第七十三話 約束を破る娘
ケセナは黄金の翼を翻し、空へ舞い上がった。
同刻、濃密な瘴気が噴き上がり、黄金の光を食い殺そうと上空へ殺到する。瘴気は無数の巨大な黒槍となり、空中のケセナへ牙を剥いた。
「ちっ……!」
空を埋め尽くす全方位からの対空攻撃。
このまま空に留まれば、いかに黄金龍の光といえど防ぎきれず、たちまち串刺しになる。
咄嗟に防御へ移ろうとしたケセナの耳へ、限界まで魔力を練り上げたラルの声が響いた。
「上が駄目なら、地を走って!! ケセナ!!」
ラルの両手から解き放たれた極大の風魔術が、荒れ狂う城壁上の大気を薙ぎ払い、ケセナへ向けて一直線の『道』を切り開く。
その援護を背に受けたケセナは、空中で黄金龍へ流していた魔力をすっと切った。
眩い双翼が霧散する。
石畳へ着地するや否や、彼は風の道を矢のように駆け出した。
「行カセるもノか!」
焦燥を滲ませたリーギスト――否、寄生体が醜悪な声で叫ぶ。
指先を弾いた途端、先ほどまで倒れていた無数の屍人たちが不気味な関節音を鳴らしながら立ち上がり、肉の壁となってケセナの行く手を塞いだ。
だが、突き進むケセナの琥珀色の瞳には、一片の迷いもない。
走りながら腰袋から封玉を取り出し、それを強く握り込む。
もう一方の手で抜き放ったのは、宝刀プラークルウ。
その刀身を見た寄生体が、嘲るように嗤った。
「ハッ! 剣精のイなイ刀ナど!」
「……それは、どうかな?」
ケセナの口元が、不敵に吊り上がる。
次の刹那、ケセナはプラークルウを無造作に一閃した。
「ナに!?」
寄生体が驚愕に目を剥く。
斬り伏せられた屍人たちは、血を流すことも、再び立ち上がることもなかった。
プラークルウの軌跡へ触れた端から、跡形もなく消滅していったのだ。
浄化ではない。
魔力の結び目を断ち、存在の形そのものをほどく。宝刀プラークルウの刃は、屍人を再生の輪から切り離していた。
「嘘だろ……!? あの不死身の屍人どもが、一息で消えやがった……!」
風魔術で援護していたラルが息を呑む。
後方のガイアとキョウも、その光景に言葉を失っていた。
「ダが、ワれには! 加護が!」
屍人の壁を突破され、懐まで踏み込まれた寄生体が半狂乱で叫んだ。
ガイアの爆炎すら弾き返した絶対防御の障壁。それを最大出力で展開し、ケセナの刃を迎え撃とうとした、その折だった。
「無知か。……生まれたばかりだな、貴様」
氷のように冷たい、静かな声が響く。
「!」
寄生体の動きが、本能的な恐怖に射竦められたようにぴたりと凍りつく。
ケセナの琥珀色の瞳が、五千星霜前の絶対者の威光を宿し、眼前の矮小な闇を見下ろしていた。
「我は知っている。我が戯れに創りし対魔の刃は、今も我と共にある」
「!」
「加護など、我が造物の前では無意味だ」
振り下ろされた宝刀プラークルウが、寄生体の絶対防御を、薄い飴細工でも砕くようにあっさりと叩き割った。
かつてオウセイが、ティリティシアで戯れに鍛えた対魔人の刃。
その前では、神の世界から落ちてきた手駒に過ぎぬ魔人の加護など、意味をなさない。
砕け散る障壁の破片を抜け、銀の刀身がリーギストの胸、その奥底で蠢く寄生体へ深く、正確に突き立てられる。
圧倒的な好機。
だが、ケセナはそのまま止めを刺さなかった。
柄を握ったまま振り返り、後ろに立つ少女へ向けて、魂の底から声を張り上げる。
「ラル! ありったけの魔術をぶつけろ! 君の手で、お父さんを解放するんだ!」
ケセナから託された、最後の一撃。
だが――
ラルは構えていた槍を、からん、と石畳へ放り出した。
何の武器も持たぬ無防備な姿のまま、宝刀に縫い止められて苦しむリーギストへ向けて、静かに歩き出したのだ。
「……何を?」
予想外の行動に、ケセナが目を見開く。
すぐには分からなかった。だが、真っ直ぐ向かってくるラルの紫の瞳を見て、ケセナは息を呑んだ。
