第96話:焦燥
生きることは、喰うことだ。
人間も、魔族も、魔物だってそうだ。
誰もが何かを喰って生きている。
何かの命を奪い、何かの先を貪り、糧として取り込み、自分の力へと変えていく。
生きるには、喰らわなくてはならない。
喰らわなければ強くなれない。
強くなくては喰えない。
弱肉強食こそが、まごうことなきこの世の真理だ。
真に強ければ、他者に煩わされず己の道を進める。
真に強ければ、他者の都合にも関係にも呑まれず、己の我を通せる。
だから喰う。
喰って、喰って、喰らい続ける。
骨も、肉も、力も、血も。
そうして大きくなる。強くなる。強くあり続ける。
それだけが、生きるために必要なことのはずだった。
なのに――
『おい、てめぇ、ちっとは協力しやがれ!』
苛立ったような、怒鳴るような声。
『みんなで食べると、きっと美味しいですわね!』
何ひとつ疑わず笑う、眩しい声。
『安心したまえ。君が討ち洩らしても、このボクがいるからね!』
軽薄なくせに、妙に自信に満ちた声。
『お、美味しいですか? よかったです……よ、よく食べるんですね……』
優しく、こちらへ差し出される声。
オレにはわからなかった。
周りと協力する意味も。
周囲に同調し、歩幅を合わせて進む意味も。
自分より弱い者に獲物を分け与え、自分の取り分を減らす意味も。
強ければ、自分一人で勝てばいい。
強ければ、自分一人で喰えばいい。
強ければ、誰かに合わせる必要なんてない。
そんなものの意味が、わからなかった。
最初は。
……今も。
たぶん根っこのところでは、全部はわからない。
それでも。
ほんの少しだけ、その意味がわかりはじめていた。
オレは強い。
そう思っていた。
『おい、〈沈黙〉! 合わせろ!』
一人では倒しきれない強敵が居た。
〈鐵喰い〉、グリフォン、リッチ。
オレの刃が今一歩、届かない。
オレは強い。
そう思っていた。
『〈ヴァーミリオン・ノヴァ〉!!』
イシュカが放った、あのデタラメな魔法。
オレの全力を、軽々と踏み越えていった威力。
オレは強い。
そう思っていた。
『所詮は魔族と人間、絶対に分かり合えねぇんだよ!』
違うと否定するだけの力を、オレは持っていなかった。
『わりぃ……エステル。それから皆も……おう、連れてけ。……煮るなり焼くなり好きにしろ』
鉱山を出た後のことだ。
兵に囲まれ、連れていかれようとするアリアの姿に、遠い昔の光景が重なった。
そして、すべてが終わったあと。
自分の無力さに打ちひしがれていたアリアを見て、気づけば串焼きを差し出していた。
『食べて元気を出せ』
どう慰めればいいのかなんて、知らない。
ただ――昔、自分がそうされたようにしただけだった。
悔しいなら、喰えばいい。
喰って、強くなればいい。
それが、オレの知っているやり方だった。
同時に……以前のオレなら、絶対にしなかったことだった。
獲物を分けること。
背中を預けること。
自分が取りこぼしたものを、誰かが拾うこと。
一人で喰らうだけでは得られない何かが、そこにあること。
その意味が少しわかりはじめると同時に――
オレは……自分がどんどん弱くなっていくのを感じた。
ワイバーンを取り逃がした。
勝てたはずの相手だった。
もっと早く〈バアルスフィア〉を練り上げ、飛び立つ前に〈ダウンバースト〉を叩き込めばよかった。
……いや、間に合っていた。
あのまま吹き飛ばしていれば、仕留められたはずだった。
仲間を巻き込む?
タイミングを合わせる?
連携?
そんなものは、強くない者が縋る手段だ。
負ければ死ぬ。
喰われる。
奪われる。
だから勝たなくてはならない。
オレが強ければ勝てた。
あの時も。
オレがもっと強ければ、みんなを守れた。
あの時も。
誰も危険に晒さずに済んだ。
止められることもなかった。
逃がすこともなかった。
繋がりを得るためにも、強くならなくてはならない。
繋がりを守るためにも、強くならなくてはならない。
だから喰う。
喰って、強くなる。
強くなって、喰らう。
そうしなければならない。
そうでなければ――
そこまで考えたところで、奥歯を強く噛みしめた。
己の牙は、もっと尖っていたはずだ。
己の爪は、もっと鋭かったはずだ。
動きはもっと研ぎ澄まされ、
飢えはもっと純粋だったはずだ。
……もっと単純で、もっと簡単な生き方だったはずだ。
街を抜ける風は冷たくもない。
夕暮れ前のガルドアの空気は、イドリアよりずっと柔らかい。
それなのに、胸の内側だけが焼けた鉄みたいに熱を持っていた。
足りない。
まだ足りない。
腹は満ちているはずなのに、渇きだけが消えない。
もっと喰らわなければ。
もっと強くならなければ。
でなければ、また取り逃がす。
また届かない。
また守れない。
(なぜ飢える? 何が足りない?)
