【幕間】最初の言葉
「あー、どうしろって言うんだよ、これーー!」
鼓膜を震わせるほどのガイアの吠え声に、目の前に座っていた金髪の幼児が、びくりと小さな肩を揺らした。
そして、怒られるのを待つように、恐る恐る紅い瞳でガイアを見上げてくる。
ガイア・ゾルディクス、八星霜齢。
彼はこの刻、生まれて初めて『人に物を教える難しさ』という高すぎる壁にぶち当たり、盛大に赤い頭を抱えていた。
目の前にいるのは、師であり保護者でもあるグレンがどこからか連れ帰ってきた、まだ名前すらない金髪紅瞳の幼児だ。
年齢は三星霜齢と聞かされているが、病的に細い手足や頼りない体つきは、どう見ても一星霜齢ほどにしか見えない。
グレンから「こいつに言葉を教えろ」という特命を受け、悪戦苦闘の真っ最中なのだが。
「いいか? こ・れ・が、『林檎』。食うやつ。りんご。分かったか?」
何度目かも分からない説明を試みるが、幼児の視線はすでにガイアの手元を離れ、窓の外を飛ぶ小さな鳥へ釘付けになっていた。
そして直後には、ぽててて……とおぼつかない足取りで立ち上がり、歩いていっては、こてんと転んでしまう。
「あっ、おい! またかよ!」
慌てて追いかけ、ひょいっと抱え上げて定位置に戻す。
見るものすべてに興味を惹かれるらしく、数息でも目を離せば、ふらふらとどこかへ行ってしまう。その度に連れ戻すという不毛な追いかけっこを、もう何度も繰り返していた。
「……こいつ、絶対覚える気ねぇだろ……」
床にぐったりと大の字に寝転がり、高い天井を仰ぐ。
当の幼児は、そんなガイアの苦悩など知る由もない。今度は机の脚の木目を不思議そうに指でつつき始めている。
「……助けろ、先生」
通常勤務のため騎士団へ向かっている師であり保護者でもあるグレンに向けて。
ガイアは誰にも届かない小声で、切実すぎる救助要請を吐き出した。
床に大の字になっていたガイアが、ふと机の脚へ視線を戻す。
木目をつついて遊んでいたはずの小さな影は、そこにいなかった。
「………いねぇ!」
ばねのように跳ね起きる。
どこへ消えたのかと周囲を見渡すが、部屋のどこにも金髪は見当たらない。
「あの足でどこ行ったんだよ!」
焦りが背筋を駆け上がる。
あの幼児は、まだ歩くことさえひどく下手なのだ。数歩進んでは自分の足に縺れて転び、また立ち上がっては転ぶ。
そして何より、ガイアの胸をざわつかせること。
どれだけ派手に転んで痛い思いをしようと、あの幼児は絶対に泣かない。声を上げることすらしない。
(怪我でもしてたら、先生にどやされる……!)
ガイアは慌てて居間を飛び出し、廊下へ出た。
右、左と勢いよく視線を走らせ――やがて、全身の力が抜けたように深く息を吐き出した。
「……あーーー」
数歩先の、廊下の真ん中。
金髪の幼児は、案の定ぺしゃんと床に転がっていた。
自力で起き上がることもできず、ひっくり返った亀のように手足をもぞもぞと動かしている。
もちろん、泣き声一つ上げずに、ただ静かに。
「何やってんだ」
ガイアは呆れ交じりにしゃがみ込み、起き上がれない幼児へ無造作に手を伸ばした。
目の前へ伸びてきた手を見て、幼児はびくりと肩を跳ねさせ、反射的に身体をこわばらせる。過去の恐怖が染み付いた痛ましい反応だった。
だが、ガイアはその怯えを深く考えることもなく、ひょいっと幼児の脇の下に手を入れて抱き上げ、床の上へ立たせた。
「……?」
ぽてりと両足で床に立った幼児は、痛いことも怖いこともされなかった事実に、不思議そうな顔をしてガイアを見上げる。
「はぁーーーーー」
まったく世話が焼ける、とガイアが何度目かも分からない大きな溜息をついた、その刻だった。
「なにしてんの?」
背後から、呆れを含んだ声がかかった。
弾かれたように振り返る。そこには、美しい青銅色の髪を揺らし、ガイアと同じ赤い目を持った同じ星霜齢の少女――ガイアの許嫁であるキョウ・チャーシングが、腰に手を当てて立っていた。
「キョウ!! 助けてくれよ!」
ガイアは縋りつくような情けない声で叫んだ。
「……ちょっと、なに?」
突如として泣きついてきた許嫁に、キョウは目を瞬かせて後ずさる。
「あいつに言葉教えんだよ、でも俺、もう無理!」
