第95話:届かぬ背中
重厚な応接室の扉が背後で閉まり、サザロの邸宅の外へ出た途端、ピンと張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
「ふぅ……」
俺が息をついて振り返ると、エステルは目をキラキラと輝かせ、ジーンがニヤニヤと胡散臭く微笑み、ニーコは目を白黒させて俺の顔をマジマジと見つめていた。
「…………」
「……何だよ」
俺が眉をひそめると、ジーンがまるで珍獣でも見つけたかのような顔で、ゆっくりと口角を上げる。
「いや……くくっ……いつもの勝ち気なアリアちゃんもいいけれど、丁寧な言葉遣いもなかなかいいね」
「カッコいいですわ! アリア様がお仕事モードになるの、わたくし初めて見ましたわ! まるで、まるで本物の貴族のご令嬢みたいでしたもの!」
「そもそも本物だったんだよ! 褒めてんのか貶してんのかどっちだよ!!」
「あ、あの……アリアさん、すごく堂々としてて……わ、私、ちょっと見とれちゃいました……」
ニーコまで頬を赤くしてもじもじしている。やめろ、気持ち悪ぃ。
「うるせぇ、しばくぞ」
俺はぶっきらぼうに吐き捨て、居心地の悪さからそっぽを向いて視線を逸らした。
言葉なんてのは、中身をそのまま映す鏡じゃない。
相手にどう見せるか、どう受け取らせるか、そのために選ぶ『道具』だ。
そういう意味じゃ、俺は昔から言葉を選んできた。
処刑人アリアンナとして叩き込まれたのは、貴族の娘らしい隙のない喋り方。
だが、あの言葉のままじゃ……誰とも並べなかった。
テイランと出会って、あいつの喋り方を真似た。
今のこの口調はその名残だ。
どれも俺だ。そして、どれも本心そのものじゃない。
何を言うかだけじゃ足りない。
誰が、どういう立場で、どう言うかで届き方は変わる。
言葉そのものが中身を決めるわけじゃない。
場と関係が、その重みを変える。
(……ま、全く使おうともしないバカもいるけどな)
ふと、あの感情の読めない無愛想な大男の顔が脳裏をよぎる。
「ふふっ、アリアちゃんが照れてる。珍しいものを見たよ」
「照れてねぇよ!」
「おやおや? お上品モードはもう終わりかい? 残念だね」
「……てめぇ、今すぐその目ン玉くり抜いてやろうか」
こめかみに青筋がピキピキと浮くのを感じながら、俺は一切の容赦なく、ジーンの後頭部へ目にも止まらぬチョップを叩き込んだ。
「ぐふっ」
カエルが潰れたような情けない声を上げて蹲るジーンを見下ろし、俺は大きく息を吐いて思考を切り替える。
「……さて。領主からの面会連絡が来るまで、少し時間が空く。手配された宿に荷物を置いたら各々、自由時間にしよう」
俺の言葉に、エステルがポンと手を打つ。
「わたくし、先ほどのお屋根が赤いお菓子の街並みを散策してみたいですわ!」
「あっ、じゃあ私も一緒に行きます! お店で良さそうなガルドアのハーブとか調味料がないか確認しておきたいですし……」
「よし、それじゃお前らは連れ立って適当に観光と買い出しでもしてろ。…………余計な買い物はするなよ?」
前科持ちの二人に釘を刺しておく。
悪徳商人のセールストークにエステルが引っかかって、ニーコが押し負ける。
……その様子はあまりにも想像が出来すぎる。
「心得ていますわ! わたくしの目利きで真実を見抜きますわ!」
「は、はいぃ! わかってますぅ! 今度こそ、断って見せます!」
(不安でしかない……)
禁制品でも掴まされてみろ、せっかく作った使者としての土台が足元から消え去りかねない。
マジで頼むぞ……フリじゃねえからな!?
「はぁ……ジーン、てめぇは……言わなくても勝手に行くか」
「もちろんだとも。ガルドアに咲く美しい花たちが、このボクの愛の詩を待っているからね……イタタ……」
後頭部をさすりながらも、ジーンは懲りずに芝居がかったウィンクを飛ばしてくる。
(勝手にしろ……。ただし、俺の見えないところでなっ!)
