第Ex話:処刑人ソーリウス・メルジュエルの子育て日記その②『愛の効率』
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アリアンナがまだ、文字を一つずつ指で追っていた頃のことだ。
その日、私は軍部から持ち帰った書類に目を通していた。
処刑人といっても罪人の首だけを落として終わりではない。
あらかじめ執行の日取りが決まっている案件ならばそれに合わせるだけだ。だが、有力貴族相手や、よほど慎重に取り扱わなければならないような注目の事件でもなければ、いちいちそのような『丁寧な対応』はしない。
逃げ出した罪人を捕縛し、現場で罪状を法規に照らし合わせ、事前手続きを省略した『執行』を執り行うことが大半だ。
そうして、後追いで書類仕事が回ってくる。
執行日の確認。処刑執行の承認書。罪状の照合……。
際限なく積み上がり、どれも後回しにはできないが、内容自体は目新しくもない。いつも通りの仕事だ。
執務室の扉が、控えめに叩かれた。
「入りなさい」
「失礼いたします、父上」
扉の隙間から、白い頭が覗く。
アリアンナは一冊の大きな絵本を胸に抱え、私の顔色を窺うように立っていた。
「どうした」
「あの……今、お忙しいでしょうか」
「仕事中ではある」
「そう、ですか……」
目に見えて肩が落ちる。
「だが、急ぎの用件ではない。こちらへ来なさい」
「はいっ」
先ほどまでの沈んだ顔が嘘のように明るくなった。
駆け出しかけ、すぐに淑女らしく歩き直す。乳母や教育係から、屋内を走らぬよう厳しく言われているのだろう。
私の机の前まで来ると、アリアンナは両手で絵本を差し出した。
「こちらを、読んでいただきたいのです」
「絵本を?」
「はい。『ロアンの冒険』というお話です」
表紙には、剣を掲げた少年と、空を飛ぶ小さな竜が描かれていた。
随分と色鮮やかだ。題字にも金箔が使われている。
パラパラと頁をめくって、内容を改める。
(……幼児向けであっても、書かれていることが全て正しいとは限らない。誤った歴史認識や、不適切な道徳観が含まれている可能性もある……)
「ただの絵本でございますよ、ソーリウス様」
いつの間にか二人分の茶を運んできていたエイカンが、呆れたように口を挟む。
「だからこそだ。幼少期に触れた誤りは、後の人格形成に影響する」
「帝都で広く親しまれている児童書です。少なくとも、反逆思想を植えつける内容ではございません」
「そうか。ならば問題ない」
私は椅子を少し引き、アリアンナを隣へ座らせた。
小さな身体が、遠慮がちに私の腕へ触れる。
「最初からでよいのか」
「はい!」
頁を開く。
物語は、辺境の小村に暮らす少年ロアンが、病に倒れた母を救う薬を求め、遠い竜の住む島を目指すところから始まった。
『ロアンは、村に伝わる古い剣を腰に差し、たった一人で旅立ちました』
「……待ちなさい」
「はい?」
「なぜ一人で行く。それに竜の住む島といえば、おそらくは〈ロア・パレス〉だろう? アイラン皇国が船で渡り、誤ってロア・ストーカーを連れ帰ってしまった教訓を……」
「そういうお話ですから……」
いつの間にか後ろから覗き込んでいたエイカンが私の考察を遮る。
「道案内も護衛もいない。地図すら持っていないではないか。薬の入手が目的であるなら、村長はまず領主へ救援を求めるべきだ」
「でも、ロアンは急いでいたのです」
「急ぐことと、準備を怠ることは別だ。途中で死ねば薬は届かん」
「……父上は、ロアンがお嫌いですか?」
「嫌いとは言っていない。行動に問題があると言っている」
アリアンナは少し考え込み、それから頁の続きを指した。
「では、ロアンがどうするか、もう少し見ていてください」
「……うむ」
森で魔物に襲われれば、私は警戒が甘いと指摘した。
川を筏で渡れば、縄の結びが不十分だと言った。
宿屋で有り金の半分を使えば、帰路の資金を考えていないと説いた。
