第Ex話:処刑人ソーリウス・メルジュエルの子育て日記 その①『一にして全、全にして一』
『Con amore, ma non troppo espressivo』
命を奪うこと――。
それがメルジュエル家の、そして私の、呼吸をするのと同じほどに当たり前の『日常』だった。
鼻腔にこびりつく鉄錆の臭いと、断頭台が軋む不吉な音。
そんな私の掌に、羽毛よりも軽い『命』が舞い降りたのは、神の悪戯か、あるいは皮肉以外の何物でもなかった。
(……この手は、血を拭うためのものではなかったか)
だが、天は無慈悲だ。あるいは、これまで奪い続けてきた『重み』の清算を求めたのか。
一つを得る代わりに、一つを失うのが世の常か。
私は人生の半分――いや、その全てであった妻、アルモニアを失った。
産屋に満ちる、産声と、死の気配。
事切れる寸前、アルモニアは青白い顔で、しかし聖母のような微笑みを浮かべて私を見た。
「……ソーリウス。この子を……頼むわね……」
「ああ、約束しよう。厳しく躾け、どこに出しても恥ずかしくないように……立派な淑女に育ててみせる。メルジュエルの名に懸けて」
私の言葉に、彼女は可笑しそうに喉を鳴らした。
「ふふ……無理ね。あなた、絶対に子煩悩になるもの……」
「そんなことはない。私は処刑人だぞ。情に流されるような真似は――」
「いいえ。あなたは、誰よりも優しい人だから……」
(……そんなことを言ってくれるのは、世界で君だけだったな、アルモニア)
彼女は震える手で赤子の頬に触れようとして、力なくその手を落とした。
「あのね、ソーリウス。この子の名前……決めたわ」
「何か、いい案が?」
「アリアンナ」
消え入るような声。
だが、その響きには祈りにも似た強さがあった。
「聡く、潔らかで、誰かの道しるべになれるような……。そんな子になって欲しいわ……」
「……ああ。そうだな。アリアンナ……良い名だ」
――それが、彼女との最後の会話となった。
アルモニアを失った私に残されたただ一人の娘は、その日から私にとって一つにして全てとなった。
──
─
「エイカン」
「はい、何でございましょう。ソーリウス様」
私は腕の中で泣き声を上げるアリアンナを前に、かつてない窮地へ追い込まれていた。
罪人が刃を前に命乞いをしようと、魔物の群れが押し寄せようと、私はこのように狼狽したことはない。
だが、アリアンナは泣く。
容赦なく泣く。
この世に生を受けたばかりの小さな肺をいっぱいに使い、私を糾弾するかのように泣き続ける。
「なぜ泣き止まない」
「さて。お腹が空いていらっしゃるのでは?」
「先ほど乳を与えたばかりだと、産屋の者は言っていた」
「では、おむつかもしれません」
「替えた」
「暑いか、寒いか」
「室内の温度に問題はない」
「眠いのでは?」
「ならば眠ればよいだろう」
「それが上手くできないから泣いておられるのでしょう」
「何故だ」
「アリアンナ様にお尋ねくださいませ」
アルモニアを亡くした翌日、私は腕の中で泣き続けるアリアンナを前に、処刑台へ初めて立った時よりも途方に暮れていた。
罪人であれば、判決書を読み上げ、執行の手順に従えばよい。
刃の状態を確かめ、罪状と本人に相違がないことを確認し、苦痛を長引かせぬよう一息に終わらせる。
だが、赤子には手順書がない。
いや、育児書ならば帝都中から取り寄せた。
食事、睡眠、衛生、病気、成長の目安。
必要と思われるものには一通り目を通したが、どの本にも「泣いている時は、なぜ泣いているのかを見極めること」としか書かれていない。
(その見極め方が分からないから困っているのだ……)
「ソーリウス様、もう少し腕の力を抜かれてはいかがですか」
「力など入れていない」
「お嬢様を罪人のように固定なさっています」
「落とすよりはよい」
「落とさず、締めつけずにお抱きください」
「難題を申すな……」
私が恐る恐る腕を緩めると、アリアンナの泣き声が一段と大きくなった。
「見ろ、悪化したぞ」
「抱き方だけが原因ではなかったようでございますね」
「冷静に分析している場合か。どうにかしろ」
「先ほどから申し上げておりますが、わたくしに乳は出ません」
「私にも出ん」
「存じております」
当然の事実を確認し合ったところで、事態が好転するはずもない。
アリアンナは顔を真っ赤にし、私へ何かを訴えるように泣き続けている。
この子が何を求めているのか、分からない……。
分からないことが、これほど恐ろしいとは思わなかった。
私は処刑人だ。
人の命を終わらせる方法ならば知っている。
だが、命を育てる方法については、書物から得た知識しか持ち合わせていない。
「……乳母を探せ」
しばらく考えた末、私はそう命じた。
「その答えが出るのを待っておりましたよ。既に、候補は何人か探しております」
