第七十二話 黄金の双翼
ありったけの力を込めたケセナの叫び。
その声は戦場の轟音と魔力の渦を切り裂き、確かに城壁の上のラルへ届いた。
「……あ」
天を衝く勢いで荒れ狂っていた紫の竜巻が、わずかに揺らぐ。
「……その声には、従うんだね。ラル」
その一瞬の綻びを、父の顔をした男が見逃すはずもなかった。
リーギストが紫の瞳を細め、指先を軽く弾く。
すると、先ほどまでガイアの爆炎を弾いていた『魔人の加護』の障壁がぐにゃりと歪み、目に見えぬ無数の刃へ変わって、無防備なラルへ襲いかかった。
「ラルっ!!」
誰よりも早く動いたのは、ガイアだった。
迷いなくラルの前へ飛び出し、両手から極大の炎壁を立ち上げて、見えない刃を真正面から受け止める。
炎と障壁がぶつかり合い、凄まじい衝突音が響いた。
「ぐぅぅっ……!!」
ガイアの喉から苦悶の呻きが漏れる。
苦しいのは、魔人の加護の反発だけではなかった。背後で暴走する麒麟の魔力が、ガイアの炎ごと肉体を焼き始めている。
「ガイア!! この、死体を弄ぶクズがっ!」
キョウが悲鳴じみた声を上げ、即座にリーギストの眉間へ三本の矢を同時に放つ。
だが、それすら新たな障壁にあっさり弾き落とされた。
「おい、ラル……! 正気に戻れ、この馬鹿野郎……っ!」
炎壁を維持し、血を吐きながら、ガイアが背後の少女へ怒鳴りつける。
「お前がそんな力で潰れたら、誰が下で喚いてるファルの背中を守るんだよっ」
「あ……ああ……っ」
ラルは両手で頭を抱え、泣き叫ぶ。
止めなければならない。
けれど、目の前にいる父の偽物をこの手で殺さなければ、どうにかなってしまいそうだった。
暴走した麒麟の血が、心も身体も内側から焼き焦がしていく。
地上では、上空でガイアが防戦に追い込まれているのを見たケセナが、唇を噛み締めた。
空を飛ぶ手段はない。
それでも、立ち尽くしている暇などなかった。
ケセナは城壁の壁面に、先ほどの戦闘で生じた巨大な亀裂と崩落跡を見つけ、駆け出す。
「グレンさん!! あの亀裂まで俺を押し上げて!」
「……っ!? 無茶だ、ケセナ! そこから先は素手で登るしかない、絶壁だぞ!」
「行くしかないんだ! 早く!!」
琥珀色の瞳に宿る、決して退かぬ覚悟。
それを見たグレンは短く舌打ちし、剣を鞘へ収めると、ケセナの背を強引に掴み上げた。
「……落ちたら俺が拾ってやる。行けっ!!」
玄武族の腕力で、ケセナの身体が上方の亀裂へと放り投げられる。
壁の突起へしがみついたケセナは、指先から血を滲ませ、息を荒げながら垂直の壁をよじ登り始めた。
(早く……早く!!)
だが、その姿は城壁の上の男の視界にも入っていた。
「目障りですね。羽虫が」
リーギストが冷酷な紫の瞳を下へ向け、指先をひと振りする。
不可視の魔力刃が、ケセナの頭上の石壁を無慈悲に砕いた。
「あっ……!」
手がかりを失い、空を切る右手。
重力がケセナの小さな身体を、容赦なく地上へ引きずり落とす。
視界が遠のく。
頭上では、命を燃やす紫の渦の中で、ラルが泣き叫んでいる。
(届かない……届かない! どうすれば!!)
空中で必死に手を伸ばし、絶望に歯を食いしばった、その刹那。
『……我を、使え』
ケセナの脳裏へ、重厚な声が直接響いた。
五千星霜前から、その魂に封じられていた『凶器』。
黄金龍が、主の渇望に応えた。
「来いっ……黄金龍!!」
空中でケセナが叫んだ、その瞬間。
背中から、周囲の空気すら焼き焦がすような眩い黄金の光が爆発的に溢れ出す。
現れたのは、龍の本体ではない。
ケセナの背から生えるように具現した、この世に存在するはずのない、光り輝く『黄金龍の双翼』だった。
黄金の翼が一度、力強く羽ばたく。
落下しかけていたケセナの身体は重力を粉砕し、一条の光となって空を駆け上がった。
地上で彼を助けようと駆けていたグレンが、その黄金の軌跡を息を呑んで見上げる。
「ラル!!!」
空を裂き、城壁の縁を越えたケセナは、暴走する禍々しい魔力の中心へ向け、黄金の翼を広げたまま一直線に翔んだ。
そして――
荒れ狂う紫の渦の中心へ、神々しい黄金の光が舞い降りた。
「なっ……ファル!?」
「嘘でしょ……!?」
突如として上空へ飛来し、黄金の双翼を広げるケセナの姿に、炎壁を支えていたガイアと、後方で弓を構えていたキョウが驚愕に目を見開く。
だが、ケセナには二人へ構う余裕などなかった。
「ラル! ラル!! 聞いて! お願いだから!」
「ケ……セナ……?」
黄金の光に照らされ、殺意に染まっていたラルの瞳が、わずかに焦点を取り戻す。
ケセナはガイアの前へ躍り出ると、ガイアの身体を焼いていた紫の魔力ごと、ラルを正面から強く抱きしめた。
暴走する麒麟の魔力が、ケセナを侵そうとする。
だが彼を包む『黄金龍の光』は、それすら中和し、弾き返した。
ガイアの負担が、ふっと消える。
「ガイア!」
ラルの魔力から解放され、限界を迎えて膝をつきかけたガイアへ、キョウが血相を変えて駆け寄る。
