第99話:必要なもの
プラレスが、雑多な人混みを縫って先を進む。
オレは、その大きな背中を追って無言で歩く。
やがてプラレスはある露店の前で足を止め、さっきの金で何かを買っているようだった。
(……すごい)
オレの胸を打ったのは、紛れもない衝撃だった。
奪われなかった、という事実。
だが、今オレの胸に渦巻いているのは、歓喜や安堵といった感情ではなかった。
途中で、足が止まる。
それに気がついたのか、取引をしながらプラレスが振り返る。
プラレスはすごい。
『普通』を自分で掴み取って奪い返した。
それに比べてオレはどうだ?
オレはあの商人に言われるがままに剣を差し出そうとした。
抗うどころか、たった一歩下がることすら放棄したのだ。
(……っ、うっ……)
胸の奥から込み上げてくる熱に呼応して、喉の隙間から声が漏れ出る。
「うっ……くぅ……」
まずい。そう思う間もなく、またこの憎たらしい紋様が起動する。
〈呪印〉はこちらの都合など、汲み取ってはくれない。
ただ機械的に、声を出そうとしたことだけを感知する。
……痛い、痛い、痛い。
刺すような痛みが突き抜ける。
自分の嗚咽が自分の身体を傷めつける。
「おい、ガロード……! 落ち着け……」
プラレスが金を店員に投げ渡して、慌ててこちらに駆け寄る。
全身を駆け巡る激痛を歯を食いしばって堪え、必死に声を喉の奥へ押し殺す。
大丈夫だ。じきに痛みは引く。こんな痛みには、とうの昔に慣れている。
そんなことよりも。
何もできなかった己の無力さ。自分の弱さ。
それが、どんな痛みよりも……一番痛かった。
「…………そうか」
しばらく黙って『聞いて』いたプラレスが、そう一言だけ呟くと、膝をついてオレの肩に手を添えた。
「ガロード。悔しかったら、強くなれ」
頭上から降ってきたのは、同情でも慰めでもなく。
オレの抱え込んだ感情に対する、あまりにもシンプルで明確な解決策だった。
オレは顔を上げ、ゆっくりとプラレスの緑色の瞳を見た。
そして、その奥に映る、ひどく情けない表情をした自分自身の顔と向き合う。
「強けりゃ奪われねぇ、自分の意思も通せる」
強く……?
どうすれば強くなれる?
「まずは飯を食え。食ってデカくなんねぇとな!」
プラレスはニカッと笑うと、先ほど露店で買ったばかりの熱い串焼きを一本、目の前に差し出した。
ポンポンとオレの肩を叩き、そのまま腕を強く引いて立ち上がらせる。
(……強くなりたい)
強く。
奪われないように。
自分の足で立てるように。
オレは、湯気を上げ、じゅうじゅうと肉汁の滴るその串焼きを受け取ると、無言でがぶりと齧り付いた。
荒々しいスパイスの香りと、肉の旨味が口いっぱいに広がる。
……うまい。
それをプラレスは横目で見て、フッと息を吐く。
───
その夜。
パチパチと焚き火を突きながら、寝床の準備を行うプラレスが口を開いた。
「悪かったな」
……なにが?
思いもしなかった謝罪の言葉に疑問符が浮かぶ。
「お前の首の模様、隠しとくべきだった」
……そうか、オレの首に奴隷の烙印があるから。
あんな無防備に晒していたから、あの商人はオレたちを底辺だと見下し、堂々と買い叩こうとしたんだ。
「そうじゃねぇよ」
オレの冷えた思考を読み取って、プラレスは首を振った。
「俺の角と同じさ。面倒ごとは避けるに越したことねぇってことだよ」
そう言って笑う。
「俺には、お前の考えてることがわかる。でも周りはそうじゃねえ。お前が何かを伝えたくても、何かが欲しくても、そいつらにはわかんねえ……。てめぇはまだガキだ。だとしても、そんな都合を世界は考慮してくれやしねぇ」
……だったら、どうすればいい?
どうやって『普通』を守ればいい?
