話します
その夜、真琴は部屋を出なかった。
兄が来るまで、玄関の前で膝を抱えていた。白い軽バン。知らない番号。「鈴を見つけたな」。相手は見ていた。公園も、警察への接触も、真琴の部屋も。
十分後、ドアの向こうで兄の声がした。
「真琴、俺だ」
覗き穴で確認してから、真琴は鍵を開けた。兄は部屋に入るなり、窓の外を確認した。
「相馬さんは?」
「連絡した。巡回を増やしてくれるって」
「親父にも送った。今夜はここに泊まる」
「え?」
「一人にはできない」
兄はそれだけ言って、荷物をまとめた小さなバッグを持ち上げた。最初から泊まるつもりで来たのだ。真琴は言葉に詰まった。
「奥さんは?」
「説明した」
「怒ってる?」
「怒ってる」兄は平然と言った。「でも、ここにいる」
真琴は何も言えなかった。怖かった。自分でも分かるほど、手が震えていた。
間もなく相馬から電話が来た。
『今夜は一人にならないでください。巡回を増やします』
「白い軽バンは」
『付近の防犯カメラを確認します。メッセージも保存してください』
「はい」
『汐見さん。相手が動いたということは、あなたの調査が核心に近づいているということです』
「どういう意味ですか」
『鈴が見つかった。車両名も出た。これまで十八年間眠っていたものが、動き始めている。相手が焦るのは、証拠が揃いつつあるからです』
真琴は唇を噛んだ。
『明日、署に来られますか』
「行きます」
『正式に、改めて証言を取ります。それから、久我修一についても話があります』
「久我が何か」
『明日、詳しく説明します』
電話を切った後、真琴は兄と向かい合った。「久我修一って、知ってた?」
『前に相馬さんから名前が出てたのを覚えてる』兄はソファに座り込んだ。「親父も知ってるはずだ」
「知ってるなら教えてほしかった」
「俺もそう思う」兄はため息をついた。「でも親父のことだから、お前に言えなかったんだろうな。また壊れると思って」
その言葉に、真琴はもう怒りを感じなかった。怒りよりも先に、疲れが来た。みんなが同じ理由で黙る。みんなが同じように真琴を守ろうとして、同じように真琴に何も教えなかった。それが十八年続いた。でも、もう終わりにしなければならない。
翌朝、真琴は父と兄に付き添われて警察署へ向かった。
面談室には相馬のほかに、女性警察官と臨床心理士が同席した。前回と同じ顔ぶれだった。机の上には録音機。紙。水。
「汐見さん」相馬が言った。「最初に、久我修一について説明します」
真琴は背筋を伸ばした。
「久我修一。現在五十二歳。十八年前、高瀬市内でボランティア活動をしていた人物です。子ども支援団体に関わり、地域の行事や施設に出入りしていました。事件当時、捜査線上に上がりましたが、証拠不十分で深く追及できませんでした。その後、別件で逮捕されています。傷害と監禁です。服役し、今年の二月に出所しています」
真琴は目を細めた。「帽子の男ですか」
「可能性が高いと見ています」
「じゃあ、火傷の痕の男は」
「間部木徹です。六十歳。みどり資源回収の元経営者。久我の知人として当時も確認されていましたが、こちらも証拠が掴めなかった」
「二人が組んでいた」
「はい」相馬は頷いた。「久我が子どもに接近し、間部木が車と倉庫を用意する。役割分担があったと見ています」
真琴は深呼吸した。「メッセージを送ったのは、どちらですか」
「久我修一と見ています。間部木の指示を受けた可能性があります」
「どうやって私を特定したんですか」
相馬は少し間を置いた。「高瀬さんの調査の動きが、地域の記事になっていました。かつて事件を取材した記者が、SNS上で栞さんの事件について調べている人物の存在に気づき、続報として書いた。その記事が拡散された」
「私の調査のせいで」
「あなたのせいではありません」相馬はきっぱり言った。「あなたは正当に動いていた。相手が動いたのは、証拠が見つかりそうだったからです」
それでも、真琴の胸に重いものが残った。父の賭けが当たった。でも、真琴が動き始めたことが、犯人に真琴の存在を教えてしまった。守るための行為が、別の形で危険を引き寄せた。
「今日は、追加の証言をお願いします」相馬は続けた。「特に、間部木に関する記憶があれば」
