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第七十八話 置き去りにしないための策

 不可能。


 エンジから突きつけられたその一語が、隠れ家の空気を深く沈ませた。

 誰もすぐには口を開けない。グレンは腕を組んだまま、石の床へ険しい視線を落としていた。


(どうする……?)


 視線が、寝台で静かな寝息を立てる金髪の青年へ向く。

 ケセナが目を覚まし、体力と魔力を取り戻せば、ベラリティル邸の結界を崩す手立てが見つかるかもしれない。


 だが、待てるのか。


 ずずん、と。

 厚い石壁と結界を隔てたはずの地下室へ、なお微かな地響きが伝わってくる。


 鉄火の門を越えたあとも、レイアとツェヴァン、そして後方に下げた朱雀の精鋭たちは、命を削って皇都中枢の敵を引きつけ続けている。

 ここで足を止める一刻一刻が、味方の血で購われているのだ。


 猶予はない。


 迷いを断ち切るように、グレンは顔を上げた。


「エンジ。……ケセナを頼めるか」


 それは、保護者としてではなく、先に血路を開く剣として腹を括った声だった。

 だが、頼みを受けたエンジは腕を組んだまま、わざと意地悪く目を細めた。


「……よろしいのですか? このまま置いていけば、また『置き去りにされた』と思って、ジェグヌの折のように飛び出しかねませんよ」


 その一言に、グレンの肩がぴくりと跳ねた。


「なっ……なんでお前がそこまで知っている」

「申し上げたでしょう。団長の知らない情報網が、こちらにはあるんです」


 エンジは冷えた声音のまま、見せつけるように大きな溜息をついた。


「そもそも、この情報網の始まりは……貴方が何も言わず騎士団から姿を消したせいで、血眼になって足取りを追ったことなんですがね」

「…………え?」


 間の抜けた声が漏れる。

 自分たちを陰で支え続けてきた有能な網の始まりが、まさか己の出奔だったとは。


 グレンは完全に虚を突かれ、ぽかんと口を開けたまま固まった。

 後ろではガイアとキョウが、必死に笑いを堪えて肩を震わせている。


「リュウショウ様のことになると、貴方は昔から一直線ですからね。後始末する側の身にもなってください」


 さらに追い打ちを食らい、グレンはしばし、完全に黙り込んだ。

 やがて顔を赤くしたまま、咳払いを一つ。


「……ともかくだ。ケセナが拗ねたら、お前が責任を持って押さえろ。ケセナを預けられるのは、もうお前しかいない」


 誤魔化すような口ぶりだった。

 けれど、その奥にある信頼だけは、誰の目にも明らかだった。


 エンジは瞬きをして見つめ返し、それから呆れ顔をすっと消した。

 深く、静かに騎士の礼を取る。


「承知いたしました、団長。……この隠れ家の結界は、私の命に代えても守ります。どうか、ご武運を」

「ああ」


 グレンは短く頷き、外套を翻して石扉へ向かう。

 その背へ、エンジが淡々と声を投げた。


「借金の件、お忘れなく」

「世界を救ったら返す」

「絶対に、ですよ。地の果てまで追ってでも回収します」


 最強の取り立て人からの脅しを背に、グレンの口元にわずかな笑みが浮かぶ。


「行くぞ。……ケセナの通る道を先に開く」


 そう言って石扉へ手をかけた、その折だった。


「……作るったってよ、どうするんだよ、先生」


 ガイアが、極めて現実的な疑問を投げた。


「監視の目をどう掻い潜るか、そこからでしょ」


 キョウも腕を組み、眉を寄せる。


「……強行突破」


 ラルが物騒な策を口にすると、ガイアは頭をがしがしとかいた。


「それしかねぇ気もするけどよ。外をうろついてんの、応龍騎士団と魔術団だろ。しかも、先生の部下の連中だ」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ重くなる。


