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……ありがとう

 翌週、真琴は父と兄に付き添われて警察署へ向かった。


 母も行きたがったが、父が止めた。母は玄関先で真琴の手を握った。


「無理しないで」


 真琴は頷いた。「でも、話す」


 母は泣きそうな顔で笑った。


 警察署の取調室ではなく、小さな面談室が用意されていた。相馬のほかに、女性警察官と臨床心理士が同席した。机の上には録音機。紙。水。十八年前、真琴にはできなかったこと。それを今からやる。


「汐見さん」相馬が言った。「途中で苦しくなったら止めます。無理に続ける必要はありません」


「分かりました」


 真琴は深呼吸した。「話します」


 最初は、事件前のことからだった。栞が転校してきたこと。図書室で仲良くなったこと。公園で遊んでいたこと。楠の木が秘密の場所だったこと。帽子の男が現れたこと。栞に話しかけていたこと。真琴が怖がって公園を避けるようになったこと。


 そして、事件当日。


 真琴は何度も言葉に詰まった。胸が苦しくなり、手が冷たくなった。それでも、ひとつずつ話した。図書室。白いワンピース。赤い鈴。若葉公園。路地。男が栞に声をかけた。真琴は袖を引いた。背後から突き飛ばされた。楠の幹。へたり込んだ。声が出なかった。栞が車に押し込まれた。白い箱の車。車が走り去った。路地に落ちた鈴。割れ目に押し込んだ。そして、その隙間に見えた別のもの。


