第八十六話 君の場所
長く暗い階段を下りきり、一行はついに最下層へ辿り着いた。
張り詰めた空気の中にあっても、ケセナだけは相変わらず涙目のまま、女性陣に両脇を固められ、半ば宙に浮くような格好になっていた。
(……い、痛い……っ)
引き攣った顔のまま、ケセナは心の中でひっそりと悲鳴を上げる。
キョウに掴まれている左腕は、どう考えても曲がってはいけない方へ引かれていた。塞がりきっていない傷がじくじくと熱を持ち、嫌な痛みが脈打っている。おそらく少し開いて、また血が滲んでいるはずだ。
一方、右側のラルは、さすがに傷の位置をよく把握しており、患部を避ける気遣いだけは完璧だった。だが、頭越しのキョウとの言い合いに熱が入るたび、無意識にぎゅうっと腕へ力を込めてくるので、結局こちらも痛い。
どちらにせよ痛い。
好意と心配からの行動だと分かっているだけに文句も言えず、ケセナはただ黙ってその痛みに耐えていた。
もっとも、そのおかげで、先ほどまで耳の奥を這っていた幻聴も、底から湧き上がる過去の記憶も、いくらか遠のいていた。
「着いたな。……ここか」
先頭を歩いていたガイアが足を止め、掌の炎で前方を照らす。
そこにあったのは、湿気で黒ずみ、ところどころ腐りかけた重厚な木扉だった。表面には厳重な錠前の跡が残っているが、すでに破壊され、半ば口を開いたまま放置されている。
ガイアがその扉を押し開けようと、無造作に手を伸ばした。
だが。
「待って……っ!!」
自分でも驚くほど切羽詰まった声が飛び出した。
ケセナは女性陣の支えを強引に振りほどき、よろめきながらガイアの背へ縋りつくようにして、その腕を掴んで止める。
「お、おう? 悪い、急ぎすぎたか?」
振り返ったガイアに、ケセナは顔面を蒼白にしたまま浅い呼吸を繰り返した。
(痛い。心臓が、痛い)
どくん、どくん、と。
耳の奥で、自分の心音だけが異様な大きさで鳴り響いている。
あの扉の向こうで、自分がされていたことが、鮮明に蘇ってしまった。
冷たい石台。濡れた床。血の匂い。焼けた肉の臭い。笑いながら覗き込んでくる、顔のない影。
「深呼吸……させて……」
ガイアの腕を掴んだまま、ケセナは震える声で懇願した。
湿った黴と、染みついた古い血の臭いが、肺の奥まで入り込んでくる。
分かっている。深く息を吸ったところで、身体の奥底に焼きついた恐怖そのものが消えるわけではない。
それでも、ほんの少しでいい。あの部屋へ、自分の足で踏み込むための覚悟を整える刻が欲しかった。
そんなケセナを見たガイアは、扉へ伸ばしていた手を静かに引っ込めると、代わりに大きな掌をぽん、とケセナの金色の髪へ乗せた。
「たんと吸え」
「……うん、ごめん」
がしがしと乱暴に、それでいて妙に温かな手つきで頭を撫でられながら、ケセナは目を閉じた。
一度。
二度。
そして、三度。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
それでも胸の奥で暴れる心臓の音は収まらない。
身体に刻まれた恐怖は、そう簡単には退いてくれない。
けれど。
「行けるか?」
背後から、グレンが低く問う。
その声に、ケセナは目を開けた。
琥珀色の瞳から、先ほどまでの怯えた揺らぎがすっと薄れ、代わりに静かな強さが宿る。
ケセナは振り返り、仲間たちを真っ直ぐ見つめて、しっかりと頷いた。
「大丈夫。俺は、もう一人じゃないから」
五千星霜前も。
地下室でも。
『兵器』だった頃も。
ずっと独りだった。
けれど、今は違う。
自分の背中を守ってくれる家族が、すぐ後ろにいる。
その言葉を聞いたガイアが、頼もしげに口角を吊り上げた。
今度こそ、躊躇なく木扉へ手をかける。
ぎぃ、と嫌な摩擦音を立てて、分厚い扉がゆっくり内側へ開いていく。
そして。
真っ暗で何も見えないその奥から、むせ返るような『死』の空気が、どろりと溢れ出してきた。
