第98話:0
風を凌げる岩場の影。
プラレスは道中で拾い集めた廃材を手際よく組み上げ、あっという間に小さな火を起こした。
パツパツに膨れ上がった巨大な背負い袋の口を開ける。オレの目にはただ乱雑にガラクタを詰め込んでいるようにしか見えないが、プラレスの頭の中ではどこに何が収まっているか、完全に把握されているらしい。
迷いのない手つきで煤けた小鍋を取り出すと、少量の米と水、それに先ほどオレが砂上船の残骸から拾い上げた干し肉を放り込んだ。
火にかけられた小鍋から、ほどなくして湯気とともに、塩気と脂の匂いが立ち昇り始める。
出来上がったばかりの熱い粥が木の椀に無造作に盛られ、オレの目の前に差し出された。
「そんな大層なもんでもねぇケドな……ま、食え食え。デカくなんねぇぞ細っぱち。肉だ、肉食え」
差し出された椀からは、白い湯気が立っていた。
温かい食事。
これまでオレの口に入るものといえば、石のように硬いパンか、傷んだ果物のクズくらいだった。腹を満たすというより、ただ死を引き延ばすための餌。
それ以外のものを、オレは知らない。
冷えた両手で椀を受け取る。手のひらからじんわりと熱が染み込んでくる。
匙で少しだけ掬い、恐る恐る口に運んだ。
火傷しそうなほどの熱と、干し肉から染み出した塩気が、空っぽだった胃へとゆっくり落ちていく。
「うまいか? ガロード」
焚き火の向こう側で、自分の分の椀を啜りながらプラレスが尋ねてくる。
……うまい?
そんなことは、考えたこともなかった。
食事とはただ、胃の痛みを誤魔化すために、口に入るものを詰め込むだけ。
そこに『うまい』か『まずい』かなどという概念は存在しなかった。
ただ黙り込むオレを見て、プラレスは大げさに肩をすくめた。
「おいおい……食事ってのは人生を豊かにしてくれんだぜ? ただ腹に詰め込むだけじゃつまんねぇだろ。ちゃんと味わって食わねぇとな?」
そう言って、プラレスは自分の椀の中身を美味そうに掻き込み、満足げに息を吐く。
「……うん、うまい!」
砂漠の夜の静寂に響く、底抜けに明るい声。
それにつられるように、オレは再び口の中の食べ物に意識を向ける。
肉の繊維がほどける食感。米の微かな甘み。身体の芯から温まっていくような、確かな熱。
生きるための餌ではなく、生まれて初めて口にする『食事』。
(……たしかに)
声には出せないまま、もう一口、ゆっくりと咀嚼して飲み込む。
(……これは、『うまい』)
オレは黙々と、椀の中身を胃袋へと流し込んでいった。
食事を終えたプラレスは、背負い袋の奥から分厚い獣の毛皮を引っ張り出し、岩場の上に敷いた。底冷えを防ぐためのものらしい。
促されるまま、オレはその上に寝転がった。
仰向けになると、視界のすべてを満天の星と巨大な月が埋め尽くしていた。
昼間の熱気は完全に消え失せ、冷たい砂漠の夜風が肌を撫でる。
静寂の中で、オレの心の中を占めていたのは、安堵でも感謝でもなく、戸惑いだった。
今日、オレは死ぬはずだった。
いや……死ぬのだと、完全に受け入れていた。
砂上船がひっくり返ったあの瞬間から、あるいはずっと前から。
抗う気力も、生き延びる希望も、何一つ持っていなかった。
腹を空かせたサンドワームに喰われるか、寒さに凍えるか。
ただ……それだけの結末を、静かに待っていたはずだった。
なのに、オレは今、生きている。
この奇妙な魔族の男に連れ出され、温かくて『うまい』飯まで腹に入っている。
『死』はあんなにもすんなりと受け入れられたのに、不意に与えられた『生』を受け取るのにはひどく戸惑っている。
自分でも、おかしな話だとは思う。
「……そう言うなよ、拾えるもんは拾っといた方が得だぜ?」
静かに響いた声に、オレは少しだけ目を丸くした。
カチャカチャと荷物を整理しながら、プラレスはこちらに目も向けずにそう言った。
おかしいと言えば、これもそうだ。
なぜ、この男はオレの考えがわかるのか。
オレは一言も発していない。首元の〈呪印〉が、それを許さない。なのに、まるで見透かしたように相槌を打ってくる。
「不思議か? だろうな」
プラレスは鼻で笑った。
「俺はな、相手の考えてることが聞こえるんだよ。……勝手にな」
……考えていることが、聞こえる?
魔族というのは、皆そういうことができるのか?
