第97話:居場所のない男
「まさか、サンドワームの食い残しがいるとはなぁ……」
何だ、この男は。
月の光を背負って立つその姿を、砂の上から見上げる。
継ぎ接ぎだらけでボロボロの外套。その背には、自分の背丈ほどもある、パンパンに詰められた大きな背負い袋。
砂漠の夜風に晒されながらも、男の声には場違いなほどの陽気さが混じっていた。
「ん? 俺か……? 俺は魔族だぞ。見たことないか? 魔族。喰っちまうぞ、がおー!!」
……魔族。
初めて見た。
額から生えた二本の逆巻き角。それ以外は、拍子抜けするほど人間と変わらなかった。
ただ、その緑色の瞳だけが、暗闇の中でも妙な熱を持って光っている。
「……反応薄いな? 怖ぇだろ? こんなところにいねぇで、さっさと人里に帰んな。魔族に喰われる前に……よっ」
……喰われるのなら、それでもいい。
どうでもよかった。喰うなら、喰ってくれ。
サンドワームに喰われるのも、魔族に喰われるのも、行き着く先は同じだ。
そうでないなら、もう構わないでくれ。
そう思いながら、再び視線を砂に落とす。
「……んー? 帰る場所がねぇのか?」
帰る場所……そんなものあるはずがない。
「そうか……俺と同じだな」
……。
…………?
おかしい。
なんで、さっきから。
「会話が成立しているか?」
(……っ!?)
思わず顔を上げ、男の顔を見る。
声は、出していない。
出すことなど、許されていないのだから。
「おっ、ようやく反応したな?」
ニカッと笑う男の顔が近づく。
その底抜けに明るい緑色の瞳に、不意に吸い込まれそうになる。
「ふー、やれやれ、そんなに俺と喋るのが嫌かねぇ?」
喋る必要などありはしない。
意味もない。理由もない。
それにどうせ、喋ることは『できない』。
「おーん……おー、なるほど。そういうことか」
男の視線が、少し下がって首元へと下りる。
そこに刻まれた、歪な形をした黒い印。
男はそれを見て、瞬時に何かを察したようだった。
声を封じる〈呪印〉。
喋ろうとすれば、激痛が走る。
身を裂かれるように。
生きたまま皮を剥がされるように。
声を出そうとしただけで、全身の内側を焼かれるような激痛が走る。
呻き声すら許されない。息を呑むだけでも怖い。
痛みに耐えきれず漏れた音にまで、さらに罰が返ってくる。
だから、声を出さない。
出そうと考えることすら、とうの昔にやめた。
だから。
「だから喋れない、か。同じ人間同士で、ひでぇもんだ……」
……同じなものか。
ヤツらは人間で。
オレは奴隷で。
「俺は魔族だ」
……?
「似たもの同士ってことさ」
男はそう言うと、こちらへの興味を失ったかのように、船の残骸から散らばった積み荷を漁り始めた。
「俺も昔、人間様方に酷い目にあわされてな? 逃げ出したのさ。今はこうして姿を隠しつつ、ゴミを漁りながら生きてるってわけ、よっ!」
背負い袋の口を開け、金になりそうなものを手当たり次第に放り込んでいく。
「んー……ま、レッドラインの砂漠のど真ん中、正規航路を外れた危険地帯を縦断しようって時点で、まともな荷じゃねぇからな。貰ったってバチはあたんねぇよ」
その声は、やはりどこまでも軽く、死の匂いがこびりついたこの砂漠には似つかわしくなかった。
月明かりの下、男の影が砂の上で楽しげに踊っている。
生きることに執着などなかったはずなのに、オレの目はなぜかその奇妙な影を追っていた。
気づけば、喰われるのを待つことよりも、
この奇妙な男が次に何を言うのかの方が、少しだけ気になり始めていた。
「俺の名前はプラレス。お前は?」
漁っていた手を止め、男……プラレスがこちらを向いて尋ねる。
首を傾げたまま、オレは声にならない答えを頭の中で返す。
……『おい』とか『お前』。
「……? 名前だよ。どう呼ばれてたんだ?」
……だから、『おい』か『お前』。
通じているはずもないのに、こちらの沈黙の意図を察したのか、プラレスは呆れたように息を吐いた。
「…………名前、ねぇのか?」
……こくり、と。
一度だけ小さく頷く。
「ハッ! よーし、じゃあ俺がつけてやる!」
プラレスはパンッと手を叩き、勝手に嬉しそうに笑った。
「うーん、そうだな……」
……名前?
