第七十七話 旧き右腕、影より来たる
第三城門を抜けたところで、朱雀の精鋭たちは後方へ下がった。
白虎と青龍の後方部隊に合流するためだ。
グレン、ラル、ガイア、キョウ。そしてグレンの背で眠るケセナ。その少人数で、彼らは皇都の中枢たる城郭区画へ足を踏み入れた。
そこに広がっていたのは、息をするだけで喉を塞がれるような死地だった。
貴族、将校、応龍族関係者の屋敷が立ち並ぶはずの街並みは、濃密な瘴気に覆われ、外から差す光すら届かない。
その薄闇の中を、無数の松明と魔力灯だけがせわしなく行き交っていた。
「……止まれ」
物陰へ身を沈めたグレンが、後方のガイアたちへ鋭く片手を上げる。
すぐ先の大通りを、応龍騎士団員と魔術団員の混成部隊が巡回していた。騎士は完全武装。魔術団員は深く外套を被っている。
その瞳は一様に暗く濁っていた。
フィサルーアから与えられた加護によるものか、精神への干渉か。いずれにせよ、まともな状態ではない。見つかれば終わりだ。
一行は息を潜め、巡回が通り過ぎるたびに路地裏の影を縫うように進む。
だが、監視の目が多すぎる。
進んでは隠れ、道を変えては引き返す。もどかしい足止めが続いた。
「……ん、ぅ……」
張り詰めた静寂の中、グレンの背でケセナが苦しげに小さく呻いた。
戦闘の疲労と魔力切れに、開いた傷の痛みも重なっているのだろう。
浅い眠りの底で何度かびくりと身を震わせ、額には脂汗が滲んでいる。背越しに伝わる体温も尋常ではない熱さだった。
(まずいな……)
グレンは周囲を警戒しながら、背中のケセナをそっと背負い直した。
ここで声を上げて魘されでもすれば、それだけで致命的だ。
しかも不運は重なった。
彼らが潜む丁字路の先で、二つの巡回部隊が合流し、道を塞ぐように足を止めてしまったのだ。
「先生。あいつら、あそこで立ち話始めやがったぞ。このままじゃ進めねぇ」
ガイアが壁に背を預けたまま、舌打ち混じりに囁く。
「……少し戻って、西の塔側から回るしかないか」
「西もさっき魔術団員が見回ってたわ。袋小路よ」
キョウも険しい顔で首を振った。
八方塞がり。
焦りがじわりと広がり始めた、その折だった。
グレンたちから見て完全な死角となる背後の暗がりで、ふいに空気がわずかに冷えた。
「っ!!」
足音はない。
衣擦れの音すら立てず、気配を完全に殺したまま、背後まで踏み込んできた何者か。
騎士として研ぎ澄まされた勘が、グレンの全身へ警鐘を叩き込む。
ケセナを背負ったまま音もなく振り返り、腰の剣を抜き放つ。
ガイアも短剣を構え、ラルも槍へ手をかけた。
「……何者だ。声を立てるな」
グレンの低い声には、ためらいのない殺意が滲んでいた。
だが、喉元へ刃を突きつけられたその影は、微塵も動じない。
「はぁ……」
底冷えするほど呆れたような溜息が、一つ落ちた。
「相変わらず、無茶ばかりですね。グレン団長」
「……あ?」
雲間から差したわずかな光が、その人物の顔を照らす。
いくつか傷跡の残る顔立ち。
整えられた無精髭。
黒に近い深緑の髪、鋭い赤茶色の瞳。
ジェグヌで着ていた作業着ではなく、動きやすい簡素な服。腰には手入れの行き届いた長剣。
「お前……っ」
グレンが目を見開き、切っ先を僅かに下げる。
「エンジか……!?」
「話は後です。それより先に、ファルイーア様が限界でしょう」
応龍騎士団副団長だった頃、グレンの右腕を務めた男。
ジェグヌで武器屋を営みながら、最後まで小言と請求書を突きつけてきた元副団長。
エンジ・メルノートだった。
「どうして、お前がこんな所に……」
「後回しです」
剣を向けられていることなど意に介さず、エンジはすぐにグレンの背のケセナへ目を走らせた。
額の汗、呼吸、顔色。ひと目で状態を見抜く。
「焼けつくような熱だ。……まったく、ジェグヌでも思いましたが、貴方は『保護者』を名乗るわりに、肝心なところが甘い」
「……」
「こちらへ。巡回の隙間を縫って案内します。私の隠れ家です」
「あ、あの刻の……扉の……」
ラルが、自分が破壊した武器屋の木扉を思い出したらしく、気まずそうに視線を逸らす。
ガイアも「あ、あの武器屋か」と思い出したように呟いた。
そんな二人を一瞥し、エンジは淡々と言った。
「扉の件も、後ほど」
ラルの肩が、びくりと跳ねる。
「助かる、エンジ。恩に着る」
素直に礼を述べたグレンへ、エンジは背を向けたまま冷ややかに言い捨てる。
「当然です。……あの折、『出世払いで』と誤魔化された特注木扉二枚の修繕費、貴方の黒制服の補修代、ついでに持って行った長衣代。利子をつけて全額回収するまでは、こんな場所で死なれては困りますから」
「……っ」
ジェグヌでの一件を、この死地でまとめて取り立てられた。
グレンは露骨に顔を逸らし、何も言い返せぬままエンジの背に従うしかなかった。
こうして、頼もしすぎる元副団長は、絶望のど真ん中で彼らへ静かな救いを差し出したのだった。
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エンジの先導は、まさしく神業だった。
