第18話:周到なる罠、奈落への陥穽
大田区、ネオ・ロボティクス日本支社。 深夜のオフィス街にそびえ立つその高層ビルは、無機質な硝子と鉄骨の冷たい光を放っていた。
桐生カレンとシオンは、厳重なセキュリティゲートを音もなく突破し、ビルの最奥――地下に隠された秘密の製造プラントへと静かに足を踏み入れた。
しかし、重厚な気密ハッチを開けて二人が目にしたのは、不気味なほどの広大さと、しんと静まり返った沈黙だった。 あるはずの大型ロボット製造アームも、稼働を待つ資材も、全てが跡形もなく綺麗に撤去され、もぬけの殻となっている。
「おかしいわね……。まるで、私たちが来るのを事前に知っていて、すべて片付けたかのようじゃない」
カレンが怪訝そうに呟き、銃を構えたまま一歩前へ出た、その瞬間。
ズドォン! と凄まじい衝撃音がプラント内に響き渡った。 天井のハッチから、高電圧の放電スパークが走る極太の特殊電磁ネットが高速で落下。それは、正確にシオンの巨躯を捉えた。
バチバチバチ! と強烈な電磁パルス(EMP)が走り、シオンの装甲表面を青白い火花が覆う。 重量百キロのシオンのボディが、強力な磁気吸着力を持った電磁ネットによって床へと完全に縫い留められた。超高出力のサーボモーターが悲鳴を上げ、関節の駆動が過負荷エラーを検出する。
「シオン!」
『カレン刑事、退避ヲ! コレハ、罠デス……!』
シオンの顔面中央にある青いセンサーアイが激しく点滅する。 カレンが焦って駆け寄ろうとしたその時。プラントの奥から切羽詰まった悲鳴が響き渡った。
「助けて! 誰か、助けてくれ……! 殺される……!」
カレンの身体が凍りついた。 正義感の強い彼女の耳に、その「民間人」のものと思われる悲鳴はあまりにもリアルに響いた。
『私ハ機能維持可能デス。カレン刑事ハ人命救助ヲ最優先ニ!』
「くっ……! すぐに戻るわ、それまで耐えなさい、シオン!」
カレンは身を翻し、悲鳴が聞こえた暗い通路の先へと走り出した。 扉を勢いよく蹴破り、拳銃を両手でしっかりと構えて薄暗い部屋へと突入する。
そこには、椅子に縄で縛り付けられ、恐怖に目を見開いている一人の人物がいた。 そしてその真横の暗闇に覆面をかぶり、拳銃を持った長身の影が立っていた。
「そこまでよ! 銃を捨てなさい!」
カレンが叫む。 しかし、覆面の男は警告を無視し、カレンに向かって発砲してきた。
パン!
極限の緊迫感の中、カレンの銃声が部屋に響き渡った。 彼女の放った銃弾は、覆面の男の胸を正確に捉えた。男はビクリと身体を震わせ、手にしていた拳銃を取りこぼしながら、その場に崩れ落ちる。
安堵が胸をよぎった、まさにその瞬間。 背後の闇から、バチィッ! と不意に強烈な放電スパークが走り、カレンの背中に電撃スタンショックが直撃した。
「あ……っ、」
悲鳴すら上げられず、カレンの全身の神経が麻痺する。 視界が激しく白濁し、手から愛銃が滑り落ちた。 カレンは感覚の喪失に襲われ、そのまま真っ暗な奈落の底へと、意識を失って崩れ落ちていった。
*
カレンがゆっくりと目を開けたとき、目の前にあったのは覆面をかぶった死体ではなく、銃で胸を撃ち抜かれた清掃員の死体だった。 いるはずの人質の姿はなく、外からはパトカーのサイレンが近づいてきている。 カレンは何が起こっているのか把握できずに茫然と立ち尽くしていると、警官が突入してきてカレンを拘束し手錠をかけた。
「ちょっと、違う……」
しかし誰の目にもカレンが撃ったという状況であったため、警察官はカレンを警視庁へ連行した。
*
殺風景な灰色の壁。冷たいパイプ椅子と、頑丈なスチール製の机。 警視庁本部の、薄暗い取調室だった。
右腕にかけられた冷たい手錠が、机の固定リングへと繋がれ、ガチャリと鈍い金属音を立てる。 正面に座っていたのは、本部の監察官である強面の男だった。 その隣には、厳しい表情を浮かべた本部のベテランデカたちが並んでいる。
「ネオ・ロボティクス社から『深夜に警察官と警備ロボットが不法侵入し、民間人を不法に射殺した』という通報があった。我々が駆けつけたとき、現場には、お前が撃ったと思われる民間人の遺体。そして、銃を持ったお前と、電磁ネットに捕獲されたアーク社のシオンがいた」
監察官は冷淡に言い放ち、机の上のモニターをカレンの方へと向けた。
「これは、ネオ社がビル防衛用に設置していた、現場の監視カメラ映像だ」
再生されたビデオには、薄暗い小部屋が写っていた。 カレンが血相を変えて突入し、銃を構えて引き金を引くシーンが記録されていたが、誰が撃たれたかまでは写っていなかった。
「お前が撃ったのは明らかだ。撃たれた人物は映っていないが、現場には銃で撃たれた死体とお前が銃を撃ったという状況証拠がそろっている」
「ちがうんです。椅子に縛られた人質がいたんです。私が撃ったのは銃を持った覆面の男で、私に発砲してきたので打ち返しました。正当防衛です」
しかし、監察官はため息をつき、静かに首を振った。
