第八十五話 暗闇に響く名
隠し扉を抜けた先、地下へ続く長い石階段には、光がまるでなかった。
先頭を行くガイアの掌に灯る炎だけが、辛うじて足元を照らしている。
だが、揺れる火影と、湿った腐臭。
その二つは、ケセナの奥底に沈めていた記憶を、容赦なく引きずり上げた。
揺れる炎が、冷たい石壁へ歪な影を映し出していた。
その黒い揺らぎが、白衣を纏い、笑いながら刃物を振るっていた男たちと重なって見えた。
「……っ」
グレンの背に背負われ、石段を一段下りたその刻から、ケセナは激しい吐き気に襲われていた。
首へ回した腕が、制御を失ったようにがたがたと震え出す。
背の異変に気づいたグレンは、数段下りては足を止めた。震えが少し収まるのを待ってから、またわずかに石段を下りた。
あまりにも重く、遅い歩みだった。
「い……あ……」
わずかに進んだところで、ついに背中から、ひび割れた、意味をなさない声が漏れた。
分かっている。
ここを通らなければ、フィサルーアの中の魔人へ辿り着けない。分かっているのに、身体が拒む。
それでもケセナの全身は、この先へ進むことを本能の底から拒んでいた。
「大丈夫だ。俺がいる」
グレンが低く、力強く言う。
けれど返ってきたのは、安心にはほど遠い声だった。
「痛い……怖い、熱い、寒い……削らないで……」
焦点の合わぬ琥珀色の瞳から、大粒の涙が次々とこぼれ落ち、グレンの黒い外套を濡らしていく。
「……くそっ」
そのあまりに生々しい悲鳴に、先頭を歩いていたガイアは、炎を掲げる手に力を込め、奥歯を噛み鳴らした。
(痛い、やめて、助けて、助けて助けて)
グレンの背へしがみつきながら泣きじゃくる『僕』の意識の端へ、不意にまったく別の声が混じった。
『おっと……! 痛たた……。オウセイ、助けてくれ。土が僕を離してくれないんだ』
陽光のように明るい、底抜けに陽気な男の声。
違う。
ここは、ライネルと笑いながら通った、ただの秘密の抜け道だ。
俺とライネルの、遊び場だ。
……なのに、どうしてこんなに血の匂いがする?
(僕は、解体される実験体。……違う、俺は、友と笑って歩くオウセイだ。どっちだ。……俺は、誰だ)
記憶と感情がぐちゃぐちゃに噛み合い、暗闇の底で、ケセナの呼吸が異様に浅く速くなっていく。
グレンの首を絞めるほど腕へ力が入り、指先が白く鬱血した。
これ以上は、連れていけない。
「っ……!!」
限界を悟ったグレンが、石段の途中で強引に足を止めた。
背中のケセナを半ば引き剥がすようにして、そっと段上へ下ろし、その正面に片膝をつく。
力なく俯こうとするケセナへ、グレンの声が鋭く落ちた。
「俺を見ろ! ケセナ!!」
地下の闇を震わせるほどの一喝。
ファルイーア、ではない。
その名で呼べば、兵器として扱われていた頃の記憶へ、地下室の悪夢へ、真っ直ぐ引き戻してしまう。
だからこそグレンは、仲間と笑い、泣き、生きてきたこの場の名前を呼んだ。
いつの間にか、ケセナの指はグレンの黒い外套を強く掴んでいた。
呼び声の確かさと、指先に残る布の感触が、混濁した意識の奥へ叩き込まれる。
「あ……」
ケセナが大きく息を呑み、瞬きをした。
壁に揺れていた男の影が消える。
ライネルの声が遠のく。
焦点の戻った瞳に映ったのは、真剣な顔で自分を見つめるグレンの黒い目と、前で立ち止まるガイアとキョウの背中、そして自分の服を強く握りしめるラルだった。
「息をしろ。お前は一人で暗闇にいるわけじゃない。俺たちがいる」
諭すような声。
だが、ケセナの瞳はまだ揺れている。
「ライネルが……違う、僕は、ここが嫌い……違う、違う……俺は、行かなきゃいけないのに……」
必死に首を振り、自分の頭を抱え込もうとする。
ファルイーア、ケセナ、オウセイ。
三つの記憶が、互いを押し退けるようにぶつかり合っていた。
「ケセナ、落ち着いて」
ラルが膝をつき、背中をさする。
「先生、ケセナ、揺らぎすぎてる。このままだと危ない」
ラルの麒麟の瞳には、ケセナの内側で三つが絡み合い、千切れかけているのが視えていた。