間一髪でその身体を支えられた若き将は、血の混じった息を吐きながら、自嘲気味に口端を上げた。
「はは……俺、今、超かっこわりーな」
「馬鹿なこと言ってないで!」
キョウは怒鳴りながらも、安堵で声を震わせてガイアを支えた。
その視線は、前方、黄金の光に包まれる二人へと向けられる。
「ラル、落ち着いて。あれはラルの父親なんかじゃないよ」
ケセナは腕の中の少女へ、優しく、しかしはっきりと告げた。
だが、ラルは首を横に振る。
「だって……だって、お父さんが最期に言った言葉……っ。あたししか知らないはずの言葉を……っ!」
混乱と悲しみが、再びラルの理性を呑み込もうとする。
「感動的な再会ですが、耳障りだ」
冷酷な声とともに、リーギストが腕を振るった。
先ほど広場でガイアに焼き尽くされたはずの屍人たちが、城壁の縁から這い上がり、一斉にケセナたちへ襲いかかる。
「させない!」
ケセナがラルを抱き留めたまま、片手で迎撃の魔術を放とうとした、その刻。
「やめて!!」
ラルが、ケセナの腕へ縋りつき叫んだ。
「お父さんなの! あたしの、お父さんなの!!」
たとえ屍人であっても、父の姿をした彼を攻撃させたくない。
その悲痛な叫びに、ケセナは思わず迎撃の手を止める。
迫る屍人たちを、黄金の光が牽制していた。
そして、戦場へ響き渡る声で一喝する。
「ラル!!!」
びくんっ、とラルの身体が大きく跳ねる。
「よく見るんだ! あれが本当に、君の父親なのか!?」
ケセナはラルの両肩を掴み、強引にリーギストの方へ顔を向けさせた。
「君の麒麟の血なら分かるはずだよ! 君の大切な父親の中で、蠢いてる『魔人』が!」
「……えっ?」
ケセナの言葉に、ラルははっと息を呑む。
涙で滲む目を擦り、リーギストを真正面から見据えた。
禍々しい魔力を放つその姿。
ただの魔力の波長だと思っていたものが、研ぎ澄まされた麒麟の瞳を通した途端、まるで別の輪郭を持って浮かび上がる。
「……ほぉ。わタしが、みエルと?」
ふいに、リーギストの口から漏れた声が、不気味に歪んだ。
それは明らかに、人の声ではない。
ラルの紫の瞳が、その深淵を捉える。
リーギストの抜け殻のような魂へ寄生し、あの『最期の言葉』すらも引きずり出して、悪趣味に操っている、どす黒い闇。
「……いた」
ラルは呆然と呟き、やがて、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
「……見つけた」
あれは父親ではない。
大好きな父の魂を冒涜し、肉体を弄ぶ、醜悪な寄生体だ。
涙は、もう止まっていた。
ラルは静かにケセナの胸から離れ、自らの獲物である槍を再び握りしめる。
「……お願い、ケセナ。あたしにやらせて」
先ほどまでの狂乱はない。
そこにあるのは、真の敵を見据える静かで冷徹な怒りだった。
「お父さんを、解放したい」
その横顔を見たケセナは、短く頷く。
「……手伝うよ」
二人は、父の身体に巣食う闇を討つため、並び立った。
「……あなたは誰?」
黄金の光に照らされながら、ラルは氷のように冷たい声で問う。
先ほどまで父の幻影に縋って泣き叫んでいた少女は、もういない。
そこに立つのは、真の敵を仕留めるため、極限まで研ぎ澄まされた麒麟族の戦士だった。
「らル、おとウさんだよ。そんな恐ロしい顔を、しなイでおくレ」
リーギストの口が、不自然に歪みながら、耳障りな言葉を紡ぐ。
優しい父の仮面を被り続けようとする、その浅ましい悪あがきに、ラルの瞳の奥で激しい怒りが燃え上がった。
「違う」
ぴしゃりと、ラルがその言葉を断ち切る。
同時に、彼女の足元から爆発的な風魔術の渦が巻き起こり、城壁上の大気を鋭い刃のように裂き始めた。
「あたしが聞いてるのは……お父さんを冒涜して、中に引き籠ってる寄生虫に聞いてるの!!」
ラルの槍が、真っ直ぐリーギストの心臓の奥底で蠢くどろどろの闇へ突きつけられる。
自分を確実に見抜いたラルの殺意を受け、リーギストの顔へ初めて戸惑いが走った。
「ばカな。この隠蔽が、ただの人ゲんに、みエるハずは……」
「視えてるから、聞いてるんだろう?」
動揺した寄生体の声を遮るように、ケセナが冷たく言い放った。
背に眩い黄金龍の双翼を広げ、ラルの隣へ並び立つ金髪の青年。
その琥珀色の瞳は、かつてないほど冷たく、絶対的な威圧を帯びている。
「さっさと答えろ、害虫が」
それは、ただの青年の声ではなかった。
その瞳に宿る圧倒的な黄金の輝きを真正面から浴び、リーギストの顔面が、父の面影などひとかけらも残さぬほど、醜悪に、そして憎悪に満ちて歪む。
「…………っ!!」
寄生体は理解した。
目の前の羽虫が、ただの人間ではないことを。
その魂の奥に、五千星霜前の忌まわしき『裏切り者』が封じられていることを。
「我ワレの、飼イ犬がァッ……!! まタ、邪魔ヲするカァァァァッ!!」
鼓膜を破るような、悍ましい魔人の絶叫。
父の身体を引き裂かんばかりに、リーギストの全身からどす黒い怨念の瘴気が爆発的に噴き上がった。