 恩師に、自分の部下を斬らせるのか。

 その問いが、誰の口にも出ないまま場に沈んだ。


「だそうですよ、団長。貴方の弟子たちは優秀ですね」


 エンジの嫌味が飛ぶ。

 グレンは石扉から手を離し、ゆっくりと振り返った。


「無策で突っ込むのは犬死にだ。練るぞ。抜ける策を」


 何事もなかったかのように卓へ戻る。

 その声は、騎士団長として部下を率いていた頃と少しも変わらなかった。


「エンジ、地図を」

「こちらに」


 言われる前から用意していたような滑らかさで、エンジが卓上へ皇都の市街地図を広げる。

 ばさり、と小気味よい音が響いた。


「あんのかよ」


 ガイアの即座の指摘に、エンジは涼しい顔で頷く。


「団長は、すぐ地図を広げて作戦を組み始めますから」


 グレンは聞こえなかったふりをして、地図へ目を落とした。


「ここがベラリティル本宅です」


 エンジの指が、一際大きな屋敷の図面を叩く。


「屋敷を覆う魔力感知結界は、正門に埋め込まれた魔力晶石を起点に展開されています。これを壊せば、予備回路が立ち上がるまでの間だけ、感知が完全に途切れる」

「どれくらい?」

「五つ数えるほどです」


 キョウが地図へ鋭い視線を落とす。


「なら、私が路地の死角からその晶石を射抜く。……でも結界が割れたら、巡回中の騎士団には確実に気づかれるわ」

「だったら、その直後に俺が大通りの反対側で馬鹿でけぇ花火を上げる」


 ガイアが口の端を吊り上げた。


「『侵入者はあっちだ』って思わせりゃ、連中の意識は俺の方へ一気に寄るだろ」


 グレンが小さく頷く。


「殺しきらず、追わせる方へ持っていくか……できるか?」

「当然だ。先生の部下たちを死なせない。ちょっと熱い目を見るくらいで済ませるぜ」

「……恩に着る」


 短く礼を述べたあと、グレンは地図上の正門を見つめたまま、ラルへ視線を移した。


「ラル。結界が消え、巡回がガイアたちへ引かれたその五つ数える間に、俺とお前で正門を抜く。結界が戻る前に、敷地の内へ入り込む」

「うん」

「中の抜け殻どもは、魔力を使わず潰す。警報を鳴らす余裕も与えずに、地下へ続く血路をこじ開ける」

「分かった」


 ラルの紫の瞳が、静かに細められる。


「……本宅の中なら、壊してもいい?」

「ああ。ただし、音を立てるな。壊していいのは、進路を塞ぐものだけだ」


 前衛二人の顔つきが変わる。

 それを見て、エンジは静かに言った。


「十分通る策です」


 そして、巻き取った地図の端を指で押さえながら続ける。


「外は朱雀の若き長たちに任せ、団長はラル殿と共に地下を制圧する。私はここで、彼が目を覚ました刻に備えます」

「ああ」


 グレンは寝台へ視線を向けた。


 足音を殺して歩み寄り、熱を持つ細い頬を見つめる。

 起こさぬよう、あえて声はかけない。


 だが。


 ケセナは起きていた。


 薄く開いた琥珀色の瞳が、寝台脇に立つグレンを、じっと見ている。


「寝てろ」


 低く柔らかな声に、ケセナは起き上がろうとした。

 だが身体にまるで力が入らず、ふらついてそのまま寝台へ崩れる。


「……俺も、行く」

「ファル、今は無理よ」


 キョウが寝台脇へ寄り、擦れた布を掛け直した。


「動けないのは事実でしょう?」

「ケセナ。あたしたちが道を開けるから。待ってて」


 ラルも真っ直ぐ見下ろす。


「……分かった」


 布の中で小さく丸まりながら、ケセナはくぐもった声で答えた。


「その声、全然納得してねぇな」


 ガイアが即座に茶々を入れる。

 すると布団の山の中から、むっとした声が返った。


「してるってば。動けないの、本当だし……」

「だったら大人しく寝てろ。すぐ迎えに戻る」


 ガイアが布団の頭の辺りをぽんぽんと叩いて踵を返す。

 キョウも、ラルも、それに続いた。


「ケセナを頼む」


 最後にグレンがエンジへ短く告げ、『王の剣』の四人は隠れ家を後にする。

 ケセナは布団から少しだけ顔を出し、その背を見送った。


 重い石扉が閉ざされ、静けさが戻る。


「大丈夫ですよ。あの方々を信じなさい」


 エンジは穏やかに声をかけながら、寝台のケセナを安心させるよう、その金の髪へ手を伸ばした。


 触れようとした途端だった。


「ひっ……!」


 ケセナの身体が激しく跳ねた。

 琥珀色の瞳が大きく見開かれ、伸びてくる手を凝視したまま動かない。

 喉が詰まったような呼吸とともに、全身が小刻みに震え出す。


「……そうですか」


 エンジはすぐに察した。

 無理に触れず、手を途中で止めて静かに引く。


「見知らぬ手には、まだ触れられたくないのですね。承知しました」


 それ以上、近づかない。

 ただ声の調子だけを落として、静かに告げる。

 やがて震えは収まり、脂汗を滲ませ荒い息を繰り返しながら、ケセナは再び深い眠りへ沈んでいく。

 エンジはその寝顔を見下ろし、額へ置くはずだった濡れ布を、静かに握り込んだ。

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