第七十話 上からの攻撃はない
昼巡りの陽光が、荒れ狂う蒼黒の海をゆるやかに染め上げていく。
海上へ突き出した巨大な岩山を丸ごと削り出して築かれた絶壁の都市――皇都オーレルディア。
五千星霜の歴史を誇るその威容が、海霧の奥で巨大な影となり、同盟軍の前に立ちはだかっていた。
皇都は、五つの巨大な城門で区切られた階層都市だった。
第一城門の先には商人たちの外郭区画。第二城門の奥には、宿屋や食堂、学問所が並ぶ生活区画。
そして第三城門の内側には、将校や応龍族の関係者らが住まう特区がある。目指す『ベラリティル本宅』も、その奥だ。
第三城門には特殊な術式が組み込まれ、危急の折には絶対の盾として閉ざされる。普段ですら厳しく管理され、無用の立ち入りは許されない。
本来ならば、活気に満ちた美しい階層都市。
第一城門から第三城門までを貫く透明な大橋が、人々の行き交う安全な直通路となっていたはずだった。
だが、その大橋は、もはや跡形もなく破壊されている。
軍事の目で見れば、第一城門から第三城門へ至る道は、異様なほど入り組んだ防壁に挟まれた『死の迷路』だ。
安全な直通路を断たれた侵入者は、複雑な市街地の袋小路へ追い込まれる。
そして防壁の上から、一方的に魔術と矢の雨を浴びせられる。
それが、オウセイが五千星霜前に築いた『死の箱庭』の正体だった。
(……おまけに、第四城門から先は一本道だ)
先陣の最前列に立つグレンは、遥か上方、第五城門の奥に聳える皇宮を睨み据えながら、胸中で毒づく。
(両脇を騎士団と魔術団の宿舎で固められた道に、逃げ場なんぞあるものか)
オウセイの設計は、あまりに完璧すぎた。
正面から第五城門まで抜けようとすれば、何万の兵を積み上げても足りない。
だからこそ、第三城門まで最短で食い込み、ベラリティル本宅の地下へ潜る。それ以外に道はなかった。
「お前ら、準備はいいな!?」
静まり返った開戦前の海上に、ガイアの獰猛な咆哮が轟く。
同盟軍最前列、皇都外郭へ繋がる巨大な大橋の入口。朱雀の精鋭たちを背に従えた若き将は、両手に紅蓮の炎を顕現させ、好戦的な笑みを剥き出しにしていた。
「あの馬鹿げた曲がり角の先で、魔術やら弓やらを構えて待ってんだろ? 上等じゃねぇか。迷路ごと全部灰にして、俺たちが道を作ってやる!!」
「おおっ!!!」
ガイアの檄に、凄惨な戦を生き抜いてきた四十名ほどの朱雀の精鋭たちが、一斉に武器を掲げて野獣のような雄叫びを上げた。
数は少ない。だが、その声に怯えはひとかけらもなかった。
そのすぐ後ろには、ガイアの背を守るように、長弓を静かに構えたキョウの姿もある。
「行くぞ、ケセナ、ラル。……ガイアたちがこじ開けた血路を、絶対に無駄にするな」
グレンが漆黒の剣を抜き放ち、背後の二人へ低く告げた。
「うん」
「任せて」
昼巡りの風に金髪をなびかせたケセナと、両手に魔力を込めたラルが同刻に頷く。
二人の目は、もう逃げる場所を探していなかった。
その刹那。
後方の青龍陣営から、天を裂くような雷撃が皇都の第一城門へ向けて放たれる。ツェヴァンによる開戦の合図だ。
鼓膜を打つ轟音とともに、強固な第一城門の扉が内側へと吹き飛んだ。
あまりにも容易い突破。
だがそれこそが、侵入者を迷路の奥底へ誘う『死の箱庭』の幕開けだった。
「突撃ぃぃぃ!!」
レイアの号令を皮切りに、数万の同盟軍が大橋を揺らし、怒涛の勢いで皇都オーレルディアへ雪崩れ込む。
先陣を切るガイアは、吹き飛んだ第一城門の先に見えた曲がりくねった防壁へ向け、両手の極大の炎を解き放った。
「燃え滓になれや!!」
圧倒的な爆炎が市街地を呑み込む。
第一城門を突破した同盟軍本隊は、第二、第三城門へ続く街路へ兵を押し出し、敵を引きつける陽動作戦へと移行する。
その裏で、ガイア率いる朱雀精鋭部隊は、グレンたちの血路を拓くべく、外郭区画の入り組んだ街路を怒涛の勢いで突き進んでいった。
だが、真の脅威はそこからだ。
商人たちの店が並ぶ曲路を抜けた先。
第二城門の手前には、四方を高い壁で囲まれた巨大な広場が口を開けている。
「……ここか。ファルの言ってた『死の箱庭』ってのは」
ガイアが足を止め、周囲に聳える防壁を見上げた。
直後、その壁上から無数の矢と魔術の光が、広場へ踏み入った朱雀の部隊めがけて降り注ぐ。
「上が来たぞ! 野郎ども、盾を構えろ! 地上の防衛線は任せたぜ!」
「おうっ!!」
四十名の朱雀精鋭が一斉に強固な防御陣形を展開し、広場へ雪崩れ込んでくる魔人の軍勢を地上で食い止める。
同刻に、ガイアは己の身へ『重力操作』を施し、垂直の壁を蹴って一気に上方へ跳躍した。
「ちょっ、待ってよガイア! 私、重力操作苦手なんだから!」