奴隷に、名前?
意味がわからなかった。番号や「おい」で事足りるものに、わざわざ名前をつける意味がない。
そもそもこの男につけられる謂れがない。
「ポチ……は不味いか。タマって顔でもないしな……猫ってよりは、犬っぽいし……」
ぶつぶつと、楽しげに何かを思案している。
……何なんだ、この男は。
「ウルファス……。いや、ガロード! ガロードだ。どうだ強そうだろ?」
ガロード……。
聞いたこともない響き。
「そう、飢えた狼! 細っぱちのお前にぴったりだろう?」
誇らしげに胸を張るプラレス。
ガロード? オレが?
「よし、ガロード。お前はこっちの荷台を漁れ」
……?
言われた意味が理解できず、動けずにいると、プラレスは呆れたように笑った。
「腹減ってんだろ? 働かなきゃ食えねぇぞ!」
その声に、なぜか抗えなかった。
魔族の魔法か何かだろうか。
よくわからないまま、導かれるまま、乗せられるまま。
オレは立ち上がり、渋々とプラレスが指差した荷台の残骸へと向かった。
砂に塗れた布を払い、散らばった荷物を漁る。
輸送されていた奴隷以外にも運んでいるものはいくらかある。自分たちの食料と水、屑魔石……。
使えそうなもんと言われても何に価値があるのかわからない。
(とりあえず……飯は食える……)
樽から飛び出し転がっていた果物やら干し肉やらを手に取って、麻袋に詰める。
「おっ、こっちの剣は上等だな。使わずに死んじまったみてぇだけどな、ハハッ」
プラレスが、血塗れの死体のそばから一本の剣を拾い上げた。
月光を反射して、鈍く冷たい光を放つ刃。
「これはお前が持っとけ」
放物線を描いて、その剣がこちらへ放り投げられる。
慌てて両手で受け取ったが、その重さに危うく落としそうになった。
……使い方なんて、知らない。
奴隷が武器を持つことなど、許されていなかったのだから。
「バカ、これから覚えんだよ」
不安げな視線を鼻で笑い飛ばし、プラレスは再び荷物の山へ背を向けた。
その背中には、迷いも恐怖もなかった。
ただ、生きるための『次』だけがあった。
両手に残る、ひんやりとした鉄の重み。
ガロード。
オレの、名前。
(……これから、覚える……?)
その意味すらよくわからないまま、オレはただ、その重たい鉄の棒を握りしめていた。
「ふんふんふ〜ん♪」
砂漠の夜風の中、プラレスはひどく場違いな鼻歌を響かせながら、手際よくガラクタを背負い袋へと放り込んでいく。
死体を漁り、鉄くずを拾い、時折金目の物を見つけては嬉しそうに笑う。
この奇妙な〈ゴミ拾い〉の魔族。
それが、プラレスとの出会いだった。
「よし、ガロード! そろそろズラかるぞ!」
「……?」
押し付けられたその名前にまだ馴染めず、ワンテンポ遅れて顔を向ける。
オレの手には、先ほど残骸から拾い上げた、何に使われていたのかすらわからない無骨な鉄の蝶番が握られていた。
「ここらはサンドワームの縄張りだぜ? こんなところで延々とくっちゃべってたら、回遊してる奴が戻ってきちまうだろ? そうなりゃ喰われて終いだ」
……喋っているのは、プラレスだけだ。
声の出ない喉の奥で、ひどく冷めた事実だけを突き返す。
「ははっ、確かにな! あっちに岩場がある。そこまで行けばひとまず安心だ」
オレの沈黙の意図を正確に読み取ったのか、プラレスはカラカラと笑った。
そして、沈み込む砂から器用に足を引き抜き、巨大な月が照らす砂丘の先へと迷いなく歩き出していく。
オレは、自分の手に残った冷たい蝶番をジロリと見つめた。
じっくり見ても、やはり何に使うものなのか見当もつかない。
腹の足しにもならないし、武器にもならない。
未練なくポイッと『蝶番』を砂の上に投げ捨てる。
オレの手を離れたそれは、くるくると回りながら羽ばたき……やがて力を失って砂の山へ突き刺さった。
代わりに、麻袋に入った食料と、先ほど押し付けられた重たい鉄の剣だけをしっかりと抱え直す。
オレはズブズブと砂に足を取られながらも、プラレスの大きな背中を追って歩き出した。
砂に刺さったままの鉄の蝶だけが、黙ってその背を見送った。
*本イラストは作者本人のものです