「っ……!」
ケセナはもちろん、後ろにいたラルやキョウまで思わず顔を顰め、反射的に口元を押さえる。
光ひとつない暗闇の中に、得体の知れない腐臭だけが異様な濃さで満ちていた。
「……っ、何の臭いよ、これ」
キョウが布で口元を覆いながら呻く。
「鼻、痛い……っ」
五感の鋭いラルにとっては、もはや臭いというより暴力だったのだろう。涙目になって顔を背け、必死に階段の方から流れてくる、わずかにましな空気を吸おうとしている。
戦場の死臭など嗅ぎ慣れているはずのグレンでさえ、深く眉を寄せていた。
ガイアも片手で鼻を塞ぎながら、異常な臭気の発生源を探るように暗闇へ目を凝らしている。
だが、その正体を、ただ一人、ケセナだけは理解していた。
本能で。
身体の記憶で。
「……肉が腐った臭い」
暗闇の中へ、ぽつりと、冷え切った声が落ちた。
「は?」
ガイアが振り返る。
ケセナは顔色を失ったまま、自身の腹部の服を、指の節が白くなるほど強く握りしめていた。
この部屋で生きたまま腹を裂かれた記憶が、痛々しいほど鮮明に蘇っていたのだ。
「燃やして。ガイア……この部屋ごと、全部」
それは、悲鳴に近い願いだった。
自分が解体された記憶ごと、この場所ごと、何もかも灰にしてほしいという懇願。
ガイアは短く頷く。
「……ああ、分かった」
両手へ極大の炎を宿そうとした、その刻だった。
『あーあ、駄目だよ。燃やしたら。せっかく、いい具合に腐ってきてるのに』
唐突に。
誰もいないはずの真っ暗な部屋の奥から、底抜けに明るい、無邪気な声が響いた。
積み木遊びを邪魔された子供みたいな、間延びした平坦な声。
その異常な気配に、グレンが即座に前へ出る。
ガイアを制して剣の柄に手をかけ、鋭く怒声を放った。
「誰だ!!」
声が暗闇を切り裂いた直後。
ぽっ、と部屋の中央に、青白い光球がひとつ灯る。
「っ!」
ケセナの身体が、びくりと大きく跳ねた。
光球が照らし出したのは、部屋の中央に鎮座する巨大な石台だった。表面には黒々と乾いた大量の血が、幾重にも染みついている。
そして、その悍ましい石台の縁へ腰掛けていた人影がひとつ。
「見て。これ、十九星霜前の実験体の胃袋。小さいよねぇ」
人影は、液体に漬け込まれた不気味な容器を持ち上げ、光に透かしながら、うっとりした声で告げた。
「ちゃんと残しておいてよかった。こうやって眺めて楽しめるし」
ケセナの頭の中が真っ白になる。
声の『音』だけで、心臓が恐怖に凍りついた。
「あの子は本当に出来がよくてねぇ。開いてもすぐ塞がるし、どこまで抜いたら駄目になるのか、全然読めなかった」
人影は、懐かしい思い出を語るように続ける。
「飽きなかったなあ」
ぞっとするほど軽い口調だった。
悪びれる色も、罪悪感も、欠片もない。
「そうそう。ちょうど君みたいな子。金髪で、小さくて、あんまり鳴かない子。……あれ?」
指先が、真っ直ぐケセナを指した。
――ぷつり、と。
ケセナの中で、何かが無惨に切れた。
「げ……っ、げはっ……ぐ、ぁ……」
その場に崩れ落ち、ケセナは喉を掻きむしるようにしながら、抑えきれない吐き気に襲われる。
けれど、出てくるものは何もない。唾液だけが石畳へぽたぽた落ちていく。
涙と涎でぐしゃぐしゃになった顔のまま、空虚なえずきだけを何度も繰り返した。
「ファル……! 大丈夫だ、吐け、全部吐き出せ……!」
ガイアが即座に膝をつき、自分の外套が汚れるのも構わず、震える背を何度も摩る。
小さなファルイーアが『いっぱい食べられない』と泣いていた理由。
今も、食べる量がどうしても増えない理由。
その全部が、目の前の容器の中にあった。
ケセナに胃がない。
その残酷すぎる現実を突きつけられ、怒りと絶望で、ガイアの手が微かに震えていた。
キョウもラルも、あまりの衝撃に身動きができず、その場に縫いつけられたように動けない。
(……胃が、ないだと?)