後方支援のキョウも悲鳴混じりに叫びながら、決死の跳躍でその背を追う。
どうにか壁上へ着地した、その次の瞬間にはもう、彼女の纏う空気は別人のものへ変わっていた。
先ほどまでの賑やかな表情は跡形もない。
戦場を見下ろす赤い瞳は、恐ろしいほど冷えていた。
流れるような動作で矢を番え、眼下に迫り来る敵兵の眉間を寸分違わず射抜いた。
「おらぁ!!」
ガイアも壁上へ降り立つなり、短剣から爆炎を放ち、密集して広場へ攻撃を仕掛けていた弓兵と魔術兵を次々と焼き払っていく。
圧倒的な炎の力。
だが、数人を斬り伏せ、焼き払ったところで、ガイアは微かな違和感に眉をひそめた。
「……なんだ? こいつら……感情がない?」
普通なら、炎に焼かれれば悲鳴を上げる。死の恐怖に顔を歪める。
だがガイアの炎に呑まれた兵士たちは、無表情のまま、声ひとつ漏らさず倒れていく。まるで、初めから命など宿っていなかったかのように。
「その通り。彼らはすでに、一度死んでいるのですから」
不気味な静寂の中、防壁の奥からぬらりと歩み出てきた男がいた。
漆黒の短髪。長い前髪の隙間で、禍々しい紫の瞳が光っている。
黒と灰紫を基調とした古い山岳民族風の長衣。色褪せた獣毛と、骨や金属片を連ねた呪具が揺れている。
見たこともない男だったが、この防壁の司令官であることはひと目で分かった。
男は冷たい笑みを浮かべ、軽く右手を払った。
「え……っ!?」
キョウが息を呑む。
たった今ガイアが焼き払い、絶命したはずの兵士たちが、ぎぎぎ……と不自然な関節音を鳴らしながら、再び武器を手にして立ち上がったのだ。
「ひぃっ!? き、気持ち悪っ……!!」
顔を引き攣らせ、思わず後ずさるキョウ。
無理もない。炭化した肉をぶら下げたまま、感情のない瞳で迫ってくるその姿は、悪夢そのものだった。
だが、朱雀の若き将は、その光景を前にして獰猛な牙を剥き出しにして嗤った。
「屍人だ?」
ガイアは短剣を持ち直し、先ほどを上回る極大の炎を全身から立ち昇らせる。
熱風が吹き荒れ、黒髪の男の紫の瞳がわずかに見開かれた。
「火を操る俺の前に屍人? ……まとめて全部、火葬してやるぜ!!」
紅蓮の爆炎が、城壁の上を真昼のように照らし出す。
名も知らぬ屍人使いと、朱雀の長による、灰すら残さぬ死闘が幕を開けた。
「上からの攻撃はないと思え! 私が全部、止める!!」
城壁の上から、キョウの凛とした声が広場全体へ響き渡る。
弓を構えた眼差しは、獲物を狙う猛禽そのものだった。そこにはもう、普段の軽さはひとかけらもない。
幾度もの修羅場を潜り抜けてきた『朱雀の副司令』の、絶対の声だった。
「副司令の命令だ! 盾を捨てろぉっ!!」
「地上のクズどもを蹴散らせぇぇ!!」
上空からの矢と魔術を警戒して防御姿勢を取っていた四十名の精鋭たちが、その一声で一斉に盾を投げ捨てた。
彼らは、キョウの腕が超一流であることを誰よりも知っている。
上からの援護を完全に信じ切った朱雀の精鋭たちは、殺意のまま武器を振るい、眼前の屍人軍へと猛然と突撃していった。
地上の激突を見届け、キョウが弦を引き絞りながら隣の将へ声を飛ばす。
「ガイア!」
「ああ! 派手に暴れるぞ!」
言葉はそれだけで足りた。
阿吽の呼吸。
キョウが次々と放った矢が、再び立ち上がろうとする屍人たちの脳天を正確に射抜き、石畳へ縫い留めていく。
その隙に、ガイアは黒髪の男との距離を一気に詰めた。
「次から次へと……うぜーんだよッ!!」
男は涼しい顔のまま、なおも指先を動かして新たな屍人を操ろうとしている。
ガイアは短剣から、触れたものを塵ひとつ残さず焼き尽くす極大の炎を解き放ち、男の首元へ容赦なく叩き込んだ。
キョウの矢が死角から男の心臓を射抜く。
完璧な連携。
完全に仕留めた――はずだった。
「……なっ!?」
ガイアが驚愕に目を見開く。
男の身体に触れる寸前、目に見えない分厚い壁へぶつかったかのように、ガイアの爆炎は四方へ弾き飛ばされたのだ。
乾いた音を立て、キョウの必殺の矢もまた、男の足元へ無力に落ちた。
「嘘でしょ……?」
キョウが信じられないとばかりに呟く。
濛々と立ち込める黒煙が晴れたあと、そこには服の裾ひとつ焦がすことなく、何事もなかったように立ち尽くす黒髪の男の姿があった。
「ほう……これが『魔人の加護』。なるほど、確かに役に立ちますね」
男は紫の瞳を細め、自身の身体を覆う見えない障壁を確かめるように、つまらなそうに呟いた。
炎は届かない。
矢も届かない。
そこにあるのは、圧倒的な爆炎も必殺の一射も拒む、理不尽な壁だった。
『死の箱庭』の司令官は、圧倒的な悪意を湛えたまま、朱雀の二人を冷たく見下ろしていた。




