【幕間】小さすぎる手と、大きな剣
裏庭から聞こえてくる木剣の打ち合う音を、七星霜齢のファルイーアは縁側にちょこんと座って見つめていた。
十二星霜齢のガイアの動きは、素早く力強い。
その背中を、キョウが弓で援護している。
二人の息はぴったりで、木剣の音も、風を切る矢の音も、ファルイーアには眩しいほど格好よく見えた。
強いって、いいなと思う。
守れるって、すごいなと思う。
自分も、あんな風になれないのだろうか。
(僕も、剣のおけいこしたい……)
そう思ってグレンに頼み込んだのは、つい先ほどのことだ。
だが、三十三星霜齢の騎士団長は、ファルイーアの細すぎる腕に目を落とし、静かに首を振った。
『お前は食が細すぎる。体力も腕力も足りない今の状態では、まだ教えられない』
正論だった。
三星霜齢までに受けた凄惨な虐待のせいで、七星霜齢になっても体つきは四星霜齢ほどの子供と大差ない。そんなファルイーアにとって、木剣ですら重すぎる。
頭では分かっていた。
けれど、納得はできなかった。
「僕にだって、できるもん……っ!」
庭の隅で一人ふくれっ面になりながら、舌足らずな声でそう言い切り、ファルイーアは「えいっ」と両腕を天へ突き上げた。
細い腕に、目いっぱい力を込める。
けれど、その拍子に袖が大きく捲れ上がり、真っ白な肌に刻まれた無数の傷跡が露わになった。
「あっ……!」
ファルイーアは弾かれたように腕を引っ込め、慌てて袖を引き下ろした。
誰にも見られたくない。
この傷を見ると、暗くて冷たい地下室の空気まで蘇ってきてしまうから。
ぎゅっと自分の腕を抱き締めて俯いていると、足音が近づいてきた。
「ファル、ご飯だよー」
キョウだった。
それでもファルイーアは、悲しそうに唇を尖らせたまま、ぽつりと零す。
「僕にだって、できるもん……」
「ん? 何ができるの?」
「剣のおけいこ!」
キョウは少しだけ困ったように笑い、ファルイーアの金色の髪を優しく撫でた。
「そっかー、ファルもやりたいもんね」
「うん!」
「じゃあ、ご飯いっぱい食べなきゃね。先生も言ってたでしょ?」
「うん! たべる!」
そう意気込んで食卓についたものの、現実は甘くなかった。
どうしても、半分以上が腹に入らない。
無理に飲み込もうとすると、すぐに吐き気が込み上げてくる。
「うぅ……たべるもん……たべて、おけいこするんだもん……」
涙目で無理やり匙を口へ運ぼうとするファルイーアを見て、グレンが苦い息を吐いた。
「無理をするな。まだお前には早い。もう少し大きくなったら、そのうち教えるから」
「今がいいの! 今、おけいこしたい!」
普段は大人しいファルイーアが、珍しく声を張り上げた。
ぽろぽろ涙を零しながら、また匙を口に運ぶ。
「げほっ、げ……うぐ……」
「ファル!」
とうとうファルイーアが吐き出してしまい、キョウが慌てて駆け寄る。
「無理しないで、ファル」
「……おけいこ……するの……っ」
それでも頑固に言い続けるファルイーアの様子を見かね、ガイアがふいに立ち上がった。
「んじゃ、俺が教えてやる!」
「えっ」
「ほら、来いファル!」
ガイアはファルイーアの細い腕を掴み、そのままずんずん庭へ連れ出していく。
グレンが「おい、ガイア!」と止める間もなかった。
昼巡りの終わりの庭。
空は赤く染まり始めている。
ガイアは自分が昔使っていた中で一番軽い木剣を、ファルイーアへ持たせて立たせた。
けれど、十二星霜齢のガイアにとっての「一番軽い」は、ファルイーアにとって鉄の塊も同然だった。
「く、うぅぅ……っ」
両手で必死に握り締めても、切っ先は地面すれすれまで落ち、細い腕がぷるぷると震えている。
「なんだよそれ! そんなんじゃ何もできねーぞ!」
ガイアは喝を入れるつもりで、自分の木剣を軽く、こん、とファルイーアの木剣へ当てた。
ガイアにとっては、本当にただのじゃれ合いのつもりだった。
だが、その衝撃は今のファルイーアには強すぎた。
「あっ――」
ばんっ、と木剣が弾き飛ばされる。
反動で手首を不自然に捻ったファルイーアは、その場に崩れ落ちた。
「…………っ!!」
声が出なかった。
あまりの痛みに、ただ蹲る。
泣けばいい。
痛いと言えばいい。
けれど、そうすればもっと酷い目に遭う。
幼い頃に刷り込まれた恐怖が、身体を先に強張らせた。