真琴は頷いた。「話します」
最初は前回の証言の確認から始まった。楠の木。突き飛ばされた。声が出なかった。鈴を隠した。白い箱の車。みどり資源回収。段ボール箱。小さな靴。番号のような数字。薬品のような匂い。
「二人目の男について、新たに思い出したことはありますか」相馬が聞いた。
「声を聞いた気がします」
「どんな声でしたか」
「低い声。男の声。楠の陰にいたから、はっきりは聞こえなかったけど」
「何か言葉は?」
真琴は目を閉じた。暗い場所が浮かぶ。倉庫。湿ったコンクリート。段ボール箱。誰かが言う。
「……まべき、という言葉が聞こえた気がします」
相馬の表情が変わった。「もう少し詳しく」
「はっきりとは分からないけど、誰かが呼んでいた。名前のような、何かの言葉のような。まべき、という音だった気がします」
「間部木」相馬が低く言った。
真琴は目を開けた。「名前ですか」
「間部木徹。ま、べ、き、てつ。もしその音が聞こえたなら、久我が間部木を呼んだ可能性があります」
応接室の空気が変わった。父が低く息を吐く。兄が真琴を見る。
「その言葉を聞いた状況は」真琴はゆっくり言った。「倉庫のような場所だったと思います。栞ちゃんの泣き声が聞こえた。私はそこには連れて行かれていない。でも、何かを見ていた。音を聞いていた。どこで、どうやって、それを聞いたのかが、まだはっきりしない」
「十分です」相馬は言った。「間部木という名前は、当時報道されていません。あなたが知るはずのない名前です。この証言は非常に重要です」
「捜査が動きますか」
「動きます」相馬は断言した。「間部木への任意聴取を要請します。また、倉庫跡についても調査します」
「倉庫?」
「みどり資源回収が使っていた倉庫があります。廃業後も土地の所有者が変わらず、建物が残っている可能性があります。当時、証拠を押収できなかった場所です」
「倉庫の土地は?」
「第三者名義です。間部木は借主でした。土地の売却交渉が長年難航していたため、建物に手をつけられなかった可能性があります」
真琴は息を呑んだ。十八年間、証拠が残り続けていた理由。間部木が処分できなかったのではなく、処分する機会がなかったのだ。
面談が終わったのは、二時間後だった。相馬は真琴に言った。「汐見さんの証言は、公判でも重要になります」
「私、法廷に出るんですか」
「可能性はあります。ただ、負担を減らす方法も検討されます」
真琴は頷いた。怖くないわけではない。それでも、もう逃げたいとは思わなかった。
「話します」真琴は言った。「必要なら」
相馬はしばらく真琴を見てから、深く頭を下げた。「ありがとうございます」
警察署を出ると、空は薄曇りだった。父が車を出すと言ったが、真琴は少し歩きたいと言った。父は反対しかけ、兄に目で止められた。
「俺が一緒に歩く」兄が言った。
二人は警察署から少し離れた川沿いを歩いた。風が強かった。真琴の髪が頬に当たる。
「間部木、という名前が出たな」真琴は川面を見た。
「うん」
「怖い」
「そうだな」
「でも、少し怒ってる」
兄は横を歩きながら、真琴を見た。「怒ってる?」
「思い出すなって言われたから」真琴は川面を見た。「向こうは、私が忘れてる方が都合がいいんだと思う。だったら、私は思い出したい」
兄は少し笑った。「やっぱり頑固だ」
「うるさい」
真琴も少しだけ笑った。
その夜、警察は動いた。相馬から父を通じて、間部木への任意聴取が要請されたこと、みどり資源回収の倉庫跡の調査が始まることだけは分かった。
真琴はアパートで兄とその知らせを聞いた。
「倉庫」真琴は呟いた。夢に出てきた暗い場所。湿ったコンクリート。段ボール。もしそこに、栞の手がかりが残っていたら。いや、残っていてほしいと思うことさえ残酷なのかもしれない。
「ここまで来たんだな」兄は静かに言った。
「うん」
「真琴が話したからだ」
真琴は首を振った。「栞ちゃんの鈴が残ってたから」
「それを思い出したのは真琴だ」
真琴は返事をしなかった。もう自分を責めるだけでもいられなかった。自分は八歳のとき、何もできなかったわけではない。鈴を隠した。声を聞いた。車を見た。そして十八年後、それを思い出した。
