第92話:赤い凶星
関門を抜けた先に広がっていたのは、見渡す限りの平原だった。
雪が、ない。
たったそれだけのことが、これほどまでに世界を変えるのか。
遮るもののない視界が遥か先まで澄み渡り、緩やかな丘陵が幾重にも連なっている。
見慣れた深い緑の針葉樹はどこにもない。代わりに、降り注ぐ陽の光を受け止めようと悠々と枝を広げる広葉樹が、あちこちで風に揺れていた。
「……へぇ」
思わず足が止まった。
この暖かさは〈モノ・ソル〉の人工的な熱じゃない。自然の太陽がもたらす、混じりけのない日差し。
イドリアじゃよっぽど晴れた時くらいにしか感じられねぇ穏やかな陽気が、ここじゃ当たり前のようにそこにある。
深呼吸しても鼻の奥が冷たくならない。
腕を広げても、刺すような冷気が身体の隙間に忍び込んでこない。
(はぁ〜……いいじゃねぇか、ガルドア王国)
「わぁぁぁ! 見てくださいまし見てくださいましっ! 雪がありませんわ! お花が咲いてますわ! あっ、蝶々!!」
エステルが子供のように駆け出し、両手を広げてくるくると回る。
「あはは……なんだか懐かしいなぁ……」
ニーコも故郷の空気を思い出したのか、目を細めて風を受け止めている。
「ふふ、イドリアの厳しい冬を越えた先にこの景色か。ボクの心も春めいてきたね――ガルドア美人との出会いが待ち遠しいよ」
ジーンはジーンで、もうナンパの算段をつけている。お前の春は年中無休だろうが。
ガロードは相変わらず無言だが、普段よりもわずかに歩調が速い。
鼻をひくひくさせているのは……風に乗って運ばれてくる、何かの匂いを嗅ぎ取っているのだろうか。
……犬かお前は。
「おい、まだ飯の時間じゃねぇぞ」
「……」
返事はない。だが、明らかに機嫌がいい。
大食らいにとっちゃ、穀倉地帯は天国みてぇなもんか。
俺も空を見上げる。
雲の切れ間から差し込む日差しが暖かい。
思わず目を細め、手を翳して――。
(ん……?)
空に太陽を背にした黒い点。
鳥……じゃない。
その黒点は、みるみるうちに大きくなっている。
向かってきている。
翼。長い尾。爬虫類じみた体躯。
「……ッ!?」
おいおい、おいおいおいおい!?
――飛竜!?
「ワイバーンだッ! 避けろ!!」
叫ぶよりも先に、身体が動いていた。
一番近くにいたエステルとニーコの襟首を鷲掴みにし、全力で横っ飛びに巻き込む。
三人分の体重が絡まり合いながら、草原を転がった。
刹那――。
ズドォォォォンッ!!
俺たちが立っていた場所に、巨大な質量が叩きつけられた。
地面が抉れ、土と草が爆発的に吹き上がる。衝撃波が遅れて俺たちの身体を叩き、耳が一瞬キーンと鳴った。
着地じゃない。
墜落だ。
「ギィイイイアアアアアアアッ!!!」
もうもうと立ち込める土煙の中から、耳をつんざく咆哮が轟く。
地面を削り取りながら錐揉みに滑走したらしく、数十メートルにわたって草原に深い溝が刻まれていた。
「あいたた……ぺっ、ぺっ……草が口に入りましたわぁ……」
エステルが口の中の草を吐き出しながら起き上がる。
その下では……。
「お、重いでふぅ……」
ニーコが俺とエステルの二人分の下敷きになって潰れていた。
……すまんニーコ。
「なんだってんだよ……ッ!? クソッ!!」
奇襲だというのなら、もっと正確に俺たちを狙ってくるはずだ。
あれはもはや制御を失ったまま俺たちに向かって墜落してきたように見えた。
異常。
そう呼ぶほかなかった。
うっすらと動きを感じる。ヤツのブレスが来る!
直感的にそう判断する。
ワイバーンの種類はざっくり体色で属性を判断できる。それによって対策が異なってくる。
(クソッ……土埃で体色が見えねぇ!)
逆光と土埃でコイツの体色を確認することができなかった。
火か? 冷気か?
土埃の奥で、ヤツの喉元が息づかいに呼応して煌々と光り始める。
赤。
「火炎だッ!」
俺の叫びが終わる前に、ガロードが動いていた。
「……っ!」
横合いから叩きつけるような暴風が、砂埃ごとワイバーンの巨体を殴りつける。
ブレスの照準が大きくぶれ、ワイバーンの巨体は吐きかけた火炎ごと横へ薙ぎ倒された。
――だが、一手遅かった。
(タイミングが! 悪ィんだよッ!)