その刻だった。
ふっ、と周囲を照らしていた炎が消えた。
先頭のガイアが、自ら掌の火を握り潰したのだ。
「……悪ぃ、ファル。俺の火が揺れるから、余計なもんが見えるんだろ」
荒っぽくて、優しい声が闇の中へ落ちる。
「影が出ねぇように、足元だけ照らす。……匂いも、俺の熱で焼き切る」
指を弾くと、今度は炎ではなく、石段の縁を這うような淡い熱光の筋が生まれた。
黒い影は消え、腐臭もまた、わずかな焦げた匂いに押し流されていく。
「……グレン、さん」
ようやく、ケセナの口からこの場を生きる声が零れた。
それでも、深いところにこびりついた震えは消えない。
暗闇への恐怖が、細い肩を細かく揺らし続けていた。
その背へ、ふわりと柔らかな温もりが重なる。
「大丈夫よ、ファル」
キョウが、幼子をあやすように震える身体を抱きしめた。
「思い出しなさい。……無理して木剣を振って、手首を捻った折のこと」
「……え?」
唐突な話題に、ケセナが涙に濡れた目を瞬かせる。
「ガイアも私も、先生も、みんなで言ったでしょう。ファルは剣なんか持たなくていいって。後ろで笑って、美味しいものを食べていればいいって」
「キョウ……」
「ファルを守るために、私とガイアの剣があるんだから」
静かな声が、冷えた石階段に溶けていく。
地下の冷気の奥に、夕暮れの庭の匂いがよみがえる。
痛みに声も出せず、ただ蹲るしかなかった自分。
そんな自分を、泣きながら抱きしめてくれた温かな家族たち。
キョウから伝わる体温が、あの暖かな昼夜を思い出させる。
それは、ファルイーアとして生きていた頃の、数少ない温かな記憶だった。
あの五星霜は、確かに幸せだったのだと思い出せる。
(……そうだ。俺は、ずっと守られてきた)
救世主でもない。
実験体でもない。
兵器でもない。
笑って、泣いて、守られた。
その体温が、ケセナを過去から引き戻す。
「……ごめん」
深く、長い息が抜けた。
「もう、大丈夫。……ちゃんと思い出せた」
ケセナは強く掴んでいたグレンの外套をそっと緩め、キョウの腕の中で小さく頷いた。
そして、自分の足で冷たい石段へ立つ。まだ危なっかしい。けれど、瞳の中から混濁は消えていた。
「……俺は、行かなきゃいけない。だから、自分の足で行く」
皇宮への隠し通路は、自分が解体された悪夢の地下室にある。
ケセナは仲間たちと共に、階段を下り始めた。
「ケセナ」
ラルがすぐ隣へ寄り、片腕を自分の肩へ回す。
「ありがとう、ラル」
「私も!」
すかさずキョウが反対側へ回り込み、もう片方の腕をしっかり取った。
両側から支えられる体温が、まだ冷えたままの身体に染み込んでくる。
恐怖は消えない。けれど、もう一人で震えているわけではなかった。
「え、あ、ちょっと待って。キョウ、その支え方だと腕が……」
「なぁに、ファル?」
「……なんでもないです」
有無を言わせぬ笑顔に、ケセナが小さく項垂れる。
「ちょっと、おば……」
「なぁに、ラル?」
「……キョウ、力入りすぎで――」
「それを先に言いなさいよ!」
言葉を遮り、言い返してきたキョウに、ラルがむっとする。
「ケセナ、私の方が歩きやすい」
「おーおー。色男は大変だなぁ」
後ろからガイアが、呆れ半分、面白がり半分の声を飛ばした。
「いや、そういう問題じゃなくて。腕が変な方向に……」
つい先ほどまで暗闇の中で崩れかけていたとは思えないほど、いつもの喧騒が戻っている。
そのやり取りを聞きながら、グレンは深々と息を吐いた。
(……だが、これでいい)
この騒がしさこそが、ケセナが過去へ呑まれず、この場へ戻ってきた証なのだから。
「行くぞ」
グレンが短く告げ、前を向く。
外ではなお、白虎も青龍も朱雀も、命を削って戦い続けている。
立ち止まっている猶予はない。
「……助けて」
両脇を女二人にがっちり固められ、半ば引きずられるように段を下りながら、ケセナが情けない声を漏らした。
その救援要請を完全に聞き流し、グレンは地下の奥底へ向けて歩みを進めた。




