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家を出なさい

 汐見真琴が最後に家の外へ出たのは、三日前のことだった。


 もっとも、それを外出と呼んでいいのかどうかは分からない。置き配の箱を、家族が帰ってくる前に部屋へ運んだだけだ。スリッパのまま玄関に降り、ドアを十センチだけ開けて、誰もいないことを確認してから素早く箱を引き入れる。たったそれだけのことで、心臓は嫌な音を立てた。


 外の空気は苦手だった。眩しすぎる。広すぎる。そして何より、誰かに見られている気がする。


 真琴は二十六歳だった。大学を中退してから、もう七年が過ぎていた。


 最初の一年は、まだ「少し休んでいるだけ」。二年目には、母が「焦らなくていい」と言った。三年目には、父がほとんど口を利かなくなった。四年目から先は、数えるのをやめた。


 真琴の一日は、いつも同じだった。昼前に起きて、遮光カーテンを半分だけ開ける。母が階段の前に置いてくれた朝食とも昼食ともつかない食事を取りに行き、誰かと顔を合わせそうなら部屋に戻る。スマートフォンを触って、動画を見て、本を読んで、眠れなくなって、明け方にようやく眠る。それだけの生活だった。


 自分でも、まともではないと思っている。けれど、まともに戻る方法が分からなかった。働かなければならない、外に出なければならない、人と話さなければならない。それは分かっている。分かっているのに、身体が動かない。だから真琴は、自分を責めることにも疲れていた。


 小さい頃は、違ったような気がする。


 ぼんやりとだが、そう思う。いつからかは分からない、気づいたらこうなっていた。ただ、知らない場所でも平気だった頃の自分が、どこかにいた気がする。知らない人とも話せて、誰かが困っていれば放っておけなくて、声をかけることを躊躇わなかった、そういう自分が。でも今は、宅配便の箱を受け取るだけで心臓が速くなる。いつ、どこで、何がそれを変えたのか、真琴にはよく分からなかった。


 その日の夕方、父に呼ばれた。


「真琴、下へ来なさい」


 階段の下から聞こえた声は、いつもより硬かった。真琴はベッドの上で膝を抱えたまま、しばらく動かなかった。父に呼ばれることなど、ほとんどない。家族間の連絡は主に母を通して行われていたし、父が直接自分に向かって声を出すことは、ここ数年でほとんどなかった。それだけで嫌な予感がした。


「真琴」


 二度目の声。逃げられない、と思った。


 真琴は部屋着の袖を握りしめ、ゆっくり立ち上がった。鏡の中の自分は、二十六歳には見えなかった。伸びた髪、血色の悪い顔、外に出ないせいで白くなった肌。人と話していないせいか、口元だけが妙に幼く見える。


 階段を下りると、リビングに家族が揃っていた。


 父の汐見恒一。母の由紀。そして、兄の翔太。


 兄がいることに、真琴はまず驚いた。翔太は五年前に結婚して家を出ている。用がなければ実家には寄らないし、盆や正月でさえ妻の実家を優先することが多かった。その兄が、リビングのソファに座っている。父は食卓の椅子に腰かけて手を組んでいた。母はキッチンの近くに立っていて、顔色が悪い。


 真琴はリビングの入口で足を止めた。


「なに」


 声が掠れた。父はすぐには答えなかった。沈黙の数秒が、やけに長く感じられた。


「一か月後、家を出なさい」


 意味が、分からなかった。


 真琴は父の顔を見た。父は冗談を言う人ではない。けれど今の言葉は、冗談でなければおかしい。


「……え?」


「部屋は用意する。生活に必要な初期費用も出す。だが、この家にはもう置けない」


 置けない。その言葉が、胸の奥に刺さった。まるで物みたいだ、と思った。


「どういうこと」


「言った通りだ」


「言った通りって……」


 真琴は母に視線を向ける、助けを求めたつもりだった。母なら止めてくれる、そう思っていた、いつものように。父が厳しいことを言えば「まあまあ」と割って入ったし、真琴が大学を辞めたときも「今は休ませてあげて」と言ってくれた。働く話を父が出したときも、母が間に入ってくれた。なのに、その母は目を伏せた。


「お母さん」


 母の肩が小さく震えた。けれど、顔を上げない。


「なんで何も言わないの」


「真琴」


 兄が口を開いた。真琴は兄を睨んだ。


「お兄ちゃんも知ってたの?」


「今日、聞いた」


「嘘」


「本当だ」


「じゃあ止めてよ」


 翔太は唇を結んだ。父よりも母よりも、その沈黙が真琴を傷つけた。兄は自分に興味がない。ずっとそう思っていた。まさかそれでも、家族全員が自分を追い出す側に立つとは思っていなかった。