額にびっしりと冷や汗を浮かべ、小さな身体ががたがたと震える。
「悪ぃ! ファル、大丈夫か!?」
事態の深刻さに気づいたガイアが、血相を変えて駆け寄る。
「だいじょう、ぶ……」
脂汗を流しながら、それでもファルイーアは必死に笑おうとした。
その痛ましい姿に、駆けつけてきたキョウが悲鳴のような声を上げる。
「ガイアの馬鹿! だから早いって先生も言ってたじゃん! さ、ファル、家に入ろ?」
キョウはファルイーアの肩を抱き、急いで家の中へ連れていく。
一部始終を厳しい目で見ていたグレンは、青ざめて立ち尽くすガイアの前に立ち、低く怒りを滲ませた声で告げた。
「金輪際、ファルイーアに剣を持たせるな。いいな?」
「……わかった」
ガイアは唇を強く噛み締め、深く項垂れた。
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「……手首の捻挫だ。骨に異常はない。だが、しばらくは痛むぞ」
部屋の寝台に座るファルイーアの手首へ薬布を巻きながら、グレンが静かに告げる。
キョウは心配そうに見守っていたが、グレンに「手当てをするから」と促され、後ろ髪を引かれるように部屋を出ていった。
身体に残る傷跡を見られるのを、ファルイーアがひどく嫌うからだ。
二人きりになった部屋で、ファルイーアは布で巻かれた右手首を見つめたまま、静かに涙を零していた。
「……ごめんなさい……」
「なぜお前が謝る。痛いなら泣いていい。痛いと声に出していいんだ」
グレンは大きな手で、ファルイーアの涙をそっと拭った。
痛い時に声を出せない。
その痛ましい後遺症に、グレンは奥歯を強く噛み締めた。
「ファルイーア。なぜ、あんなに剣を持ちたがったんだ?」
普段は聞き分けのいい彼が、あそこまで頑固になった理由。
グレンの問いかけに、ファルイーアはしゃくり上げながら、震える声で本音を零した。
「だって……僕、弱いから……っ」
「……」
「弱いままだと、ガイアやキョウみたいに、グレンの役に立てない。だから、つよくなって、剣をもてるようになって、みんなをまもりたかったの……!」
「……馬鹿者」
グレンの声が、微かに震えた。
彼は大きな両腕で、小さなファルイーアの身体をすっぽりと抱きしめる。
「お前は、俺の役に立つためにここにいるんじゃない。俺たちが、お前を守りたいからここにいるんだ」
「グレン……」
「剣なんて持たなくていい。お前は俺の後ろで笑って、美味いものを食って、本を読んでいればそれでいい。お前が大きくなるまで……いや、大人になっても、俺がずっとお前の『盾』でいてやる」
その力強くて温かな言葉に、ファルイーアはたまらずグレンの黒い制服をぎゅっと掴み、今度こそ、子供らしくわあわあと泣き出した。
「――っ、ファル、ごめんな!!!」
突然、部屋の扉が勢いよく開き、目を真っ赤に腫らしたガイアが飛び込んできた。
「俺……俺の剣は、ファルを傷つけるためじゃなくて、ファルを守るためにあるんだからな! 痛い思いさせてごめん!」
大声で謝りながら鼻をすするガイアの後ろから、キョウももらい泣きしながら飛びついてくる。
「そうよ、ファルは私たちが守るの!」
三人にぎゅっと抱きしめられながら、ファルイーアは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、少しだけ嬉しそうに笑った。
「ガイアの剣……おもかった……」
「だ、だろ!? あれでも一番軽いんだぞ!」
「……ガイアは、すごいね」
尊敬の眼差しを向けられ、ガイアは照れくさそうに「へへっ」と笑う。
グレンはそんな騒がしい弟子たちを、呆れたように、それでもどこまでも優しい目で見守っていた。
泣いて腫れた目元のまま、ファルイーアは小さな手を伸ばした。
痛めた右手ではなく、まだ動かせる左手で。
グレンの制服を、ガイアの袖を、キョウの服を、順番にそっと掴む。
剣は、まだ持てない。
持ち上げることすらできない。
それでも、その小さすぎる手は、自分を守ってくれるものへ確かに伸びていた。
今はまだ、この優しくて大きすぎる盾と剣たちに守られて、ゆっくり大きくなればいい。
――けれど、その願いが守られる時間は、あまりにも短かった。
この一星霜後。
その小さな手は、守るためではなく、奪うためのものとして扱われることになる。