「その『縛られていた人物』とやらは、映像のどこにも写っていない。銃を持った覆面の男がお前に向かって発砲してきたと言ったが、鑑識の報告ではお前に向けられた銃弾の痕跡は見つからなかった」
監察官が提示した身分証明書のスライド。 そこには、ネオ・ロボティクス社とは何の関わりもない、ただ深夜のビルメンテナンスを担当していた、平凡な民間人男性の顔写真があった。
「撃たれた人物はビル内の設備清掃員だ。……大和重工とネオ社の違法製造ラインを突き止めるなどと主張しているようだが、現場のプラントは完全にもぬけの殻。お前の不法侵入、および一般民間人の射殺という事実だけが、物証と映像によって裏付けられている」
「そんな……! 縛られていた男はどこに行ったのよ!? あいつが犯人よ! 私は、騙されたのよ……!」
「いい加減にしろ、桐生。お前を気絶させた犯人がいて、その隙に縛られていた人質を連れ去り、代わりに清掃員を撃ち殺して、お前の手に銃を握らせて逃げ去ったとでも言うのか? ……子供の言い訳にもならん。すべての状況、映像、弾道テストの結果は、お前の『独断による過激な不法侵入と、一般人の射殺』を示している」
監察官の冷徹な言葉が、カレンの胸を深く抉った。
あの部屋に突入したとき、確かに覆面の男が自分に向けて発砲し、自分は正当防衛で弾丸を命中させたはずだった。 だが、自分が電撃で意識を失っている間に、すべての状況が書き換えられていた。 カレンに一般人を自分の拳銃で殺害させ、社会的に、および警察組織から完全に葬り去るためだけの、極悪非道な、しかし完璧に計算された罠。
「……警視庁本部としての決定だ。一般市民を不当に射殺した疑い、および越権捜査の嫌疑により、桐生カレン刑事、本日をもって無期限の停職処分とする。バッジと警察手帳、および拳銃をここに置きなさい」
カレンの指先が、絶望で小刻みに震えた。 彼女はゆっくりと、何よりも大切にしてきた警察手帳とバッジを、そして自分の愛銃を机の上へと滑らせた。
「……アーク社のロボット、シオンはどうなったの?」
「シオンはネオ社への『不法侵入の現行犯』だ。ネオ・ロボティクス社側が、敷地防衛のための正当な自衛権の範囲内で捕獲・押収したと主張している。アーク社の機体であり、公式に配備されたものでもないため、警察としてもネオ社に返還を要求する正当な法的根拠がない。……アーク社の天童代表が返還訴訟の手続きに入っているが、引き渡しまでには少なくとも数ヶ月、あるいは数年はかかるだろう」
監察官たちは「頭を冷やすんだな」と吐き捨てるように言い残し、重苦しい鉄の扉を閉めて取調室を出て行った。 カレンの右手首の手錠は外されたものの、そこにはただ、冷たい静寂だけが残されていた。
バディも、武器も、警察官としての誇りも。 何もかもを完璧に奪われ、カレンは完全に、奈落の底へと叩き落とされた。
*
机の上にぽつんと遺された、かつての自分の手帳と愛銃を見つめ、カレンが絶望に顔を伏せた――その時。
カチャリ、と静かに取調室のドアが開いた。 聞き慣れた重々しい足音が響き、カレンはゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、カレンが所属する太田警察署の署長だった。 その顔には、いつもの厳格さの裏に、隠しきれない苦渋と温かい眼差しが宿っている。
「……カレン」
「署長……。私、本当に……人質を助けようとして、あの覆面の男を……。でも、あれは罠で……」
カレンの声が、悔しさと絶望で微かに震える。 署長は静かに歩み寄ると、彼女の強張った肩に、温かく大きな手をそっと置いた。
「分かっている。お前がそんな無軌道な発砲をするデカじゃないことなど、私が一番よく知っている」
「ですが、私は停職処分に……。シオンもネオ社に押収されて、もう何もできません」
「バカを言うな。本来であればお前は民間人を殺した罪で逮捕されるところだったんだぞ。だけどお前を撃ったはずの男もお前が目撃した人質も、映像には一切映っていなかった。検証でも、お前に向けられた弾痕はゼロだ。……だが、お前の主張が事実なら、お前にすべての罪をなすりつけるための、極悪非道な罠を仕組んだに違いない。手帳を奪われたなら、俺の目を使え。本部の監察が騙されているなら、所轄のトップである俺が、独自の捜査権限を使って大和重工とネオ社の裏を洗う」
署長はカレンを真っ直ぐに見つめ、力強く語りかけた。
「アーク社の天童も、シオンの奪還とシオンのシステムの無事を確認するために、すでに水面下でネオ社のセキュリティ網の解析を開始している。……カレン、おとなしく頭を冷やしているフリをしろ。奴らを油断させ、その隙に、我々でお前と、シオンの正義を取り戻すんだ。……十年前、お前の両親の命とファントムを奪い、今回お前を奈落に落とした大元を、今度こそ私の手で引きずり出してやる」
その無骨で、しかしこの上なく力強い言葉に、カレンの凍りついていた瞳の奥に、静かな、しかし決して消えない反撃の炎が灯る。
「……はい、署長」
窓の外では、冷たい秋の雨が、静かに降り続いていた。 だが、カレンの胸の中の氷は、確かに溶け始めていた。