背後で剣を構えていたグレンの呼吸が、ぴたりと止まった。
(医官は、異常なしだと言った)
医官の言葉は嘘だったのか。
グレンは理解を拒む思考へ、必死に鞭を打つ。
医官の見解などどうでもいい。
ファルイーアは、物理的に『食べられなかった』のだ。食が細かったわけでも、胃腸が弱かったわけでもない。
それを知らぬまま、自分は、彼をただの兵器として機能させるためだけに、無理やり食べさせ、吐き出した物すら飲み込ませていたのだ。
「……っ!」
剣の柄を握るグレンの太い腕が、革手袋の軋む異様な音を立てる。
溢れ出したのは、目の前の外道に対する純粋な殺意と、己の無知と非道に対する凄まじい悔恨だった。
「え。……ああ、もしかして、本人?」
石台の上の男が、ぱちぱちと瞬きをする。
「へえ。生きてたんだ」
その声音は、本当に少し嬉しそうだった。
それがなおさら気味悪い。
「救世主とリュウショウの犬に攫われて、そのまま壊れたと思ってた」
男は石台から軽やかに飛び降りると、愛しい作業台でも紹介するように、黒い血のこびりついた天板をぽんぽん叩いた。
「おかえり」
「……っ」
ケセナの肩が大きく跳ねる。
「ほら、君の場所、まだ残してあるよ」
男は笑う。
「……あんなに静かだったんだもん。嫌いじゃなかったんでしょ?」
「てめぇ……っ!!」
ガイアが爆発したように立ち上がった。
目に宿るのは、怒りというより殺意だった。
「好きな奴なんかいるか! 気持ち悪りぃんだよ、この外道が!!」
朱雀の炎が、両手で爆ぜる。
そのまま男を焼き尽くそうと踏み込んだ、その瞬間。
「黙っててよ、なんちゃって朱雀族長」
男が、ただ平坦な声でそう言った。
直後。
「ぐあっ!?」
凄まじい衝撃音が地下室に響いた。
ガイアの身体が、見えない巨大な槌で横殴りにされたように吹き飛び、石壁へ激突する。
「ガイア!?」
キョウが悲鳴を上げた。
何が起きたのか、誰にも分からない。
魔術のはずなのに、炎も氷も風も、何ひとつ見えなかった。予兆すらなかった。
ただ、男の放った『黙っててよ』という薄っぺらい言葉そのものが、巨大な質量となってガイアを直接殴り飛ばしたとしか思えなかった。
「あーあ、うるさいなぁ」
男は倒れたガイアに一瞥もくれず、ケセナへ向けてにっこりと微笑んだ。
「僕は、この子と話してるんだからさ」
その異様な光景と、見えない魔術。
そして、この部屋にこびりついた狂気。
剣を抜いたままのグレンが、ぎり、と奥歯を噛み鳴らす。
青白い光に照らされた男の姿を、グレンは改めて見据えた。
黒紫の外套を纏い、長い栗色の髪を無造作に垂らしたその男は、柔らかな笑みを浮かべている。だが、その顔には罪悪感の欠片もない。穏やかで、無邪気で、それゆえにひどく歪んで見えた。
(……馬鹿な。そんなはずはない)
この顔には見覚えがある。
だが、生きているはずがない。四星霜前の戦の最中、感情を持たぬ殲滅兵器だったファルイーアが、『確実に殺した』と報告を受けていた男だ。
けれど、この理不尽な力に思い当たる者は、世界にただ一人しかいない。
言葉そのものを現実へ叩きつける、あの無邪気な言霊使い。
「……お前、ローケンス・ベラリティルか……!」
絞り出すようなグレンの声に、
「正解」
ローケンスは、子供みたいに楽しげに笑った。
「気づくの、遅かったね。騎士団長さん」