アリアンナはそのたびにロアンを庇った。
「でも、村の子供にパンを分けてあげました」
「自分の食料を失っている」
「その子が、近道を教えてくれました」
「結果論だ」
「父上。ロアンは、ちゃんと先へ進めています」
「今のところは、だ」
気づけば、書類を読む時よりも長い時間を、一冊の絵本へ費やしていた。
ロアンは道中で小さな竜を助け、その竜の背に乗せてもらって海を越えた。
竜の島では、薬草を守る老いた竜から問いを出され、知恵で答えへ辿り着く。
帰路では、これまで助けた者たちが次々と現れ、傷ついたロアンを村まで送り届けた。
「……なるほど」
「いかがでしたか?」
「無謀ではある。だが、自らの行いが後の助けへ繋がっている点は評価できる」
「では、ロアンは立派ですか?」
「改善の余地はあるな」
「もうっ、父上は厳しすぎます」
アリアンナが頬を膨らませた。
その顔が可笑しくて、私はわずかに口元を緩めた。
すると、アリアンナもつられるように笑った。
「……もう一度、読んでいただけますか?」
アリアンナが目をこすりながら言う。
「同じものをか……?」
「はい。今度は、途中で止めずに」
「それでは誤りを見過ごすことになる」
「……最後にまとめて教えてください」
「……よかろう。ただし、今日はもう遅い。明日にしよう」
「はい」
アリアンナは嬉しそうに頷き、絵本を抱きしめた。
「では、明日」
「ああ」
私がそう告げると、アリアンナはもう一度、確かめるように小さく頷いた。
──
─
その日の深夜。
屋敷の門を叩いたのは、軍部からの急使だった。
北西へ向かう街道沿いで、移送中の罪人が護送兵を殺害して逃亡。
既に二つの村を抜け、山間部へ入った可能性が高いという。
追跡命令。
対象者の人相、罪状、所持品。最後に確認された場所と、逃走方向。
急使から渡された書類へ目を通しながら、私は執務室の時計を見た。
アリアンナとの約束には間に合いそうもない。
「エイカン」
「既に馬の支度をさせております」
「それとは別だ。明日、アリアンナとの約束がある」
「『ロアンの冒険』でございますね」
「ああ。二度目を読むと約束した」
「では、早急に捕らえてお戻りくださいませ」
「簡単に言うな。対象が山へ入っていれば、三日はかかる。地形次第では、さらに延びる」
逃亡者は待ってくれない。
一晩捜索を止めれば、それだけ足取りは薄くなる。人里へ紛れ込めば、新たな被害が出る可能性もある。
処刑人として、命令を後回しにはできない。
だが、アリアンナとの約束も違えたくはなかった。
「読み聞かせのできる者を手配しろ」
「……代役を、ですか」
エイカンが眉を顰める。
「私が戻れなかった場合に備える。発声が明瞭で、子供の扱いに慣れた者がよい。明日の夕刻、必ず『ロアンの冒険』を読ませろ」
「ソーリウス様が読んでくださるものと、お嬢様はお考えですが」
「私が帰れず、何日も待たせるよりよい。約束したのは、明日、もう一度読むことだ」
「……左様でございますか」
「続刊も用意しろ。二巻以降も出ているのだろう」
「現在、五巻まで刊行されております」
「全て揃えろ。私の帰還を待たずとも、続きが読めるようにしておけ」
これならば、アリアンナとの約束を違えずに済む。
私がいつ戻るとも知れぬ追跡任務へ出ても、この子が待ちぼうけを食うことはない。
「行ってくる」
「お気をつけて」
外套を羽織り、剣を腰へ差す。
執務室を出る前に、ふと足が止まった。
「……アリアンナは、もう眠っているな」
「はい」
「起こす必要はない。朝になったら、任務へ出たと伝えろ。それから、約束についても」
「承知いたしました」
私はそのまま屋敷を出た。
──
─
逃亡者を捕らえ、屋敷へ戻ったのは四日後だった。
玄関へ入るなり、私は外套をエイカンへ預ける。
「アリアンナは」
「お部屋で勉学に励んでおられます」
「絵本は読ませたのか」