全く……こんなのに騙される女が一定数いるってのが信じらんねぇ。世も末だな。
……まあ、そのついでに情報の一つでも拾ってくれば御の字か。
「何かあったら、宿か受付に伝言を残しておけ。日が暮れる前には顔を出せよ。問題は起こすな」
「ええ、わかりましたわ! 行きましょう、ニーコさん!」
「は、はいっ! また後で宿で!」
エステルとニーコがウキウキした様子で歩き出し、ジーンもまた別の方向の酒場通りへと鼻歌交じりに消えていく。
三人の姿が見えなくなるのを見届けてから、俺は軽く首の骨を鳴らした。
ついさっきまで、使者だの何だのと肩肘張っていたせいか、首筋に変な凝りが残っている。
ああいう喋り方は嫌いじゃねぇ。
嫌いじゃねぇが、楽でもない。
舌の置き方一つ、息の抜き方一つまで、昔叩き込まれた通りに揃えると、どうしたって昔の自分を少しだけ引きずり出すことになる。
……それでも、必要なら使う。
場を通すために。
舐められないために。
余計な揉め事を増やさないために。
だからこそ、余計に思う。
あの〈沈黙〉のガロードは、どうしてそこまで頑なに黙り込むのか。
喋れば済むことを、喋らないせいで面倒にしてるだけにも見える。
「……さてと。俺はあの食い意地の張った木偶の坊を回収しに行くか」
踵を返し、街の入り口付近の屋台通りへと向けて歩き出す。
夕方にはまだ早いが、エルピノの通りはすでに晩飯の支度で賑わい始めていた。
露店の鉄板から立ちのぼる煙、香草を刻む音、焼けた油の匂い。人の腹を鳴らすには十分すぎる空気だ。
だというのに、俺の頭にあるのは食欲よりも、あの無愛想な背中のことばかりだった。
ワイバーンを取り逃がしたくらいで、あそこまであからさまに機嫌を悪くするようなタマじゃない。
食い物さえ与えておけば大抵のことはどうでもよさそうな面をしているくせに、今日はその食い気すら妙に切羽詰まって見えた。
まるで、腹を満たすことそのものに意味があるみてぇに。
先ほどまでガロードが張り付いていた肉焼きの屋台に戻ってみたが、あのデカい図体はどこにも見当たらなかった。
(……もう食い終わったのか? まぁ、ガロードのことだ。ハシゴしてることくらいは想定内か)
タレ焼きか何かだろうか、匂いは食欲をそそられるものがあるが、もうもうと上がる煙はいただけない。
近寄るだけで目が染みるほどだ。
(よく平然としてられるもんだぜ……ゲホゲホ)
「なぁ、さっきまとめ買いしてた男がいたろ? 黒髪で、これくらいの背丈の」
俺は煙に燻されながら、肉を焼く店の男に心当たりがないか尋ねる。
「おっ? おお、あの大食らいアンちゃんかい?」
「……ああ、そいつとツレなんだがどっちに行ったかわかるか? コホッ……」
「ああ、何本かその場で齧ってそれからあっちの店に入ってったね。……っと、いらっしゃい! すぐ焼き上がるからちょっと待ちな」
男は来客対応に切り替わる。
「その後は見てねぇけどな」
肉を返しながら男はそう締める。
「そうか……」
ガロードの足跡を追って飯屋を順々に尋ねて回る。
「あ〜! あの子ねぇ。ずっと仏頂面で食べてるもんだから口に合わなかったのかと思ったけれど、結局、三人前も食べてたから、味は気に入ってくれたみたいだね。それとも、よっぽどお腹空いてんだろうかねぇ、ハハ。何も言わずに代金だけおいて出ていったね」
「さぁ、見てないねぇ……。それより何か食べてかないかい? おねぇさんにならサービスするよ! へへっ……あっ、ちょっと!」
「ああ、ついさっきまでそこに座って定食を食べてたよ、金を払ったらそそくさと出ていったけど……待ち合わせだったかい?」
何軒か、目ぼしい飯屋や酒場の窓を覗き込んでみたが、やはり見つからない。
あの食欲の化け物が、飯屋以外に行くなんてことがあるのか。
(宿の場所も伝えてねぇのに、勝手にふらつきやがって……)
苛立ちながら街の大通りを外れ、路地を曲がった先で――ようやく、見覚えのある巨体を見つけた。
「…………」
声をかけようとして、寸前で口を噤む。
様子がおかしい。
いつもなら美味そうな匂いにつられ、糸の切れた凧みてぇにあっちへこっちへとフラフラと歩くはずの足取りが、今は迷いなく一直線に進んでいた。
その先にあるのは飯屋じゃない。
街の『外』へ続く門だ。
一度も脇を見ない。
露店の呼び込みにも、路地から流れてくる酒場の匂いにも、人のざわめきにも、まるで意識を向けていない。
ただ、何かに急き立てられるみてぇに、前だけを見て歩いている。
さっきまで何軒も店を渡り歩いていたのは、腹を満たしたかったからじゃない。
食って、動けるようにして、どこかへ向かうためだった。
どこか思い詰めたような、周囲を寄せ付けない硬い背中。
気のせいか、鬼気迫るものすら感じられた。
俺は伸ばしかけた手をゆっくりと下ろす。
緩んだ指先を折り畳み、キュッと握り込む。
(……アイツ、やっぱり)
壁のように硬い背中を見つめながら、思考を巡らせる。
『ワイバーンを取り逃がしたから拗ねている』
ニーコにはそう嘯いたが俺自身、そんな楽観的な解釈に納得しているわけではない。
……きっと、そんな単純な感情じゃない。
あの異常個体を見た時から……いや、もっと前からだ。
普段、話さないアイツが外に向けるシグナルは少ない。
だからこそ際立って『異常だった』と言えることが最近あったはずだ。
ガロードが口にした言葉がまたしても脳裏に蘇る。
『プラレスはそうじゃなかった』
ただ飯を食らうだけの木偶の坊が、珍しく明確な意思と感情を覗かせたあの瞬間。
珍しいとか、意外とか、そんな簡単な話じゃなくて。
普段、言葉を拒絶しているアイツが、話さなくてはならないほどの異常事態が、もしかしたらアイツの中で起きてたんじゃねぇのか……?
そして今日。
俺の手を叩き落とした時の、あの拒絶の目。
ただの散歩や腹ごなしの運動なんかじゃない。
あいつは明確な『目的』を持って、一人で街を出ようとしている。
胸の奥で、警鐘がガンガンと鳴り響いていた。
何を知らせるための警鐘かはわからなかった。
ただ、うるさくて……煩わしくて、ムカついて、そのまま放ってはおけなかった。
俺は足音を殺し、気配を絶って、少し距離を空けながらその背中を追う。
「チッ……てめーは一体、何をそんなに焦ってんだよっ……!」
誰に届くわけでもない悪態を吐き捨てながら、俺はガロードの後を追ってエルピノの街外れへと足を踏み出した。
第十一章:カケ違えた釦だけ外しても襟元は正せず




