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第八十四話 笑える側の者たち

 ケセナは小さく頷き、地下へ続く重厚な扉へ向けて一歩踏み出そうとした。


 だが、足はぴくりとも動かなかった。


 オウセイの人格が表から退いた途端、限界を越えていた肉体へ、疲労と高熱が一気に押し寄せてきた。

 ぐらり、と視界が揺れる。


「ちょっと、ケセナ!」


 異変に気づいたラルが、弾かれたように駆け寄ってきた。


「すごい汗……っ」


 心配そうに眉を寄せ、額へそっと手を当てる。


「わっ……ケセナ、熱、上がってる」

「あはは……」

「笑ってごまかさないで」


 へらりと笑ったケセナを、ラルがぴしゃりと叱った。


「おい、無理をするな」


 すぐさまグレンが歩み寄り、有無を言わせぬ仕草でケセナの前へ背を向け、深くしゃがみ込む。


「強がるな。乗れ」

「……ごめんなさい」


 申し訳なさそうに肩をすぼめ、ケセナはゆっくりとその広い背中へ身を預けた。

 頬を埋めた途端、少しだけ呼吸が落ち着く。


 グレンが背負い直して立ち上がった折、少し離れたところからエンジが呟いた。


「……やはり、団長たちだけなんですね」

「何がだ?」


 グレンが怪訝そうに振り返る。


「ファルイーア様は、自分には触れられないようです。……先ほど、隠れ家で起き上がられた際、安心していただけるよう手を伸ばしたのですが、かなり強い拒絶反応が出ました」