前だけを見て歩く。
街外れへ向かう足は止まらない。
(教えてくれ、プラレス……)
機能を失ってもなお、首元に残り続ける呪いの跡に、その痛みを思い出すかのように爪を立てる。
誰も、何も言わない。
言う必要もない。
ただ、胸の奥で煮え立つ焦燥だけが、獣のように吼え続けていた。
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満天の星。
見渡す限りの赤い砂の海を、底冷えのする風が吹き抜けていく。
昼のあいだに蓄えられた熱が、足元の砂からまだかすかに立ちのぼっていた。だが、カラカラに乾いた夜気は、その残り火さえさらうように、容赦なく肌から熱を奪っていく。
痩せ細った黒髪の少年は、ひんやりと冷えゆく砂の上に座り込んでいた。
背を預けているのは、つい先ほどまで自分を運んでいた砂上船――その残骸だ。
奴隷を移送するはずだった船は、もはや元の形を保っていない。
始まりは、ほんの些細な音だった。
その振動に引き寄せられたのは、砂の底を泳ぐ巨大な蟲。
船底を突き上げられ、あっという間に船はひっくり返った。
最初に喰われたのは、誰よりも甲高い悲鳴を上げた奴隷商人だった。
次いで、我先にと逃げ出そうとした奴隷たち。
恐慌に陥り、無意味に剣を振り回した船員たち。
砂が跳ね、血の匂いが混じり、鈍い咀嚼音が響く。
ひとつ、またひとつと、夜の砂漠から音が消えていった。
少年は逃げなかった。
逃げる気も起きなかった。
自由意志などというものは、とっくに取り上げられていた。
声を出す『権利』すら、持ち合わせてはいない。
ただ残骸のそばに座り込み、自分の番が来るのをじっと待っていた。
助けを呼ぶ、などという発想そのものが浮かばない。
ただ与えられるものを受け取るだけだった。
それが、もしも家畜の餌なら、黙ってそれを受け取る。
それが、もしも言われなき暴力なら、黙ってそれを受け取る。
それが、もしも死だというのなら、黙ってそれを受け取る。
短い生で覚えたことは、それだけだった。
『助けを乞うて助かった者はいない』。
言葉に力などない。
目の前の砂丘を波縫いするように、巨大な蟲の背がうねりながら通り過ぎていく。
いつ頭上から、あるいは地中から、巨大な顎が降ってきてもおかしくなかった。
――だが、その時は結局回ってこなかった。
皮肉にも……声ひとつ上げなかったことで、奴らに気付かれることはなかった。
この中で最も生を諦め、最も死を受け入れた自分だけが生き残った。
どれくらい経っただろうか。
喰う者も、喰われる者も消え去った。
誰も何も喋らない。
砂に散った血がじわりと吸われていく。
ひっくり返った船体の軋みすら、もう止んでいる。
さっきまで耳を埋めていた悲鳴が嘘みたいに消え、残ったのは風が砂を撫でる音だけだった。
自分もまた、その残骸のひとつみたいに動かなかった。
(静かだな……)
怒号も悲鳴もない。
鞭打つ音も、苦痛に呻く声も聞こえない。
風が砂を擦る音しか聞こえない静寂のなかで、座ったまま何時間が過ぎたのかわからない。
ふと見上げた空には、不気味なほど巨大な月が浮かんでいた。
(何故、あんなにも大きいのだろう)
天を圧するような丸い光の底で、己という存在のなんと矮小なことか。
喰われる価値すらなく、死にさえ見逃されたちっぽけな命。
広大な砂の上でただ一人。
声を上げることなく。
このまま終わりが来るのを、〈沈黙〉だけが迎え入れていた。
その終わりのない沈黙を破ったのは、一人の男の声だった。
「こりゃ、ずいぶん派手にやられたな……さてさて、なにか使えそうなもんは……っと、おん?」
砂を踏みしめる重い足音。
月光を遮り、男の影が少年の前に落ちる。
「おー……おー……酷いことしやがるぜ……」
男の声からは、何も感じなかった。
怒りも、嘲りも、怯えも、焦りもない。
ただ、転がった死の痕跡を眺めるような、どこか間の抜けた響きだけが砂漠の夜に落ちていた。




