第104話:手
赤いワイバーンがのそのそと歩み寄ってくる。
その歩みすら酷く乱れ、時折バランスを崩す。
身体はまだ動かない。
オレは……弱かった。
足りなかった。
だから、喰われる。
そう思った瞬間、胸の奥が不思議なほど静かになった。
(ああ。また、これか)
砂上船の残骸。
月の下。
巨大な顎がいつ降ってきてもおかしくなかった、あの夜。
オレは、あの時、サンドワームに喰われてもいいと諦めていた。
あの日から……今日までの時間をプラレスがくれた。
その時間で、あの場所からここまで歩いてきた。
剣と食い物だけを持って、プラレスを追って走った。
……あの時、捨てた蝶番は、今もまだあの場所に刺さったままだろうか。
それとも、もう砂に埋もれてしまっただろうか。
どちらにせよ、取りに戻ることはできない。
過去の選択は変えられない。
空を見る。日は沈みきったが、まだ明るい。
夕焼けの空に薄明かりの月が朧げに浮かんでいる。
月だ。
手を伸ばす。
だが、届きやしない。
オレの手は力なく萎んでいく。
……パシッ。
「おら、とっとと起きろ、この木偶の坊」
誰かがオレの手を強引に握って引き上げる。
「ったく、勝手に出ていって、派手にやられやがって!」
意識が少し戻ってくる。この声はアリアだ。
「何をそんなに焦っていたのか、何に突き動かされているのか。んなことは、考えたって一ミリもわからなかった。一人でやりてぇんならと、やらしてやった。だけどよ、結局わからず終いだ!」
それはそうだ。お前はプラレスじゃないから。
「お前が何を考えてるかなんて、俺にはこれっぽっちもわかりゃしねぇ!」
プラレスならわかってくれた。
「けどな」
アリアは、こちらを見ずにフレイムワイバーンを睨んだ。
「お前が死にかけてでもアイツに勝ちてぇって思ってることくらいは、見りゃわかる」
「…………」
だが、オレはプラレスのことを……わかっていたのか?
なら、オレはプラレスと『繋がって』はいなかったのか?
「……ガロード、〈バアルスフィア〉だ」
「……!?」
「勝ちてぇんだろ!? なら、ボサッとしてねぇで、早く準備しろ!」
……使うなと言ったくせに。
フレイムワイバーンも、いつまでもは待ってくれないらしい。
アリアは二振りの〈リベレイター〉を引き抜くと、フレイムワイバーン目掛けて駆け出す。
新しい獲物、あるいは煩わしい虫を払うかのように、遮二無二身体を振り回す。
それを躱しながら、時間を稼いでいる。
「……〈バアルスフィア〉」
キュイイイイィィィ……
風が周囲から空気を運んでくる。
それを溢れさせぬよう、均等に、球体へ圧縮していく。
魔法の発動を感じ取ったのであろうフレイムワイバーンはこちらに一瞬、視線を向ける。
阻止するかのように草地を蹴り上げながら、こちらへと突進してくる。
「〈シャドウバインド〉!」
アリアは素早くフレイムワイバーンの影から闇の縄を生み出し足を絡めとる。強度は低いがバランスを崩すには十分だった。
フレイムワイバーンは転倒する。
だが、なおも怯まずに胸を赤熱させる。
「させねぇよ!」
その火が放たれるよりも前に、頭へと回り込んだアリアは、眼窩に突き刺さったままの矢柄を掴み、直接魔力を流し込む。
「〈エンチャント・ダーク〉!」
ズッ……!
黒い〈死〉を帯びた矢がヤツの頭を内部から崩壊させる。
流石のフレイムワイバーンも、これには堪らずアリアを振り払いながらのたうち回る。
「くっ……」
アリアもまた時間を稼ぐのに手一杯。あの魔法を直接叩き込んでもなお、アイツに致命打を与えるには至らない。
……できた。
撃てる。
〈バアルスフィア〉は撃ち込めるレベルまで圧縮が完了した。
あの異常な耐久力をもってしても、コイツを直撃させれば、かなりの深手を与えられるはずだ。
「……〈ダウン……」
「待て! まだ撃つな!」
撃てと言ったり、撃つなと言ったり……!