翌日、ニュース速報が流れた。
『十八年前の女児失踪事件で関係先を捜索』
小川栞の名前は伏せられなかった。十八年前、高瀬市で行方不明になった小学二年生。警察が当時の関係者の関連施設を捜索。
真琴はテレビの前で固まった。画面には、古い倉庫の映像が映っていた。錆びたシャッター。雑草の伸びた敷地。「旧みどり資源回収」とテロップが出る。そこを、防護服の捜査員が出入りしている。
真琴はその映像を見た瞬間、吐き気を覚えた。
「ここ」声が漏れた。
兄が真琴を見る。「覚えてるのか」
「たぶん……ここ」
倉庫の横に、細い水路があった。夢の中で聞いた水の音。コンクリートの匂い。間違いない。栞は、ここに連れて行かれた。
翌日、久我修一と間部木徹が任意同行された。その日の午後には、久我が別件の脅迫容疑で逮捕された。真琴に送られたメッセージに関与した疑いだった。間部木も事情聴取を受けたが、まだ逮捕には至っていなかった。
相馬から電話が来た。
『倉庫から、複数の古い遺留品が見つかりました』
真琴は息を止めた。
『子ども用の靴、衣類、古い名札、帳簿の一部です』
「栞ちゃんのものは」
『鑑定中です』
「帳簿?」
『人名ではなく、番号と日付、金額のような記載があります』
真琴は目を閉じた。番号。日付。金額。やはり、これは一人の少女の失踪だけではない。
『汐見さん』相馬の声は重かった。『まだ断定はできませんが、児童を対象にした組織的な犯罪の可能性があります』
「栞ちゃんは、売られたんですか」
自分の声とは思えないほど冷たかった。相馬は沈黙した。
『可能性の一つです』
世界が傾いた気がした。栞はただ連れ去られたのではない。誰かの商品にされた。番号で管理され、車で運ばれ、どこかへ渡された。怒りで視界が白くなる。怖いより先に、怒りが来た。
「許せない」真琴は呟いた。
『我々も同じです』相馬の声にも、静かな怒りがあった。『必ず全容に近づきます』
その夜、真琴は栞の写真を見た。白いワンピース。緊張した笑顔。文集には、図書室に行くのが好きだと書いてあった。本を読むのが早くなりたいと。そんな子どもが、番号で扱われた。
真琴は涙を流した。今度は恐怖の涙ではなかった。悔しさの涙だった。
翌々日、間部木徹が逮捕された。容疑は十八年前の監禁および未成年者略取幇助。決め手の一つは、倉庫から見つかった古い作業記録だった。そこには、事件当日の車両使用記録が残っていた。車両番号。運転者、間部木。同乗者、久我。午後四時台、若葉町方面。そして、午後五時過ぎに倉庫へ戻った記録。
さらに、倉庫の床下から、古い布片と金属プレートが見つかった。布片は白いワンピースの一部と見られた。金属プレートには、薄く「M-08」と刻まれていた。栞。八歳。あるいは、八番目。どちらにせよ、それは人を人として扱わない記号だった。
真琴はニュースで間部木の顔を見た。六十代になった男。無精髭。伏せた目。右手の親指の付け根に、古い火傷の痕。その手を見た瞬間、真琴の身体が震えた。
兄が隣にいた。何も言わず、テレビのリモコンを取ろうとした。
「消さないで」真琴は言った。「見ないと」
「無理するな」
「見ないと、終わらない」
テレビの中の間部木は、記者の問いに答えなかった。その沈黙が、父や母の沈黙とは違うものに見えた。守るための沈黙ではない。奪ったものを隠す沈黙。真琴は、その沈黙を許さないと思った。
数日後、久我が一部供述を始めた。間部木が先に崩れたためだった。取調べでは、二人は互いに責任を押し付け合った。久我は「間部木に指示された」と主張し、間部木は「久我が主導した」と主張した。だが、供述の内容は少しずつ一致し始めていた。
二人は十八年前、子ども支援団体の名簿や地域行事を利用し、家庭環境や帰宅経路を把握していた。狙われたのは、孤立しやすい子ども、転校して間もない子ども、家庭が支援団体と接点を持っていた子ども。栞は、その条件に当てはまっていた。
「栞ちゃんは、どこへ」
真琴が聞くと、相馬は表情を曇らせた。
『久我は、県外へ移送したと供述しています。ただ、移送先については曖昧です』
「嘘をついてる?」
『可能性があります』
「生きている可能性は」