 小さな靴。


「その靴は、栞さんのものではなかった?」相馬が確認した。


「違います」真琴ははっきり言った。「栞ちゃんは白いサンダルでした。私が見たのは、古くて泥のついた小さな運動靴です。男の子のものみたいでした」


 相馬の表情が変わった。「色は」


「青……だったと思います。青い線が入っていた」


 女性警察官がメモを取る音がした。


「車の中に、ほかに何かありましたか」


「段ボール箱。ビニール紐。毛布みたいなもの。それから……番号みたいなものが書いてあった気がします」


「番号?」


「箱に紙が貼ってあって、名前じゃなくて、数字が書いてありました」


 真琴は目を閉じた。白い箱の車の暗い荷台。段ボールの側面。黒いマジックの数字。


「07。あるいは、07の何か、だったと思います」


「番号管理していたのかもしれません」相馬が低く言った。


 その場の空気が重くなった。単なる誘拐ではない。管理するため。運ぶため。そこに、子どもがいた。


「車について、他に何か覚えていますか。色、形、文字、傷、匂いでも」


 真琴は深呼吸した。白い箱の車。公園奥の路地。半開きの後部ドア。中は暗い。段ボール箱。ビニール紐。そして匂い。


「匂いがしました」


『匂い?』


「甘い、変な匂い。消毒液みたいな、薬みたいな。気分が悪くなるような甘さ」


 相馬の沈黙が長くなった。


「車に文字はありましたか」


「青い文字が、横に書いてあった気がします。全部は見えなかったけど……みどり、みどり回収、みたいな」


 言った瞬間、記憶が弾けた。白い軽バンの横。青い字。みどり資源回収。古紙・金属・家電。子どもの自分には読めなかった。でも、文字の形は覚えていた。


「みどり資源回収」真琴ははっきり言った。「車に、そう書いてありました」


 相馬の声が変わった。


「汐見さん、今の証言は非常に重要です」


「会社ですか」


「当時、調査していた廃品回収業者の屋号です。記録上は事件の半年後に廃業しています」


 真琴は身体が震えた。車。会社名。ようやく、記憶が具体的な形を持った。


「それから」真琴は続けた。「男は二人でした。一人は帽子をかぶっていた。もう一人は、私を突き飛ばした男で……右手の親指の付け根に、火傷の痕があったと思います」


「確認できますか」


「夢の中で見ました。何度も。同じ手が出てくる。熱そうな手、と子どもの頃の私は言っていたみたいです。診療記録にも書いてありました」


「はい。当時の記録と一致します」相馬は言った。「その手について、持ち主の顔や声は思い出せますか」


 真琴は目を閉じた。浮かぶのは、手だけだ。低い声。でも、顔がない。


「声を聞いた気がします。でも、顔はまだ見えない」


「無理に引き出さなくて構いません」


 面談は二時間近く続いた。最後に、相馬は言った。


「汐見さんの証言と、赤い鈴、過去の診療記録、当時の車両情報を合わせて、再捜査を本格化します」


「栞ちゃんは見つかりますか」


 真琴は聞いた。相馬はすぐには答えなかった。「必ず、近づきます」


 それは優しい嘘ではなかった。だから真琴は頷いた。


 警察署を出ると、父が待っていた。兄もいた。


「よく話したな」父は短く言った。


「うん」


「……ありがとう」


 その日の夜、相馬から電話が来た。


『間部木徹の所在が分かりました』


 真琴はスマートフォンを握り直した。「どこに」


『現在は高瀬市内にはいません。隣県の港町で、廃品回収業に関わっているようです』


「逮捕するんですか」


『現段階では任意で事情を聴くことになります』


「車の名前が出たのに?」


『みどり資源回収という名前は、当時の捜査で一度浮かんだ業者でした。ただ、廃業済みで当時も証拠が掴めなかった。今回、高瀬さんの証言で改めて重要性が増しました。ただし、逮捕するには本人の関与を示す証拠が必要です』


「もどかしい」


『捜査には順序があります。ただ、一つ確認したいことがあります』


「何ですか」


『汐見さんに送られたメッセージですが、プリペイド式の端末からでした。発信地は高瀬市周辺です。それから』


 相馬は少し間を置いた。


『久我修一という人物を知っていますか』


 真琴は眉をひそめた。「いいえ」


『当時の捜査で一度浮かんだ人物です。みどり資源回収との繋がりを調べています。今は別の件についての確認ですが、念のため』


 電話を切った後、真琴はノートに「久我修一」と書いた。みどり資源回収。廃品回収。帽子の男か、火傷の男か。あるいは別の誰かか。まだ分からない。


 翌日、兄と一緒に図書館へ行き、関連する情報を調べた。みどり資源回収。地域の廃品回収業者。当時の記録。古い電話帳。出てくる情報は断片的だったが、少しずつ形が見えてきた。みどり資源回収は十八年前まで高瀬市内で営業していた。経営者の名前は出てこない。ただ、廃業した時期が事件の半年後であることは、相馬の言葉と一致していた。


「この会社の人間が犯人の一人ってことか」兄が低く言った。


「可能性が高い」


「車が廃業後にすぐ廃棄されてたとしたら、証拠を隠したってことだよな」


「うん」


 二人とも黙った。計画的だ。突発的な犯行ではない。車。会社。廃業のタイミング。全部が繋がっている。


 その夜、千尋からメッセージが届いた。


『思い出したことがあります。栞ちゃんが事件の少し前、「白い箱の車」と言っていました』


 真琴は画面を凝視した。すぐに返信する。


『どういう意味?』


『軽自動車じゃなくて、後ろが箱みたいな車。宅配便みたいな形、と言っていた気がします』


 真琴の心臓が強く鳴った。白い軽自動車。新聞ではそう書かれていた。でも、子どもには軽自動車と小型バンの区別などつかない。白い箱の車。荷台。箱。車両後部の「はこ」。診療記録の言葉と繋がる。