転倒しながらもワイバーンは火炎を撒き散らす。
制御を失った炎の帯が、扇状に草原を舐め回し、俺たちの方へ迫ってくる。
「ニーコッ!! ブレスが来るぞ!!」
「ふぇええ!? ど、どど、どうすればいいんですかぁ!?」
「何でもいいッ! くそっ、覆え! 早くしろ!」
「あ、は、はいぃぃっ!」
ニーコが〈リアライズ〉を展開する。
形状変化した盾が俺とエステルの頭上を覆う天蓋となり、火炎の直撃を弾いた。
アンカー杭が地面に食い込み、衝撃に耐える。
直撃は防いだ。だが、急激に熱せられた空気が膨張し、盾の隙間から頬を焦がすような熱風が吹き込んでくる。
取り残されたジーンは咄嗟に魔法を構築する――!
「くっ……〈ウォーターベール〉!」
薄い水の膜がジーンの全身を包み込んだ瞬間、横薙ぎの火炎が通過する。
蒸気が爆発的に噴き上がり、視界が白く染まる。
「あちちっ……ずいぶんと情熱的なご挨拶だねっ!」
水の膜が蒸発しきる前に、ジーンは既に〈リユニオン〉を構えていた。
弦が引き絞られ、矢が放たれる。
蒸気の幕を切り裂いて飛翔した一矢は、寸分の狂いなくワイバーンの眼窩を捉え――深々と突き刺さった。
(やったか……!?)
一瞬、ワイバーンの動きが止まる。
眼窩から矢の柄が突き出している。脳まで達しているはずだ。
「グゥオオオオオオオオォォォ!!」
死んでいない!?
それどころか動きに支障すらないというのか。
「なっ……!?」
ジーンも目を見開く。
矢が脳天を貫いているにもかかわらず、ワイバーンは怯むどころか、さらに凶暴さを増して暴れ回る。
その風圧で土煙は完全に晴れ、ワイバーンの全貌が露になった。
赤――いや、赤黒い。
硬いはずの鱗の下で、血管のような筋が脈打っているように見えた。
だが、それもほんの一瞬で鳴りを潜めてしまう。
(な、何だ? 今のは……気色悪りぃなっ……!)
視界の端で再びガロードが動いた。
「――〈バアルスフィ……〉」
キュィイイイイイ――……甲高い風の圧縮音が鳴り始めた瞬間、俺は頭からサッと血の気が落ちる。
考えるよりも先に、弾かれるようにニーコの盾を踏み台にして駆け出していた。
「おいバカッ、やめろ!」
ガロードの横に飛び込み、腕を掴む。
「まだ国境付近だぞ!? こんなところで〈バアルスフィア〉なんてブチかましてみろ、そのままイドリアに蜻蛉返りだ!」
圧縮されかけた空気の塊が、不完全なまま霧散する。
ガロードは無言で俺を睨みつけた。
その間にも、ワイバーンは大きく翼を広げ、一気に叩きつけるようにして風を掴む。
翼の一打ちが生む余波だけで礫が飛んでくる。それを腕で防ぎながら歯を食いしばる。
逃がさないとばかりに、ガロードが俺を押し退け〈エアブロウ〉を放つ。
暴風にワイバーンは煽られ、巨体は僅かによろめく。
だが――その風が、ワイバーンを地に縫い止めることはなかった。
それだけにとどまらず、ジーンが放った第二射の矢を巻き込んで弾き飛ばし、爆ぜる。
「……ガロード君!」
破裂音を背景に、ジーンが珍しく声を荒げる。
必中のタイミングで放たれたはずの追撃の矢が、味方の風魔法で無力化されたのだ。
どうやら〈リレーション〉の機構で、無理やりに矢へ注ぎ込まれた不安定な魔力は、他の魔法に感応するとその付与効果を維持できないらしい。
ワイバーンはよろめきながらも翼を広げ直し、空へと舞い上がっていく。
なおも追いかけようとするガロードの肩を俺は掴んで荒っぽく引き戻し、もう一方の手で胸ぐらを捻り上げるように引っ張った。
「ガロード! テメェいい加減にしろッ! 逃げたならほっときゃいいだろうが!」
掴んだ拍子にガロードのアンダーシャツが伸び、首元がチラリと見える。
俺は目を見開いてハッと息を呑んだ。
――黒い紋様。
首の付け根、鎖骨の中心。
インクのような黒で刻まれた、何かの印。
紋章でも、刺青でもない。
もっと無機質で、機能的な――パシンッ。
ガロードが俺の手を叩き落とす。
「……っ!」
手の痛みに反応するまでの時間で、自分がどれほど思考の海に潜り込んでいたかに気がつく。
