第八十三話 感謝はしている
理を外れた神の暴走は、逃げ場のない漆黒の濁流となって広間全体を呑み込んだ。
「……っ、ぁっ……!」
その圧に、限界を超えていたケセナの肉体が悲鳴を上げる。
手足も、胸も、背中も、見えない巨塊に何度も叩きつけられたように軋む。魂の格で抗っていたオウセイでさえ、この傷だらけの肉体では受け止めきれず、たまらず膝を折って嗚咽を漏らした。
「オウセイ殿!」
エンジが即座に床へ膝をつき、その細い身体を抱き寄せる。自らの身体で覆い隠すように庇いながら、飛び散る黒い力の余波から守り抜いた。
「エンジ! そのままケセナを頼む!」
吹き荒れる漆黒の奔流の中、グレンが剣を構えたまま鋭く叫ぶ。
「承知しました!」
エンジはオウセイを抱えたまま広間の隅へ素早く退き、余波の薄い死角へ滑り込んだ。
「あああああ! 私の、私の花……! なぜ私を拒むのですか!!」
哀神の絶叫とともに、床を腐食させていた黒い涙が、無数の鋭い棘となって四方八方へ放たれた。
神の激情が形を得た、触れれば命を奪う黒い雨だった。
「寝言は寝て言え、糞神がっ!」
真っ先に前へ出たのはガイアだった。
両手へ圧縮していた極熱を、躊躇なく正面へ解き放つ。
「俺たちの可愛い弟に、これ以上その薄気味悪い執着を向けんじゃねぇ!!」
朱雀の業火が吼え、迫る黒い棘の群れを次々と蒸発させる。
冷え切った絶望を、命の熱が真正面から押し返していく。
「ガイア、右!」
「分かってる!」
キョウの放った矢が、炎壁の死角を縫って迫った黒刃を正確に撃ち砕く。
彼女は柱から壁へ、壁から梁へと身軽に跳び移り、その合間にも矢継ぎ早に射を重ね、ガイアの防御の綻びを寸分違わず塞いでいった。
「風精霊、光精霊。お願い、また力を貸して!」
ラルも残る魔力を絞り出し、光と風の複合魔術を再展開する。
浄化の竜巻が吹き上がり、哀神の涙が築く黒い壁を削り取り、前衛の身体を押し潰していた重苦しい波を吹き散らしていく。
炎。矢。浄化の風。
限界を超えてなお止まらない三人の猛攻が、ついに神を守る黒い壁へ、ほんのわずかな綻びを生んだ。
この好機を、歴戦の『王の剣』たるグレンが見逃すはずもない。
「……っ!?」
哀神が目を見開く。
気配も、足音も、風切り音すらない。あるのは、極限まで研ぎ澄まされた殺意だけだった。
グレンが、神の懐へ神速で滑り込む。
「お前の身勝手な哀しみ一つで」
グレンの声が、耳元で低く響いた。
剣が、下段から跳ね上がる。
「あいつの人生を踏みにじって、生きていられると思うなっ!!」
渾身の斬り上げが、漆黒の衣を裂き、その存在そのものへ初めて深く食い込んだ。
「あ……、が……ぁぁぁっ!」
哀神が絶叫する。
けれど、神はそれでもなお終わらなかった。
「いや……いやぁぁぁっ! 一人に……私を、一人にしないで……!!」
裂けた傷口から溢れ出したのは血ではない。
周囲の光までも呑み込む、どす黒い泥だった。
それは生き物のようにうねり、至近にいたグレンの四肢へ絡みつく。さらに広がった泥は波となって、ガイア、ラル、キョウの足元にも這い寄った。
「しまっ……!?」
グレンが剣で振り払おうとする。だが手応えがない。
斬っているはずなのに斬れない。ただ触れたところから心が凍り、生きる意志だけが引きずり剥がされていく。
暴走した哀神は、ここにいる全員を、自らと同じ『永遠の孤独』へ引きずり込もうとしていた。
歴戦の猛者でさえ、魂を泥に絡め取られ、動けない。