「私、何かした?」真琴の声は震えていた。「迷惑なのは分かってる。でも、急にそんな……」


「急ではない」父が言った。「ずっと考えていたことだ」


「ずっと?」


 真琴は笑いそうになった。笑える話ではないのに、喉の奥が引きつった。


「ずっと私を追い出したかったってこと?」


「そういう言い方をするな」


「じゃあ、どういう言い方ならいいの」


 真琴は父を見た。父は昔から感情を顔に出さない人だった。怒っているのか、困っているのか、悲しんでいるのか、いつも分からない。今も同じだった。ただ、何かを決めた人間の目をしていた。迷いがない、その迷いのなさが、怒りよりも怖かった。


「理由を言ってよ」


「言えない」


「なんで」


「今は言えない」


「じゃあ、いつなら言えるの」


 父は答えなかった。真琴の中で、何かが切れた。


「ふざけないでよ」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。母がびくりと肩を揺らす。


「私はずっとこの家にいた。迷惑だったかもしれないけど、でも、いたじゃない。お母さんも何も言わなかったじゃん。お父さんだって、何も言わなかった。なのに急に出ていけって、理由も言えないって、そんなの納得できるわけない」


「納得しろとは言っていない」


「じゃあ何?」


「決定だ」


 真琴は言葉を失った。決定。父の声には揺らぎはない。そして、そこに真琴の意思は入っていない。抗議も、事情も、恐怖も、全部関係ない。


「部屋は駅から少し離れているが、家賃は安い。契約は今週末に行く」


「勝手に決めたの?」


「保証人は私がなる」


「そんな話してない!」


 真琴は叫んだ。「私は出ていくなんて言ってない!」


 リビングに沈黙が落ちた。テレビは消えている。時計の針の音だけが聞こえた。


 母が小さく息を吸った。


「真琴」その声は泣きそうだった。「お願い。今回は、お父さんの言う通りにして」


「お母さんまで」


「違うの」


「何が違うの」


「違うけど……でも」


 母はそこで言葉を詰まらせた。真琴は初めて、母に対してはっきりとした怒りを覚えた。父は昔から遠かった、兄も遠かった、でも母だけは違うと思っていた。母だけは自分の側にいると思っていた。それは、錯覚だった。


「私が邪魔なんだ」


「真琴、そうじゃない」


「じゃあ何なの」


 母は泣きそうな顔のまま、何も言わなかった。それが答えだった。


 真琴は踵を返した。


「真琴」兄が立ち上がった。「待てよ」


「触らないで」


 伸ばされた手を振り払う。兄の指が空を切った。真琴は階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。ドアを閉める。鍵をかける。背中をドアに預けたまま、ずるずると座り込んだ。


 涙はすぐには出なかった。怒りが強すぎると、人は泣けないのだと初めて知った。


 視界に入る部屋は、七年間の停滞そのものだった。本棚、積まれた本、使わなくなった大学のテキスト、古いノートパソコン、衣装ケース、カーテンの隙間から差し込む夕方の光。ここが、真琴の世界だった。狭くて、暗くて、息苦しい。それでも、唯一安全な場所だった。その場所を、一か月後に奪われる。


 真琴は膝を抱えた。


 スマートフォンが震えた。母からのメッセージだった。


『夕飯、あとで置いておくね』


 いつも通りの文面。それが逆に気持ち悪かった。真琴はスマートフォンをベッドに投げた。


 その夜、真琴は眠れなかった。父の言葉が何度も頭の中で繰り返された。一か月後に、家を出なさい。この家にはもう置けない、そういう決定だ。眠ろうと目を閉じると、心臓が速くなった。外に出る自分を想像した。知らないアパート、知らない道、知らない隣人、インターホン、役所買い物仕事電話―――。


人の目。


その全部が怖かった。真琴は布団を頭までかぶった。しかし、布団の中に隠れても、父の声は消えなかった。


 翌朝、家の中は不自然なほど静かだった。母は普段通り、階段前にトーストとスープを置いていた。真琴はそれを無視した。昼になっても部屋から出なかった。夕方、母がドアの前に来た。


「真琴、少しは食べないと」


「いらない」


「お願い、身体に悪いから」


「放っておいて」


 ドア越しに、母の気配が残った。しばらくして、階段を下りる音がした。その足音を聞いた瞬間、真琴は少しだけ後悔した。けれど、謝る気にはなれなかった。


 三日間、真琴はほとんど部屋から出なかった。母の食事も、半分以上残した。父は何も言ってこなかった。それがまた腹立たしかった。家を出ろと言ったくせに、今は放置する。父にとって自分は、もう家族ではないのかもしれない。


