第七十一話 偽りの父
後方から、極大の爆発音と、地鳴りのような朱雀の雄叫びが響き渡る。
彼らが『死の箱庭』たる広場で魔人の軍勢を引きつけている間に、グレン、ケセナ、ラルの三人は、入り組んだ市街地の裏路地を矢のように駆け抜けていた。
無用な戦闘は避け、ひたすら先を急ぐ。やがて、市民の生活区画へ通じる堅牢な第二城門が、目前に迫った。
「……嫌な感じがする」
最後尾を走っていたラルが、不意に足を止め、背後で死闘が続く広場の方角を振り返った。
「ラル?」
不自然な立ち止まりに気づき、ケセナも慌てて足を止める。
振り返ったラルの顔には、いつもの冷静さがひとかけらもなかった。目を見開き、額に冷や汗を滲ませ、何かを悟ったように全身を強張らせている。
「ごめん、ケセナ。先に行って」
「えっ?」
短くそれだけを言い残し、ラルは第二城門へ背を向けた。
ケセナが引き止める間もなく、来た道を猛烈な勢いで駆け出していく。
「ちょっ、ラル!? 一緒に!」
呆気に取られ、遠ざかる背へ戸惑いの声を投げるケセナ。
その肩を、先頭を走っていたグレンが力強く掴んだ。
「ラルを追うぞ」
「グレンさん!」
グレンは第二城門から視線を切り、迷いなくラルが消えた路地へ向き直る。
「あいつが、私情や恐怖で持ち場を捨てるはずがない。あの広場で、よほどの異変が起きている」
「……うん!」
ケセナは強く頷いた。
第二城門への最短行程を一旦捨て、二人はラルの後を追って、ガイアたちの死闘が繰り広げられる『死の箱庭』へ踵を返す。
ラルは、あの気配を知っていた。
息が荒れる。鼓動が速い。
頭ではない。魂の奥底が、あれを覚えている。
普段の彼女なら決して崩さぬ呼吸が、今は浅く乱れていた。それでも、もつれそうになる足を必死に前へ運ぶ。複雑な路地を、ほとんど転がるように駆け戻った。
(あれは……あれはっ!)
爆炎と怒号が吹き荒れる第一の広場。
防壁の入口へ飛び込んだラルは、地上で繰り広げられる凄惨な戦いには目もくれず、真っ直ぐ城壁の上を見上げた。
燃え盛るガイアの炎を、見えない障壁で弾き返しながら見下ろしている漆黒の髪の男。
その姿を視界に捉え、ラルは喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
「お父さん!!!!!」
戦場の喧騒を裂く、悲痛な叫び。
城壁の上で戦っていたガイアとキョウが、はっと下を振り向く。
ラルが七星霜齢の刻。
元皇妃ノヴェリアに裏切られ、目の前で無惨に殺されたはずの父。
記憶の中の姿から、少しも老けていない。だが、間違えようがなかった。あの魔力の波長も、あの立ち姿も。ラル自身の血が、あれは実の父だと訴えていた。
「ラル!」
遅れて広場へ駆け込んできたケセナとグレンが、立ち尽くす彼女の背へ追いつく。
だが、ラルの視線を追ったグレンもまた、そこに立つ男の顔を見て、驚愕に目を見開いた。
「父、と言ったか……? では、あの男が……リーギスト・クレート!?」
信じがたい名が、グレンの口から漏れる。
麒麟族の復権を企て、ノヴェリアと共に禁呪『生物創造』へ手を染めた男。偽りの皇太子を生み出し、すべてを狂わせた大罪人の一人。
そして、とっくに暗殺されたはずの男。
その呟きすら耳に入らぬまま、ラルは城壁の上を見上げていた。
男が持つ不気味な紫の瞳。それは皮肉にも、彼を見つめるラル自身の瞳とまったく同じ色をしていた。
ラルが血を吐くような叫びを上げたというのに、城壁の上の男、リーギスト・クレートは眼下の娘を一瞥しただけで、何の感情も交えずに再び前方のガイアへ視線を戻した。
その冷ややかな無関心に、ラルの理性が焼き切れた。
「っ……!!」
ラルは足元で『風魔術』を爆ぜさせ、垂直の城壁を一気に駆け上がった。
制御も荒い。風の推進力に任せて城壁の縁を蹴り上がり、勢い余って石畳の上を激しく転がる。擦り傷など意にも介さず身を起こしたラルは、ガイアとリーギストのちょうど中間にいた。
「ラル!?」
突如として乱入してきた戦友の異様な姿に、ガイアが思わず歩み寄ろうとする。
だが、その胸元へ、ラルの槍の鋭い銀の穂先が突きつけられた。
「……あたしに、やらせて」
俯いたまま、地を這うような声が漏れる。
「おい、何言ってんだ! そいつは!」