「……ずいぶん、仕事が早いな」
「ソーリウス様は御自身で全てなさると仰るだろうと思ってはおりましたが、こうなる可能性を考え、先んじて動いておりました」
「私はアルモニアと約束した。アリアンナを立派に育てると」
「乳母を雇われても、その約束が反故になるわけではございません」
「……だが、この子を任せる以上、誰でもよいという話ではない。健康状態、出産と育児の経験、家族関係、借財の有無、酒癖、素行。それから近親者に問題がないかも調べろ」
「乳母を一人雇うために、縁者まで洗うおつもりですか?」
「アリアンナを任せるのだぞ?」
「では、三代前まで調べさせましょう」
「……そこまでは言っていない」
「安心いたしました」
エイカンの声には、わずかに呆れが混じっていた。
私はそれを無視して、泣き疲れたのか少しずつ声を弱めていくアリアンナへ視線を戻す。
私が何もできずに抱いている間にも、この子は空腹になる。眠り、目を覚まし、また泣く。
処刑人としての務めを放り出し、一日中この子の側にいることもできない。
ならば、私が無理に何もかも行うより、然るべき者へ任せた方がよい。
経験のない私が手探りで世話をするよりも、乳の出る者が食事を与え、子を育てた者が身の回りを整える方が、アリアンナのためになる。
考えるまでもないことだった。
エイカンが選び出した乳母――リーリコは、その翌日には屋敷へやってきた。
目星をつけているといいつつ、既に話は通していたらしい。
……相変わらず抜け目のないやつだ。
リーリコは三人の子を育てた経験があるという、物腰の柔らかな女だった。
「この子が、アリアンナだ」
「はい。お話は伺っております」
「泣いている。理由は分かるか」
リーリコは少し困ったように笑い、私の腕からアリアンナを受け取った。
抱き上げる手つきに迷いがない。身体を横向きに預け、背を軽く叩きながら頬へ触れる。
「お腹が空いていらっしゃるようです」
「先ほど与えたが?」
「赤子は一度に多くは飲めません。すぐまた欲しがることもございます」
「そういうものなのか」
「そういうものでございます」
リーリコの胸へ抱かれたアリアンナは、先ほどまでの泣き声が嘘のように静かになった。
小さな口を動かしながら乳を飲み、やがて満足したのか、そのままリーリコの服を細い指で握って目を閉じる。
私はその一連の動きを、言葉もなく眺めていた。
「……見事だ」
「恐れ入ります」
「今後も頼む。必要なものがあれば、エイカンへ申せ。アリアンナのために必要なものであれば、費用は問わん」
「承知いたしました」
私が抱いて泣かせ続けるより、リーリコへ任せた方がアリアンナは穏やかに眠れる。
処刑人としての職務を続けながら、経験のない私が片手間に世話をするよりも、この子だけを見ていられる者を側へ置いた方がよい。
父親である私にしかできないことは、私自身が乳母の真似事をすることではない。
アリアンナに必要なものを不足なく揃え、この子が健やかに育つ環境を守ることだ。
「ソーリウス様」
「何だ」
「お嬢様を抱かれますか?」
乳を飲み終えたアリアンナは、リーリコの腕の中で静かな寝息を立てていた。
「……いや。せっかく眠ったのだ。起こしては可哀想だろう」
「左様でございますか」
私はアリアンナの頬へ触れようと手を伸ばしかけ、途中で止めた。
起こさぬよう、少し離れたところから寝顔を見守る。
この子が安らかであるなら、それでよい。
その時の私は、心からそう思っていた。
──
─
――それから、月日は流れた。
アリアンナは母の遺した名の通り、聡く、潔らかに成長した。
母親譲りの、燃えるような紅い瞳。長く艶やかな睫毛。
私に似てしまった雪のように白い銀髪は、陶磁器のようにすべらかな肌に映え、見ているだけでこちらの心が洗われるような、そんな儚ささえ感じられた。
(……いや、儚いなどと言っている場合ではないな)
事態は一刻を争う。
この機を逃せば、次はいつになるか。
私は、可及的速やかに情報を共有するべく、執務室の呼び鈴を鳴らす。
現れたのは、当家の執事であり、この孤独な処刑人の家に仕え続ける唯一の友、エイカンだ。
「…………エイカンよ」
「はい、何でございましょう。ソーリウス様」
私は窓から、本を読み自学に励むアリアンナを見据え、極力冷徹な、処刑人としての声音を保ちながら問いかけた。
「……うちの娘、可愛すぎないか?」
エイカンは表情一つ変えず、慣れた手つきで手元の手帳をめくった。
「……本日、六度目でございます。ソーリウス様」
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*本イラストは生成AIを使用しています