「……そんな、難しい顔をするなよ」
ヘラヘラとプラレスは眉を下げて笑う。
「……いや、難しいか。話せても、心が読めても、根っこの部分まではわかり合えねえ。そういうことは、俺たちには痛いくらいわかってる」
ほんの少しの沈黙。
焚き火の炎が、プラレスの緑色の瞳の中で揺れている。
「うーん……だからよ……だから、面倒ごとは避けるに限る。でも、それだけじゃダメだ。強くならないとな」
プラレスは言葉の詰まりを誤魔化すように、炎の中へ乾いた小枝を一本投げ入れた。
「強くなけりゃ、どんなに正しい言葉も、どんなに切羽詰まった願いも、力を持たねえもんだ。強くなるには? そりゃもちろん、喰うことだよ。食え、食わなきゃデカくなんねえよ。お前みたいにひょろひょろの腕じゃ、すぐに折れちまうからな」
(強く……)
毛皮の寝床に横たわり、オレは自分の細い腕を夜の空にかざした。
(この世界には……月を喰ってる奴がいる)
昨日よりも少しだけ欠けた月を見てそう思う。
多分そいつはこの世界で、一番、強くて。一番、『自由』なんだろう。
「ぷっ……アッハハ! そうだな! そんなにデケェやつなら間違いなく一番強えよなぁ!」
プラレスは堪えきれないように笑う。
昨日までのオレは空を見上げ、あのデカい月を前に、自分の小ささを嘆くだけだった。
でも、今日からは違う。
オレは食って強くなる。食ってデカくなる。
あの月も喰えるくらいに。
「ははっ、そりゃデカい夢だな……世界中の美味いもん全部食っちまうくらいじゃねえとそんなにデカくなれねえだろうな」
プラレスの呆れたような、けれどどこか嬉しそうな笑い声を聞きながら。
オレは静かに目を閉じた。
「月ってのはデケェからな。喰えたとしても、一人じゃ腹壊すぜ」
……なら、どうする?
「分けて喰えばいい。隣にいるやつとな」
プラレスと……。
やがて、風が砂を擦る音の隙間に、オレの静かな寝息が混ざり始めた。
───
──
「……寝たか」
荷を整理し終えたプラレスは、いつの間にか聞こえなくなった『声』に気づく。
「へへっ、大丈夫さ。悔しいって思えるならきっとお前は強くなれるぜ」
ひたすらに強くあれば、誰にも邪魔されない。
ひたすらに強くあれば、誰かの顔色を窺う必要もねぇ。
食って強くなれ。
……でもよ、ガロード。
もし……もしも……。
それでも、お前が困ったとき、助けてほしいとき。
誰かに頼るってのは決して弱いってことじゃねえ。
「そのときに、『言葉』が必要だろ」
短く息を吐き、プラレスは角の付け根をボリボリと掻いた。
「ハァ……金が要るなぁ……」
ガロードのこの〈呪印〉。これ自体はよくある〈誓約魔法〉だ。
『何々をしてはいけない。破れば云々……』
ガロードの場合は、『声を出してはいけない。破れば痛みが返ってくる』ってとこだろう。
普通は『主人に逆らってはいけない』とか『指示には従わなくてはならない』とかだ。
その上で、『静かにしろ』とか『喋るな』と命令すればいい。
喋れなくするってのは……効率が悪い。
ただの虐待目的でしかない。
「趣味の悪い奴らの悪辣な考えってのは……聞いても全く理解できねえもんだが」
かけられている内容はともかくとして……〈誓約魔法〉ってのは、そう珍しいもんじゃない。
〈誓約魔法〉を外すには主人の合意のもとで、書き換えか取り消しをする必要がある。
「問題はその『ご主人様』がサンドワームの腹ん中ってとこだな……」
そうなってくると話は変わってくる。
必要なのはかけられた呪いに対する〈解呪〉だ。
できる奴も、場所も限られてくる。
そして、もちろん金がかかる。
『ゴミ拾い』だけじゃ、一朝一夕に稼げねえような金が。
……出会ったばかりのコイツにここまで良くしてやる義理なんてもんはねぇ。
ただ……なんとなく……そう! シンパシーってやつを感じるんだ。
(それに……)
俺が思考を読めるって聞いて、「怖い」でも「気持ち悪い」でもなく「楽でいい」って考えた奴は……初めてだしな。
自分に向けられる害意も他人に向けられる悪意も。
全部聞こえるってのは、なかなかしんどいもんだ。
だから同じさ。俺もお前となら「楽でいい」。
「稼ぐには……やっぱり、お前にゃ強くなってもらわねぇとなんねぇかもな。ガロード」
プラレスはそう呟くと、焚き火の向こうで眠る小さな背をしばらく眺めていた。
火の爆ぜる音だけが、砂を渡る夜風の中で小さく響く。
やがて燃え残った枝がひとつ、赤くなって崩れた。
砂漠の夜は、何事もなかったように静かに更けていった。