「発作……?」


 ラルがはっとしてエンジを見る。


「はい。隠れ家を出る前の話です」

「でもお前、さっきケセナを抱えてここまで来ただろう?」


 グレンが鋭く指摘すると、エンジはいつもの涼しい顔で肩をすくめた。


「あれは中身がオウセイ殿でしたので。『俺は平気だ』と仰いましたし、猶予のない状況でもありましたから」

「……」


 グレンは眉をひそめ、背中のケセナへ首だけ向けた。


「ケセナ、大丈夫だったのか?」


 いくら表に出ていたのがオウセイでも、ケセナ自身の意識まで完全に切れているわけではない。

 他人に触れられることへの恐怖が、そんな都合よく消えるはずがなかった。


「……うーん」


 ケセナはグレンの肩へ顎を乗せたまま、少し困ったように笑った。


「最初は本当に息ができないくらい苦しかったんだけど」

「……けど?」

「正門の前で、オウセイがものすごく恥ずかしがってるのが伝わってきて。そっちに気を取られてたら、いつの間にか平気になってた」

「……え?」


 その場で一番激しく反応したのは、グレンではなかった。


 エンジの顔から、すっと血の気が引いていく。


 ――最初は本当に息ができないくらい苦しかった。


 隠れ家を出てからベラリティル本宅の正門へ着くまでの間。

 彼は、自分の腕の中で、ずっと発作に耐えていたのだ。


「も、申し訳ありません、ファルイーア様!!」


 つい先ほどまで冷静そのものだった有能な副団長が、かつてないほど狼狽して勢いよく頭を下げた。


「あ、いや、エンジさんは悪くないから! 顔上げて!」

「完全に自分の落ち度です……」


 エンジはそのまま項垂れた。

 ケセナはおろおろと目を泳がせる。


 その空気を、別の意味でぶち壊したのはガイアだった。


「……おい、待て」


 にやぁ、と口元を吊り上げ、背負われたケセナへ顔を寄せる。


「『恥ずかしがってた』?」

「あっ」


 ケセナの肩が跳ねた。


「あの偉そうで陰気で感じ悪い救世主様が?」

「……えっと……」

「恥ずかしがった、のか?」


 ガイアの目が、完全に面白い玩具を見つけた子供のそれになっていた。


「ファル。詳しく」

「嫌だよ! 絶対に言わない!」


 ケセナは即座に顔を背け、グレンの外套へさらに深く顔を埋めた。


「俺も思い出すだけで恥ずかしいんだから!」

「えー、教えてよファル」


 そこへキョウまでが、楽しげに割り込んでくる。


「あいつ、どんな顔してたの? 何したの?」

「キョウまでやめてって!」


 さらに、これまで静観していたラルまで身を乗り出した。


「……あたしも知りたい」

「ラルまで!?」


 追い詰められたケセナが半泣きになる。

 そして極めつけに、グレンまでぼそりと呟いた。


「あの陰気隠居の弱みを握る好機だな」

「グレンさん!?」


 ケセナが思わず顔を上げる。

 だが前衛組の好奇心は、もう止まらない。


「絶対教えないからね! エンジさんも、絶対に言わないでください!」


 その一言で、場の視線が一斉に切り替わった。


「…………あ」


 短い後悔の声を漏らすケセナをよそに、全員の答えはすぐに決まった。

 ケセナ本人が口を割らないなら、知っている者に聞けばいい。


「さーて、エンジさんよぉ」

「情報屋って、こういう刻に役立つわよね」

「教えて」

「わー! 駄目! 言わないでええぇっ!!」


 広間にケセナの悲鳴が響く。


 前衛組がじりじりと包囲する中、グレンが一歩前へ出た。


「……エンジ」

「は、はい、団長……」


 圧が凄い。

 ケセナがグレンの背中から涙目で必死に首を振り、『言わないで』と訴えているが、グレンの視線は一切ぶれない。


 エンジが目を白黒させている最中、グレンは低く、呟くように言う。


「報酬は弾む」

「本当ですか?」


 即答だった。


 ケセナは絶望を深め、外套の中に顔を埋めた。


「言え」

「……交渉しても?」

「構わん」


 始まってしまった。

 しかも、ただの悪ふざけではない。完全に取引だった。


「……ただ、団長には借金がありますから、減額の方向で行きましょう」

「……そう言えばそうだったな」

「こうではどうですか」


 エンジがすっと右手の五本指を立てた。

 左手の人差し指を軽く曲げ、金鱗貨を示す。

 ――ジェグヌでの負債、金鱗貨五十枚の免除。


「大きく出たな」

「五千星霜の大英雄殿の恥ずかしい秘密ですから。このくらいはいただきませんと」

「恥ずかしい秘密って言うな!!」


 背中から悲鳴が飛ぶが、黒い交渉に入った二人は取り合わない。


「……これだ」


 今度はグレンが四本の指を返した。

 ――四十枚。

 しばし、ひりつくような沈黙。


「その中間では?」

「……」


 グレンは眉を顰め、しばし考えたあと、大きく頷いた。

 そして、エンジも満足げに頷く。

 ――四十五枚。

 かくしてグレンの借金が、少し減った。


「いいでしょう。成立です」

「……裏切り者ぉ」


 背中でケセナがしくしくと泣き出した。


「大人って、こういう刻はほんと嫌い……」

「覚えとけ。役に立つ」

「嫌な知識を増やさないでほしいんだけど!?」


 半泣きで抗議するケセナをよそに、周囲は完全に聞く体勢へ入っていた。


 全員の注目を浴びながら、エンジは軽く咳払いをする。

 無駄に整った所作で片手を差し出し、優雅に胸へ手を当ててから、極上に甘い声で言った。


「『やあ、お嬢さん。僕が迎えにきたよ。踊ろうか』」


 広間が、息を呑んだように静まり返る。

 だが次の瞬間、ガイアが堪えきれず吹き出した。


「っ、ぶはははははは!! なんだそれ!!」

「ちょ、待っ……迎えにきたよって……っ、ふふっ……!」

「……っ、く、ふふふ……っ」


 ガイアが腹を抱えて笑い転げ、キョウが壁に手をついて肩を震わせ、ラルまで堪えきれず吹き出した。


 そして何より。


「……って、俺、そこまでやってないけど!?」


 ケセナ本人が堪えきれず、グレンの肩越しに顔を出して全力で抗議する。


「盛らないでよ、エンジさん!!」

「いや、雰囲気としてはおおむね合っていますよ」

「おおむねって何!?」


 血と神の気配が満ちていたはずのベラリティル本宅の広間に、場違いなほど明るい爆笑が広がっていく。


 それは、五千星霜の呪縛を抱えてきたケセナも、その傍らに立つ者たちも、それでもなお笑える側にいるという証だった。


 ひとしきり笑いが収まり、ようやく呼吸が整った頃。

 グレンがすっと表情を引き締め、地下へ続く重厚な扉を見据えた。


「……心の準備はできたな?」


 静かな問いに、前衛組がそれぞれ応じる。


「おう、ばっちりだ」


 ガイアが短剣を鳴らす。


「むしろ、すっきりしたわ」


 キョウが弓を持ち直す。


「うん。行ける」


 ラルが槍を握った。


「俺は逆に疲れたよ……」


 背中から聞こえたげっそりした声に、グレンは小さく息を漏らした。


「自分はここに残り、退路を確保しておきます。どうか、ご武運を」


 エンジがその場に残り、深々と一礼する。


「ああ、頼む」


 グレンは短く応え、背中のケセナを落とさぬよう、脚を支える腕に力を込めて、もう一度しっかりと背へ乗せ直した。


 これから足を踏み入れる先は、自分が『実験体』として繋がれ、オウセイの魂と出会った、あの忌まわしい地下へ通じる扉の先だ。

 ケセナは、這い寄ってくる過去を振り払うように前を向き、はっきりと言った。


「行こう。目指すのは地下室の先。皇宮、リュウショウ陛下の私室だ」


 力強い号令だった。


 けれど。

 グレンの肩を握るその手は、熱のせいだけではない震えを隠しきれずにいた。

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