フレイムワイバーンが頭を振り回しながら、よろめきながら空へと舞い上がる。
まるで弱った蝶のような無様な飛行だ。
いつでも撃てるように、空気玉を移動させて追う。
だが、これ以上、離れれば届かなくなる。
逃げられる。
「よし、こんなもんか」
……わからない。
何を考えているのか。
わからない。
プラレスの最後も、わからなかった。
アリアの考えも、わからない。
言葉があっても。
言葉がなくても。
結局、他人の中身なんて見えない。
それなら、繋がっているとは何なのだろう。
わからないまま、隣に立つことに何の意味があるのだろう。
「ガロード、逃がすなよ?」
それでも、アリアは隣にいた。
オレの作った風を見ていた。
オレの届かない場所《先》を、見ていた。
アリアはフレイムワイバーンではなく、オレの作った空気の揺らめきを目で追っている。
アリアが片手を掲げる。
その指先に、小さな火が灯った。
「〈フレイムビット〉」
火球と呼ぶにはあまりにも小さい。
だが、それはまっすぐに、オレの作った〈バアルスフィア〉へ向かって飛んでいく。
小さな火種が、圧縮された空気に触れた。
その瞬間、音が消えた。
風の唸りも、ワイバーンの羽音も、草の擦れる音も、アリアの息遣いさえも。
すべてが、ほんの一瞬だけ、耳の奥から引き剥がされた。
直後。
空が、内側から裂けた。
圧縮されていた空気が、耐えきれずに膨張する。
逃げ場を失っていた風が、火を喰らい、火が風を喰らい返す。
赤。
翠。
白。
三つの光が、空の一点で噛み合った。
そして、遅れて。
ドッ――――という、低い音が腹の底を叩いた。
いや、音ではない。
衝撃だった。
ズガァァァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!
大気そのものが、巨大な槌で殴りつけられたかのように震えた。
水場の水面が丸ごとめくれ上がる。
雨水が白い飛沫となって空へ吸い上げられ、爆熱に炙られた端から霧へ変わる。
草原が同心円状にひれ伏し、湿った土が剥がれ、焼け焦げた草の匂いが一瞬で鼻腔を埋めた。
フレイムワイバーンの巨体が、炎に呑まれた。
断末魔は聞こえなかった。
もしかしたら上げたのかもしれない。
だが、そんなものは爆轟の中で欠片も意味を持たなかった。
赤黒く脈打っていた胸も、翼も、長い首も。
すべてが、赤と翠の光の中で輪郭を失っていく。
ただの炎でも、ただの風でもなかった。
夕闇の空に、巨大な花が咲いた。
それは一瞬だけ、夜を昼よりも明るく染め上げる。
平原の影が地面に焼きつき、アリアの銀髪が赤く、オレの視界が翠に染まった。
次いで、爆風。
「ぐっ……!」
踏ん張る暇などなかった。
足元の草ごと持っていかれる。
身体が浮く。
背中から地面に叩きつけられ、肺の中の空気がまとめて吐き出された。
耳鳴りが止まらない。
キィン、キィン、と。悲鳴のように頭の奥で鳴り続けている。
遅れて、光の破片が降ってきた。
魔素だ。
爆ぜた命の残滓だけが、火の粉のように、雪のように、ゆっくりと平原へ降ってくる。
「……へっ、へへっ。テメェが俺にいつもやってることだ、ざまぁみやがれ」
アリアは笑おうとしていた。
だが、その顔はわずかに引き攣っている。
自分でやっておきながら、その威力に少し引いていた。
「……何があったかしらねぇけどよ」
夕闇の空に赤と翠が混ざり合った花が溶けていく。
「俺だけじゃ無理でも」
魔素が煌めきながらゆっくりと降ってくる。
「お前だけじゃ無理でも」
その幻想的な風景を背に。
「組み合わせりゃ、とんでもねぇことができちまう」
プラレスが伝えたかった『言葉』が降ってくる。
「……だろ?」
ああ、そうか。
ようやく『繋がった』。
プラレスが最後に残した、声にならなかった言葉。
届かないなら、もっと伸ばせばいい。
ずっと、そう思っていた。
違った。
オレの手だけじゃ、届かないものがある。
なら。
『一人じゃ届かねぇもんは――』
――届く手を、繋げばよかった。
「……あっ」
アリアがなにかに気がつく。
「……おい!! 吹っ飛ばしちまったら、タダ働きじゃねぇか!!」
「…………」
恨みがましく周囲を探すが見つかったのは、戦闘中に剥がれ落ちた欠けた竜鱗数枚だけ。
「はぁあ……クソ……旅費が……」
アリアはドカリと草原へ身を投げ出すようにしてオレの隣へ腰を下ろす。
「…………首、見て悪かったな」
神妙な面持ちで、目も合わせずにそう言った。