このままでは、全員が呑まれる。
その黒泥のただ中を。
――ぱしゃり。
微かな音を立てて、歩み出る者がいた。
「……哀神」
ケセナだった。
エンジの腕から静かに抜け出し、よろめきながらも一歩、また一歩と、泥の中を進んでいく。
一歩ごとに膝が震え、呼吸が浅くなる。人の心を砕くはずの黒泥を踏みしめながら、それでも歩みを止めない。
琥珀色の瞳の奥で、五千星霜を耐え抜いた古い魂と、不器用で心優しい青年の温かな光が、同じ場所に重なっていた。
「……あ、あ……」
我が子の声に、哀神の狂乱に染まっていた瞳から色が抜けた。
残ったのは、ただ底知れぬ哀しみだけを湛えた、ひどく虚ろな眼差しだった。
広間を覆っていた黒泥が、嘘のように動きを止める。
哀神は崩れゆく手で、空を探るようにケセナへ指先を伸ばした。
そこにあったのは、世界を呑み込もうとした神の威厳ではない。
ただ我が子を求める、どうしようもなく弱い母の姿だった。
「……これ以上、俺の大切な者を傷つけることは許さない」
ケセナは、その透け始めた冷たい手を、両手でそっと包み込んだ。
「俺は、貴方がオウセイを生んだから、この人たちに出会えた」
握った手から、温かな光が静かに哀神へ流れ込んでいく。
それは魔術の浄化ではない。ケセナとオウセイが、この長い星霜の中で受け取ってきた、仲間たちの体温そのものだった。
「だから、感謝はしている」
「…………っ」
「だけど、もう終わりだよ」
ケセナの声へ、オウセイの冷たい響きが重なる。
「哀だけだった貴様は、もう喜を知った。なら、ここで消えろ」
哀神の唇が、音もなく動いた。
それが何だったのかは、誰にも分からない。
ただ、頬を伝っていた黒い涙が、最期にひと粒だけ透き通った光へ変わり――
さらさらと。
漆黒の衣を纏った神の姿は、光の塵となって、長い夜巡りの闇へ溶けるように消えていった。
崩れた天井の隙間からは、淡い昼巡りの始まりの光が差し込んでいた。
「……終わった、のか」
ガイアが肩で息をしながら、朱雀の炎を消して短剣を鞘へ戻した。
足元を覆っていた黒泥も、神の消失とともに跡形もなく失せている。
「ええ。……もう残っていない」
キョウが長弓を下ろし、静かに告げた。
ラルは力が抜けたように、その場へぺたりと座り込む。
グレンは、差し込む昼巡りの始まりの光の中で立ち尽くすケセナの背へ歩み寄り、そのすぐ側で足を止めた。
ケセナは、いつものあの情けない表情で、グレンに顔を向けた。
「グレンさん」
「……よくやったな、ケセナ」
「……俺じゃないよ」
その顔に浮かんだ笑みは、長く張り詰めていたものがほどけたような、穏やかなものだった。
五千星霜に及ぶ哀しみの連鎖は、ここで確かに断ち切られた。
だが、安堵に沈んでいる猶予はない。
この先には、フィサルーアを討つという最大の目的がなお残っている。
「……感傷はそこまでにしましょう、団長」
いつの間にか歩み寄っていたエンジが、冷静な声で奥の重厚な扉――地下へ続く入口を示した。
「本番は、ここからです」
その言葉に、グレンの目が再び歴戦の騎士のものへ戻る。
「ああ。……大丈夫か、ケセナ。歩けるか」
「……多分」
ケセナは静かに頷いた。
そして、自分が『実験体』として繋がれ、オウセイの魂と出会ったあの忌まわしい地下へ通じる扉を、真っ直ぐ見つめる。
絶望しかなかったあの場所の先に、この世界の嘘を終わらせるための道が続いている。