 四日目の夜、兄からメッセージが届いた。


『少し話せるか』


 真琴は既読をつけたまま返事をしなかった。すぐに次のメッセージが来る。


『父さんのやり方が正しいとは思ってない』


 真琴は画面を見つめた。


『でも、真琴を嫌いになったわけじゃない。それだけは分かってほしい』


 分かるわけがない。真琴はスマートフォンを伏せた。


 翌週、父は本当にアパートの資料を持ってきた。リビングのテーブルに数枚の書類が並べられていた。真琴は母に呼ばれて、渋々下りた。


「ここだ」父が指差したのは、築三十年の小さなアパートだった。駅徒歩十八分、六畳一間、ユニットバス、家賃四万二千円。写真を見る限り、古いが汚くはない。


 真琴は書類を見下ろした。実感がなかった。けれど、実感がないまま物事は進んでいく。


「生活費は半年分用意する」父は言った。「その間に、今後のことを考えなさい」


「半年過ぎたら?」


「自分で何とかしなさい」


「働けってこと?」


「そうだ」


 真琴は笑った、なんでか分からないけど、笑った。「無理に決まってるじゃん」


「無理ではない」


「お父さん、私のこと何も知らないんだね」父の眉がわずかに動いた。


「私はコンビニにも一人で行けないんだよ。人と話すと頭が真っ白になるし、電話も無理。履歴書なんて書いたことない。面接なんて、考えただけで吐きそうになる。そんな人間が、いきなり外で暮らせるわけないでしょ」


「だからこそだ」


「何が、だからこそなの」


「このままでは駄目だ」


 真琴は黙った。それはまさしく正論だった。正論だから、余計に腹が立った。このままでは駄目だ。それは真琴自身が一番よく知っている。でも、できない。知っていることと、できることは違う。父はその違いを見ようとしていない。


「契約は日曜だ」


「私は行かない」


「来なさい」


「嫌」


「真琴」


「嫌だってば!」


 真琴は書類を掴み、床に叩きつけた。紙が散らばる。母が小さく悲鳴を上げた。父は動かなかった。


「そんなに追い出したいなら、勝手にすればいいじゃん。でも私は行かない、部屋から出ない、無理やり連れていくなら警察呼ぶ」


 父は静かに真琴を見た。その目が怖かった。怒っているのではない決めている目だった。何があっても揺らがないと、そう決めている目。


「それでも、出てもらう」


 真琴は息を呑んだ。父は本気だった。脅しではない。説得でもない。本当に、自分をこの家から出すつもりなのだ。その瞬間、真琴の中にあった怒りが、別のものに変わった。恐怖だった。


 真琴は一歩後ずさった。


「……なんで」声が小さくなる。「なんで、そこまで」


 父は答えなかった。また、沈黙。真琴はその沈黙に耐えられなかった。「もういい」そう言って、部屋へ戻った。ドアを閉める直前、母の泣き声が聞こえた気がした。


 それから数日、家族の空気は壊れたままだった。真琴は食事の時間を避けて動き、母は必要最低限の声しかかけてこなくなった。父とは一度も顔を合わせなかった。だが、事態は止まらなかった。


 日曜の朝、父は真琴の部屋の前に立った。


「契約に行く」


「行かない」


「着替えなさい」


「嫌」


「真琴」


「嫌だってば!」


 ドアの向こうで、父はしばらく黙っていた。そして言った。「鍵を開けなさい」


「開けない」


「開けなさい」


「絶対に開けない」


 数秒後、金属音がした。真琴は凍りついた。父は予備の鍵を持っていた。当たり前だ。ここは父の家なのだから。


 鍵が回る。ドアが開く。父が立っていた。


 真琴はベッドの上で身を縮めた。


「入ってこないで」


「着替えなさい」


「出てって!」


「十分だけ待つ」


 父はそれだけ言って、ドアを開けたまま廊下に立った。逃げ場がなかった。真琴は泣きながら着替えた。髪を整える余裕もなかった。


 玄関には母と兄がいた。兄は車の鍵を持っている。母は真琴のバッグを握っていた。真琴はその光景を見て、ようやく理解した。これは家族会議ではない、処分だ。家族全員で、自分を家から出す、そう決めたのだ。