 真琴はすぐに兄へ連絡した。


『白い箱の車。宅配便みたいな形』


 兄から電話が来る。


『それ、軽バンだな』


「軽バン?」


『後ろが箱型の商用車。配送とか廃品回収とかで使う』


「廃品回収……」


 二人とも黙った。みどり資源回収。廃品回収業者。軽バン。全部が一つの像を結んでいく。


『真琴、相馬さんに連絡しろ』


「うん」


 相馬はその情報を聞くと、明らかに反応した。


「当時、みどり資源回収が使っていた白い軽バンがありました。ただ、事件直後に廃車になっています。今回の情報で、その車両が現場にいた可能性が高まりました」


「会社の経営者が関わっているということですか」


「捜査中です。ただ、間部木徹とみどり資源回収の関係が確認されています」


 間部木徹。その名前と、みどり資源回収が繋がった。


「その人が、帽子の男ですか、それとも火傷の男ですか」


「現段階では言えません。ただ、汐見さんの証言は非常に重要な方向に進んでいます」


 電話を切った後、真琴はノートを開いた。これまで集めた資料を一つずつ並べた。新聞記事。診療記録。栞の手紙。写真。同級生の証言。榊の証言。父の告白。赤い鈴。みどり資源回収。軽バン。久我修一。間部木徹。


 点はある。線も見え始めている。だが、まだ全体像は見えない。


 真琴はペンを止めた。間部木と久我。二人は何者で、何のために子どもを連れ去ったのか。栞の前にも被害者がいた。車の中に別の靴があった。管理番号のような数字。これは一人の少女の失踪ではない。もっと大きな何かが、この事件の背後にある。


 その夜、真琴は眠れなかった。しかし、恐怖だけではなかった。赤い鈴が見つかった。車の名前も思い出した。間部木という名前も出た。少しずつ、栞が消えた日の輪郭が戻っている。


 深夜、真琴はまた夢を見た。いや、夢というより、記憶だった。若葉公園。夕方。栞が白いワンピースで立っている。手提げ袋には赤い鈴。帽子の男が笑っている。「犬は車の中にいるよ」。


 真琴は首を振る。「嘘だよ。犬なんていない」


 栞が不安そうに真琴を見る。そのとき、背後から手が伸びた。火傷の痕のある手。背中を強く押される。楠の幹にぶつかる。視界が揺れる。栞が叫ぶ。赤い鈴が地面に落ちる。白い箱の車の後部ドアが開く。中には段ボール箱。その隙間に、別のものが見える。


 小さな靴。


 栞のものではない。もっと古い、泥のついた靴。


 真琴は目を見開いた。栞の前にも、箱があった。栞の前にも、子どもがいた。そして真琴は、その証拠を見ていた。


 目が覚めたとき、真琴は泣いていた。すぐにノートを開く。小さな靴。段ボール箱。薬品の匂い。白い箱の車。みどり資源回収。


 書きながら、真琴は理解した。これは失踪事件ではない。少なくとも、栞一人だけの事件ではない。久我と間部木は、子どもを連れ去るための仕組みを持っていた。車。倉庫。廃品回収。人目につかない荷物。箱。


 真琴はペンを止めた。背筋が冷たくなる。誘拐ではなく、運搬。誰かへ渡すための。そう考えると、すべてが繋がってしまう。二人の背後に、さらに誰かがいたのではないか。


 真琴は震える手で相馬にメッセージを送った。


『栞ちゃん以外の子どもの靴を見た記憶があります』


 送信した直後、窓の外で車の音がした。真琴は息を止めた。カーテンの隙間から外を見る。道路の向こうに、白い軽バンが停まっていた。車体に文字はない。運転席に人影。


 真琴のスマートフォンが震えた。知らない番号。着信だった。真琴は出なかった。着信が切れる。すぐにメッセージが届く。


『鈴を見つけたな』


 真琴の血の気が引いた。外の白い軽バンが、ゆっくり動き出す。そのまま角を曲がり、見えなくなった。


 真琴は震える指で、兄と相馬に同じメッセージを送った。


『今、白い軽バンが部屋の前にいた』


 送信してから、玄関の鍵を確認した。チェーン。補助錠。全部閉まっている。それでも、もう部屋は安全な場所ではなかった。事件は十八年前の記憶ではない。今、真琴の前に戻ってきている。

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