ガロードは乱れたシャツの首元を引き上げ、隠すように整えると、ダンッと地を踏み鳴らした。
俺のほうもアイツの秘密に触れてしまったことで、それ以上詰める気が失せてしまった。
「チッ……」
俺は惨状を見渡す。
ニーコとエステルは草原で煤と泥にまみれ、ジーンの左腕は赤く爛れている。
奇襲を受けたとはいえ、あまりにも噛み合わない連携だった。
(はんっ……これが〈金等級〉パーティの姿かよ)
せっかく金等級になったってのに、中身はてんで連携の取れない素人集団だ。
「ジーン様! 大丈夫ですの?」
エステルが駆け寄り、ジーンの腕を覗き込む。
「ああ、もちろんさエステルちゃん! ふふ、イレイル殿下が使っていた魔法を参考にしてみたのだけれどもね。上手くいって良かったよ」
「で、でも火傷が……痛そうですぅ……す、すみません、私がヒールを使えたらよかったんですが……」
ニーコが申し訳なさそうに俯く。
咄嗟に〈ウォーターベール〉で防いでいたとはいえ、フレイムワイバーンのブレスを喰らってあの程度の火傷で済んでいるのは、ジーンの判断が速かったおかげだ。
「ジーン、腕出せ」
俺はエステルのマジックバッグから青いポーションを取り出し、遠慮なくぶっかけた。
「おやおや、両手に花だね。ふふふ、こんなことなら負傷もたまにはしてみるもの……だっだだだだ!?」
「ああ、沁みるぞー」
「先に言っておくれよ!?」
ジーンが情けない声を上げるが、それだけ無駄口を叩けるなら問題ねぇだろ。
遠巻きに、ガロードが腸詰めを挟んだパンをふてくされたように齧っている。
バツが悪いのか、それともただ腹が減っただけなのか。
どちらにしても、こちらを見ようとはしない。
(ふんっ、ワイバーンの肉が食えなくてご立腹ってか?)
「それにしても、あのワイバーンさんは一体なんだったんですの? 私が以前見たものとは随分と違う様子でしたけれど……」
「お前が前に見たのはフロストウイングだろ。あっちはレッサーワイバーンだ。さっきのは原種のワイバーンで……あー、火を吹くトカゲだな」
「……ふ、フレイムワイバーンは特に気性が荒いって聞いたことがありますけど、みんな、あんなに凶暴なんでしょうか……?」
ニーコがキョロキョロとまた来ないかと不安そうに空を見上げる。
「気性が荒い種ではあるが……ありゃ荒いなんてレベルじゃねぇ」
獲物を見つけたからって、自分ごと地面に叩きつけるような突撃をかます飛竜なんて聞いたことがない。
アイツらは巨体に見えるが、飛行するために骨も筋肉も見た目ほどは詰まってない。
獲物を狩るたびにあんな速度で叩きつけられてちゃ、骨は粉々のはずだ。
「ボクの矢は完全に頭を射貫いたと思ったんだけどねぇ……」
ジーンが腕のポーションを拭いながら、納得いかない顔をする。
そう、それが一番の謎だ。
ジーンの矢は確かにワイバーンの眼窩から頭蓋を貫通していた。脳を破壊されて動き回れる生物がいるか?
これはあの速度で地面に自ら突っ込んでもピンピンしてやがったのにも繋がる……。
そして――あの体表。
一瞬だが、確かに見た。硬い鱗の下で、血管のような筋が蠢いていた光景が、脳裏にこびりついて離れない。
まるで体表そのものが生き物であるかのように、うねり、波打ち、蠕動していた。
(見間違いじゃ、ねぇよな……)
「……ガルドアに入国早々、C+ランク魔物の異常個体かよ」
俺はため息を吐く。
エステルとニーコの活き餌コンボは、どうやらガルドアでも健在らしい。
少しくらい感慨に浸らせてもらいたいもんだぜ……。
「……はぁ。『予定通り』エルピノへ向かうか……。先行調査って気分じゃなくなっちまった」
俺は、南へ続く道を見据える。
ガルドアの空は、どこまでも青かった。
だが、その下を歩く俺たちの足取りは――さっきまでの浮かれ気分が嘘のように、重い。
読んでくれてありがとうございます。
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*本イラストは生成AIを使用しています