 不動産屋での記憶は曖昧だった。担当者の声、書類の説明、父の印鑑、兄の車、母のハンカチ。何もかもが遠く感じられた。真琴は言われるままに署名した。自分の名前を書く手が震えていた。汐見真琴。その四文字が、知らない人間の名前のように見えた。


 帰り道、車内では誰も話さなかった。窓の外に知らない町並みが流れていく。ここで暮らすのだ、と父が言った。真琴はそのアパートを見上げた。二階建ての古い建物。外階段、錆びた手すり、隣のベランダには洗濯物が揺れている。知らない生活の匂いがした。


 真琴は吐き気を覚えた。「無理」思わず声が出た。「こんなの、無理」


 父は何も言わなかった。代わりに兄が小さく言った。「最初は、俺も来るから」


「来ないで」


「真琴」


「誰も来ないで」


 真琴は車のドアを閉め、歩き出した。どこへ行くつもりもなかった。ただ、その場にいたくなかった。背後で母が名前を呼んだ。振り返らなかった。


 結局、十分も歩かないうちに足が止まった。知らない道、知らない人、知らない店。夕方の光の中で、通行人が普通に歩いている。その普通さが、真琴には耐えがたかった。自分だけが異物だった。世界に置いていかれたまま、突然、外へ放り出された。


 真琴は道端にしゃがみ込んだ。涙が出た。声を殺して泣いた。誰も立ち止まらなかった。それが救いでもあり、残酷でもあった。


 家に帰ると、部屋の前に段ボール箱が積まれていた。母が荷造りを始めていたのだ。真琴は何も言わず、部屋へ入った。中はまだ自分の部屋だった。けれど、もう違って見えた。本棚も、カーテンも、机も、ベッドも、すべてが期限付きのものになっていた。あと三週間。あと二週間。あと一週間。カウントダウンが始まっている。


 真琴は床に座った。足元に、開いたままの段ボールがあった。母が途中まで詰めたのだろう。古いノート。使っていない文具。高校時代の参考書。その下に、アルバムがあった。


 茶色い表紙の、古いアルバム。真琴はしばらくそれを見つめた。懐かしい、という感情は湧かなかった。むしろ不気味だった。自分の過去が、箱の底からこちらを見上げているような気がした。


 手を伸ばす。表紙には、金色の文字でこう書かれていた。


『二〇〇八年』


 真琴は息を止めた。なぜか分からない。ただ、その年号を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 ページを開く。運動会、夏祭り、庭で撮った写真。小学生の自分が笑っている。その顔が、他人のようだった。


 ページをめくる。途中で、手が止まった。


 数ページ分が切り取られていた。写真が剥がされたのではない、台紙ごと、鋭い刃物で切り取られている。不自然だった。そこだけ、アルバムに空白がある。真琴は指先で切り口をなぞった。古い紙の繊維が、ざらりと触れた。誰が切ったのか。なぜ切ったのか。


 さらにページをめくると、一枚だけ写真が挟まっていた。アルバムに貼られていたものではない。後から差し込まれたように、台紙の隙間に入っていた。


 真琴はそれを取り出した。


 写真には、少女が写っていた。真琴ではない。見覚えのない女の子だった。年齢は七つか八つくらい。肩までの髪。白いワンピース。少し緊張したような笑顔。背景には、夏の強い光が写り込んでいる。


 真琴は写真を裏返した。そこには、細い字で日付が書かれていた。


 二〇〇八年七月二十四日。


 その日付を見た瞬間、真琴の頭の奥で、何かが軋んだ。ひどく遠い場所で、蝉が鳴いている。誰かが泣いている。白い光。熱いアスファルト。車のドアが閉まる音。


 真琴は写真を取り落とした。呼吸が浅くなる。胸を押さえ、ベッドに手をついた。今のは何だ。記憶なのか。それとも、ただの想像なのか。


 真琴は床に落ちた写真を見つめた。知らない少女。切り取られたアルバム。家族の沈黙。そして、突然の追放。全部が、ばらばらのまま繋がっていない。けれど真琴は、直感していた。父が言えない理由は、ここにある。自分が忘れている何かが、この家には埋まっている。


 真琴は震える手で写真を拾った。少女の笑顔を見つめる。


「……誰」


 答える者はいなかった。


 部屋の外では、母が階段を上がってくる音がした。真琴はとっさに写真を胸に抱えた。なぜ隠したのか、自分でも分からなかった。ただ、この写真を家族に見せてはいけない。そう思った。


 母がドアをノックした。


「真琴。少し、いい?」


 真琴は返事をしなかった。握りしめた写真の角が、手のひらに食い込んでいた。その痛みだけが、今の真琴にとって確かなものだった。

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