく頭を下げた。声は出なかった。


 コンビニを出た瞬間、涙が出そうになった。たかが買い物。それだけでこんなに疲れる。自分は本当に壊れているのだと思った。アパートに戻り、鍵を閉める。袋を床に置く。息を吐く。真琴はその場に座り込んだ。惨めだった。でも、買えた。水とパンとカップ麺。たったそれだけ。それでも、自分で買った。


 翌朝、真琴は図書館へ向かった。玄関で靴を履くだけで十分かかった。地図アプリで確認した。徒歩三十分。途中で引き返してもいい。そう自分に言い聞かせながら、ドアを開けた。


 外は晴れていた。五月の終わりの光が、思ったより強い。歩き出してすぐ、真琴は後悔した。道が広い。車が多い。人が多い。でも、戻らなかった。戻ったら、二度と出られない気がした。


 十五分ほど歩いたところで、公園があった。小さな児童公園。滑り台。ブランコ。砂場。真琴は足を止めた。胸がざわついた。この公園ではない。そう思った。なぜ、そう分かるのか。分からない。けれど、違う。栞が消えた場所は、もっと木が多かった。もっと影が濃かった。もっと――。


 そこまで考えて、真琴は立ち止まった。自分は何を知っているのだろう。何を思い出しかけているのだろう。頭が痛くなった。真琴は逃げるように公園の前を離れた。


 市立図書館は、思っていたより大きな建物だった。ガラス張りの入口。広いロビー。人は少ない。平日の午前だからだろう。真琴は入口の前で立ち尽くした。ここまで来た。けれど、中に入るには、また別の力が必要だった。自動ドアの向こうに、受付カウンターが見える。利用者カード。検索端末。新聞縮刷版。どれをどう使えばいいのか分からない。


 真琴はバッグの中の写真を握った。紙の硬さが指に触れる。小川栞。八歳。行方不明。現在も未発見。


 真琴は息を吸った。自動ドアが開く。冷たい空気が頬に当たる。


 一歩、入った。


 たった一歩だった。でも、それは真琴にとって、七年分の距離を越える一歩だった。

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