「はい。ご命令どおり、翌日の夕刻に」
「そうか」
約束は守られた。
安堵してから、私は手袋を外した。
「読み手はどうだった」
「帝都で語学教育に携わっていた女性です。声の使い分けも巧みで、語句の説明にも長けております」
「アリアンナの反応は」
「最後まで、一言も喋らず静かに聞いておられました」
(うむ、気に入ったのならば良かった)
「ならば、今後はその者へ任せよう。私の任務に左右されず、決まった時刻に読ませる方がよい」
「専属の読み聞かせ役として雇うということで?」
「ああ。必要な本も、その者に選ばせろ。アリアンナの年齢と教育に相応しいものをな」
「承知いたしました」
私は着替えを済ませた後、アリアンナの部屋へ向かった。
扉を叩くと、すぐに返事がある。
「はい」
「私だ」
「父上……!」
扉が開く。
アリアンナは一瞬、顔を明るくした。
だが、すぐに背筋を正し、淑女らしく一礼する。
「お帰りなさいませ、父上。任務、ご苦労様でございました」
「ああ。留守中、変わりはなかったか」
「はい」
「『ロアンの冒険』は読んでもらったそうだな」
「……はい。とても、お上手な方でした」
「そうか。今後も、彼女へ頼むとよい」
そう告げたとき、わずかにアリアンナの顔が曇った。
長い睫毛が部屋の灯りを遮って影を作る。
「私の帰りを待つ必要はない。続刊も全て揃えてある」
「ありがとうございます、父上」
アリアンナは丁寧に頭を下げた。
約束を違えずに済んだ。
今後、急な任務が入っても、アリアンナが本の続きを待たされることもない。
……これでよい。
そう考え、私は部屋を出た。
その後、アリアンナが絵本を抱えて執務室を訪れることはなかった。
読みたい本があれば教師が読めばよい。
知らないことがあれば家庭教師が教えればよい。
遊び相手が必要なら、年の近い令嬢を屋敷へ招けばよい。
私が不得手なことを無理に行うより、それぞれの分野に秀でた者へ任せた方がよい。
アリアンナに必要なものは、全て不足なく与えられている。
何かを求めて、私の執務を妨げることもない。
幼いながらに父の立場を理解し、自分の時間を有意義に使える。
やはり、聡い子だ。
──
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それからしばらく経った夜。
軍部の会合から戻った私は、廊下の先に小さな灯りが漏れていることに気づいた。
アリアンナの私室だ。
随分と遅い。
明日の予定もある。起きているのなら、休むよう言わなければならない。
扉を叩こうとしたとき、中から小さな声が聞こえた。
「ロアンは、村に伝わる古い剣を腰に差し……たった一人で、旅立ちました」
アリアンナの声だ。
(おお……流石はアリアンナだ。もう一人で読めるようになったのか……)
扉をわずかに開く。
寝台の上で、アリアンナが一人、絵本を読んでいた。
屋敷へ揃えさせた続刊ではない。
最初に私へ持ってきた、一冊目の『ロアンの冒険』だった。
「道案内も、護衛もいない。地図すら持っていないではないか……」
私の言葉を真似ているのだろう。
低い声を作ろうとして、妙に喉を鳴らしている。
「……ふふっ」
自分で言って、自分で笑った。
私は扉をそれ以上は開けず、そのまま静かに離れた。
翌朝、エイカンへ同じ本の新品を用意させた。
何度も開いたせいで、頁の端が傷んでいたからだ。
「新しいものをお渡しすればよろしいでしょうか」
「そうしろ。あの調子では、いずれ頁が外れる」
「承知いたしました」
だが、新しい『ロアンの冒険』は本棚へ収められたまま、一度も開かれなかった。
アリアンナの枕元には、角の擦れた古い一冊が、変わらず置かれていた。
読んでくれてありがとうございます。
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*本イラストは生成AIを使用しています