「……いや、俺以外では聞いたことがねえな」
プラレスはそう言って、「へへっ、才能ってやつだな」と、どこか自嘲気味に笑い声をこぼした。
ふぅん、そういうもんか。
別に、理由なんて何でもよかった。
どのみち、オレが声を出すことはない。
それなら、オレが頭の中で考えたことを、この男が勝手に読み取ってくれるなんて、こんなに楽なことはない。
そんなオレの投げやりな思考を読み取ったのだろう。
プラレスは少しだけ目を見開いたあと、満足げに短く応えた。
「……だろ?」
オレは再び星空へと視線を戻し、毛皮に背中を預けながら、静かに目を閉じた。
───
──
翌朝。
太陽が昇ると同時に、砂漠は急激に熱を取り戻し始めていた。
プラレスは出発の前、分厚い外套のフードを深く被り、目元まで完全に影に沈めた。額の角を隠すためだ。
なぜ人を避けるのか。なぜ姿を隠さなければならないのか。オレにはどうでもよかった。
半日、砂の上を歩き、行き着いたのは、砂漠の境界にへばりつくように作られた雑多な市場だった。
砂埃と、香辛料と、獣の体臭が入り混じったむせ返るような熱気。
ひび割れた大地の上に無数のテントがひしめき、人々が忙しなく行き交っている。
「お前は荷物持ちだ、これを持って俺の後ろをついてきな、はぐれんなよ?」
そう言って押し付けられた重い荷袋と、昨日もらった剣を背負って、オレはただ頷いた。
やがて、裏通りにある薄汚れた露店の前で足が止まった。どうやら廃材や金物の取引を行っているらしい。
「よぉ、旦那。砂漠でいいモン拾ったんだ。色をつけて買い取ってくれよ」
プラレスが軽い調子で、荷袋の中身を買取り板の上に広げる。
商人の男は、「ふぅん……」とガラクタを一瞥し――次に、後ろに立つオレを見た。
ねっとりとした視線が、オレの全身を這う。
そして、首元の〈呪印〉でピタリと止まった。
空気が、変わった。
商人の目が、オレからプラレスへと移動する。
顔を隠したボロボロの旅人。奴隷。出所不明の雑多な品々。
思考が読めなくとも、商人の頭の中で、パチパチと計算の音が鳴るのが聞こえるようだった。
オレに向けられた目は、すでに人を見るものではなくなっていた。
売り物と同じ。ただの『モノ』。
別に新鮮味はない。いつもの目だ。
「こんなガラクタ、どうせ砂漠の死体から引っぺがした盗品だろうが。買い取ってやるだけでもありがたいと思え」
商人は鼻で笑い、数枚のガルド硬貨を板の上に置く。
「おいおい、足元見すぎだろ。こっちのブローチなんか、傷一つ……」
「うるせえ、ゴタゴタ店の前で騒ぐんじゃねぇ! 迷惑客にゃ、痛い目みて貰うぞ」
後ろに腰かけていた屈強な用心棒らしき男がぬっと立ち上がる。
商人は身を乗り出し、問答無用で荷物を強引に引き寄せる。
さらに、その太く脂ぎった指が、オレが抱えていた剣にまで伸びてきた。
「その剣も置いていけ。どうせお前らみたいなコソ泥には使えねえ代物だ」
オレは、動けなかった。
どうすればいいのか、わからなかったのだ。
奪われることには慣れていた。
素直に差し出せば痛い目を見ずに済むのなら、そうした方が賢い。
でも、手が離れなかった。
『バカ、これから覚えんだよ』
使えもしない鉄の棒切れが何故か。
……ただ惜しかった。
なぜ、理不尽に奪われる?
なぜ、ただのモノとして扱われる?
なぜ、従うしかない?
何も知らない。力もない。
しかし、状況を覆すための手段が、オレの手の中には何一つ存在しなかった。
たった一歩、後ずさることすら足が縫い止められて叶わない。
剣から指の力を抜こうとした、その時だった。
「うちのもんに手ぇ出してんじゃねぇよ……!」
落ちてきたのは、地を這うように低く冷たい声。
次の瞬間、横から伸びてきたプラレスの手が、オレの剣を握っていた商人の手首をガシッと掴んだ。
ギリギリ……と力を込め、剣から商人の手を引き剥がす。
太い骨が軋みを上げる嫌な音が響く。手首をそのままへし折る気かと思えるほどの、容赦のない力だ。
「いたた!? くそっ……おいっ! やっちまえ!!」
商人が顔を歪めて悲鳴を上げ、奥から用心棒らしき大柄な男が飛び出してくる。
丸太のような腕が、プラレスを背後から取り押さえようと迫る。
だが、プラレスは振り向きもしなかった。
まるで最初から男がどう動くのか、すべて知っていたかのように。
ひょい、と。
風に揺れる布切れのように最小限の動きで身をかわす。用心棒の腕が空を切った瞬間、プラレスはその腕の関節を正確に捉え、商人ごと二人の腕を纏めて背中側へと捻り上げた。
「ぐっ……!? や、やめてくれ……お、折れる!!」
「いくらだ?」
一切の焦りも力みもない声で、プラレスが尋ねる。
「……300っ、いだたたたっ、くぅ……450だ!」
「600ガルドだろ?」
ピタリと、商人の頭の中にある正確な価値を言い当てる。
痛みに喘いでいた商人の息が、一瞬だけ驚愕に詰まった。
「っ!?……くそっ、わかった、600、600ガルドだ! 妥当だろ!?」
「よし」
パッと腕を離す。
支えを失った二人は無様にバランスを崩し、板張りの床に前のめりに倒れ込んだ。
「て、てめぇ……こんなことしてただで済むと……」
這いつくばったまま、商人が恨みがましい声で脅し文句を言いながら、睨み上げてくる。
プラレスはフードの奥から、ただ一言。
「あん?」
顔は見えない。だが、そこから発せられた明確な圧に、商人は喉を鳴らして体を強張らせた。
「チッ……さっさと金をもって消えろ!」
商人は赤くなった手首をさすりながら、忌々しげに硬貨を板の上に叩きつけ、吐き捨てた。
オレは、両手の中に残った剣の重みを見下ろしていた。
……奪われなかった。
プラレスが提示した600ガルドという額は、あの荷物に対する正規の価値なのだろう。
特別優遇を受けたわけではない。
普通。一般。通常。妥当。公平。ありふれた……ゼロ。
そう、『ゼロ』だ。
常に『マイナス』を背負わされるのが当然だったオレにとって。
自分の持ち分を減らされることなく、ただ『ゼロ』を保ち切ったという事実。
それはあまりにも衝撃だった。