巡回部隊の死角、監視術式の僅かな綻び、兵士たちですら嫌う瘴気の澱み。
そのすべてを把握し、一切の音を立てず、最短距離で城郭内をすり抜けていく。
やがて辿り着いたのは、大通りから外れた廃棄区画の奥、崩れかけた古い礼拝堂の地下だった。
隠し扉めいた石扉を開けると、外とは別世界のように澄んだ空気が広がる。
瘴気を遮断する結界。
埃ひとつない寝台。
薬品棚、数夜分の食料と水。
すべてが過不足なく整えられていた。
「ここは……隠密部隊の退避所か」
「ええ。正確には、その跡地です。現在は私が勝手に整え直して使っています」
エンジは淡々と答え、最低限の灯りを入れる。
「さあ団長、立っていないで早くファルイーア様を寝台へ。そこが一番ましな場所です」
「あ、ああ……」
グレンは言われるまま、ケセナを寝台へそっと下ろした。
「退いてください。貴方の手では、余計なところまで痛めます」
グレンを追い払うように脇へ退け、エンジはすぐさま薬箱を開いた。
衣服を緩め、汗を拭き、熱を落とすための濡れ布を額へ置く。
さらに、魔力枯渇と疲弊に効く特製の霊薬を、眠ったままのケセナへ少しずつ流し込んでいく。
だが、衰弱しきったケセナは小さくむせ、薬を吐き戻した。
「……無理もありません。あまりにも深刻な魔力枯渇です。筋肉も限界を超えているし、傷も開いている。よくこの状態で第三城門の機構を解除できたものです」
吐き出した薬を丁寧に拭いながら、エンジが苦く呟く。
「無茶ばかりするからな」
壁に背を預けたグレンが、苦々しく応じた。
「それは団長の教育の賜物でしょう。似た者同士なんですよ、貴方たちは」
「……」
容赦のない一言に、グレンは口を噤むしかなかった。
けれど、処置が進むにつれ、ケセナの呼吸は少しずつ落ち着いていく。
強張っていた寝顔も、穏やかさを取り戻し始めた。
「……すげぇ。あの先生を顎で使ってる」
ガイアが思わず声を漏らす。
「さすが『騎士団のお母さん』ね。先生が頭上がらない訳だわ」
キョウも腕を組みながら、感心したように頷いた。
「それで?」
ケセナの様子を見届け、一息ついたエンジが椅子へ腰を下ろし、グレンたちを真っ直ぐ見た。
「なぜ、お前がこんな皇都の最深部にいる。武器屋はどうした」
グレンの問いに、エンジは深い溜息を返す。
「臨時休業です。……貴方がた前線軍が、碌な補給も退路もなく皇都中枢へ突っ込んだと聞いたので」
「誰からだ」
「私を誰だと思っているんですか。元副団長ですよ」
エンジは冷ややかに言った。
「各地へ散った旧騎士団の生き残りとは、今も連絡を取っています。物資調達も、後方支援の差配も、私の仕事です。……団長がこういう無茶をすることくらい、分かりきっていました」
「うっ……」
「だから先回りして、ここを整え、結界を張って、貴方がたが転がり込んでくるのを待っていたんです。……まったく、世話の焼ける上官だ」
呆れたような言い方だった。
だが、その奥にあるのが「絶対に死なせない」という忠誠だと、ここにいる全員が分かった。
グレンはばつが悪そうに頭を掻き、小さく「……すまん」と零す。
「あ、あの……」
部屋の隅で縮こまっていたラルが、恐る恐る前へ出た。
「その節は……木扉、壊して、ごめんなさい……」
数十夜越しの謝罪だった。
ジェグヌで特注の木扉を二枚まとめて吹き飛ばした張本人からの。
エンジはラルをじっと見つめ、やがてふっと表情を和らげた。
「気にしなくていいですよ。……修理代はきっちり、そこの元団長の勘定へ上乗せしてありますから」
「えっ」
「おい! なんで俺なんだ!」
グレンの抗議は当然のように無視される。
エンジはラルの頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「それより、ここまでファルイーア様を支えてくださって、ありがとうございます。……温かい木の実の汁物があります。飲みますか?」
「……うん。飲む」
ラルは少し目を潤ませながら、こくりと頷いた。
その鮮やかな切り替えに、ガイアとキョウはそろって「勝てねぇ……」という顔で視線を交わす。
「さて。少し休みながらで構いません。聞いてください」
エンジがラルへ木椀を渡しながら、声を一段落とした。
「貴方がたの目指すベラリティル邸は、ここから大通りを一つ越えた先です。……ですが、状況は最悪に近い」
「どういう意味だ」
グレンの声に、部屋の空気が張り詰める。
「第三城門が抜かれたことで、この一帯の守りは異様なまでに強化されています。それも、ただの兵ではない。……人の形をした、別の何かです」
「別の何か?」
「ええ。フィサルーアの加護を直接受けた上位の魔人か、あるいは戦で死んだ者たちの抜け殻か。いずれにせよ、人間とは思わない方がいい」
エンジの言葉に、グレンは眉を寄せた。
「しかも、ベラリティル邸そのものへ厄介な結界が張られています。魔力を持つ者が近づけば、たちまち感知される。……ファルイーア様が万全ならまだしも、あの状態で突破するのは不可能に近いでしょう」
告げられたのは、救いのない現実だった。
隠れ家の中へ、重苦しい沈黙が落ちる。




