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ただいま

三か月後、真琴は書店で働いていた。


 若葉書房の、午後の短い時間だけだった。最初は棚の整理だけ。次に、伝票の確認。それから、レジの横に立つ練習。客に声をかけられると、今でも少し緊張する。電話が鳴ると、胸が跳ねる。白い車を見ると、呼吸が浅くなる日もある。


 それでも真琴は、毎週決まった時間に家を出る。鍵をかけ、階段を下り、商店街へ向かう。外の世界は、もう檻の外ではなかった。怖い場所ではある。けれど、歩ける場所だった。


 店主になった千尋は、真琴に無理をさせなかった。「今日はここまででいいよ」そう言ってくれる。それが、真琴にはありがたかった。守られている。けれど、閉じ込められてはいない。その違いを、真琴は少しずつ覚えていた。


 久我修一と間部木徹の裁判は、まだ始まっていない。警察は今も、過去の事件を調べている。栞以外にも、名前を取り戻さなければならない子どもたちがいる。真琴は何度か追加の事情聴取を受けた。怖かった。それでも、話した。もう、沈黙だけで守られるつもりはなかった。


 七月の終わり。真琴は若葉公園へ行った。楠の幹の割れ目には、まだ花があった。栞の母が置いたものだろう。真琴はその隣に、小さな文庫本を置いた。図書室で、栞が好きそうだった本。


「またね」


 そう言って、真琴は頭を下げた。風が吹いた。葉が揺れた。鈴の音はしなかった。もう、鳴らなくてもよかった。栞は帰ってきたのだから。


 その日の夕方、真琴は実家の前に立った。二階の窓を見上げる。かつて自分が七年間閉じこもっていた部屋。カーテンは開いていた。中にはもう、真琴の荷物はほとんどない。母が少しずつ片づけ、今は小さな読書部屋になっている。


 寂しいと思うかもしれない。そう覚悟していた。けれど、不思議と寂しくなかった。あそこは、逃げ込む場所だった。眠る場所であり、隠れる場所であり、時間を止める場所だった。でも、もう真琴の部屋ではない。


 真琴の部屋は、あの古いアパートにある。本棚と、小さな机と、自分で選んだカーテンのある部屋。


 真琴は玄関の前に立ち、チャイムを押そうとして、やめた。バッグの中から鍵を出す。まだ持っている鍵。父は返せとは言わなかった。


 真琴は鍵を差し込み、ゆっくり回した。


 玄関を開けると、味噌汁の匂いがした。母の声が奥から聞こえる。「真琴?」父の足音。兄の笑い声。リビングの明かり。


 真琴は靴を脱ぎ、家の中へ一歩入った。ここは、もう閉じこもる場所ではない。けれど、帰ってきてもいい場所だった。


 真琴は顔を上げた。そして、静かに言った。


「ただいま」


 母が泣きそうに笑った。父は短く頷いた。兄が「遅い」と言った。


 真琴は少しだけ笑った。


 夏の終わりの光が、玄関に差し込んでいた。十八年前に止まった時間は、もう動き出している。そして真琴もまた、家の外へ続く道を、自分の足で歩き始めていた。

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