「あんたが先生からやれって言われてたことじゃない。私はね、これから料理の先生のとこに行かなきゃいけないんだから」
呆れ顔のキョウは、取り付く島もなくきっぱりと拒絶した。
「じゃあ連れてけよ、あいつ! ……あっ、ああああっ」
ガイアが悲鳴のような声を上げた。
二人が目を離して言い合っていたほんのわずかな隙に、金髪の幼児は「ててて……」とおぼつかない足取りで再び歩き出し――そして、案の定また派手に転んでいた。
「あーーー」
「あーーー」
ぺしゃんと床に突っ伏したまま、もぞもぞと手足を動かしている小さな背中。
その光景を見た赤い目の二人は、まったく同じ呆れ顔で、言葉にならない声を上げた。
「……連れてく。ガイアも来なさい」
「なんで!」
「私は料理を習いに行くの!」
「だからなんで俺も行くんだよ、料理なんて興味ねぇもん!」
「あの子を連れてくんだから、あんたも来いって言ってんの!」
「だからなんで!」
「料理の先生のとこにある食材の名前を、教えながら待ってればいいでしょ!?」
「それ先に言えよ!」
「って、あああああ、あ?」
二人がギャーギャーと言い合っている間に、もぞもぞと動いていた金髪の幼児は、とうとう四つん這いになって廊下の先へ去っていこうとしていた。
だが、ふいにぴたりと動きを止め、床の一点をじっと凝視し始める。
「え、なに?」
不思議に思ったキョウが近づき、幼児が凝視しているものを見下ろした。
「………蟻」
「蟻かーーーーー」
床の木目を、一匹の小さな黒い虫が歩いていた。
幼児はそれを不思議そうに見つめ、こてんと首を傾げる。
「……?」
「あ、ちょ、ガイア! ここよ、教えるならここ!」
「へ? あ、あああ!」
キョウに急かされ、ガイアは慌てて幼児の横にしゃがみ込んだ。
そして床を這う小さな虫を指差し、大口を開けて、これ以上ないほどはっきりと発音を強調する。
「おい、いいか! これは『蟻』! あーーりーーー、あり! ほれ、言ってみろ!」
「?」
きょとんとして首を傾げる幼児を見て、ガイアは致命的な事実に気がつき、両手で赤い頭を抱え込んだ。
「……そもそも『見てみろ』とか『言ってみろ』が通じねぇんだよ!」
最大の難関――『言葉を教えるための言葉が通じない』というどうしようもない事実に気づいてしまったガイアは、げんなりと肩を落として幼児を見た。
「どうすりゃいいんだよー……」
「…………そうねぇ」
腕を組み思案していたキョウは、再び蟻に興味を示し始めた幼児の傍へとしゃがみ込む。
そして、床を這う小さな黒い虫へぴしりと指を差し、呪文のように連呼を始めた。
「あり、あり、ありありあり」
「……うるせぇ」
「黙ってガイア。ありあり、あり、あり」
「……?」
不思議な音の羅列に、幼児が顔を上げる。
こてりと首を倒し、自分と同じ目線にいる赤い瞳の少女をじっと見上げた。
「あり! あり! あーーりーーー!」
身振り手振りを交え、必死に繰り返すキョウ。
そんな彼女の口元を凝視していた幼児が、ふっと、小さな唇を開いた。
「……あ………い……?」
たどたどしく、掠れたような小さな声。
ガイアもキョウも、声を失った。
蟻、と言おうとしただけなのだろう。
それでも、その小さな音は、二人の耳には別の響きにも聞こえた。
あい。
まだ何も知らない幼児が、まだ誰からも名を呼ばれていない幼児が、初めてこぼした音。
「……言った、よな?」
「うん、言ったね」
ガイアが、ぽかんとした顔で呟いた。
キョウも目を丸くしたまま、小さく笑った。
「すげぇじゃん。お前、喋れんじゃん」
ガイアは無意識に手を伸ばし、わしゃわしゃと小さな頭を撫でた。
不意に触れられた幼児はびくりと肩を震わせた。
けれど、痛みは来ない。
怒鳴られることも、叩かれることもない。
ただ、大きな手が、不器用に頭を撫でているだけだった。
幼児は不思議そうに瞬きをして、それからもう一度、小さく唇を動かした。
「……あい」
その夜巡り。
この金髪紅瞳の幼児は、皇帝により命名された。
『ファルイーア』。
込められた意味など、子供たちは知らない。
けれどそれが、彼を人として呼ぶための、最初の名前になることだけは確かだった。