相馬は沈黙した。真琴はその沈黙で察した。それでも聞いた。
「ありますか」
『極めて低いと見ています』
真琴は目を閉じた。覚悟していた。白いワンピースの布片。十八年という時間。それでも、言葉にされると胸が裂けるようだった。
『ただ、まだ確定ではありません』相馬は続けた。『現在、供述に基づいて山間部の旧施設跡を捜索しています』
「旧施設?」
『当時、久我たちが一時的に使っていた場所です。廃止された児童保養施設の一部を不法に使用していた可能性がある』
児童保養施設。子どものために作られた場所が、子どもを隠す場所に使われた。真琴は拳を握った。
その日の夜、真琴は父と母、兄と実家で会った。アパートではなく、実家だった。真琴が自分で行くと言った。
久しぶりに入るリビング。食卓。母の置いた湯呑み。父の座る椅子。全部が懐かしく、少し息苦しかった。
「捜査、進んでるんだね」母が言った。
「うん」
「栞ちゃんのご家族は」
「警察から説明を受けてると思う」
母は目を伏せた。
「いつか、謝りたい」真琴は言った。父がこちらを見る。「謝るというより、会いたい。何を言えばいいか分からないけど」
父は静かに頷いた。「その時が来たら、私たちも一緒に行く」
「一緒に?」
「汐見家として、逃げずに向き合うべきだ」
真琴は父を見た。以前の父なら、危険だ、やめろ、と言っただろう。今の父は違った。守ることと閉じ込めることの違いを、少しずつ学ぼうとしているように見えた。
「お父さん」
「何だ」
「私、まだ家には戻らない」
父は少し目を伏せた。「そうか」
「でも、たまには来る」
母が顔を上げた。「本当?」
「たぶん」真琴は少し照れくさくなって視線を逸らした。「ご飯くらいは」
母は泣きそうに笑った。父も小さく息を吐いた。兄がわざと軽い声で言った。「じゃあ俺も来る。飯目当てで」
「あなたは自分の家があるでしょう」母がそう言うと、久しぶりにリビングに小さな笑いが生まれた。
ぎこちない。壊れたものが戻ったわけではない。でも、完全に失われたわけでもない。
数日後、山間部の旧施設跡から、人骨の一部が見つかった。ニュース速報が流れた。真琴はアパートで一人、それを見ていた。すぐに相馬から連絡が来た。
『まだ鑑定中です』
「栞ちゃんですか」
『分かりません』
「でも、子どもなんですよね」
相馬は答えなかった。答えられないのだろう。
真琴はテレビを消した。部屋が静かになった。栞の写真を手に取る。
「もう少しだよ」真琴は呟いた。「もう少しで、帰れるかもしれない」
それが救いなのかどうか、分からなかった。生きて帰ることはできない。けれど、行方不明のままではなくなる。待ち続ける時間に、終わりが来る。その終わりがどれほど残酷でも、終わりが必要な人たちがいる。真琴にも、その一人になりつつあった。
鑑定結果が出たのは、さらに一週間後だった。相馬から電話が来た。声がいつもより静かだった。
『汐見さん』
「はい」
『旧施設跡で見つかった遺骨の一部が、小川栞さんのものと確認されました』
真琴は目を閉じた。涙はすぐには出なかった。ただ、胸の奥にあった何かが静かに沈んでいった。分かっていた。でも、分かりたくなかった。
『栞さんは、事件から数日以内に亡くなっていた可能性が高いと見られます』
「そうですか」声は不思議と落ち着いていた。
『栞さんのご家族には、先ほど説明しました』
「お母さんは……」
『詳細は言えません。ただ、長い時間がかかりました』
十八年。長すぎる時間だった。
真琴は電話を切った後、しばらく座っていた。外は夕方だった。窓の外を、小学生たちが笑いながら歩いていく。ランドセルが揺れている。その普通の光景が、たまらなく眩しかった。
真琴はノートを開いた。最初のページには、こう書いてある。私は何を見たのか。真琴はその下に、新しく書いた。
栞ちゃんは、帰ってきた。
それは正確ではない。でも、今の真琴にはそう書くしかなかった。
翌日、相馬から正式な依頼があった。再度の証言調書作成。久我と間部木の公判に向けた確認。真琴は承諾した。怖い。でも、話す。十八年前に止まった事件は、ようやく動き出した。そして真琴自身も、もう止まってはいなかった。