「…………」
「それが何なのかは……知ってる」
「…………」
「何があって、どういう経緯か、なんてのは今さら聞かねぇよ。……どうせ答えねぇだろ?」
アリアは諦めたように、ため息をついて天を仰ぐ。
「いいさ、俺だって、ついこの間まではおたずねものだったんだしな」
「…………」
「まっ、似た者同士ってことだな」
オレは、空を見ていた。
届いたわけじゃない。
でも、さっき。
ほんの少しだけ、触れた気がした。
腹の奥が、きゅう、と鳴った。
「…………おなかすいた」
「……ああ、そうだな。……って、はぁ!?」
────
──
……街に戻るとなにやらちょっとした騒動だった。
どうやら、ここまであの閃光と爆音は届いたらしい。
少しバツが悪そうにしながら道の端を歩くアリア。
やってしまったものは仕方ないと開き直って道の真ん中を歩くオレ。
「あっ!! ほら見てくださいましっ! やっぱりアリア様達でしたわっ!!」
「オイッ……静かにしろっ! このアホっ!」
コソコソと隠れながら民衆に紛れようとしていたオレたちを、エステルが見つけて声を張り上げる。
「え、ええ……!? まさか、本当に……あっ、お二人ともお怪我はありませんか!?」
「ハハハ……ずいぶんと派手にやったみたいだね……こっちじゃ、何事かと大騒ぎだったよ」
「あー……ああ、やり過ぎちまった」
この騒動を引き起こした犯人が現れたことで周囲はざわつく。
「おい、貴様らがこの騒動を起こした張本人か!? 一体何をした……?」
出張ってきていた兵士が警戒しながらオレたちに詰め寄る。
こうなるから、使うなって言ったんだろうに……。
「待て!」
なにやら偉そうな男が人を割って出てくる。
「あら、サザロ様ですわ、ごきげんよう!」
「……アリア殿、もしや……?」
「…………言ったはずです。『任務の過程で我々の行く手を阻むのであれば、その時は容赦なく排除いたします』、と……」
アリアは苦虫を噛み潰したような顔で欠けた竜鱗を控えめに掲げる。
「おおっ、おお!! 何ということだ! コラ、衛兵! 弁えないか! この方達は、イドリア帝国からの使者様……いや、この街の救世主であるぞ!」
……?
なんだ? 何が起きている?
騒ぎを起こしたからイドリアへ送還されるんじゃなかったのか?
アリアは、こめかみに青筋を浮かべながら愛想笑いをしている。
エステルは自分の手柄とばかりにふんぞり返っているし、ジーンは堪えきれないとばかりに肩を震わせているし、ニーコに至っては照れたり青ざめたりを繰り返している。
「まさか、その日のうちに解決してくださるとは……! さぁさ、今日はお疲れでしょう……! 報告は明日伺いますので、今夜はしっかりおやすみください!」
「……だそうだよ、救世主様」
「……うるせぇ」
「あら、いいではありませんの! 民のために戦う、素敵な冒険者ですわっ!」
「は、はい、カッコいいです……!」
「…………」
よくわからないが、とにかくこれ以上のお咎めはない……ということらしい。
『どうせ一人じゃ喰いきれねぇよ、月はデケェからな』
『喰えたとしても、一人じゃ腹壊すぜ……なら、分けて喰えばいい。隣にいるやつとな』
プラレスは最初からそう言っていた。
オレは一人で手を伸ばした。
周りを押しのけ、振り払って。
かつて捨てたものは、もう取りには帰れない。
今さら砂漠へ戻って、あの蝶番を拾い直すことはできない。
プラレスは戻らない。
最後の言葉を聞き直すこともできない。
「ん? どうしたガロード?」
立ち止まったオレに、みんなが振り返る。
……それでも、これからの選択は変えていける。
だから、『ごめん』。
だから、『ありがとう』。
「ふーむ……その顔は新たな獲物を見定めたと見たね」
「いいえ! 次なる冒険への期待ですわっ!」
「いや、単に腹が減っただけだろ……」
「あはは……宿の献立を聞きましたけど、今日は……お肉料理でしたよ?」
……伝わらない。
言葉がなくては。
言葉があっても。
きっと全部は伝わらない。
オレとプラレスもそうだった。
全部が全部わかったわけじゃない。
でも、それが『普通』で、『あたりまえ』で。
それでも隣に居てもいい。
だって、それが『繋がり』ってヤツなんだろ?
なぁ、プラレス。
立ち止まっていたオレは再び歩き始める。
コイツらと。
今日の月はまだ、空の上に残っていた。
第十二章:飢えた狼は喰えない月に吠える(完)