ラルがリーギストの目の前まで歩み寄る。
ケセナは無言のまま、寄生体を縫い止めていた宝刀プラークルウを一気に引き抜いた。
支えを失い、どさりと崩れ落ちそうになるリーギストの身体。
それを、ラルが真正面からきつく、きつく抱きしめた。
「お父さん……っ!!」
血と煙にまみれた戦場で、七星霜齢の頃のように父の胸へ縋りつく。
寄生体の放つ禍々しい瘴気がラルの身体を包み込む。
それでも彼女は、決してその腕を離さなかった。
「……会えてよかった」
ラルは父の耳元へ、震える声を落とした。
そして抱きしめたままの距離で、自身の中に渦巻く麒麟の魔力を限界まで練り上げる。
父の魂を汚す寄生体だけを、灰すら残さず焼き尽くし、消し去るために。
「約束、守らなかったの。言っとく」
『仇を取ろうと思うな』
あの昼夜、最後に交わした、二人だけの秘密の約束。
それを破る不良娘へ向けて。
膨大な魔力の光に包まれながら消えゆくリーギストの最期の声は、寄生体の歪みをまったく含まぬ、穏やかで優しいものだった。
「……怒るぞ」
すべてを白く染め上げる魔術の閃光が弾ける。
やがてそれは光の粒となって、オーレルディアの空へ溶けていった。
ラルの腕の中には、もう誰もいない。
広場を埋め尽くしていた屍人たちも、リーギストへ寄生していた魔人の消滅とともに、次々と泥のように崩れ落ちていく。
勝った。だが、無傷ではない。
広場の安全が確保されたのを見届けると、ガイアとキョウは負傷者の元へ急ぎ、城壁から地上へ降りていった。
荒れ果てた城壁の上。
ケセナとラルは、血に濡れた石畳へ並んでへたり込んでいた。
「……またオウセイ、出てた」
膝を抱えたラルが、ぽつりと呟く。
「仕方ないでしょ。対魔人なんて、普通に相手してられないよ」
ケセナは苦笑して返したが、ラルの紫の瞳はその横顔をじっと見つめていた。
「揺らいでる」
「……!」
「ケセナの中で、行ったり来たり」
麒麟族の研ぎ澄まされた瞳には、すべてが視えている。
ケセナは小さく息を吐き、誤魔化すことを諦めたように視線を膝へ落とした。
「……そうだね。視えるよね」
しばしの沈黙を挟んでから。
ケセナは、まだグレンにすら打ち明けていない、自分の内側の恐怖を初めて口にした。
「俺は、俺が安定しなくて……結構、きつい」
「……知ってる」
ラルの静かな相槌に、ケセナは自嘲気味に笑う。
「いつもの俺なのか、地下室にいた頃の僕なのか、それともオウセイなのか。いつか、自分が誰なのか分からなくなりそうで……」
力を振るうたび、記憶が混ざる。
地下室の絶望も、五千星霜前の絶対者の感情も、自分の中へ流れ込んでくる。自分の輪郭が、少しずつ溶けていくようだった。
ラルはくすりと柔らかく笑うと、隣に座る青年の肩へ、ことんと自分の頭を預けた。
「ケセナはケセナだから。あたしは、どれでもいい」
拍子抜けするほど単純で、それなのに、今のケセナがいちばん欲しかった言葉だった。
どんな過去を持っていようと、どんな魂が混ざっていようと、背中を預け合ってきたケセナであることは変わらない。
ラルはその全部を、丸ごと肯定してくれたのだ。
「……それ、一番困るかなぁ」
ケセナは照れ隠しのように困った顔を作りながらも、憑き物の落ちたような穏やかな声で返した。
昼巡りの中頃を照らす光の下、封還の季の冷たい風が、二人の間を優しく吹き抜けていく。
「ケセナ」
「うん?」
「……ありがとう」
父を解放してくれたこと。
自分を止めてくれたこと。
そして、一緒に戦ってくれたこと。
そのすべてを込めたラルの短い感謝へ、ケセナはただ、柔らかく微笑み返した。
それから、彼はそのまま石畳の上へごろんと寝転がる。
「ケセナ!?」
ラルが驚いて顔を覗き込む。
「反動。少し休ませて」
全身を襲う痛みと、魔法と魔術の乱用による凄まじい疲労感に、ケセナは情けなさから笑うしかなかった。




