生きててよかった
栞の名前が、十八年ぶりにニュースで報じられた。
小川栞さん。当時八歳。高瀬市若葉町で行方不明。旧施設跡で見つかった遺骨の一部が、本人のものと確認。
真琴はテレビの前で、その文字を見つめていた。行方不明女児。未解決事件。重要参考人。逮捕。そんな言葉の中に、栞が押し込められていく。けれど真琴が覚えている栞は、そういう言葉ではなかった。
白いワンピース。赤い鈴。図書室。少し緊張した笑顔。文集に書かれた、まこちゃんという文字。
栞は事件ではない。栞は、そこにいた女の子だった。
数日後、真琴は警察署で最後の証言調書に向き合った。相馬は、これまでより少しだけ柔らかい表情をしていた。
「高瀬さんの証言は、公判でも重要になります」
「私、法廷に出るんですか」
「可能性はあります。ただ、負担を減らす方法も検討されます」
真琴は頷いた。怖くないわけではない。久我や間部木と同じ空間に立つことを想像すると、今でも呼吸が浅くなる。だが、もう逃げたいとは思わなかった。
「話します」真琴は言った。「必要なら」
相馬はしばらく真琴を見てから、深く頭を下げた。「ありがとうございます」
警察署を出ると、父が待っていた。兄もいた。真琴は少しだけ驚いた。
「仕事は?」
「抜けてきた」兄が言った。
「奥さんに怒られない?」
「もう怒られてる」
兄は真面目な顔で言ったので、真琴は少し笑ってしまった。
その日の午後、小川家から連絡が来た。直接ではない。相馬を通じてだった。栞の母が、真琴に会いたいと言っている。
真琴はその場で返事ができなかった。会いたい。でも、怖い。十八年前、自分はその人の前で泣きながら謝った。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。その言葉の続きを、今もまだ探している。
相馬は急かさなかった。
「無理にとは言いません」
「会います」真琴は言った。声は震えていた。「会わせてください」
約束の日は、七月二十四日だった。栞がいなくなった日。十八回目の夏。場所は若葉公園。栞の母が、毎年花を置いてきた場所だった。
その日、空はよく晴れていた。
真琴は白い花を買った。何の花がいいのか分からなかった。花屋で迷っていると、店員が静かに勧めてくれた。白いトルコキキョウ。花言葉は知らない。でも、栞のワンピースと同じ白だった。
公園には、父と母、兄も同行した。ただし、少し離れて待つことになっていた。真琴は一人で楠の前へ向かった。
そこに、一人の女性が立っていた。髪に白いものが混じっている。背筋は細く、けれどまっすぐだった。写真の中で麦茶を出していた若い母親とは違う。十八年分の時間が、その肩に積もっていた。でも、目元に面影があった。栞と同じ、少し優しい目。
「汐見真琴さん」女性が言った。
真琴は深く頭を下げた。「はい」
「栞の母です」
その声を聞いた瞬間、真琴の胸が詰まった。言葉が出ない。謝らなければ。ずっとそう思っていた。けれど、目の前に立つと、謝罪の言葉があまりにも軽く感じられた。
「あの」真琴は花を握りしめた。「私……」
声が震える。「ごめんなさい」
結局、同じ言葉しか出なかった。「十八年前も、私はそう言ったそうです。でも、何に謝っていたのかも覚えていなくて。栞ちゃんのことも忘れていて。今さら、こんなことを言っても」
「真琴さん」栞の母が静かに遮った。
真琴は顔を上げた。
栞の母は泣いていた。でも、その目に責める色はなかった。「あなたは、謝らなくていいんです」
真琴は息を呑んだ。
「あなたも、あの日からずっと帰ってこられなかったんでしょう」
その言葉で、真琴の中の何かがほどけた。涙が溢れた。
「私、栞ちゃんを助けられませんでした」
「あなたは子どもでした」
「でも、見てたのに」
「話してくれました」栞の母は言った。「十八年かかっても、話してくれました。栞を見つけてくれました」
真琴は首を振った。「私じゃありません。警察が、みんなが」
「でも、鈴を見つけたのはあなたです」
栞の母は楠の幹の割れ目を見た。「栞の鈴。あの子が気に入っていたんです。歩くたびに鳴るから、どこにいるかすぐ分かるって」
真琴は赤い鈴を思い出した。もう鳴らない鈴。十八年間、この木の中で眠っていた鈴。
「やっと、あの子の音が戻ってきました」
栞の母はそう言って、白い花を楠の根元に置いた。真琴も隣に花を置いた。二つの白い花束が並ぶ。