「この男を……お父さんの顔をした偽物を、あたしに殺させてって言ってんの!!」
顔を上げたラルの瞳から、涙が溢れ落ちていた。
悲しみと怒りが入り混じった叫びが、城壁の上に響き渡る。
「あたしのお父さんは、あたしの目の前で殺された! そこにいるのは偽物! お父さんを愚弄する、ただの悪趣味な偽物!」
自分に言い聞かせるように、ラルは槍を握り締める指へ、さらに力を込めた。
そうだ、偽物に決まっている。両親は確かに、自分の目の前で血の海に沈んだのだから。
だが、その叫びを受けた男は、紫の瞳をゆっくりと細め、ふっと、昔と変わらぬ柔らかな笑みを浮かべた。
「……偽物? 何を言っているんだい、ラル」
心臓が跳ね上がる。
優しい声だった。最後に聞いた、大好きな父そのものの声。
「うるさい……!!」
ラルが震える手で槍を構え直す。
「ラル、おいで」
リーギストが、迷子の娘をあやすように両手を広げた。
「うるさい!」
ラルは両足に風を纏わせ、偽物の心臓を貫くべく一歩を踏み出そうとする。
だが、次の一言が、その全身を完全に硬直させた。
「ラル。『仇を取ろうと思うな』と、お願いしただろう?」
「…………!!!!」
息が止まる。
頭の中が真っ白になり、握り締めた槍が、かたかたと震え出した。
刺客の刃に倒れ、虫の息となった父が。
泣き叫ぶ自分を血まみれの手で抱き締め、最後に遺した言葉。
他の誰にも聞かれていない。この世界で、ラルと死にゆく父しか知るはずのない、たった一つの秘密の遺言。
「うるさーーーいッ!!!」
ラルの絶叫が、オーレルディアの空を劈いた。
その瞬間、彼女の細い身体から、それまで押し込められていた膨大な魔力が、天を衝く竜巻となって爆発的に噴き上がる。
麒麟族。
応龍族をも恐れさせた、強大な秘術を宿す血脈。
ラルの紫の瞳が凶悪な光を放ち、周囲の空間そのものを軋ませ始めた。
絶望と怒りによって、封じられていた麒麟の力が、この死の箱庭で解き放たれる。
「ラルッ!!」
城壁の上で巻き起こった異常な魔力の奔流を見上げ、ケセナは血相を変えて防壁の根元へ駆け寄った。
足場はないか、上へ行く道はないかと必死に視線を走らせる。
だが、分かっている。そんな都合のいいものが、あるはずもない。
ラルのように、風の精霊へ頼んで城壁を駆け上がることは、ケセナにはできない。
できるのは、精霊を傷つけて無理に従わせることだけだった。
「ケセナ! 待て、一人で突っ込むな!」
背後からグレンの鋭い制止が飛ぶ。
それでもケセナは構わず石壁へ手をかけ、無謀にも素手で登ろうとした。
(方法は……今からでも編み出せばいい!)
必死に壁を掻きむしる胸の奥で、激しい警鐘が鳴り響く。
それはケセナ自身の直感だけではない。魂の奥底に眠る、オウセイの記憶が悲鳴を上げていた。
――ラルのこの状態は、危険すぎる。
麒麟族が、その身に余る力を振るえばどうなるか。
『使わないように……力を使わずに済むように、外界結界内に置いたのに』
ケセナの脳裏に、血を吐くような後悔が渦巻いた。
応龍族すら凌駕する強大すぎる魔力。それは麒麟族自身の肉体と魂を、内側から焼き尽くす力だった。
だからオウセイは、彼らがその力を使わずに済むよう、二重の結界を張った。迫害するためではない。守るためだった。
けれど、その真意は伝わらなかった。
守るための隔離は、麒麟族にとっては檻でしかなかった。
何千星霜ものあいだ積もった憎悪は、結界が失われたこの刻、破滅の力として解き放たれようとしている。
「くそっ……どうすればっ……!」
指先から血を滲ませながら、ケセナは焦燥に息を乱す。
このままでは、ラルの命が危ない。
見上げた上空では、オーレルディアの空を塗り潰すほど、禍々しく巨大な紫の渦が荒れ狂っていた。
ガイアの炎すら呑み込み、城壁そのものを軋ませる絶大な魔力。
だがそれは、ラル自身の命を磨り潰して生まれる破滅の光だ。
(……だから、麒麟族は力ではなく、『秘術』を求めたんだ)
ケセナは壁を登るのを諦め、足を止めた。
もはや一刻の猶予もない。
頭上高くで荒れ狂う紫の渦へ。
命を燃やし、偽物の父を殺そうとしている戦友へ向けて。
全身の力を込め、喉が裂けんばかりに叫ぶ。
「使うなぁぁぁぁぁッ!!」