風が吹いた。楠の葉が揺れる。真琴の耳に、かすかに鈴の音が聞こえた気がした。もちろん、本当には鳴っていない。それでも真琴は、そう聞こえた。
「栞ちゃんは、図書室が好きだったんですね」真琴は言った。
「ええ」栞の母は少し笑った。「読むのは遅かったけれど、本を選ぶのが好きでした」
「文集に書いてありました。私と図書室に行くのが好きって」
「そうですか」栞の母は涙を拭いた。「あの子は、あなたのことをよく話していました。まこちゃんは静かだけど、優しいって」
真琴は声を出して泣いた。忘れていた。けれど、栞は覚えていてくれた。母に話してくれていた。まこちゃんは優しい。その言葉が、十八年後の真琴に届いた。
公園を出ると、父と母と兄が待っていた。母は泣いていた。父は深く頭を下げた。栞の母も、それに応じた。言葉は多くなかった。必要な言葉など、すぐには見つからない。けれど、二つの家族は初めて、同じ場所に立った。生きて戻った家。戻らなかった家。その溝は消えない。でも、向き合うことはできた。
事件の全容は、少しずつ明らかになっていった。久我修一と間部木徹は、子ども支援団体に関わるふりをして、地域の子どもに接近していた。廃品回収業の車を使い、荷物に紛れさせて子どもを運ぶ。背後には、違法な斡旋を行う人間たちがいた。栞は、その被害者の一人だった。最初の被害者ではなかった。そして、おそらく最後でもなかった。
警察は複数の失踪事件との関連を調べ始めた。古い帳簿、施設跡の遺留品、関係者の供述。十八年の時間は、多くの証拠を失わせていた。だが、完全には消せなかった。真琴の記憶も、その一つだった。
公判が始まるまでには、まだ時間がかかるという。それでも、栞の事件は「未解決」ではなくなった。栞は、行方不明の少女ではなくなった。小川栞という名で、家族のもとへ帰った。
その夜、真琴は実家で夕食を食べた。父と母と兄と、四人で食卓を囲むのは久しぶりだった。会話は少なかった。でも、沈黙は以前とは違っていた。隠すための沈黙ではない。言葉を探すための沈黙だった。
食事の後、父が言った。
「真琴」
「何」
「本当に、すまなかった」
真琴は箸を置いた。父は頭を下げた。「お前を守るつもりで、ずっと閉じ込めていた。お前の人生を止めた」
母も隣で泣いていた。「私も、ごめんなさい」
真琴はすぐには答えなかった。許します。そう言えれば綺麗だった。けれど、そこまで簡単ではない。七年は戻らない。失った時間も、自分を責め続けた日々も、なかったことにはならない。
「まだ、怒ってる」真琴は正直に言った。
「うん」母が頷いた。
「たぶん、すぐには許せない」
「それでいい」父が言った。
「でも」真琴はゆっくり続けた。「私を嫌いで追い出したんじゃないってことは、分かった」
父の顔が歪んだ。
「もっと別の方法があったかもしれない」
「うん」
「私は、間違えた」
「うん」
「それでも、お前に生きていてほしかった」
真琴は視線を落とした。父の不器用な愛情。母の過剰な保護。兄の距離を置いた心配。すべてが正しかったわけではない。むしろ、多くを間違えた。でも、その根にあったものが、憎しみではなかったことだけは分かった。
「私も」真琴は小さく言った。「生きててよかった」
母が声を殺して泣いた。兄が天井を見上げた。父は目を閉じた。
その日、真琴は実家に泊まらなかった。母は少し寂しそうだったが、引き止めなかった。父も「送ろうか」とだけ聞いた。真琴は首を振った。
「歩いて帰る」
兄が心配そうにしたが、真琴は笑った。「大丈夫。今日は大丈夫」
夜の道を、真琴は一人で歩いた。街灯。車の音。コンビニの明かり。以前なら怖かったものが、今も少し怖い。でも、すべてから逃げるほどではない。
アパートに着くと、鍵を開け、電気をつけた。六畳の部屋。段ボールはもうほとんど片づいている。本棚には、図書館で借りた本と、買った本が並び始めていた。テーブルの上にはノートがある。
真琴は最後のページを開いた。
小川栞。その名前を、丁寧に書いた。その下に、こう続けた。
白いワンピース。赤い鈴。図書室。友達。
事件の名前ではなく、少女の記憶として。
真琴はペンを置いた。窓の外では、夜風がカーテンを揺らしている。もうすぐ、夏が来る。十八年前に止まった夏ではない。新しい夏が。
真琴は部屋の電気を消した。暗闇はまだ怖い。けれど、眠れないほどではなかった。布団に入り、目を閉じる。
遠くで、鈴の音がした気がした。
今度は、怖くなかった。それは別れの音ではなく、ようやく帰ってきた音だった。




